小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命 第28巻

使命の幸福島 勝利島

『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 434p~

会場は、全国120の島々から集った同志で埋まり、求道の熱気に包まれていた。

多くの島々に、伸一の人知れぬ励ましの手が差し伸べられていた。それが、同志の信心の命脈をつなぐ力となってきたのだ。激励を通して、強き人間の絆が結ばれる。

「皆さん方は、第一期の島の広宣流布を推進し、見事な勝利をおさめられた。その実証が本日の晴れがましい姿です。そこで、本日の第一回総会をもって、いよいよ第二期の各島の広宣流布をめざし、勇躍、出発していっていただきたい!」ここに、離島の新章節の幕が開いたのだ。

伸一は、未来のために、島の広布推進の要諦を語ろうと思った。「一つの島というのは、味方によれば、国と同じであるといえます。したがって、皆さんは、一国を支えるような大きな心をもって、自分が、この島の柱となり、眼目となり、大船となるのだとの決意に立つことが大切です。そして、常に島の繁栄を願って、島民のために活躍していっていただきたいのであります。

太陽は一つであっても、ひとたび天空に躍り出れば、すべて明々と照らし出されていきます。同様に、信心強情な一人の学会員がいれば、島全体が希望に包まれ、歓喜に満たされていきます。どうか皆さんは、一人ひとりが、その太陽の存在になっていただきたいのであります。

島というのは、狭い社会であり、昔からの慣習等も息づいている。そのなかで信頼を勝ち得ていくには、懸命な日常の振る舞いが大事になります。誰人に対しても、仲良く協調し、義理を重んじ、大きく包容しながら、人間性豊かに進んでいかれるよう、願ってやみません。

仏法即社会です。世間の目から見ても、“立派だ。さすがだ!”と言われるような、聡明な活躍をお願いしたい。それが、広宣流布への第一歩であると確信し、身近なところから、着実に信心の根を張っていっていただきたいのであります」

「ただ一つ心肝に染めてほしい御文があります」と強調し、「開目抄」の一節を拝読していった。「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、…。どうか、この御文を、直接、御本仏・日蓮大聖人から自分に賜ったものと受けとめていただきたい。

たとえ、島の同志の数は少なくとも、励ましてくれる幹部はいなくとも、“私は立つ!”と決めて、広宣流布という久遠のわが使命を果たし抜いていただきたい」誰もが、伸一の思いを噛み締めていた。誰もが、決意を新たにしていた。大感動のなか、歴史的な第一回離島本部総会は幕を閉じたのである。

第二回総会は、1979年10月前回を上回る800人の代表が喜々として集い、盛大に開催された。しかし、伸一の姿はなかった。創価の師弟を離間させようとした第一次宗門事件によって、伸一は会合に参加することもままならぬ状況にあった。

島の同志は、決然と戦いを開始した。“今こそ、弟子が立ち上がる時だ!学会の真実と、山本先生の正義を叫び抜こう!”伸一のもとには、各島から、「先生、わが島は揺らぎません。いよいよ、“まことの時”が来たと、決意も新たに頑張ってまいります」等の手紙が、多数寄せられた。

離島本部の総会は、回を重ねるごとに、充実の度を増していった。地域に友好の輪を広げ、信心の実証を示し、戦い切った姿で集い合うことが、皆の目標となっていった。

1999年(平成11年)7月、「地域本部」が設置される。離島本部は「離島部」となり、地域部、団地部、農村部、とともに、地域本部4本柱の一つとして輝きを放っていくのである。

離島ーー創価の同志にとって、それは離れ島などではなく、久遠の誓いを果たす天地であり、黄金燦たる使命の寂光土となった。

「宗教は、われわれが、この巨大で不確かな宇宙の中で孤独なのではないという確信を与える」とは、アメリカ公民権運動の指導者キング博士の言葉である。伸一は、祈り続けた。“わが愛する離島の同志に、幸あれ!栄光あれ!勝利あれ!”と。

<勝利島の章 終了>
<新・人間革命 28巻終了>


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

奄美群島の勝利

『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 414p~

学会の偏見や誤解から、迫害の嵐が吹き荒れた地域でも、学会員への信頼は不動のものとなり、「非難」は「賞賛」へと変わっていった。各島の同志は、広宣流布への決意を、いよいよ燃え上がらせたのである。

