小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

アルゼンチン創価学会

パラグアイ同志の 求道心

『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P174~

移住地で同志と巡り合うことは、筆舌に尽くしがたい喜びであった。「南無妙法蓮華経」と朝晩唱えている人がいると聞くと、喜んで訪ねて歩いた。しかし、なかなか見つからなかった。学会員を見つけて、互いに飛びつくようにして抱き合い、固い固い握手を交わした。

移住地での活動は、都会と違って危険も多かった。活動途中で、ガラガラ蛇に遭遇することもあった。雨が降ると滑って歩けなくなり、裸足で歩くこともあった。

また、生活は、植えた種子が流されたり、霜や雹にやられたり、イナゴに食べられたり、作物の収入がなければ、日本から持ってきた金もそこをついてしまった。

そうしたなかで生きる学会員にとって、信仰は「立ち上がる力」であり、困難に屈せぬ「勇気の源泉」であった。だから皆、必死になって、信心に励んだ。同志のなかからは、さまざまな体験が生まれた。知恵を絞って、見事な収穫を得た人もいれば、自然災害の被害を免れた人もいた。その実証が、移住地の人たちの仏法への共感を広げていった。

また、亡くなった学会員の安らかな死相に感動し、信心をしたいと申し出る人もいた。1963年(昭和38年)にはパラグアイ支部が結成されたのである。

清原かつをはじめとする幹部5人がパラグアイの激励に向かった。空港には、ブラジル国境のイグアス移住地から、数百キロの道のりを4日がかりで駆けつけた、谷川郁夫という班長も迎えに来ていた。

一行は、メンバーの求道の息吹に、心洗われる思いがした。一人の青年が指導会に来る予定のメンバーが大雨で車がスリップし、来られないので、ジープで行ってほしいとの要望があり、メンバーは向かった。

午後3時ごろ、出発して、到着したのは、夜9時過ぎだったが、行き違いで危険を覚悟で会合に出発していた。急いで引き返したが、着いたのは午前1時を回っていた。100名を超す参加者でいっぱいの会場についた。どの質問にも、苦悩と心の葛藤がにじみ出ていた。

清原たちは、懸命に御本尊の功力を、信心の大確信を訴えた。確信と揺らぐ心との真剣勝負であった。

老婦人は、生まれつき目が見えない子が生まれたことから、批判を浴びせられ、家族は、針の筵に座るようないたたまれぬ気持ちで日々を過ごしてきた。「信心を頑張れば、目が見えるようになるか」との質問に、清原は、「信心を貫いていくならば、絶対に、幸福になれる。信心をして生まれてきた子どもに使命のない人はいません。」と指導し、この家族の心の闇を打ち破った。

指導を受け、老婦人は、目の不自由な孫が、家の宝だと思えるようになり、家族も子どもの幸せを願い団結して、信心に励んでいった。

教学試験が行われると、大白蓮華や、聖教新聞が1、2部しかないため、皆が、ノートに写し、研鑽していた。そうした悪条件であるにもかかわらず、皆、実によく勉強していた。

派遣幹部たちは、思った。“もし、自分たちがこの環境のなかに、ただ一人置かれたならば、本当に信心を貫けただろうか、皆に指導はしてきたが、学ぶべきは、自分たちの方ではないのか・・・”

信心とは、立場や役職で決まるものではない。広宣流布のために、いかなる戦いを起こし、実際に何を成し遂げてきたかである。また、世界のいずこであろうと、今、自分のいる場所が、広宣流布の戦場であり、最高の仏道修行の道場であり、同時に、そこが常寂光土となるのである。

メンバーと山本伸一の念願が成就し、彼のパラグアイ訪問がじつげんするのは、1993年のことである。この訪問で、伸一は大統領、外相らと会見。そして、パラグアイ政府から、彼の世界平和への貢献を讃え、『国家功労大十字勲章」が贈られたのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋

