小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命 第30巻 上

西ドイツ訪問

『新・人間革命』第30巻(上) 暁鐘の章(前半) 345p
<暁鐘の章(前半) 開始>

ドイツは、ヨーロッパの歴史を画した宗教改革の発祥の地である。山本伸一は、決意を新たにしていた。“ルターの宗教改革から四百数十年。今、21世紀を前に、全人類を救い得る、人間のための宗教が興隆しなければならない”

1981年(昭和56年)5月16日、伸一はフランクフルトの空港に降り立った。彼の西ドイツ訪問は、16年ぶりであった。翌日、伸一は、ボン大学名誉教授のゲルハルト・オルショビー博士、ヨーゼフ・デルボラフ博士夫妻、また、ベルリン自由大学教授のナジール・A・カーン博士と会談した。

デルボラフ博士とは対談集を発刊していくことで合意した。1989年4月、対談集『21世紀への人間と哲学ーー新しい人間像を求めて』が発刊された。伸一は、その後も各界の識者と対話を重ね、対談集の出版に力を注いでいった。実は、そこには秘められた決意があった。

日蓮大聖人は天台大師の「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」の文を引かれ、世を治め、人間の生活を支える営みは、仏法と違背せず、すべて合致していくことを訴えられている。その厳たる事実を、識者との語らいを通して、明らかにしておきたかったのである。

さらに、環境問題や教育、核、戦争、差別、貧困等々、人類のかかえる諸問題の根本的な解決のためには、人間自身の変革が求められる。そこに、最高峰の生命哲理たる日蓮仏法を弘め、時代精神としていく必然性があることを示しておきたかった。

“対談を通して、諸問題解決の具体的な道筋を示せることは、極めて限られているかもしれない。しかし、自分が端緒を開くことによって、多くの青年たちが後に続いて、人類の未来に光を投じてくれるであろう”というのが、彼の願望であり、期待であった。

交歓会が開催された。これには、日本から訪独中の親善交流団も含め、八か国八百人が集って、世界広布への誓いを固め合った。18日の午後、伸一は、フランクフルト会館を訪れ、ドイツ広布20周年の記念勤行会に臨んだ。

伸一は、東西に分断されたドイツの現状を憂えながら、語っていった。「私どもは、それぞれの体制をうんぬんしようというのではない。どんな体制の社会であろうが、そこに厳として存在する一人ひとりの人間に光を当てることから、私たち仏法者の運動は始まります。

「際限のない人間の欲望を制御し、一人ひとりが自他共の幸福をめざして、身近な生活のうえに、社会のうえに、いかに偉大な価値を創造していくかーーそこに、社会の行き詰まりを打開していく道があります。

どんな理想を掲げた体制も、人間自身の生命の変革、すなわち人間革命なくしては、その理想は画竜点睛を欠き、絵に描いた餅にすぎない。混迷する社会にあって、わが生命に仏界を湧現させ、清新な生命力をみなぎらせ、明確なる人生道と幸福道を闊歩していく力となり、道標となるのが信心なんです」

伸一は、ドイツの理事長たちから相談を受けていた離婚の問題について言及していった。欧米では、離婚が多く、仏法者として、これに、どう対処していけばよいのか、伸一に尋ねたのである。

「プライバシーについては、私たちは、深く立ち入るべきではないし、干渉めいたことも慎むべきです。それぞれが責任をもって考えていく問題です。ただし、他人の不幸のうえに自分の幸福を築いていくという生き方は、仏法にはないということを申し上げておきたい。

ともかく、よく話し合い、夫婦が信心をしている場合には、解決のために、互いにしっかり唱題し、どこまでも子どもの将来のことなどを考えて、できうる限り歩み寄っていく努力をお願いしたい。離婚をしても自身の宿命というものを変えることはできません。」伸一は、メンバーが疑問に思っていることや聞きたいことについて、わかりやすく、明快に語っておきたかった。

