小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命 第28巻

一人の振る舞い

『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 368p~

天売島には水が少ないので、裏山の沢から水を引こうと崖を登って作業を始めた時、佐田は、転落し、頭蓋骨陥没。頚椎もずれ、手術さえできない状態になった。手の施しようがなく、退院した。呼吸することさえ、辛く感じた。“島の広布のために生き抜きたい”という執念が佐田を支えた。3年たち歩けるようになるとコルセットをはめたまま、よたよたと歩き、「聖教新聞」を配って家々を回った。

「私は一命を取り留めた。これが、既に功徳なんだ。でも、これからますます元気になるから、今の姿をよく見ておきなさい」そして、自らに宣言した通り、医師もさじを投げた怪我を、完全に克服したのだ。

6年後にも、岩海苔をとる作業中、崖の上から石が頭を直撃し、頭蓋骨にたくさんのひびが入るが、致命傷にはいたらなかった。“信心しているのに、なぜ、またしても、こんな目に遭うんだ?”という疑問が、頭をよぎった。しかし、すぐに、「転重軽受」という言葉を思い起こし、本来なら、命を落とすところ、二度も救われた。命拾いをしたのは、広宣流布をしていく使命があるからだ!と御本尊への感謝と歓喜が胸にあふれた。彼は、1か月ほどで、さっさと退院し、民宿経営に力を注ぎ、年々宿泊客は増加の一途をたどった。

人の住む島といっても、その規模は、さまざまである。愛媛県の宇和島港から西方約20キロの海上に浮かぶ嘉島は、周囲3キロほどの小さな島である。その島に、21世帯の学会員が誕生したのである。地域世帯の3割近くが学会員ということになる。

島が小さければ小さいほど、人間関係は深く、強い。人びとは、すべての面で助け合って生きねばならない。そのなかで、学会理解を促すには、日々の生活のなかで、信頼を勝ち取ることが必須条件となる。小さな島では、一人の人の影響力が極めて大きい。一人の決意、姿、振る舞いが、広宣流布を決定づけていく。そして、一つの困難の壁を破れば、一挙に学会理解が進むこともある。

わが地域の広宣流布は、わが手で成し遂げるしかない。それが、自分の使命であるーーそう自覚した同志が、次々と誕生したことによって、離島広布は加速度的に進んできたのだ。これは、いかなる地域にあっても、永遠不変の原理といってよい。

種を蒔いても、放っておいたのでは、鳥に食べられたり、朽ち果てたりしていく。丹精を込め、こまやかな激励の手を、徹底して差し伸べていくなかで、種は人材の苗となり、一人立つ真正の勇者が育っていくのだ。

鹿児島県吐噶喇列島の鹿児島郡十島村と、竹島、硫黄島、黒島等から成る三島村で十島地区が結成され、地区部長の任命を受けたのが、鹿児島市内在住の石切広武である。石切は、41歳で入会。翌年、大阪に折伏に行った時、不当逮捕された山本伸一が釈放された直後に、石切に激励の葉書を贈った。

石切は、一度しかあったことのない、自分に大変な時期にもかかわらず、励ましてくれたことに感動する。そして、“何があろうが、水の信心を貫いていこう!”と心に誓った。やがて、彼は、多額の借金を返済し、見事に信心の実証を示していく。

伸一が、鹿児島を訪問した時、胸を張って報告したが、その口調には、生活苦と戦っている同志を、どこか下に見ているかのような響きがあった。伸一は、石切に、厳しい声で言った。「もしも、慢心を起こして、信心が蝕まれてゆくならば、またすべてが行き詰まってしまう。したがって、自身の心に巣くう傲慢さを倒すことです。一生成仏という、絶対的幸福境涯を確立するには、弛まずに、信心を貫き通していかなくてはならない。信心の要諦は持続です。

