小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

シンガポール

新・人間革命 全30巻完結

『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 416p

オーストラリアのシドニー大学から山本伸一に名誉文学博士号が贈られた。謝辞に立った伸一は、牧口常三郎が日本の軍部政府の弾圧で獄死したことを語った。「牧口会長は、いち早く、『地球的相互依存性』への自覚を促し、そして、他のために貢献し、自他ともに栄えていくという『人類共生の哲学』を訴えたのです。

さらに、人類は、『軍事』や『政治』や『経済』の次元で、他を圧しようとするハード・パワーの段階を終え、『人道』を新たな指標として、文化、精神性、人格というソフト・パワーによって、切磋琢磨していくことを強く提唱したのであります」伸一は、21世紀は、人道をもとに、思いやりをもって、自他ともに栄える人類共生の時代であらねばならないと展望していた。

26日は、シンガポールとオーストラリアの合同最高会議に出席した。シンガポールが「獅子の都」を意味することから、仏法で説く『師子』に言及した。「大聖人は、『師子』には『師弟』の意味があると説かれている。

『人生の師』をもつことは、『生き方の規範』をもつことであり、この師弟不二の共戦こそが、広宣流布を永遠ならしめる生命線です。そして、広布の流れを、末法万年を潤す大河にするかどうかは、すべて後継の弟子によって決まります」師子王の心とは、「勇気」であると訴えた。

11月27日、山本伸一一行は、マレーシアのクアラルンプールの国際空港に到着した。この12年間で、マレーシア社会も、SGM(マレーシア創価学会)も大いに発展していた。29日には、国立プトラ大学で、名誉学位特別授与式が厳粛に挙行された。

伸一は、このプトラ大学からの名誉学位記の授与に、深い意義を感じていた。マレーシアはイスラム教が国教であり、その国の国立大学から仏法者の彼が顕彰されたのである。それは、平和のため、人類の幸福のためという原点に立ち返るならば、宗教を超え、人間として共感、理解し合えることの証明であり、イスラムの寛容性を示すものであった。

山本伸一の激励行は、最後の訪問地・香港へ移った。これが20世紀の世界旅の掉尾を飾ることになる。伸一は、香港の歴史にも言及した。折しも、この年の2月インドの創価菩提樹園に待望の講堂が完成した。インドで日蓮大聖人の太陽の仏法がいよいよ赫々と輝き、社会を照らし始めたのだ。

8日、山本伸一は帰国の途に就いた。真っ先に訪れたのが大阪である。一緒に21世紀への新しい扉を開きたかったのだ。14日には、21世紀への旅立となる本部幹部会が、関西戸田記念講堂で開催された。伸一は、新しい「七つの鐘」の構想に言及し、民衆のスクラムで、21世紀を断じて「人道と平和の世紀」にと呼びかけた。

2001年(平成13年)「新世紀 完勝の年」が晴れやかに明けた。「希望の21世紀」のそして、「第三の千年」の門出である。1月2日伸一は、73歳の誕生日を迎えた。伸一が70代のテーマとしていたのは、「世界広布の基盤完成」であった。

5月3日、アメリカ創価大学オレンジ郡キャンパスが、待望の開学式を迎えた。人類の平和を担う、新しき世界市民を育む学舎が誕生したのだ。

9月11日、アメリカで4機の旅客機がハイジャックされた。「アメリカ同時多発テロ事件」である。アメリカ政府は、イスラム過激派の犯行と断定し、「テロとの戦い」を宣言。首謀者が潜伏していると見られるアフガニスタンへの軍事攻撃を開始した。

どのような大義を掲げようと人びとの命を奪うテロは、絶対に許されるものではない。伸一は、今こそ、「平和」と「対話」への大世論を起こすべきであると強調した。

彼は、世界の同志が草の根のスクラムを組み、新しい平和の大潮流を起こす時がきていることを感じていた。恒久平和は、人類の悲願にして、未だ果たし得ていない至難のテーマである。なればこそ、創価学会が出現したのだ!なればこそ、人間革命を可能にする仏法がるのだ!対話をもって、友情と信義の民衆の大連帯を築くのだ!