次いで彼は、学会の組織はなぜ必要なのかについて、語っていった。「ともすれば、個人の自由と組織とは相反するように感じる人もいるかもしれない。しかし、国家でも、会社でも、その目的を果たしていくためには、組織は不可欠です。

一人だけの信仰では、進むべき軌道がわからなくなってしまうものです。信心を貫くには、大勢の人びととスクラムを組み、勇気ある人生を歩み抜けるよう励まし合い、退転を戒め合い、正道へ向かうよう守り合うことが大切です。

そう考えるならば、組織というものが、いかに重要であるか、よくおわかりいただけると思う。ただし、組織は手段であり、個々人の向上を促し、幸福になっていくための指導こそが、その出発点であることを忘れてはならない。

あくまでも学会の組織の目的は、一人ひとりのメンバーの絶対的幸福であり、成仏にあります。ゆえに、メンバーは互いに尊敬し合い、共に社会の一員として理解、信頼し、励まし合いながら、人生を勝ち飾っていただきたい」


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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ソ連との文化・教育交流

『新・人間革命』第30巻(上) 雄飛の章 328p

5・3「創価学会の日」を祝賀する記念行事が、晴れやかに創価大学で開催された。伸一は、連日、記念勤行会、記念祝賀会等に出席した。創価の師弟の陣列は、薫風のなか、さっそうと21世紀への行進を開始したのだ。

伸一は、5月9日、休む間もなく、ソ連、欧州、北米訪問へと旅立っていった。最初の訪問国であるソ連は、世界から非難の集中砲火を浴びていた時であった。1979年12月、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻したことから、80年夏のモスクワ五輪を、60を超える国々がボイコットし、ソ連は国際的に厳しい状況に追い込まれていたのである。

しかし、伸一は、すべてを政治的な問題に集約させ、対話の窓口を閉ざしてはならないと考えていた。そんな時だからこそ、文化・教育を全面的に掲げ、民衆の相互理解を促進する民間交流に、最大の力を注ぐべきであるというのが、彼の信念であった。

今回の伸一のソ連訪問は、ソ連高等中等専門教育省とモスクワ大学の招聘によるものであった。一行は、富士鼓笛隊、創価大学銀嶺合唱団など、総勢約250人という大訪問団となった。伸一は、8日間のソ連滞在中、ソ連の要人たちと平和・文化交流をめぐって、次々と語らいを重ねていった。

その間に、レーニン廟や、故コスイギン前首相の遺骨が納められているクレムリン城壁、無名戦士の墓を訪れて献花した。なかでも前首相の墓参は、今回の訪ソの大切な目的の一つであった。コスイギンが死去したのは、前年12月のことであった。伸一は、前首相とは、2回にわたってクレムリンで会見していた。

5月12日、伸一は、コスイギン前首相の息女であるリュドミーラ・グビシャーニが館長を務める、国立外国文学図書館を訪れ、会談した。伸一が、墓参の報告をし、弔意を述べると、彼女は、声を詰まらせながら応えた。

親から子へ、世代を超えて友情が結ばれていってこそ、平和の確かな流れが創られる。13日、伸一と峯子は、モスクワ大学のR・Ⅴ・ホフロフ前総長の追善を行ったあと、ホフロフ宅を訪問した。伸一たちは、エレーナ夫人、長男のアレクセイ、次男のドミトリーと、亡き総長を偲びながら、語らいのひとときを過ごした。一家との交流は、その後も重ねられていった。

伸一は、正午には、モスクワ大学を訪問し、ログノフ総長と対談した。伸一は、未来に平和の思想と哲学を残すために、対談を行うことに合意し、二人の語らいは13回に及び、その間に、対談集『第三の虹の橋ーー人間と平和の探求』を出版。1994年には、『科学と宗教』が発刊されている。

13日夕刻には、「日ソ学生友好の夕べ」が開催された。今、眼前で、日ソの青年らによる文化と友情の交流が行われ、確かに“精神のシルクロード”が結ばれようとしていることを、伸一は感じていた。