私は、たくさんの人を見てきましたが、退転していった人の多くが、傲慢でした。あなたには、信心の勝利者になってほしいので、あえて言っておきます」

“よし、断じて慢心を打ち砕こう!生涯、広宣流布を陰で支え抜く男になろう!”
石切は、学会のために尽くしたいとの思いから、「聖教新聞」の取次所を営むことになった。

不撓不屈の決意に立つ、広布の闘志を育てよう。それには、俺が不撓不屈の人になることだ。獅子となってこそ、獅子を育てることができる”ーー彼は自分に言い聞かせた。石切は、台風の被災が少なくなるように、島の一人ひとりが幸せになるように、島の広宣流布が進むようにと、懸命に祈り続けてきた。



太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

オロロンの島の戦い

『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 368p~

日蓮大聖人の「今は謗ぜし人人も唱え給うらん」との大確信を胸にいだいて、5キロ、6キロと離れた別の集落にも弘教に歩いた。

やがて、学会員への村八分を問題視する声が高まり、話し合いがもたれた。そして、「一部の有力者の圧力によって、学会員が冷遇されてきたことは遺憾である」と、学会に謝罪したのだ。学会員への不当な圧迫が始まってから、丸3年が経過していた。島の同志の信心が、人間としての誠実さが、一切をはねのけ、見事に勝利したのである。

長崎県の“炭鉱の島”の一つでも、弾圧事件が起こっている。採用時に渡す支度金を受け取ると、いなくなってしまう人や、仕事を早退してパチンコにふけったり、酒を飲んで欠勤したりする人もいた。学会に反発している人たちは、その理由を、しばしば学会のせいにしては届を出した。

「非番の日に、学会員が折伏に来て、十分に休息できなかったため」「夜遅くまで学会の話をきかされていたので」などと書くのだ。座談会を開くと、それも利用され、欠勤届に「学会の座談会がうるさくて寝不足」と書かれた。

会社側は、学会員を目の敵にするようになった。学会の勢力を削がなくてはならないと考え、会員宅を訪問しては圧力をかけ、御本尊を取り上げて回ったのである。それを知った、男子部員たちは立ち上がった。会社の労務担当者らに面会を求め、抗議した。

話し合うなかで青年たちは、会社側の理不尽な対応の背景に、学会への偏見と誤解があることを知った。抗議はおのずから折伏となった。この話し合いによって、会社側は、学会員には、第二組合を結成する意志などなく、学会の指導は、社会性を重んじていることを理解した。炭鉱住宅での学会活動も自由にできるようになり、一段と弘教も進んだ。

マハトマ・ガンジーは叫ぶ。「人は自らの信念のために声を発し、立ち上がらなければならない」正義を、人間の権利を守るために、勇気を奮い起こして、声をあげるのだ。悪の跳梁を許してきたのは、常に沈黙である。

昭和47年、島の炭鉱は閉山となる。多くの人が職を求め、島を後にした。それでも、50世帯ほどの学会員が島に残ることになった。島は、クルマエビの養殖や観光などを産業の柱としていくが、学会員は、島の復興に大きな力を発揮していった。

北海道の日本海に浮かぶ周囲約12キロの島が、「オロロンの島」として知られる天売島である。69歳の佐田が大ブロック長を務めていた。彼の人生は波乱万丈であった。祖父は、開拓を始めた先駆者の一人であった。祖父は漁業で成功し、網元をやり、島の実力者として名を馳せてきた。人間の力の及ばぬ大自然を相手に生きるなかで、強い信仰心をもつ人も少なくなかった。

佐田の父もまた、信心深い人であった。佐田自身も「仏教青年団」なるものを組織して、初代の団長となった。ところが、佐田家は次第に傾き始め倒産する。跡継ぎの彼は、再起を図ろうとしたが、莫大な借金を抱えていた。夜逃げし、北海道の留萌市で、暮らし始めた。そこで、宿命転換できる宗教の話を聞く。