かつて学会員が村八分にされ、車やオートバイを連ねて「学会撲滅」を叫ぶデモが行われた奄美大島でも、学会理解は大きく進んでいた。1976年(昭和51年)6月21日、山本伸一のもとへ、「奄美広布決議」と題する一文が届けられた。

奄美群島の同志は、伸一が奄美総支部結成大会に出席した63年6月22日を記念して、6・22を「奄美の日」とした。決議は、その新出発の総ブロック総会等を開催するにあたり、採択したものであるという。

奄美の同志は、さまざまな圧迫に押しつぶされそうになりながらも、自らを鼓舞し、人びとの幸福と島の繁栄を願って広宣流布に生き抜いてきた。伸一は、その姿に仏を見る思いがしていた。その生き方のなかにこそ、現代における不軽菩薩の実践もあると、彼は強く確信していた。

彼は、同志の決意を大切にしていた。「意を決める」ことから、行動が生まれ、努力が生まれ、忍耐が生まれ、勝利が生まれる。決意は、大願成就の種子であるからだ。ゆえに彼は、皆の決意には、最大の真心と誠実をもって応えていったのである。師弟共線がもたらす歓喜の発光は、広宣流布を阻む、いかなる暗雲をも打ち破る。

山本伸一は、各島々の飛躍のために、ますます力を尽くそうと心に決め、島にあって広宣流布を支え、推進してくれた同志を、讃え、励ますことから始めた。彼は、それぞれの島に生き、戦う、勇者たちの英姿を思い浮かべ、祈りを込め、代表に激励の和歌や言葉を、次々と贈っていった。

この励ましに、同志は燃えた。吹雪の暗夜を歩み続けて生きた人には、一言の激励が勇気の火となり、温もりとなる。苦闘し抜いた人ほど、人の真心を感じ取る。

「組織が発展し、皆が功徳を受けていくならば、それは、草創期に道を切り開いてきた人に、全部、福運となって回向されます。大聖人は『功徳身にあつまらせ給うべし』と仰せです。苦労を重ねて広布の大地を開墾し、妙法の種を蒔いた人を、諸天は永遠に大絶賛してくださるんです。

皆さんご自身が、本来、仏であり、皆さんは、自分の今いる場所を常寂光土としていくために出現したんです。どうか、力を合わせ、八丈島を広布模範の島にしてください。広布第二章の大潮流を八丈島から起こしてください。私は、じっと見守っています」

八丈島では、「聖教新聞」の購読推進に力を注ぎ、島の購読世帯が35%を超える結果をもって、2001年5月3日を飾ることになる。

1978年8月山本伸一は、佐賀、長崎、鹿児島の三県合同幹部会に出席した。奄美へ帰るメンバーと会って懇談のひと時をもった。

「大聖人は、一生のうちに自身の一切の謗法を消滅できるのは、法華経のゆえに数々の大難に遭ったからであると言われている。

奄美の皆さんは、勝った!仏法は勝負です。10年、20年、30年、いや50年とたった時に、すべては、ますます明らかになる。勝負は一生です。最後の大勝利を確信し、不退の勇者として生き抜いてください。

それには、心が強くなければならない。臆病では信心を全うすることはできません。大試練に耐えるとともに、自分の慢心や名聞名利への執着などに打ち勝つ強さが必要です。学会を離れれば、最後は後悔します。孤独です。広宣流布の陣列から離れることなく、はつらつと歓喜の大行進を続けてください」

伸一は、離島本部の幹部から、島と島とのつながりが、あまりないので、全国の同志が一堂に会し、それぞれの島の同志が奮闘している模様を語り合える会合を開催してはとの提案に、賛成し、離島本部総会が 決まったのである。10月7日創価文化会館で離島本部総会が開催された。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

小笠原諸島の勝利

『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 414p~

小笠原の島々は、一年中、暖かく、梅雨もない。固有の進化をを遂げた生物が多く、「東洋のガラパゴス」と呼ばれている。しかし、当時、小笠原に行くには東京の竹芝桟橋から出る週一往復の船しかなかった。片道38時間、3日がかりの船旅となる。

離島本部からの報告では、小笠原諸島には、30世帯を超えるメンバーがいるとのことであった。船を下りると、数人のメンバーが、待っていた。そのなかに、母島から来たという、72歳の男性もいた。彼は本土にいた時、ある会合で伸一が語った言葉を胸に焼きつけ、母島で一心に信心に励んできたという。