翌14日午後、伸一たちは、クレムリンを訪れ、ニコライ・A・チーホノフ首相と会見した。伸一は、チーホノフ首相に語った。「世界平和のために、ぜひとも首脳会議を呼びかけ、戦争には絶対反対するための話し合いを続け、安心感を全人類に与えていくことが大事です」伸一は、日ソ関係にも言及していった。

彼は、米ソ首脳会議について、1・26「SGIの日」記念提言でも訴えている。1985年ソ連にゴルバチョフ書記長が誕生すると、冷戦の終結へ舵が切られた。11月、レーガン米大統領との米ソ首脳会談が実現し、東西の対話は加速していった。90年、伸一は、ゴルバチョフと初会見した。二人は、その後も親交を結び、対談集『20世紀の精神の教訓』を発刊している。

伸一は、トルストイの家と資料館を訪れた。トルストイは、貧困を強いられる民衆の救済に力を注ぐ一方、ペンをもって、堕落した教会や政府などの、あらゆる虚偽、偽善と戦った。それ故に、彼の著作は厳しい検問を受け、出版を妨害され、彼は教会から破門されている。だが、激怒した民衆が彼を擁護し、澎湃たる正義の叫びをあげたのだ。

トルストイの家と資料館を見学した伸一は、大文豪の生き方に勇気を得た思いがした。彼は、トルストイが、最後の日記に残した言葉を噛み締めていた。ーー「なすべきことをなせ、何があろうとも…」

伸一の一行は、午後7時、モスクワ大学のログノフ総長らの見送りを受け、モスクワのシェレメチェボ空港を飛び立った。“欧州では、大勢の同志が待っている!”同志を思うと、伸一の胸は躍った。

<雄飛の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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北米指導へ

『新・人間革命』第30巻(上) 雄飛の章 316p

11月18日、創価学会創立50周年を記念して慶祝式典が、創価大学中央体育館で晴れやかに挙行された。ここには、伸一のはつらつとした姿があった。

妙法を根本に平和と教育の推進に尽くしてきた学会の大民衆運動の第一幕は終了し、いよいよ、ここに第二幕が開いたのであります。今日よりは、創立百周年をめざして、世界の平和と文化、広布のために心新たに大前進してまいろうではありませんか!」師子吼は轟いた。

1981年が明けた。反転攻勢を決する年である。元日、山本伸一は、恩師・戸田城聖が第二代会長として立った翌1952年の正月に詠んだ和歌を、生命で噛み締めていた。「いざ征かん 月氏の果てまで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」

この歌は、伸一が第三代会長に就任した60年5月3日、就任式の会場となった日大講堂に、戸田の遺影とともに掲げられたのである。彼は、歌を眼に焼き付けながら、恩師の遺影に、今世の生涯の大法戦を
開始し、不二の弟子として世界広布の旅路を征こうと、深く心に誓ったのであった。

そして、この81年の元朝、彼は、いよいよ全世界の同志と共に世界へ打って出て、本格的に広宣流布の指揮を執らねばならないと心を定めていたのである。

彼は、翌1月2日で53歳となる。限りある人生の長さを思えば、世界広布のために、今、なすべきことはあまりにも多い。もはや一刻も、躊躇している時ではなかった。

1月13日夜、伸一は成田から、アメリカのハワイへ向けて出発した。今回の海外訪問は約2か月の予定であり、アメリカでは、ハワイ、ロサンゼルス、マイアミなどを回り、さらに、中米のパナマ、メキシコを歴訪することになっていた。

ハワイでは、15か国・地域の代表が集い、第1回世界教学最高会議が行われた。生命尊厳の根幹となる仏法の法理を掘り下げ、世界に人類平和の確固たる哲理を打ち立てていかねばならないと、伸一は痛感していた。今回の訪問でも自ら率先垂範して御書を拝し、指導していった。

「『行学』の二道は、信心から起こる。『行学』を怠っているということは、信心を失っていることにほかならない。『行』と『学』は、信心を基軸にした車の両輪といえます。したがって、いくら知識としての教学に精通していったとしても、『行』という実践がなければ、片方の輪だけで進もうとするようなものであり、正しい信心の軌道から外れていかざるを得ない。」創価教学とは実践の教学であり、自他共の幸福を創造する生命の法理の探求である。