友人は、宗教の教えに、高低浅深があることを語った。「人生は何を信じるかが大事なんです。宗教というのは、幸せになる根本の道を描いた地図みたいなものです。佐田さんは、これまで、別の島の地図を見ながら、歩いてきたようなものだ」友人と話しているうちに、希望が湧いてきた。

佐田は妻と共に信心を始めた。すると妻が苦しんできた心臓弁膜症による胸部の痛みや呼吸困難の症状が、次第に緩和されていったのである。御本尊に心から感謝した。入会5か月後、佐田は、天売島に戻る決意をした。“俺が、天売島の広宣流布をするのだ!島のみんなを幸せにするのだ!”という、誓いの炎が胸に燃え盛っていた。

島民は、皆、佐田のことをよく知っている。人びとは、陰で囁きあった。「佐田のオヤジは、遂に頭がおかしくなった」悔しかった。彼は、懸命に唱題しながら、考えた。“実証だ。実証を示す以外にない。御本尊様!どうか、島の広宣流布をしていくために、経済革命させてください”

漁師のほかにも商売ができないものかと思案を重ね、住まいの一部を改装して、民宿を始めることにした。布団は三組しかない。冬季にはいり、島を訪れる人がほとんどいなくなると、吹雪のなかを弘教に歩いた。字を覚え、『大白蓮華』『聖教新聞』を読み、御書を学んだ。

1961年天売島を舞台にしたテレビドラマ「オロロンの島」が全国放映されたのである。ドラマの主役は、島に住む子どもの兄弟である。その弟役には、佐田の息子が起用された。この放映によって、多くの観光客が訪れるようになる。民宿の業績も順調に伸びた。



太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

勝利島

『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 345p~

1978年10月7日、第一回となる離島本部の総会が、学会本部の創価文化会館内にある広宣会館で
開催されるのだ。約120の島の代表が集っての、待ちに待った離島本部の総会である。各島の同志は、はるばると海を渡り、求道の心を燃やして、意気軒昂に学会本部へと集ってきたのだ。

沖縄の同志は、会長・山本伸一の訪問を強く願っていた。4年以上、彼の沖縄訪問はなかった。沖縄の首脳幹部は、県長の高見福安を中心に話し合った。高見は、静かな口調で語り始めた。

「世界には、先生が一度も訪問されていない国がたくさんある。どの国のメンバーも、先生にお出でいただきたい気持ちは、やまやまだろうが、それを口にする前に、先生を求め、仏法を求めて、自ら日本に来る。アフリカや中南米の同志は、何年間も、生活費を切り詰めに切り詰めて、お金を貯め、10日、20日と休みをとってやって来ると聞いている。その求道心こそが、信心ではないだろうか!弟子の道ではないだろうか!

私は今、自分の姿勢を振り返って、深く反省しています。求道心を失い、先生に甘えていたことに気づき、申し訳ない思いでいっぱいなんです」

高見は、学会本部と連絡を取り、離島本部総会の前に、広布第二章の支部長・婦人部長、男女青年部の代表による第一回「沖縄支部長会」の開催が決まったのだ。

伸一は、沖縄のメンバー一人ひとりに視線を注ぎながら、話を続けた。「私は沖縄の皆さんが、自ら行動を起こし、学会本部に来られたということが、最高に嬉しいんです。誰かが、何かしてくれるのを待つという受け身の姿勢からは、幸福を創造していくことはできない。そうした生き方では、誰も何もしてくれなければ、結果的に悲哀を募らせ、人を憎み、恨むことになってしまう。実は、そこに不幸の要因があるんです。

仏法は、人を頼むのではなく、“自らが立ち上がって、新しい道を開いていくぞ!”という自立の哲学なんです。自分が変わることによって、周囲を、社会を変えられると教えているのが、仏法ではないですか!いよいよ皆さんが、その自覚に立たれて、行動を開始した。本格的な沖縄の広布第二章が、始まったということです。私は、沖縄の前途を、未来の栄光を、心から祝福したいんです」

