『新・人間革命』第16巻 対話の章 P129~
博士には、多くの批判があびせられたが、その大多数は批判のための批判であった。いわば、トインビー史観への根本的な無理解によるものであった。
彼が多大な影響を受けたドイツの哲学者シュペングラーは、『西洋の没落』を表し、西洋文明の終焉を予告した。博士が世界の文明を比較研究し、包括的な観点からとらえていったのも、現代の西洋文明全体の行方を考察しなければならないとの、強い思いからであったにちがいない。しかも、その西洋文明は、次第に世界化しつつあり、西洋の没落は、人類全体の未来ともなりかねなかった。
20世紀の半分も経ないうちに、二度にわたる世界大戦が行われ、核兵器までもが登場したのだ。それは、“没落”というより、人類の“終焉”の予兆ともいわざるをえなかった。博士の胸には、人類の未来を鋭く考察し、再生の道を探らねばならないとの、強い使命感が脈打っていたのであろう。
そして戦争は原爆の出現によって人類を抹殺するに至ったことを述べ、ボルテールの言葉をもって叫ぶ。「この忌まわしきものを根絶せよ」と。
伸一は、博士の挑戦に刮目した。まず、その学説が、従来の西欧中心型の歴史観から脱却している点に驚きを覚えた。歴史の多くは、勝者の側に立った記録といってよい。博士は、イギリス人である。博士が、西欧人として無意識のうちに芽生えてしまう、偏見や優越感と葛藤しながら、虐げられた民衆の「声なき声」に耳を傾け、執筆を続けたことに、伸一は感嘆したのである。
また、博士の歴史研究は、歴史の部分的、専門的解釈に終始するのではなく、グローバルな視点に立ち、現在、全類が抱えている諸問題に照準を合わせていた。そして、それらを乗り越える、曙光を探し出そうとする、ひたむきな姿勢に、伸一は、何よりも共感したのだ。
1969年 トインビー博士から書簡が届き、招待を受ける。博士が、伸一との対話を強く希望するに至った背景には、博士が現代文明の危機を超える高等宗教として、仏教に強い期待をいだいていたことがある。
博士の翻訳に携わった桑原武夫は、記している「政治権力によって教団が骨抜きにされてしまった日本とは異なり、宗教が政治権力と拮抗しうる力をもった西欧の知識人は、創価学会にたいして、日本の知識人とは比較にならぬほど強い興味をもっている。トインビーもその一人である」
学会へのいわれなき中傷も激しさを増していたころである。当然、それは博士の耳にも届いていた。しかし、博士は、皮相的な論難は学会の本質と関係ないことを達観していた。博士自信が、同時代の嫉妬の批判と戦ってきた信念の知性であった。
博士は、悪口罵詈を乗り越えて進む学会を通して、生々発展する東洋の「生きた宗教」の存在を感じとり、仏教の新たな可能性を見いだしていたにちがいない。世界に冠たる、曇りなき歴史家の慧眼は、鋭く創価学会の未来を見つめていたのだ。
“全く文化も宗教的な土壌も異なるトインビー博士からどこまで賛同をえられるか。そして、どこまで互いに共感し合えるのか”も、伸一の大きなテーマであった。それは、今後の世界広布を展望するうえで、極めて重要な試金石となるからである。
博士は、既に80歳になっていた。41歳の自分とは、親子ほどの年の開きがある。伸一には、あえて博士が、21世紀への精神的な遺産を残すために、若い自分を対談相手として選んだように思えた。
博士には、多くの批判があびせられたが、その大多数は批判のための批判であった。いわば、トインビー史観への根本的な無理解によるものであった。
彼が多大な影響を受けたドイツの哲学者シュペングラーは、『西洋の没落』を表し、西洋文明の終焉を予告した。博士が世界の文明を比較研究し、包括的な観点からとらえていったのも、現代の西洋文明全体の行方を考察しなければならないとの、強い思いからであったにちがいない。しかも、その西洋文明は、次第に世界化しつつあり、西洋の没落は、人類全体の未来ともなりかねなかった。
20世紀の半分も経ないうちに、二度にわたる世界大戦が行われ、核兵器までもが登場したのだ。それは、“没落”というより、人類の“終焉”の予兆ともいわざるをえなかった。博士の胸には、人類の未来を鋭く考察し、再生の道を探らねばならないとの、強い使命感が脈打っていたのであろう。
そして戦争は原爆の出現によって人類を抹殺するに至ったことを述べ、ボルテールの言葉をもって叫ぶ。「この忌まわしきものを根絶せよ」と。
伸一は、博士の挑戦に刮目した。まず、その学説が、従来の西欧中心型の歴史観から脱却している点に驚きを覚えた。歴史の多くは、勝者の側に立った記録といってよい。博士は、イギリス人である。博士が、西欧人として無意識のうちに芽生えてしまう、偏見や優越感と葛藤しながら、虐げられた民衆の「声なき声」に耳を傾け、執筆を続けたことに、伸一は感嘆したのである。
また、博士の歴史研究は、歴史の部分的、専門的解釈に終始するのではなく、グローバルな視点に立ち、現在、全類が抱えている諸問題に照準を合わせていた。そして、それらを乗り越える、曙光を探し出そうとする、ひたむきな姿勢に、伸一は、何よりも共感したのだ。
1969年 トインビー博士から書簡が届き、招待を受ける。博士が、伸一との対話を強く希望するに至った背景には、博士が現代文明の危機を超える高等宗教として、仏教に強い期待をいだいていたことがある。
博士の翻訳に携わった桑原武夫は、記している「政治権力によって教団が骨抜きにされてしまった日本とは異なり、宗教が政治権力と拮抗しうる力をもった西欧の知識人は、創価学会にたいして、日本の知識人とは比較にならぬほど強い興味をもっている。トインビーもその一人である」
学会へのいわれなき中傷も激しさを増していたころである。当然、それは博士の耳にも届いていた。しかし、博士は、皮相的な論難は学会の本質と関係ないことを達観していた。博士自信が、同時代の嫉妬の批判と戦ってきた信念の知性であった。
博士は、悪口罵詈を乗り越えて進む学会を通して、生々発展する東洋の「生きた宗教」の存在を感じとり、仏教の新たな可能性を見いだしていたにちがいない。世界に冠たる、曇りなき歴史家の慧眼は、鋭く創価学会の未来を見つめていたのだ。
“全く文化も宗教的な土壌も異なるトインビー博士からどこまで賛同をえられるか。そして、どこまで互いに共感し合えるのか”も、伸一の大きなテーマであった。それは、今後の世界広布を展望するうえで、極めて重要な試金石となるからである。
博士は、既に80歳になっていた。41歳の自分とは、親子ほどの年の開きがある。伸一には、あえて博士が、21世紀への精神的な遺産を残すために、若い自分を対談相手として選んだように思えた。
世界の情勢も、刻々と変化していた。中ソ対立は激しさを増し、一触即発の状況を呈していた。
“断じて、平和の潮流を築かねばならぬ!”それだけに、伸一の胸には、若い世代を代表して、博士とあらゆる問題について対話を重ね、教えを受けたいとの強い思いが吹きあげていた。
太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