彼は、ハワイ方面の各地から集ったリーダーの御書学習会を担当し、「開目抄」を拝して、末法の広宣流布に生きる同志の、尊き使命に言及していった。

ハワイでの8日間にわたる記念行事を終えた伸一は、1月20日午後2時前空路、ロサンゼルスへ向かった。ロサンゼルス市制二百年を記念してシュライン公会堂で開催された日米親善大文化祭などに出席した。

24日午後、1万5千人が集って盛大に行われたこの大文化祭は、大喝采を浴びた。日本では、1月24日、あの山脇友政が、学会への恐喝及び同未遂の容疑で逮捕された。その後の裁判の過程などで、彼がいかに虚偽に満ちた、信憑性のない、悪質な言動を繰り返してきたかが、白日のものにさらされていくのである。

東京地検から伸一に、事情聴取の要請があり、応じるため、急遽いったん帰国し、2月15日、再びアメリカへ戻った。19日にはパナマへ飛んだ。26日には、山本伸一は、メキシコへ向かった。パナマでもメキシコでも、空港では国営テレビや新聞社の記者会見が待っていた。それは、学会の平和・教育・文化の運動が、世界各地で高く評価されてきたことを裏づけるものであった。

3月2日には、大統領と会見し、さらに、図書贈呈のためメキシコ国立自治大学を訪れ、総長らとも会談した。大学を後にした伸一は、妻の峯子と市街をあるいた。独立記念塔がそびえ立っていた。実は、このメキシコの光景を、恩師・戸田城聖は克明に話していたのである。

それは、彼が世を去る10日ほど前のことであった。体は衰弱していても、心は、一歩も退くことなく、世界を駆け巡っていたのだ。今再び、陽光に輝く記念塔の前に立った伸一の胸には、「世界へ征くんだ」という恩師の魂の言葉が、熱くこだましていた。

伸一は、グアダラハラから、アメリカのロサンゼルスに戻り、さらにハワイを訪問。彼は、渾身の力を尽くして、日本の、世界の同志への激励行を続けてきたのである。広布は、次第に上げ潮へと転じ始めていた。




太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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「人間革命」の連載再開

『新・人間革命』第30巻(上) 雄飛の章 303p

山本伸一は『人間革命』の担当記者に言った。「私は、戸田先生の弟子だ。だから、どんな状況に追い込まれようが、どんな立場になろうが、広宣流布の戦いをやめるわけにはいかないんだ。命あるかぎり戦い続けるよ。しっかり見ておくんだよ」

しかし激闘による疲れもたまっていた。咳が続き、発熱する日もあった。濡れたタオルで額を冷やしながら、畳の上に横になった。伸一は、時々咳き込む。目も充血している。10分ほどしたころ、伸一は、勢いよく、バンと畳を叩き、体を起こした。

「さあ、始めよう!歴史を残そう。みんな連載を楽しみにしているよ。“同志のために”と思うと、力が出るんだよ」15分ほど作業を進めると、伸一は、咳き込み始めた。咳は治まっても、息はゼイゼイしている。「少し休ませてもらうよ」また、畳の上に横になった。10分ほどして、また、力を込めて、畳をバンと叩いて身をおこした。「さあ、やろう!みんなが待っているんだもの」

しかし、やはり10分ほどすると、体を休めなければならなかった。連載は、ひとたび開始されれば、途中で休むわけにはいかない。そこに新聞連載小説の過酷さもある。伸一にとっては、まさに、真剣勝負であり、生命を削る思いでの口述であった。

「ことばは鍛えぬかれて、風を切る矢ともなれば炎の剣にもなる」とは、デンマークの作家アンデルセンの箴言である。伸一も、そうあらねばならないと自らに言い聞かせ、わが同志の魂に響けと、一語一語、考え抜きながら原稿を仕上げていったのである。連載に対する反響は大きかった。全会員の心に、蘇生の光を注いだのである。