伸一は、離島に対する自分の思いを語っていった。戦後、日本は、大都市を中心に目覚ましい発展をとげてきたが、その流れに大きく取り残されてきたのが、本土から隔絶した離島であった。「離島振興法」が制定、公布された。

しかし、高度成長期に入ると、本土での労働力需要が高まり、島から働き手が失われていった。電気水道などが整っても、島の産業の抜本的な振興がないのだ。政府の離島振興は、表面的な「本土並み」の生活環境を整えることばかりに目がいき、長期的な展望や、島民の立場からの視点が欠落していたのだ。

「皆さんは、偶然、それぞれの島に暮らしているのではない。日蓮大聖人から、その島の広宣流布を託され、仏の使いとして、地涌の菩薩として、各島々に出現したんです。仏から遣わされた仏子が負けるわけがありません。不幸になるわけがありません。ですから、どんなに苦しかろうが、歯を食いしばり、強い心で、大きな心で、勇気をもって、頑張り抜いていただきたい」

島に広宣流布の戦いを起こすのは、決して、生易しいものではない。島に逃げ場はない。あまりの非道な仕打ちに訴え出ようにも、法律よりも、島の習わしや無言の掟の方が重く受けとめられてしまうこともある。そうしたなかで、同志は、島の繁栄を願って、広宣流布の旗を掲げてきたのである。

九州北西部の本土から約2キロのところに、人口三千人ほどの島がある。この島で、1960年代に迫害の嵐が吹き荒れた。59年島で最初の学会員夫妻が誕生した。近野春好と妻のマツである。会員世帯が大幅に拡大すると、障魔の嵐が猛り始めたのである。

座談会の帰り道、島の若者たちが鍬や棒を持って道畑に群がり、学会員に罵声を浴びせた。地域の有力者の差し金であった。家主から、家を出るよう言われた学会員もいた。村有地の借地権を奪われた人もいた。組合からも除名された。学会員には、どの店も商品を売ってくれなかった。非道な仕打ちは子どもにも及んだ。周囲の子どもたちに、じめられた。

同志は負けなかった。“弾圧ーー本望ではないか!御書に仰せの通りではないか私たちの信心も、いよいよ本物になったということだ。今こそ、折伏だ!”それが、皆の心意気であった。



太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

リーダーの在り方

『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 345p~
< 勝利島の章 開始 >

1978年(昭和53年)の9月20日、第四次訪中から帰国した彼は、翌21日には、訪中について、マスコミ各社のインタビューに応じるとともに、依頼を受けていた新聞社などの原稿執筆に余念がなかった。彼は、1日に、4回、5回と、会合に出席し、激励を重ねることも珍しくなかった。

広宣流布は着々と進み、今や、創価の太陽は世界を照らし始めた。それゆえに、障魔の暗雲は沸き起こり、学会への攻撃が繰り返されていた。伸一は、“わが同志を断じて守らねばならぬ”と、深く心に決めていた。

伸一は、世界平和の確かな潮流をつくるために行動することも、今世の自身の使命であると、強く自覚していた。それゆえに、各国の識者、指導者との語らいを重ね続けた。また、創価大学をはじめ、創価教育各校の創立者として、その諸行事にもできる限り出席した。伸一の行動はとどまるところを知らなかった。

全国の県長会議で、彼は語った。「広宣流布の活動の世界、舞台は、あくまでも現実の社会です。社会を離れて仏法はありません。したがって、私たちは、社会にあって、断固、勝たねばならない。そのために、まず皆さん自身が、社会の誰が見ても立派だという、人格の人に育っていただきたいんです。

信心の深化は、人間性となって結実し、豊かな思いやりにあふれた、具体的な言動となって表れます。その人間性こそが、今後の広宣流布の決め手となっていきます」

仏法の偉大な力は、何によって証明されるかーー実証である。病苦や経済苦人間関係の悩み等々を克服した功徳の体験も、すばらしい実証である。同時に、自分自身が人間として、ここまで変わり、向上したという人格革命があってこそ、仏法の真実を証明しきっていくことができる。