「師弟の誓い」に生き、「使命」を自覚した同志が、「広布の大道」を切り開いてきたのだ。離島本部の幹部は、求道心にあふれた、その純粋な姿に、生命が洗われる思いがした。

本土などに強制疎開させられていた人たちが、父島に戻った時からはじまっている。佐々本卓也は、漁業を行うために漁業組合をつくって組合長を務め、浅池隆夫は、東京都の小笠原の漁業調査船の船長と
なった。

島に、住民が移って来るたびに、学会員がいないかどうか聞いて回った。父島には、旧島民のほかに、新しい住民も増えていった。また、アメリカは、終戦の翌年には欧米系の旧住民の帰還を認めており、欧米系の人たちが暮らしていた。佐々本や浅池は、その人たちと融和を図りながら、島づくりに励んできた。

浅池は、調査等のほか、父島と母島の物資の輸送や急病人への対応、海上遭難者の救出などにも奮闘した。地域への貢献を通して、信頼を勝ち取ることが、そのまま広宣流布の前進となった。「信心即生活」である。ゆえに学会員一人ひとりの生き方のなかに、仏法が現れる。

学会員のなかには、日本最南端の漁業無線局の局長もおり、多彩な人材がいた。島には、次第に観光客も増えていった。島の未来を憂慮した学会員の有志が中心となって、「小笠原の自然を守る会」を結成。ゴミ拾いや自然保護のための運動を開始した。

母島の広布を担ってきた一人に勝田喜郎がいた。喜郎は父と「一緒に母島へ帰り、農業をしよう」と約束していた。勝田の先祖は、小笠原の母島に定住した最初期の一家であった。彼は、亡き父親が大事に持っていた、勝田家の「総括録」と題した綴りを目にしてきた。

移住二代目にあたる祖父が記していたものだ。そこには、想像を絶する開拓の苦闘と気概が綴られていた。自分の体に、その開拓者の血が流れていることに、彼は誇りを感じた。“よし、帰ろう!先祖が心血を注いで開いた母島の土地を守ろう!そして、島の広宣流布に生き抜こう!”

彼には、農業の経験は全くなかった。しかし、“信心で、どんな苦労も乗り越えてみせるぞ!”という意気込みがあった。農業移住者のうちの一人として母島に渡った。一般の人たちの本格的な母島期間よりも年ほど早かった。

27年間、無人島状態であった母島は、島全体がジャングルさながらであった。勝田は、自分で家を建てることから始めた。六畳一間で、ランプ生活である。“これを乗り越えてこそ、母島広布の道が一歩開かれる!負けるものか!”勇気が沸いた。

離島本部の幹部らは、夜には指導会を行った。この指導会の席上、小笠原大ブロックの結成が発表された。三津島から伸一の伝言が紹介された。三津島は訴えた。「山本先生の心には、いつも、皆さん方がいます。皆さんの心に、先生がいるならば、師弟不二なんです。

師弟の絆の強さというものは、地理的な距離や役職のいかんで決まるものではありません。先生に心を合わせ、胸中に師匠をいだいて、同じ決意で広宣流布に戦う人こそが、最も先生に近い人であり、それが本当の弟子であると思います。どうか、小笠原の皆さんは、師弟不二の大道を歩み抜いてください!」

小笠原の同志の活躍は、東京に戻った離島本部の幹部から、山本伸一に、詳細に伝えられた。離島本部の結成後、各島の学会員は、島の繁栄と人びとの幸福を願って広布の活動に励むとともに、地域貢献に一段と力を注いだ。“わが島に広布のモデルを”“この島こそ常寂光土なり”と、同志は誓い合った。

各島々では、地域の繁栄のために、さまざまな催しも行われた。学会員が中心となって、島ぐるみのフェスティバル等が、開催されていった。また、学会員の多くが、島や集落のさまざまな仕事を積極的に引き受け、責任を担いながら、島民のために献身した。

学会員が島に貢献する姿を通して、島民は創価学会の実像を知り、学会への理解を深めていったのである。法を体現するのは人であり、人の振る舞いが広布伸展のカギとなる。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