宗門は、混迷の度を深めていった。宗門側は、学会攻撃はしないと言明していた。しかし、「正信会」の学会員への仕打ちは、ひどさを増しており、山脇の謀略に躍った「正信会」の僧たちの暴走は止まらなくなっていた。

宗門は、彼らを、順次、擯斥処分にしていった。この流れを見て、慌てて態度を変え、法主・宗務院に従う僧たちもいた。
擯斥され、寺を明け渡すことになった住職らは、法廷で宗門と争っていくことになる。

9月30日午後10時、山本伸一は、一路、ホノルルを目指した。アメリカ広布20周年を記念する諸行事に出席し、世界広宣流布の新しい幕を開くためである。10月2日には、ハワイ会館で行われた「世界平和の日」記念勤行会に出席した。

「世界平和の日」は、20年前のこの日、伸一が、初の海外訪問に旅立ったことから、学会として設定した記念日である。初訪問の折、ハワイでの座談会に集ったのは、3、40人に過ぎなかった。参加者の多くは、人生の悲哀に打ちのめされていた。

以来20年、地涌の菩薩の陣列は、世界約90か国・地域へと広がった。伸一は、「世界平和の日」記念勤行会で、さらに、20年後の西暦2000年をめざして、民衆の堅固な平和のスクラムをもって、人類を、世界を結ぼうと誓願し、深い祈りをささげた。

伸一は、今回のハワイ訪問では、ジョージ・アリヨシ州知事と会談したほか、ハワイ総会に出席するなど、精力的に平和交流とメンバーの激励に奔走した。そして、サンフランシスコ、ワシントンDCと回り、10月10日には、シカゴに到着した。

サンフランシスコでは総会に集った3500人の友と交歓。また、ワシントンDCでは、参加した4千人のメンバーを激励。続いて訪れたシカゴでは、市内のマダイナ公会堂に5千人のメンバーが喜々として集い、シカゴ文化祭、そして記念総会が行われた。

20年前、伸一がシカゴを訪問した時、メンバーは十数人であったことを思うと、隔世の感があった。この文化祭でひときわ彼の心をとらえたのは、サチエ・ペリーと、その7人の子どもによる演目であった。一人ひとりの蘇生の体験があってこそ、普遍の法理は証明されていく。

伸一は、家族の勝利劇の舞台を、ひときわ大きな拍手で賞賛した。世界の平和は、一人の人間革命、宿命転換から始まる。平和の実像は、一家の和楽、幸福にこそある。アメリカ広布20周年ーー万人が等しく仏の生命を備えていることを説き示す日蓮仏法によって、新たなアメリカンドリームが身を結び、多くの幸の人華を咲かせていたのだ。

ロサンゼルスに到着した伸一は、世界48か国・地域の代表1万5千人が集って開催された、第1回SGI総会に出席した。総会に対して、国連事務総長、アメリカの上・下院議員、地元やニューヨークの州知事、各市長、大学学長ら各大学関係者等から、祝福のメッセージが寄せられた。

“いよいよ、これからだ!”彼の眼は、希望の旭日に輝く新世紀を見すえていた。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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学会と宗門の離間工作

『新・人間革命』第30巻(上) 雄飛の章 297p

これまで、山脇は、若手僧らに学会を激しく批判させながら、自分が宗門との和合の交渉役となって、学会を意のままに操ろうと画策してきた。裏で僧たちの学会への不信と反感を煽り、攻撃させるように、捏造した情報を流し続けたのである。

自分が火をつけ、事態を紛糾させておいて、自分が収拾役を買って出るという、いわゆる「マッチポンプ」を繰り返したのだ。また、学会の社会的な信用を失墜させ、会長の伸一を追い落とそうと、マスコミにも事実を歪めた情報を流し続けた。

