『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P274~


インドのカルカッタを飛び立ち、ビルマの首都ラングーン(ヤンゴン)に到着した伸一一行。
ビルマでは、戦時中、多くの戦死者が出ていた。
山本伸一の長兄も、徴兵されここで命を落としたのである。


ビルマで 1944年(昭和19年)3月8日、太平洋戦争の中でも
「最も無謀」な作戦と言われたインパール作戦が実行された。


日本軍は、イギリスの植民地であるビルマに侵攻し、首都ラグーンを占領。
ほどなくビルマ全土を支配下に置き、軍政を施行した。
その時、日本軍とともに戦ったのが、ビルマ独立義勇軍だった。


この義勇軍の中心的人物が、後に「ビルマ独立の父」といわれた
アウン・サンである。
1991年にノーベル平和賞を受賞したアウンサン・スー・チーは彼の娘である。


当初、アウン・サンはイギリスからビルマの独立を勝ち取るために、
日本軍に協力し、同志とともに、日本軍に軍事訓練を受けていた。

初め、日本軍は ビルマを占領したあとは、独立させることを約束していたが、
占領後は それを延期しつづけていた。日本軍に対する批判が渦巻き始めた。


ビルマから撤退したイギリス軍は、インドのインパールに拠点を置き、
ビルマ奪回をを計画していた。


日本軍は、防御を固めるより、一気にインパールを攻略する計画をたてていた。
それが、インパール作戦である。


計画の発案者である司令官は 自負心が強く、イギリス軍を撃退した慢心と
油断で 計画は無謀だという反対意見を唱える参謀長を 更迭する。


日本大本営は イギリスを混乱させるねらいから、ビルマの独立を表面上認める。
そして、インパール作戦は 客観的条件を無視し、物資などの補給もされず、
逆に2割削減されたうえ、作戦が決行されることが決まった。


インパール作戦の失敗は 明らかになるも、誰も中止をいいだすことなく、
ずるずると放置され、兵士たちは 戦闘だけでなく、飢えや病で死んでいった。
自ら命を絶つ者も続出し、作戦が中止された、撤退も凄惨を極める。


インパールからビルマに至る道には無数の屍が横たわり、「白骨街道」と呼ばれた。
山本伸一の長兄は、前線への軍需品の輸送にあたっていた。
そして、1945年(昭和20年)1月11日 イラワジ川の輸送任務中に、
イギリス軍の戦闘機の攻撃を受け、戦死した。29歳であった。