伸一は、新しい時代を担う、新しい人材の育成に懸命であった。人格の輝きを放つためのリーダーの心構えについて、諄々と諭すように訴えている。

「細かいようだが、リーダーは、約束した時間は、必ず守ることです。自分は忙しいのだから、少しぐらい遅れてもいいだろうといった考えは、絶対にあってはなりません。それは、慢心であり、甘えです。自分の信用を、学会の幹部への信頼を崩すことになります」

伸一は、各地を訪問した折に、家族のなかで、ただ一人、信心に励んでいる婦人などと、懇談する機会がよくあった。夫が、なぜ、活動から遠ざかってしまったのかを尋ねると、人間関係に起因しており、こんな答えが返ってきた。「男子部のころ、先輩が横柄だったことで、嫌気が差したと言っておりました」

また、学会活動に参加しなくなってしまった娘のことで悩む母親は、こう語った。「なぜ折伏をするのかなど、一つ一つの活動の意味がよくわかっていないのに、やるように言われるのがいやで、やめてしまったとのことです」

学会活動することの意味が理解できずにいるのに、ただ、やれと言われたのでは、苦痛に感じもしよう。そこで大切になるのが、納得の対話である。「なぜ折伏を行ずる必要があるのか」「その実践を通して、自分は、どんな体験をつかんだのか」などを語っていくことである。

広宣流布を推進するリーダーにとって大事なことは、自分の担当した組織のすべてのメンバーに、必ず幸せになってもらおうという強き一念をもつことだ。そして、人間対人間として、誠実に交流を図り、深い信頼関係を結んでいくことである。その素地があってこそ、励ましも、指導も、強く胸を打ち、共鳴の調べを奏でることができるといえよう。

それは、学会員に対してだけでなく、すべての人間関係についても同様である。日ごろからの交流があってこそ、信頼も芽生え、胸襟を開いた対話もできる。リーダーが麗しい人間関係をつくり上げることに最大の努力を払っていくならば、広宣流布は、着実にますます大きな広がりを見せていくにちがいない。

本来、創価学会の人間の絆ほど、尊く美しいものはない。友の幸せを願う思いやりがあり、同苦の心がある。まさに、創価の友によって結ばれた人間の連帯は、かけがえのない社会の宝になりつつあるといってよい。

それだけに伸一は、幹部との人間関係で活動から遠ざかってしまったという話を聞くたびに、激しく胸が痛んだ。ゆえに彼は、リーダーの在り方について、さまざまな角度から、指導し続けたのである。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

革心の人 鄧頴超

『新・人間革命』第28巻 革心の章 333p~

伸一は、李先念副主席に「中国は、ジュネーブの軍縮委員会に参加するか」「社会主義民主化の基礎である法律整備について」『四つの現代化』に呼応しての宗教政策」「核兵器廃絶への方途」など次々と質問し、意見交換した。語らいは1時間10分に及んだ。会見の模様は、新聞各紙が大々的に報じた。

この直後、カーター大統領はワシントン駐在の中国連絡事務所長と接触。両国が国交樹立を電撃的に発表したのは、その3か月後、12月16日のことであった。

李先念副主席との会見が行われた19日の夜中国側の関係者を招待して、山本伸一主催の答礼園が開かれた。鄧頴超が招待に応じ、歓迎宴に続いて、再び出席してくれたのだ。国家的な指導者との会見は、滞在中に1度という慣例を破っての出席であった。

平和友好の道もまた“長征”である。風雨の吹き荒れる時も未来に向かって、信義の歩みを運び続けてこそ、栄光の踏破がある。

食事が始まると、鄧頴超は言った。「食事がとてもおいしいですね。今日のメニューは、西太后の晩年の食事を真似たもので、おばあさんに食べやすいように、柔らかく調理されています。私に、ぴったりの食事ですよ」飾らず、ユーモアあふれる言葉であった。