だが、その化けの皮が次第に剥がれ、謀略と二枚舌の背信行為の数々が露見するとともに、事業は窮地に陥ったのだ。自業自得であった。この山脇友政が陰でつながっていたのが、教学部長の原山高夫であった。彼は、聖教新聞社に保管されていた資料文書の大量のコピーを運び出した。

山脇は、それらを使いながら学会と宗門の離間工作を企て、マスコミにも歪曲した学会攻撃の材料を流してきたのである。

80年(昭和55年)4月ついに、山脇は、学会に、金を出すように脅しにでた。十条ら執行部は、山脇の悪質な手口と執拗な性格がわかってきただけに、対応に悩んだ。このままにしておけば、学会が努力に努力を重ねてめざしてきた僧俗和合に、さらに亀裂を生じさせる卑劣な工作を行うことは目に見えていた。

その結果、横暴な宗門僧によって、どれほど多くの会員が、また苦しめられることか。それだけは避けたかった。苦慮する執行部に対して、山脇は三億円を出せと恐喝してきた。

十条は苦悩の末に、今後、一切、謀略や攻撃は行わないことを約束させ、断腸の思いで支払に応じた。山本伸一の中国訪問中の出来事であった。しかし、山脇は、なんと、さらに5億円を要求してきたのだ。6月7日、学会は恐喝並びに恐喝未遂で、彼を警視庁に告訴した。

これを機に山脇は、狂ったように攪乱工作を始めた。週刊誌を使い、卑劣な学会攻撃を繰り返した。それは、御書に「跡形も無き虚言なり」、「そねみ候人のつくり事」とある通りの、妬みの作り話などであった。

さらに原山も週刊誌に登場し、中傷を重ねていった。彼は、山脇から大金を受け取っていたことが、山脇の裁判で明らかにされている。

宗門の集会議員選挙の結果が発表された。学会攻撃を続ける若手僧らが、16議席のうち過半数を占める10議席を獲得した。選挙後宗会が開かれ、彼らが宗会議長などの主要ポストを得たのだ。そして、7月4日、彼らは、正式に「正信会」と称する組織を結成した。

7月の御講では、学会批判を禁ずる再三の院達を全く無視して、多くの寺で、学会への激しい攻撃が行われた。こうした動きの背後にも、追い詰められた山脇の暗躍があった。

悪僧や週刊誌等による学会への集中砲火を、同志は耐え忍んだ。職場などで、同僚や上司から週刊誌の学会批判の話を聞かされる人もいた。しかし、創価の仏子たちは、「難来るを以て安楽と意得可きなり」等の御文を思い起こしながら、互いに励まし合い、弘教に走った。

伸一は、同志を思い、心を痛めた。“皆に新生の光を送らねばならない!”伸一は、草創期から黙々と信心に励み、学会を支え、生涯を広宣流布に捧げた同志を宣揚しようと、その連載の開始を決めた。功労の同志の尊き姿を通して、皆を勇気づけたかったのだ。タイトルは、「忘れ得ぬ同志」である。

また、小説「人間革命」も2年前の8月に連載を中断しており、彼は、執筆も決意した。彼が、連載再開を告げると、編集担当者はためらいがちに話し始めた。「読者は、大喜びすると思います。しかし、宗門の若手僧たちは大騒ぎし、先生が恰好の標的になってしまうのでは…」こう言って口ごもった。

伸一は、強い語調で語り始めた。「そんなことはわかっているよ。今、大事なことは、私がどうなるかではない。守るべきは同志です。勇気の光、希望の光を送り、皆が自信と誇りをもって、使命の道に邁進していけるようにすることだ。そのために私がいるんです。したがって、今だからこそ、『人間革命』を書かなければならない。それが私の戦いなんだよ」

「忘れ得ぬ同志」は、7月29日から連載を開始した。そして、小説「人間革命」第11巻が、8月10日から週3回の連載でスタートしたのである。第1章のタイトルは「転機」とした。戸田城聖が一切の事業から身を引き、残された人生の時間を広宣流布に捧げる決意をするとともに、山本伸一に、「山口開拓指導」の指揮を託すところから始まっている。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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