また、人類の平和を創造しゆく道は、長期的、抜本的な対策としては正しい価値観、正しい生命観を教える教育以外にない。めざすべきは「生命尊厳の世紀」であり、「人間教育の世紀」である。

広宣流布という大偉業は、一代で成し遂げることはできない。師から弟子へ、そのまた弟子へと続く継承があってこそ成就される。「私は、戸田先生が、こう言われたことが忘れられない『中核の青年がいれば、いな、一人の本物の弟子がいれば、広宣流布は断じてできる』

その『一人』とは誰であったか。ーー私は“その一人こそ、自分であった”との誇りと自負をもっています。どうか、青年部の諸君は、峻厳なる『創価の三代の師弟の魂』を、断じて受け継いでいってもらいたい。その人こそ、『最終の勝利者』です。また、それこそが、創価学会が21世紀を勝ち抜いていく『根本の道』であり、広宣流布の大誓願を果たす道であり、世界平和創造の大道なんです」

彼は、胸の中で、青年たちに語りかけた。“さあ、共に出発しよう!命ある限り戦おう!第二の「七つの鐘」を高らかに打ち鳴らしながら、威風堂々と進むのだ”

彼の眼に、「第三の千年」の旭日を浴びて、澎湃と、世界の大空へ飛翔しゆく、創価の凛々しき若鷲たちの勇姿が広がった。それは、広宣流布の大誓願に生き抜く、地涌の菩薩の大陣列であった。

<新・人間革命 第30巻 終了>


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

キューバ・カストロ議長と会見

『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 392p

日蓮大聖人に対して、「四箇の格言」などをもって、排他的、独善的であるとする見方がある。

しかし、大聖人は、他宗の拠り所とする経典そのものを、否定していたわけではない。御書を拝しても、諸経を引いて、人間の在り方などを説かれている。法華経は、「万人成仏」の教えであり、生命の実相を説き明かした、円満具足の「諸経の王」たる経典である。

それに対して、他の経典は、一切衆生の成仏の法ではない。生命の全体像を説くにはいたらず、部分観にとどまっている。その諸経を絶対化して法華経を否定し、排斥する本末転倒を明らかにするために、大聖人は、明快な言葉で誤りをえぐり出していったのだ。

それは、ひとえに民衆救済のためであった。それに対して、幕府と癒着していた諸宗の僧らは、話し合いを拒否し、讒言をもって権力者を動かし、大聖人に迫害を加え、命も奪おうとしたのである。それでも大聖人は、自身に大弾圧を加えた国主や僧らを、最初に成仏に導いてあげたいと言われている。

人びとを救おうとする、その心こそが、私たちの行動の大前提なのである。自身の信ずる宗教に確信と誇りをもち、その教えを人びとに語ることは、宗教者として当然である。しかし、そこには、異なる考え、意見に耳を傾け、学び、より良き生き方をめざしていこうとする謙虚さと向上心がなければなるまい。

現代における宗教者の最大の使命と責任は、「悲惨な戦争のない世界」を築く誓いを固め、人類の平和と幸福の実現という共通の根本目的に立ち、人間と人間を結んでいくことである。そして、その目的のために、各宗教は力を合わせるとともに、初代会長・牧口常三郎が語っているように、「人道的競争」をもって切磋琢磨していくべきであろう。

1996年(平成8年)、山本伸一は三月に香港を訪問し、5月末から7月上旬には、北・中米を訪れた。アメリカでは、6月8日にコロラド州のデンバー大学から、名誉教育学博士号を授与されている。

伸一は、24日からキューバ文化省の招聘で、同国を訪問することになっていた。キューバは、このころ、経済的にも、政治的にも、厳しい試練の渦中にあった。東西冷戦が終わり、ソ連・東欧の社会主義政権が崩壊したことによって、キューバはソ連という強力な後ろ盾を失い、孤立を深めていた。