アルゼンチンとの 心の絆

『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P165~

アルゼンチンは、白谷竹男を中心に、大木田和也・光子という若い力が団結し、メンバーも120世帯を超えるまでに至った。

春木らは、アルゼンチンの組織の新布陣が発表された。婦人部長に小堀代志江が就任した。彼女は入会1年ほどであったが、子どもの喘息を克服するなど、幾つもの体験を積んでいた。

春木は、山本会長の伝言を皆に伝えた。「日本とアルゼンチンは、地球の反対側にあり、遠く離れていますが、広宣流布に生き抜く人の心は、私と一体です。私の心のなかには、常に皆さんがいます。皆さんの心のなかにも、私がいることでしょう。私たちは、ともどもに不二の同志として、明るく、仲良く、誇らかに、この世の使命を果たし抜いていこうではありませんか。」

この伝言に、集ったメンバーの多くは涙した。ほとんどの人たちが、同志も数少ないなかで、寂しさ、悲しさに耐え、山本会長を思い、歯を食いしばりながら、広宣流布に邁進してきたからである。

アルゼンチンの幹部たちは、相談の末、ブラジルの山本会長を尋ねることにした。そのことを聞いていた伸一は、会合が終わると、小堀の名を呼び、記念の念珠を 渡しながら、「アルゼンチンの婦人部を頼みます!リーダーというのは、一人立つ、”勇気の人”でなければならない。そして、みんなと仲良く進むことができる“調和の人”でなければなりません。ご苦労をおかけして申し訳ありませんが、よろしくお願いします」と真摯で、誠実な言葉に小堀は感動を覚えた。

ロビーで待機していた大木田を見つけると伸一は 一緒に部屋に入り、手紙で励まし続けてきた青年が、元気に自分の前に現れたことが、嬉しくて仕方がなかった。

「人間の一生というのは、短いものだ。その一生をなんのために使っていくかで、人生の価値は決まってしまうよ。君はアルゼンチンにあって、生涯、広布のために生き抜いてほしい。私に代わって、この国の人たちを幸せにしてほしいんだ。」

この日、大木田の心は決まった。“俺の人生は決まった。山本先生とともに広宣流布に生きる。そして、いつか先生を、アルゼンチンにお呼びしてみせる!”

アルゼンチンに帰った彼は、成功していた花卉栽培をスッパリとやめ、花の販売の仕事を始めた。メンバーのために、思う存分に働くには、郊外ではないく、皆と連携のとりやすい、より都心に近い所に住もうと考えたからだ。最初は、見習いから仕事を始め、委託販売業者として独立した。

大木田は、広宣流布のためにアルゼンチン中を駆け巡り、翌年、アルゼンチンに総支部が結成されると、やがて総支部長になり、光子は婦人部長とあって活躍していくことになる。だが、山本伸一のアルゼンチン訪問という念願が実現するには、実に27年後まで、待たなければならなかった。

その間、伸一は、アルゼンチンの大学関係者や芸術家、駐日大使、また、大統領と会見するなど、日亜両国の友好と教育・文化交流に全力を注いできた。同時に、メンバーの奮闘により、仏法理解の輪は大きく広がり、学会の進める平和と教育の運動が高く評価されていった。

そして、1990年には、アルゼンチン政府から、最高栄誉の一つである「大十字五月勲章」が、山本伸一に贈られ、各大学からの顕彰も相次ぐことになる。

春木征一郎一行は、パラグアイのチャベスへ激励に向かった。南部のアルゼンチン国境の都市エンカルナシオンの北東16キロから始まるチャベス移住地や、隣接のフラム移住地、北東へ60キロほどのピラボ移住地などに入植した日本人移住者は、割り当てられた土地から木を切りだし、柱を立て、自分たちで家を建てるところから始めなければならなかった。

この移住者のなかに、学会員がいた。そうしたメンバーが、核となってそれぞれの移住地で、活動が開始されていったのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋

