『新・人間革命』第29巻 源流の章 362p~
大河内が渡印したころ、インドは、干ばつによる食料不足や物価高騰、失業、汚職などから反政府運動が高まり、政情不安の渦中にあった。物情騒然とし、多くの外国企業が、インドから引き揚げていった。そのなかで、彼の留学生活は始まったのである。
大学の寮で、深夜まで猛勉強に励んだ。そして、最優秀の成績で修士課程を修了しさらに、国立ジャワハルラル・ネルー大学の博士課程に進むことができたのである。
高等部を、また、鳳雛会を、さらに未来部各部を、未来会をつくり、広宣流布の人材の大河を開いてきたことが、いかに大きな意味をもつかーーそれは後世の歴史が証明するにちがいないと、伸一は強く確信していた。
人は皆、各人各様の個性があり、才能をもっている。誰もが人材である。しかし、その個性、能力も開発されることがなければ、埋もれたままで終わってしまう。一人ひとりが自分の力を、いかんなく発揮していくには、さまざまな教育の場が必要である。その教育の根幹をなすものは、使命の自覚を促すための、魂の触発である。
2月6日、山本伸一たち訪印団一行はデリー大学を訪問した。図書1千冊を寄贈する贈呈式に出席するためである。
精神性の喪失は、人間の獣性を解き放ち、物欲に翻弄された社会を生み出してしまう。彼は、“精神の大国インド”から、日本は多くを学ぶべきであると考えていた。科学技術の進歩や富を手に入れることが、必ずしも心の豊かさにつながるとは限らない。
訪印団一行は、デリー大学への図書贈呈式に続いて、大学関係者と教育問題などについて意見交換し、再開を約し合ってキャンパスをあとにした。伸一たちは、ニューデリーの中心部にあるローディー庭園へ向かった。この公園で伸一は、「インド文化研究会」のメンバーと会うことになっていたのだ。
1972年(昭和47年)、関西の各大学会の代表30人ほどと懇談会をもった。その折、語らいが弾み、伸一の提案で、それぞれがインドについて学び、7年後に皆でインドへ行こうということになった。そのグループが「インド文化研究会」である。
インドに留学する報告をしたのは、大槻明晴という外国語でインド・パキスタン語学科に学んだ青年であった。彼は、伸一との約束の時を、インドの大学院生として迎えたのである。
伸一は、“広宣流布の決意に燃える青年たちが今、インドの地に集ったことを、戸田先生はどれほどお喜びか!”と思った。師から弟子へ、そして、また弟子へーー世界広布は、その誓いと行動の継承があってこそ可能となるのである。
訪印二日目の2月7日、山本伸一たちは、モラルジ・デサイ首相の官邸を訪ねた。首相は、間もなく83歳になるという。インドの多くの指導者がそうであるように、首相も、マハトマ・ガンジーの不服従運動に加わり、インド国民会議派として独立のために戦ってきた。投獄もされた。その信念の人の目には、若々しい闘魂の輝きがあった。
伸一は、デサイ首相にどうしても聞いておきたいことがあった。インドには中国との国境を巡る問題があり、まだ解決にはいたっていない。今後、この問題にどうやって向きあっていくかということである。首相は答えた。「話し合いによって解決できることが望ましいと思っています」
重ねて伸一が、「今後の見通しは明るいと思われますか」と尋ねると、首相は、きっぱりと答えた。「私はいつも楽観的でいます」楽観主義は、指導者の大切な要件といってよい。楽観主義とは、万全の手を尽くすことから生じる、成功、勝利への揺るがざる確信と、自らを信ずる力に裏打ちされている。
約1時間にわたる会談は瞬く間に過ぎた。デサイ首相との会談は、“精神の大国インド”を探訪する旅の幕開けにふさわしい語らいとなった。
大河内が渡印したころ、インドは、干ばつによる食料不足や物価高騰、失業、汚職などから反政府運動が高まり、政情不安の渦中にあった。物情騒然とし、多くの外国企業が、インドから引き揚げていった。そのなかで、彼の留学生活は始まったのである。
大学の寮で、深夜まで猛勉強に励んだ。そして、最優秀の成績で修士課程を修了しさらに、国立ジャワハルラル・ネルー大学の博士課程に進むことができたのである。
高等部を、また、鳳雛会を、さらに未来部各部を、未来会をつくり、広宣流布の人材の大河を開いてきたことが、いかに大きな意味をもつかーーそれは後世の歴史が証明するにちがいないと、伸一は強く確信していた。
人は皆、各人各様の個性があり、才能をもっている。誰もが人材である。しかし、その個性、能力も開発されることがなければ、埋もれたままで終わってしまう。一人ひとりが自分の力を、いかんなく発揮していくには、さまざまな教育の場が必要である。その教育の根幹をなすものは、使命の自覚を促すための、魂の触発である。
2月6日、山本伸一たち訪印団一行はデリー大学を訪問した。図書1千冊を寄贈する贈呈式に出席するためである。
精神性の喪失は、人間の獣性を解き放ち、物欲に翻弄された社会を生み出してしまう。彼は、“精神の大国インド”から、日本は多くを学ぶべきであると考えていた。科学技術の進歩や富を手に入れることが、必ずしも心の豊かさにつながるとは限らない。
訪印団一行は、デリー大学への図書贈呈式に続いて、大学関係者と教育問題などについて意見交換し、再開を約し合ってキャンパスをあとにした。伸一たちは、ニューデリーの中心部にあるローディー庭園へ向かった。この公園で伸一は、「インド文化研究会」のメンバーと会うことになっていたのだ。
1972年(昭和47年)、関西の各大学会の代表30人ほどと懇談会をもった。その折、語らいが弾み、伸一の提案で、それぞれがインドについて学び、7年後に皆でインドへ行こうということになった。そのグループが「インド文化研究会」である。
インドに留学する報告をしたのは、大槻明晴という外国語でインド・パキスタン語学科に学んだ青年であった。彼は、伸一との約束の時を、インドの大学院生として迎えたのである。
伸一は、“広宣流布の決意に燃える青年たちが今、インドの地に集ったことを、戸田先生はどれほどお喜びか!”と思った。師から弟子へ、そして、また弟子へーー世界広布は、その誓いと行動の継承があってこそ可能となるのである。
訪印二日目の2月7日、山本伸一たちは、モラルジ・デサイ首相の官邸を訪ねた。首相は、間もなく83歳になるという。インドの多くの指導者がそうであるように、首相も、マハトマ・ガンジーの不服従運動に加わり、インド国民会議派として独立のために戦ってきた。投獄もされた。その信念の人の目には、若々しい闘魂の輝きがあった。
伸一は、デサイ首相にどうしても聞いておきたいことがあった。インドには中国との国境を巡る問題があり、まだ解決にはいたっていない。今後、この問題にどうやって向きあっていくかということである。首相は答えた。「話し合いによって解決できることが望ましいと思っています」
重ねて伸一が、「今後の見通しは明るいと思われますか」と尋ねると、首相は、きっぱりと答えた。「私はいつも楽観的でいます」楽観主義は、指導者の大切な要件といってよい。楽観主義とは、万全の手を尽くすことから生じる、成功、勝利への揺るがざる確信と、自らを信ずる力に裏打ちされている。
約1時間にわたる会談は瞬く間に過ぎた。デサイ首相との会談は、“精神の大国インド”を探訪する旅の幕開けにふさわしい語らいとなった。
太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