“だからこそ、世界の平和を願う一人として、キューバへ行かねばならない。そこに、人間がいるのだから…”24日午後、カリブ海のバハマを初訪問した。このころ、アメリカからキューバへの直行便はなく、第三国を経由しなければ出入国はできなかった。

山本伸一たちは、キューバが差し向けたソ連製の飛行機でホセ・マルティ国際空港へ向かった。25日、国立ハバナ大学を訪問した。ここで、文化大臣から国家勲章「フェリックス・バレラ勲章勲一等」が贈られた。次いで、ハバナ大学からの「栄誉人文学博士号」の授与式が行われ、引き続き伸一が記念講演をすることになっていた。

この夜、彼は、フィデル・カストロ国家評議会議長と、革命宮殿で会見した。スーツにネクタイを締めて、笑顔で迎えてくれた。平和と友好の意志を感じた。カストロ議長は、一行を心から歓迎し、相互理解を図るために、キューバと日本の交流を積極的に行いたいと明言した。2007年には、キューバ創価学会が正式に宗教法人となった。

6月26日、山本伸一は、キューバに続いて、コスタリカを初めて訪れた。28日には中南米で初の開催となる「核兵器ーー人類への脅威」展の開幕式が行われた。これには大統領夫妻、ノーベル平和賞を受賞したオスカル・アリアス・サンチュ元大統領らが出席した。


1997年2月、伸一は、香港を訪れ、5月には第10次の訪中をし、10月にインドを訪問した。日々、限りある時間との闘争であった。98年は、フィリピン、香港、韓国へ。200年はシンガポール、マレーシア、香港を歴訪。シンガポールでは、ナザン大統領と対統領官邸で会見した。

ナザン大統領は、学会の青年部への賛辞を惜しまなかった。「私は何度も、シンガポール創価学会の演技を見てきました。青年が主体者として参加している。演技には、仏法の教えが体現されています。シンガポールの社会においても、人間的な質が、一段と大事になってきています。その意味でも、創価学会は、社会と国家に、すばらしい貢献をしてくださっています」

伸一は学会への信頼と期待がここまで社会に広がり、後継の青年たちが賞賛されていることが、何よりも嬉しかった。時代を担う青年たちの成長こそが、弟子の勝利こそが、自身の喜びであり、楽しみであり、希望であるーーそれが師の心である。それが師弟の絆である。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

阪神・淡路大震災からの復興

『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 392p

17日午前5時46分ごろ、近畿地方を大地震が襲った。高速道やビル、家屋の倒壊、火災等の被害は、神戸、淡路島など、兵庫県南部を中心に、大阪、京都にまで広がり、死者約6千4百人、負傷者約4万4千人という大災害となった。阪神・淡路大震災である。

直ちに、学会本部と関西に災害対策本部が設置された。被災地では、各会館が一時的な緊急避難所となり、また、生活物資供給のための救援センターとなった。建物の崩壊などから一般道の寸断も多く、どこも、どの道も大渋滞していた。直ちにバイク隊が編成され、瓦礫の残る道を走り、救援物資が被災地各地に届けられていった。

伸一は、被災地へ向かう会長らに言った。「ーーすべては壊れても、生命に積んだ福徳は、永遠に壊されることはありません。一遍でも題目を唱えたならば、成仏できるのが大聖人の仏法です。亡くなられた同志は、今世で宿命転換し、来世も御本尊のもとに生まれ、幸せになれることは間違いありません。

また、「変毒為薬」とあるように、信心によって、毒を変じて薬にすることができる。大聖人は、『大悪起これば大前きたる』と仰せです。今は、どんなに苦しくとも、必ず幸せになれることを確信してください。いや、必ずなってください。強い心で、強い生命で、見事に再起されるよう祈り待っています」

伸一は、26日に、ハワイ大学に隣接する「東西センター」で国連創設50周年を記念し、「平和と人間のための安全保障」と題して講演した。ハワイで彼は、第13回世界青年平和文化祭や、SGI環太平洋文化・平和会議などに臨み、2月2日に、その足で関西入りした。

