『新・人間革命』第21巻 宝冠の章 315p

1975年(昭和50年)5月22日、モスクワに向かった。今回の訪ソは前回、招聘元となったモスクワ大学だけでなく、ソ連対文連、ソ連作家同盟も招聘元として名を連ねていた。

空港には、多数の人びとが待っていた。ソ日協会のコワレンコ副会長は、対日外交で強硬姿勢を貫くことで知られる、党中央委員会国際部のメンバーである。

彼を「強面」と敬遠する日本人も少なくなかった。そのコワレンコが、相好を崩し、声をあげて笑った。前回の訪問で、何度か忌憚のない対話を交わすなかで、深い友情と強い信頼の絆が結ばれていたのだ。

今回の訪ソ団には、婦人部、男女青年部、ドクター部の代表、創価大学、民音、富士美術館の代表が加わっていた。

ホテルでは、訪ソ団一行の打ち合わせが遅くまで続いた。伸一は、力を込めて訴えた。「二回目というのは極めて重要です。今後の流れが決まってしまうからです。対話だって、二の句が継げなければ、それで終わってしまう。」

「二回目を成功させるには、どうすればよいか。それには前回と同じことを、ただ繰り返すのではなく、一つ一つの物事を、すべて前進、発展させていくことです。"今こそ日ソ友好の新しい歴史を開くぞ!"と決めて、情熱を燃やし、真剣勝負で臨むことです。形式的、儀礼的な交流は惰性です。」

翌5月23日、山本伸一たちは、ソ連対文連を訪問。ポポワ議長が歓迎のあいさつをした。「山本会長の第一次訪ソのことを、私たちは決して忘れません。」また、議長は、学会の平和運動に言及していった。

コワレンコ副議長は、「山本会長が、生命の危険も顧みず、常に平和を主張し、人間と人間の友好に生き抜いてこられたことは、よく存じております。今、私は、山本会長と会うのが遅かったことを、非常に残念に思っています」

その後、文化省を訪問し、P・N・デミチェフ文化相と会見した。「これまで提起された文化交流については、実現の見通しがつきました!」富士美術館への出展や民音による民族舞踏団の招聘などの方向性が決まった。

伸一は、文化交流は、民衆と民衆の相互理解を促す要諦であると痛感していた。互いの文化への無理解から、摩擦が生じる場合も少なくない。ヒンズー教では牛を神聖な動物と考え、食べたりはしない。もし、それを知らずに、ヒンズー教徒に牛肉料理をすすめれば、人間関係はこじれてしまいかねない。風俗、習慣を含め、文化の理解は、人間交流の基本事項といってよい。

午後、文豪ショーロホフの生誕70周年の記念レセプションに出席するため、ソ連作家同盟中央会館に向かった。会場には、ソ連をはじめ、イギリス、東ドイツ、キューバなど14ヵ国から、ショーロホフと親交のある作家ら約50人が集っていた。

ショーロホフは病気療養中のため、出席することができなかった。伸一の胸には、前年の訪ソの折、ショーロホフが手を握り締めながら語った言葉が響いていた。

レセプションでは、伸一がスピーチを求められた。伸一がユーモアを交えてあいさつしたことから、場の雰囲気は大きく変わった。皆がジョークを言うようになった。

引き続き、午後5時から、記念式典がボリショイ劇場で盛大に行われた。

帰途「ショーロホフ先生は、世界の文豪なのだと、しみじみ思います」という峯子の言葉に伸一は、「『すべての作りもので不自然なもの、すべての虚偽のものは、時間の経過とともに消えさり、長くは生きられないでしょう』と。また先生は『真実のみを書くことです』とも述べている。」

「ショーロホフ文学には人間の真実が描かれている。だから、世界中の人びとに親しまれ、愛されているんだ。」

峯子は「創価学会が強いのも、そこに真実があるからだと思いますわ。その真実は、どうやって否定しようとしても、否定しきれませんものね」と語った。

太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