伸一は、鄧頴超が、“鄧大姐”と多くの人から慕われ、敬愛されている理由がわかる気がした。こまやかな気遣いと深い配慮があり、素朴で、ユーモアあふれ、人を包み込む温かさ、明るさがある。それは人民の解放のために、新中国建設に身を投じ、社会の不正や差別、そして、何よりも自己自身と闘い続けるなかで、磨き鍛え抜かれた、人格の放つ輝きといえよう。

鄧頴超は、今回、伸一の通訳として同行した、周志英にも気遣いの目を向けた。彼女は、周志英の使う中国語(北京語)を聞くや、すぐに尋ねた。「あなたは、香港の出身ですね」微妙な発音の違いから、北京語の通訳に不慣れなことや、出身地まで洞察していたのだ。

鄧頴超は、周志英が香港の出身であると聞くと、広東語で話し始めた。周恩来と結婚したあと、広東省で活動した経験を持つ彼女は、広東語も堪能であったのだ。母国語でない北京語と日本語を駆使して通訳に奮闘してきた周志英にとって、広東語を使えることで、どれほど気持ちが軽くなったか。

鄧頴超の語る広東語を日本語に訳す彼の言葉に、真剣に耳をそばだてていたのが、中日友好協会の孫平化秘書長や、中国側の通訳たちであった。皆、広東語がよくわからないために、周が訳す日本語を聞くまで、鄧頴超が何を話しているのか理解できないのである。

鄧頴超は、伸一に言った。「山本先生は、一生懸命に若い人を育てようとされているんですね。それが、いちばん大事なことです。どんなに大変でも、今、苗を植えて、育てていかなければ、未来に果実は実りません。10年20年とたてば、青年は大成していきます。それなくして中日友好の大道は開けません。楽しみですね」

孫平化たちは、周志英の通訳ぶりを、じっと見てきた。彼が日本で、日本語と北京語を猛勉強したとはいえ、中国の一流の通訳には、どちらの言葉もたどたどしく、心もとなく感じられていたのであろう。“山本会長は、どうして彼を通訳に使っているのだろう”と疑問にも思っていたようだ。

孫平化も、永遠なる中日の平和友好を願い、若い通訳を育成しようという伸一の心を知り、強く共感したという。孫平化らは、以後、周志英に、公式の場で使う言葉や表現などを、懇切丁寧に教えてくれるようになった。未来に果実を実らせたいと、伸一と同じ心で臨んでくれたのである。

答礼宴の最後に、周志英に「敬愛する周総理」という、中国の歌を歌わせた。
♪敬愛する周総理 私たちはあなたを偲びます…
あなたは大河とともに永久にあり あなたは泰山のようにそびえ立つ♪

廖承志の目には、うっすら光るものがあった。夫人もあふれる涙をナプキンで拭った。料理を運んでいた人たちも、立ち止まって耳を傾けていた。偉大な指導者への敬慕の念が、皆、自然にあふれ出てくるのであろう。歌が終わった。万雷の拍手が起こった。席に戻ってきた周志英に、鄧頴超は、「ありがとう!」と言って、ことのほか嬉しそうに手を差し伸べるのであった。答礼宴は、感動のなかに幕を閉じた。

翌日、帰国の見送りに来てくれた人たちと対話が弾んだ。廖承志会長夫人の経普椿は言った。「夫人の泣いたのを見たことがありません。“自分が泣いたら、皆を、さらに悲しませてしまう”と、ご自身と戦い、感情を押し殺していたんです。強い人です。人民の母です。最愛の人を失った悲しみさえも、中国建設の力にされているように思います」

鄧頴超は、まさに“革心の人”であった。常に自らの心と戦い、信念を貫き通してこそ、人間も、人生も、不滅の輝きを放つ。彼女は、「恩来戦友」と書いて、夫の周恩来を追悼した。そこには、生涯、革命精神を貫くとの万感の決意が込められていた。

<革心の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

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