法要で伸一は、訴えた。「関西の一日も早い復興を祈っています。全世界が、皆さまの行動を見守っています。『世界の模範』の関西として、勇んで立っていただきたい。亡くなられた方々も、すぐに常勝の陣列に戻ってこらえる。…被災地の全ての方々に、くれぐれも、またくれぐれも、よろしくお伝えください」

山本伸一は、1995年(平成7年)10月末からアジア4カ国・地域訪れ、この折、「釈尊生誕の国」ネパールを初訪問した。彼の平和旅は、51カ国・地域となった。ネパールでは、11月1日、カトマンズ市の王宮に、ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ・デープ国王を表敬訪問した。3日、国立トリブバン大学から名誉文学博士の称号を受けた。

ネパールに続いてシンガポールを訪れた彼は、第三回アジア文化教育会議に臨み、シンガポール創価幼稚園を初訪問した。さらに、建国30周年を祝賀する第1回青年友好芸術祭に出席し、10日夕、香港に到着した。イギリス領の香港は、1997年に中国へ返還されることになっていた。

資本主義の社会で暮らしてきた人びとにとっては、社会主義の中国のもとでの生活は想像しがたいものであり、不安を覚える人たちもいた。“こういう時だからこそ、香港へ行こう!皆と会って激励しよう!”伸一はそう決めて、83年12月に香港を訪れている。

伸一が、メンバーに訴え続けたのは、いずこの地であろうが、不屈の信心ある限り、“幸福の宝土”と輝くということであった。1997年7月1日、香港は、中国に返還され、歴史的な式典が行われた。その祝賀式典のアトラクションでは、香港SGIの「金鷹体操隊」も若さあふれる演技を披露した。

1995年11月マカオを訪れ、マカオ大学で名誉社会科学博士号を受けたほか、マカオ市政庁を表敬訪問した。ポルトガル領であるマカオも、99年、中国に返還されるが、マカオのメンバーも香港の友に続き、希望のスタートを切っていくのである。

95年11月17日、アジア訪問から帰国した山本伸一は、そのまま中部・関西指導に入った。そして、23日、関西文化会館で、本部幹部会が開催された。その席上、SGI理事長の十和田光一から、「SGI憲章」が発表された。

「SGI憲章」は、仏法を基調に平和・文化・教育に貢献することをはじめ、基本的人権や信教の自由の尊重、社会の繁栄への貢献、文化交流の推進、自然・環境保護、人格陶冶などが謳われ、10項目からなっていた。

「世界の平和」と「人類の幸福」を実現するために大切なことは、人類は運命共同体であるとの認識に立ち、共に皆が手を携えて進んでいくことである。これを阻む最大の要因となるのが、宗教にせよ、国家、民族にせよ、独善性、排他性に陥ってしまうことだ。

本来、各宗教の創始者たちの願いは、人びとの平和と幸福を実現し、苦悩を解決せんとするところにあったといえよう。その心に敬意を表していくのである。

太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

アフリカ広布の先駆ガーナ

『新・人間革命』第21巻 SGIの章 78P~ 

世界平和会議の会場を回っていた山本伸一は、アフリカメンバーの席に来ると、日本人青年に声をかけた。ガーナ指導長の南忠雄である。彼は、新聞社で常駐特派員を募った時、勇んでガーナ行きを希望した。仏法のために、一身を捧げた人は、経文に照らし、御書に照らして、わが生命を永遠に荘厳にし、絶対的幸福境涯の道を確立していけるのだ。仏法に犠牲はない。

南は、神奈川県横須賀の出身で、小学校3年の時、病で父親を亡くしていた。彼が中学に入った年に母が入会、それから間もなく彼も信心を始めた。彼は働きながら定時制高校に通った。さらに夜間の大学に進み、新聞学を学んだ。大学卒業後は本部職員として採用され、聖教新聞の記者となった。