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アルゼンチンの一粒種

『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P157~

大木田にとってアルゼンチンは憧れの地だった。アルゼンチンで花卉栽培に成功したという知人から、物資が送られてきて、いつか自分も豊かなアルゼンチンで 大農園をやってみたいとおもい、渡航のため、神奈川県で、花卉栽培の技術を学んでいた時に、母の勧めで入会した。

その翌年、父の友人の家に住み込み、一人で信心に励んだ。創価学会の人を知らないかと探すと、「創価学会は暴力宗教だ」とか、「創価学会員だというと差別される」と言われた。

そんな時、「苦しかったら学会本部の山本総務に手紙を書き、指導を受けなさい」という先輩の言葉を思い出し、返事は来ないだろうとおもいつつ、自分の思いを手紙に書いて出した。

ほどなく、伸一から、返事がきた。大木田は感激した。“俺のために、山本総務が手紙をくださった。申し訳ない限りだ。必ず勝ってこの激励に応えよう!”

さらに、会長就任直前の4月22日にも山本伸一から励ましの便りが届いた。伸一が第三代会長に就任する直前である。彼は、単身、アルゼンチンに渡った一青年のことが、頭から離れなかったのである。

世界広布という崇高にして壮大な作業もまた、そこに生きる一人の人間から始まる。ゆえに、その一人を力の限り、命の限り、励まし、応援することだ。大木田は、伸一の手紙を宝物のように大切にし、何度も何度も読み返しては決意を新たにしてきた。

仏法対話に、全精魂を注ぐが、二年たっても信心する人は誰もいなかった。しかし、3人のメンバーがいることがわかり、早速訪問した。入会の古い白谷に 大木田は期待していたが、白谷は、学会員としての自覚が乏しく、勤行もやっていないほど、信心とは無縁であった。それでも、大木田が何度も通ううちに、白谷は信心に目覚めていった。

大木田は、仕事の面でも奮闘し、広宣流布のためには、社会で勝利の実証を示さなければならないと、花卉栽培の温室を立て独立して仕事を始めた。人一倍研究と工夫を重ね、温室を6棟にまで増やし、彼の研究してきたカーネーションが、品評会で1位の栄冠に輝き、地元紙にも紹介された。

移住から5年、大木田は、アルゼンチン社会にあって、見事な信心の実証を示し始めたのだ。そのころから、周囲の人たちの学会への評価が大きく変わり、彼の語る仏法の話に皆が耳を傾けるようになっていった。一方、白谷も、目覚ましい信心の成長を遂げていった。

そして、1963年(昭和38年)地区が誕生すると、白谷は地区部長になり、翌年には支部が結成され、支部長となった。メンバーは面倒見のよい人柄の 彼を慕い、仲の良い、和気あいあいとした組織がつくられていった。

大木田と結婚した光子は、東京で本部職員をしていた。実際にアルゼンチンでの生活が始まると、驚くことばかりだった。電気もない農村地帯で、全く経験のない農作業も手伝わなくてはならない。学会活動に出るといってもバスもなく、夫のスクーターに乗せてもらって出かけるしかなかった。

涙が出る時は日本を発つ前に、山本伸一が指導してくれた言葉を思い出し、懸命に学会活動に励んだ。
東京で女子部の幹部であった彼女にとって、アルゼンチンのメンバーの活動は、のんびりしているように見えた。光子が懸命になればなるほど、皆の心が離れていった。

“私のどこがいけないのだろう”彼女は必死になって唱題し、自分が日本での活動を基準にして、すべて、そこに当てはめようとしていたことに気づく。自分本位だったと反省し、アルゼンチンの現実と向き合い、メンバー一人ひとりの苦悩を解決していくには、喜んで活動できる組織にするにはどうすればよいかを考え、個人指導を心がけ、行動した。

地道な、粘り強い、対話と激励の繰り返しこそが、すべてを変えていく原動力なのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋

