『新・人間革命』第12巻 新緑の章 P25~

伸一は、同志が炎天下で、汗と埃にまみれながら、毎日、毎日、労作業に励んでくれたことが、ありがたくもあり、申し訳なくもあった。

「どうすれば、アメリカ広布の大伸展の流れがつくれるのか、メンバーが歓喜と希望に燃えて、前進できるか、いろいろかんがえてみた。」
と提案した。

「新しき出発の布陣として、検討の結果、アメリカを総合本部とし、西部本部、東部本部、ハワイ本部の三本部でスタートすることを決定しましたので、発表いたします。」

アメリカの同志には、山本会長が世界の平和旅の第一歩を印したアメリカこそ、世界広布の先駆であるとの強い誇りがあった。その誇りを決意に変え、"世界広布の第ニラウンドもアメリカから"という、闘志を爆発させたのである。

実に的確な、未来への布石であった。


祝賀会の間も、伸一の激励は、矢継ぎ早に続き、炎天下、全参加者と記念撮影が何回も繰り返され、メンバーを励まし続けた。

もともと病弱で、結核に苦しんできた彼は、元気になったとはいえ、体力はなかった。無理をすれば、必ず発熱するなど、体調を崩した。しかし、広宣流布に一身を捧げ尽くす決意の伸一は、無理に無理を重ねてしまうのである。

彼の激励は命を削って行われていたのである。いや、だからこそ、魂の発光があり、友の生命を燃え上がらせていったのである。


5月17日、山本伸一は、ニューヨークに入った。勤行会の時、警備についていた日本人の青年は、笹原と言って、ダンサーをしていた。

何か悩みをかかえていると直感した伸一は、こう語った。「青年時代はというのは、悩みとの戦いの時代と言えます。でも、どんな苦労も、信心を貫き通していくならば、すべて生かされ、自分の人生の財産になっていくものだ。信心こそ、自身を輝かせていく、最高の道なんです。大事なことは、広宣流布をわが使命と定め、前進し抜いていくことではないかと思う」

笹原は、高校二年の時に、アメリカのミュージカル映画を見て、ダンサーになろうと思ったが、渡米した時は、既に28歳であった。レストランの皿洗いをしながら、人一倍努力を重ねたが、技術面では、勝っても、肉体的に均整のとれた美しさとなると日本人である彼は、ハンディを痛感した。

それを、技術で乗り越えようと工夫を重ねたが、なかなかオーディションには受からなかった。そんな時、学会に入会したが、学会活動には、消極的であった。

ニューヨークで開催される全米総会に引き続き、民音主催の催しに、出演を依頼され、ダンス仲間の栗山にも声をかけ、出演することにした。栗山も日本で入会していたが、会合参加は、断り続けていたという。栗山は心労からか、胃潰瘍に苦しんでいた。

二人は、民音の舞台の準備に取り組み、それを通して学会メンバーとの交流が始まり、男子部の会合や座談会にも参加するようになった。

彼らは、創価学会の組織が、自分たちが想像していたような堅苦しいものではなく、明るく、希望にあふれ、和気あいあいとしていることに驚きを覚えた。そこには、自分だけでなく、人びとの幸福のために献身しようとする、尊き人間の輝きと温かさがあった。

また、唱題を重ねるなかで、生命が躍動していくのを実感し、仏法への確信も、次第に深まっていった。民音の催しを終えたころには、二人とも、喜び勇んで学会活動に励むようになっていた。栗山の胃潰瘍も、いつの間にか治っていた。

信心に励むようになって彼らが特に感銘したのは、広宣流布とは新たな人間文化の創造であるという、山本会長の指導を聞かされたことであった。

彼らは布教にも力を注ぎ、ダンサーやミュージシャンに次々と仏法の話をしていった。



太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