念願の職場であった。しかし、入社後、体調を崩してしまった。"仕事をするうえで大事なのは健康だ。体を鍛え、体力をつけよう"彼は、毎朝、始業前にランニングをするようになった。その姿を山本伸一はじっと見ていたのだ。

伸一は、南の妻とも会って激励した。「仏法の法理の上から見れば、過去世からの約束なんです。この世の使命です。したがって腹を決めて頑張ることが大事です。奥さんが、はつらつとして元気であれば、ご主人は頑張れる。すべてはあなたにかかっています。それを忘れずに、強く、強く、生き抜いて、必ず人生の大勝利を打ち立ててください」

南はガーナ広布への決意に燃えて、首都アクラに立った。街は道路整備が進んでいたが、建物は二階建て程度で、街の中心部を外れると、トタン屋根の家が並んでいた。赤道に近いガーナは、さすがに暑かった。温度は40度を超えることもあった。

回線が少ないために、国際電話を申し込み、指定された日時を待つ。ところが、その日時になっても、つながらないのだ。新聞の原稿はエアメールで送った。日本に着くまでに10日以上かかった。

3か月ほどしたころ、南は マラリアにかかってしまう。予防薬を飲んでいたが、効かなかったようだ。その報告を聞いた山本伸一は、南の健康回復を祈って唱題した。伸一にとっては、南もまた愛しい弟子の一人である。アフリカの地に勇んで飛んで行った健気な愛弟子が病に伏していることを思うと、彼の胸は激しく痛むのであった。

世界平和会議で1年ぶりに南の顔を見た伸一は、包み込むような笑顔で語った。「ガーナに会館をつくってはどうかね。」伸一は、ガーナのメンバーに、前進の目標を示したかったのである。目標があれば希望がわく。希望があれば勇気がわき、活力がみなぎる。そこに、目標を立てて前進することの、一つの意味がある。

二年が経過した時、基礎だけ造って建設を中断していた物件を、ようやく手に入れた。作業には、土曜、日曜があてられた。トラックで二時間半もゆられて、作業に駆けつけるメンバーもいた。皆、自分たちの手で、アフリカ初の会館を完成させるのだという誇りと使命に燃えていた。

自分から勇んで行動を起こそうとする自主性、自発性こそが、自らの力と歓喜を引き出す源泉となるのだ。この建設作業のなかで、「会館ソング」という愛唱歌も生まれた。

だが、思わぬ障害が待ち受けていた。クーデターなどが頻発したのである。クーデターによって通貨自体が変わってしまうこともあった。物価高は際限なく進んだ。建設用の鉄筋も三倍から5倍くらいに跳ね上がった。資材は決定的に不足していた。しかし、メンバーは、必ず幸福と平和の法城となる会館を建てるのだと真剣であった。強き決意は、困難をはねのける。

その繰り返しのなかで、遂に1983年(昭和58年)の年末、アフリカ初の会館となるガーナ会館が完成をみるのである。ガーナ会館の敷地面積は約二千四百平方メートル。建物は鉄筋コンクリート造りニ階建てで、四百人を超える人びとを収容できる大ホールや会議室、事務室、応接室などを備えた堂々たる会館であった。階段の一段一段に、柱の一本一本に、メンバーの真心が、汗と涙が、広宣流布への誓いが込められていた。

山本伸一は、会場を巡りながらメンバーに語った。「まだ、皆さんには実感がないかもしれないが、今日の日の意義は、50年、100年と年を重ねるにしたがい、燦然と輝きを増していきます。皆さんは、歴史に名を連ねた方々です。今日から皆さんが何をするかーーそれが未来の世界を決するんです」

広宣流布に生きるわれらの、一日一日の歩みが、人類の新しき歴史をつくっているのだ。







太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


マレーシアの柯兄弟

『新・人間革命』第21巻 SGIの章 66P~ 

クアラルンプール支部の支部長となった高と共に、勇んで活動を開始したのが、ペナンで雑貨商を営む
柯文隆とその弟で、浩方であった。柯文隆は中国の現在の広東省生まれの長男で、浩方は末っ子であった。父が病死すると、マレー半島のペナンで働き、日用雑貨店を開いた。文隆は仕事で付き合いのあった高康明から仏法の話を聞いたのである。