離島本部結成

『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 404p~

創価学会の組織は、なんのためにあるのかーー人びとに真実の仏法を広め、教え、励まし、崩れざる幸福境涯にいたるよう手を差し伸べ、切磋琢磨していくためである。したがって、最も苦しく、大変ななかで信心に励んでいる人ほど、最も力を込めて激励し、元気づけていかねばならない。

山本伸一は、かねてから、島の同志が、希望に燃え、勇気をもって、はつらつと前進していくための励ましの組織をつくらねばならないと考えていた。1974年(昭和49年)の1月14日に、離島本部の結成が発表されたのである。

仏法の世界で偉いのは誰か。--御書に仰せの通り、迫害、弾圧と戦いながら、懸命に弘教に励み、人材を育て、地域に信頼を広げながら、広宣流布の道を黙々と切り開いてきた人である。人びとの幸せのために汗を流し、同苦し、共に涙しながら、祈り、行動してきた人である。僧侶だから偉いのではない。幹部だから偉いのでもない。

伸一は、話を続けた。「学会のリーダーは、自分が偉いように錯覚し、会員の方々に横柄な態度で接したり、慇懃無礼な対応をしたりするようなことがあっては絶対にならない。健気に戦ってきた同志を、心から尊敬することができなくなれば、仏法者ではありません。

もしも幹部が、苦労を避け、自分がいい思いをすることばかり考えるようになったら、それは、広宣流布を破壊する獅子身中の虫です。そこから学会は崩れていってしまう。そのことを、深く、生命に刻んでいただきたい」

伸一は、代表者会議を終えて、帰途に就くメンバーの見送りにも立った。バスに乗り込む一人ひとりの魂を揺さぶる思いで、声をかけ、励ましていった。「朝な夕な、題目を送り続けます。私たちの心は、いつも一緒です。じっと、皆さんを見守っていきます。

島の人びとは、すべて自分が守るのだという思いで、仲良く、常識豊かに、大きな心で進んでいってください。信頼の大樹となって、全島民を包んでいただきたいんです」広布の一切は、一人立つことから始まる。この日、離島の同志たちは、広布第二章の新しい扉を開いたのである。

離島の実態を調べて驚いたのは、約4百ある有人の島の多くに学会員がいるということであった。といっても、一世帯から数世帯しか会員がいない島も少なくなかった。島の同志は、まさに一人立って、創価の松明を掲げ、孤軍奮闘していたのである。離島本部の幹部たちは、励ましの手を差し伸べることの必要性を痛感した。

離島本部の幹部が、島を駆け巡る姿を目の当たりにして、地元の県や本部の幹部の意識にも変化が起こった。厳しい条件のなかで活動している人にこそ光を当て、讃え、励まし、希望と確信を与えていくという幹部の基本姿勢を、再確認する契機となったのだ。そして、積極的に離島を訪れる流れが生まれていったのである。

離島本部長の三津島誠司らは、山本伸一の沖縄指導があった翌月の三月、完成したばかりの、その記録映画のフィルムを持って、沖縄の久米島、宮古島、池間島、伊良部島、西表島、石垣島を回った。各島で、「映写会」や「講演と映画の夕べ」など、趣向を凝らした催しが行われた。友人も参加しての楽しく有意義なひと時となった。

離島本部の幹部らにとって、各島々の訪問は、すべてが驚きであり、感動であった。移動に、サバニと呼ばれる小舟を借りていくことになった。港からは、トラックをチャーターして会場に向かった。道はでこぼこで、車の揺れは激しく、体が飛び跳ねる。離島本部の幹部は思った。

“西表の人たちは、こうしたなかで活動しているのか!10分も歩けば、大ブロックを通り越してしまう東京都区内とは大違いだ。東京にいて、活動が大変だなんて嘆いていたら、西表の人に笑われてしまう”労苦は、仏道修行の最高の道場となる。大変な思いをした分だけ、功徳は大きい。

小笠原は、東京の南方千キロの太平洋上にあり、父島をはじめ、母島、硫黄島、南鳥島など、30余の島々から成る。太平洋戦争激化にともない、島々に住んでいた約7千人の住民が、本土などに強制疎開させられている。

強制疎開から24年後の68年6月小笠原は、返還された。その後、かつての住民たちが帰還し、広宣流布の火がともされていった。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

人生と広布の勝利の記念塔

『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 394p~

当時、十島、三島の主な産業は、農業と漁業である。島での仕事は限られている。若い人の大多数は、中学校を出ると島を離れていく。人口は減少の一途をたどっていた。そのなかで学会員は、強く、明るく、島の繁栄のために頑張り抜いていたのだ。