ペルーセイキョウ発刊

『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P151~

「無私」の人に対して、「無私」ゆえに、人びとの称賛と尊敬が集まると、我欲に生きる者たちは、強い反発と嫉妬をいだき、排撃の集中砲火を浴びせるのである。

伸一は、毅然とそそり立つ、騎馬像に誓っていた。“私の生涯もまた、迫害につぐ迫害であろう。しかし、私は戦い続ける。決して負けはしない。悲哀の宿命の鉄鎖から、人類を解放することが、私の使命であるからだ”

3月16日、伸一はペルーの同志の大いなる飛躍を願い、一首の和歌を贈った。「3・16」の意義を込めて、一人ひとりのメンバーの生命に、広宣流布の「黄金の種」を蒔く思いで、この歌を詠んだのである。リマでは、当局を刺激させまいとする配慮から、メンバーの見送りも遠慮してもらった。

ひっそりとした出発となったが、伸一の激励を受けたメンバーの心には、広布への闘魂が、激しく燃え上がっていったのである。ビセンテ・セイケン・キシベはペルー広布の全責任を担って立つ自覚を固めていた。スペイン語版の機関紙「ペルー・セイキョウ」の編集を自ら買って出た。

“スペイン語の機関紙ができれば、ペルーだけでなく、ラテンアメリカの広宣流布が、大きく前進することは間違いない。”キシベは、その役割の大きさを考えると、体が震える思いがした。彼は、喜び勇んで、新聞製作を開始したのだ。

使命の自覚は、果敢なる行動となって、発芽していくものである。

キシベたちが最も頭を悩ませたのは、やはり翻訳である。こうして、タブロイド判4ページ、活版印刷の「ペルー・セイキョウ」が創刊されたのは、提案から36日後の4月20日のことであった。奇しくも、日本の聖教新聞が創刊された日から、15年後の同じ日の発刊となったのである。

「時代を変えよう!」「学会を取り巻く社会の環境を変えよう!」同志は、こう心に誓い、“信頼の種”“友情の種”を蒔きながら、希望の前進を開始したのである。やがて、キシベはペルーの理事長となり、このインカの大陸に新しき広布の歴史がつくられていくことになる。

メンバーは、仏法者として、よき市民をめざし、社会貢献に取り組み、人びとの深い信頼を勝ち得ていった。それは、同時に、創価学会と山本伸一に対する理解を、深めさせることになっていったのである。

そして、1974年に、伸一が8年ぶりにペルーを訪問した折には、リマ市は彼の来訪を歓迎し「特別名誉市民」の称号を贈ったのである。さらに、84年、伸一の3度目の訪問の時には、ペルーの最高勲章である「ペルー太陽大十字勲章」が、フェルナンド・ベラウンデ・テリー大統領から贈られている。
これは世界の平和と文化と教育への、伸一の多大な貢献を評価して贈られたものであった。

伸一の一念が、そして、彼と心を同じくする、ペルーの同志の一念が、時代を、社会を、大きく変えていったのである。歴史は動き、希望の太陽が昇ったのだ。

1966年、伸一が、アメリカとブラジル、ペルーを訪問したころ、他の幹部は、手分けして、中南米各国を回り、メンバーの激励にあたっている。

アルゼンチンに組織がつくられたのは、63年、20世帯ほどのメンバーで、地区が結成され、白谷竹男が地区部長になった。

白谷は、初代学生部長を務めた白谷邦男の実弟で、兄の邦男の勧めで入会した。彼は、太平洋戦争中、沖縄戦で九死に一生を得、守られたと思いはしたが、自ら積極的に信心に励むことはなかった。

戦後、海外に雄飛したいとの思いをいだくようになり、戸田城聖に会った時、相談すると「行ってこい」と言われた。この言葉で、彼の心は決まり、アルゼンチンに移住を決めた。

この白谷を励まし、信心を奮い立たせたのが、日本から移住してきた、大木田和也だった。



太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋

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