高は、「世の中には、努力をしても報われないことが、あまりにも多い。しかし、この信心をすれば、努力した分だけ幸せになれます。"おまけ"も"不足"もない。」と話した。その言葉が気に入った柯文隆は信心を始めた。そのなかで彼は、幾つもの功徳を実感していった。

柯文隆の店の二階で、座談会は毎晩のように開かれた。そこに高康明がやって来て、日蓮大聖人の仏法のすばらしさを訴えるのである。「あそこに行けば、いい話が聞けて、幸せになるそうだ」そんな噂が広がった。柯文隆の母は入信したが、弟は、せせら笑いながら聞いていた。

1969年、マレーシアで人種差別が発端の暴動が起き、クアラルンプールでは、非常事態が宣言され、店を開けることもできなかった。不安になった柯浩方は、母の御本尊に向かい、題目を唱えてみた。店は、暴動に巻き込まれることもなく、やがて事態は収束した。彼は"俺は守られたのだ"と思った。しかも、その後、店の商品が飛ぶように売れ始めたのである。題目の力を実感した浩方は信心を始めた。

彼らは、マレーシアの平和と繁栄を願い、懸命に信心に励んだ。万人に「仏」の生命があると説く仏法の生命尊厳の哲理こそ、人間共和の根本思想であるとの確信を深くしていった。

柯文隆は日本での夏期講習会に参加した時、伸一が入り口に立ち、最敬礼をしながら、一人ひとりと握手を交わし、自らマイクを握って司会・進行役も務め、質問会を行い、ピアノも弾き、汗まみれになりながらの、体当たりの激励の振舞を生命に焼き付けるように見ていた。

"先生は、まさに命を削って私たちを励ましてくださる。これが仏法指導者の在り方なのか!この精神を受け継がなくては!"

柯文隆はマレーシアの本部長となった。彼は「団結第一」を叫びぬき、マレーシアに幸福と平和の波を広げた。しかし、病のため53歳で他界した。

柯文隆は、自らの人生の時間を自覚していたかのように、一日一日を、一瞬一瞬を、マレーシアの人びとの幸せのために懸命に尽くし抜いた。葬儀には、全国からメンバーが集い、彼の死を悼みつつ、その志を受け継ぎ、マレーシアの繁栄と平和建設を、固く、強く心に誓ったのである。

弟の柯浩方は柯文隆の後を継いで、マレーシアの本部長となった。さらにマレーシアの創価学会が全国法人を取得すると、浩方は初代の理事長となった。柯文隆は、「未来のために青年を育ててください」との山本伸一の指導を忠実に実践してきた。その精神は、マレーシアのよき伝統として、浩方にも受け継がれた。

マレーシア文化会館を訪れた伸一は、柯文隆の功労を讃えて、庭に記念の植樹をした。
伸一は、このマレーシア訪問の折、マハティール首相と会見し、さらに、引き続いてシンガポールを訪問し、リー・クアンユー首相と会見し、語り合った。

シンガポールの理事長になっていた高康明に言った。「あなたが信心を教えた柯文隆さんは亡くなられた。したがって、柯さんの分まで、生きて生きて生き抜いて、希望と勇気の灯台となってください」

高は、この約束通り、同志を守り、励まし続けた。シンガポールにあっても、マレーシアにあっても、SGIに対する社会の信頼は厚い。国家行事にも政府の要請を受け、メンバーが連続して出場し、ダンスや体操などの演技を披露してきた。

また、両国には創価幼稚園がつくられ、幼児教育の模範として高い評価を得ている。

開拓者であった高が尊き生涯の幕を閉じたのは、88歳であった。生前彼は、語っていた。「人類の長い歴史のなかで、創価学会に、そして偉大なる師匠に巡り会い、広宣流布のために働けることがいかにすばらしいか、私は今、心の底から実感します」

太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


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