周囲の人たちに信心を反対されながらも、笑顔で包み込むように接し、着実に理解者を広げているのである。石切は、その姿に、心が洗われる思いがした。“鬼界ケ島”とも呼ばれる三島村の硫黄島にも、島の人たちの幸せを願って信心に励む婦人の姿があった。

男性に交じって土木工事にも精を出した。新しい衣服も買えず、着物をワラ縄で縛って労作業に励んだ。彼女が仏法の話をしても、皆、蔑み、耳を傾けようとはしなかった。しかし、着実に生活革命の実証を示すにつれて、学会への理解が深まっていった。そして、硫黄鉱山が閉鎖され、不景気な時代が続くなかで、彼女の一家は、立派な家を新築するのだ。

竹島には、かつて他宗の僧をしていた学会員もいた。島で唯一の僧が学会の信心を始めただけに、人びとの戸惑いも、反発も大きかった。しかし彼は、“なぜ、僧であった自分が学会に入会したのか“を通して、日蓮大聖人の仏法の正しさ、偉大さを、厳然と訴え抜いていったのだ。石切は、今ままさに、地涌の菩薩が、躍り出ているのだと、心の底から実感するのであった。

奄美大島の南には加計呂麻島があり、さらに、その南方に与路島や請島がある。草創期、与路島の同志は、加計呂麻島や請島へは、手漕ぎ舟で弘教に通った。奄美大島で開かれる会合にも、手漕ぎ舟に乗って出かけた。数時間がかりで海を渡っていくのだ。

奄美群島の有人島には、猛毒をもったハブが生息し、夜は危険度を増す。草むらなどでは、いつ襲ってくるかわからない。使命に目覚めた民衆には、あらゆる障害を跳ね返す力がある。友の幸せを願う民衆の不屈の行動で、日蓮仏法は、広がっていったのだ。

多かれ少なかれ、どの島でも村八分などの厳しい迫害の歴史があった。そのなかで、学会員は、御本尊を根本に、御書、機関紙誌と、同志の励ましを支えに耐え抜き、試練を勝ち越え、幸の花々を咲かせてきたのだ。

台風20号が日本列島を襲い、各地で猛威を振るった。伸一は、言った。「ある意味で、苦難や試練が、次々と押し寄せてくるのが人生といえるかもしれない。大事なことは、その時にどうしていくかなんです。

実は、信心することの本当の意味は、どんな苦しみや逆境にも負けない、強い自分をつくっていくことにこそあるんです。被災された皆さんは、試練に負けずに厳然と立ち上がり、周囲の人びとに、希望の光、勇気の光を、送り続けてほしいんです」

伸一は、同志への激励として、袱紗を鹿児島県の幹部に託した。幹部はそれを持って島を訪れた。一人ひとりに山本会長の思いを語って励まし、袱紗を手渡していった。島の同志が受け取ったのは、自分たちを思いやる、“伸一の真心”であった。心と心が触れ合い、勇気が生まれ、誓いが生まれ、獅子が生まれる。

伊豆大島が大火に見舞われた。島は、停電のため、ろうそくの明かりのなかで、座談会が開かれた。派遣された幹部が伸一の魂の叫びである言葉を伝えると、座談会の空気は一変し、「この災難を、大島の大発展のバネにしていこう!」と口々に、決意を語り合った。

“友の再起のために、仏法を語ろう”と弘教を開始すると、いつの間にか、自身の悩みの迷宮から脱していた。“必ず乗り越えてみせるぞ!”という固い決意と、“絶対に乗り越えられる!”という強い確信が、胸に込み上げてくるのだ。境涯革命の直道は、弘教にこそある。

大火から8か月後の1965年9月には、待望の伊豆大島会館の起工式が行われた。大火前、島の学会世帯は5百世帯ほどであった。しかし、この年の12月には8百数十世帯となり、翌年には、遂に念願の千世帯を達成したのである。皆が奮い立つ時、新しい前進が始まる。皆が心を合わせる時、新時代が開かれる。

1月21日、晴て会館の落成式が挙行された。この法城は、大火の悲しみのなか、涙を拭って立ち上がった同志にとって、人生と広布の勝利の記念塔となったのである。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋
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