小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

創価教育

創価一貫教育の使命

『新・人間革命』第27巻 若芽の章 82p~


伸一は語った。「教育の成果は、10年後、20年後、いや30年後、50年後、100年後に出る。長い目で見ていくことが大事です。

教師という仕事は、なぜ尊いのかーーそれは、世界の未来を担う仕事だからです。次代の一切が、皆さんの双肩にかかっているからです。どうか、教師として、その誇りをもって、教育技術の習得に励んでください」

伸一が、ようやく児童と会うことができたのは、10月1日に行われた第一回運動会であった。伸一も来賓参加競技に参加した。

競技やゲームに、両親が子どもと一緒に夢中になることができれば、親子の距離は、ぐっと縮まる。親は、自分でも気づかないうちに、「父の顔」「母の顔」のみで子どもと接してしまう。しかし、家族といっても、その基本にしなくてはならないのは、ありのままの人間対人間としての信頼関係である。

子どもは、両親が童心に帰って自分をさらけ出し、競技やゲームに熱中する姿を見ることによって、親も自分と同じ存在であることを知る。そして自分をそのまま表現し、ありのままに生きることを肯定できる考えが培われていく。

伸一は、競技の合間に、伸一の周りに集まってきた創小生以外の子どもたちと一緒にグランドを歩き始めた。行進をはじめると創価小学校の児童から拍手が起こった。伸一は頷いた。“これが大事だ”と思った。

他校の児童のなかには、創価小学校に入学したかったが、選考でもれてしまった子供もいるかもしれない。あるいは、創小生になった弟や妹を、羨望の思いで見ている子どももいるかもしれない。“創小生は、そうした人たちの心を汲み、その人たちの分まで頑張れる人になってもらいたい”というのが伸一の願いでもあった。

伸一は、演技を見ながら「型にはめて高い完成度を求める必要はありません。育むべき根本は、自主的、主体的な意欲です。美しい盆栽を育てるのではなく、大自然の中で大地に深く根を張り、天に伸びる、堂々たる大樹を育てようではありませんか」

「創立者として、この小学校の児童から、絶対に、人生の落伍者を出すことなく、全員が立派な社会のリーダーに育っていくよう、最大の力を注いでまいる決心です。」伸一の深い決意に、保護者も教職員も、胸を熱くした。

伸一は教員たちと懇談した。「創価小学校に入れなかった子どもも、私にとっては、大事な人たちなんです。児童にも、自分たちだけが特別であるかのように考えるのではなく、“みんな一緒なんだ。平等なんだ”という意識をもってほしかったからです。

先生方にも、お願いしたいことなんです。教員が特権意識をもてば、児童もその影響を受けます。創価学園は、民衆から遊離したエリートを育てることが目的ではありません。民衆に奉仕する英才を育てるための学園です。子どもたちの人間的な成長を離れて、教育はありません」

教育にとって大事なことは、安易に結果を求めるのではなく、物事のプロセスを習得させることにあると思っていた。伸一は学園の教師たちは、形式主義を排して、人間を育てるという実質に着目した教育を、実践してほしかったのである。

第一回「児童祭」に出席した伸一は、イソップ物語に出てくる「ロバを担いだ親子」の話をした。周囲の無責任な声を振り回されることの愚かさを伝えたかったのである。民衆のために立ち上がれば、誤解や嫉妬から、非難中傷をを浴びるものだ。その時に、分動されることなく、信念に生き抜いてこそ、人間の正義は貫かれることを知ってほしかった。

伸一は、開校2年目の4月24日 創価学会第三代会長を辞任する。彼の胸には、自身が最後の事業と定めた、人類の平和を実現しゆく創価教育に、ますます力を注ぎ、生涯を捧げていこうとの決意が燃え盛っていた。

小学校の最初の卒業式で伸一は訴えた。「『平和』の二字だけは生涯忘れてはならない」「『平和』というものをいつも念頭において、一生懸命、力をつけてもらいたい」

創価教育の使命もまた、人びとの幸せのために、社会に貢献し、世界の平和を創造していける人材を育むことにある。

1982年4月、創価中学・高校は、男女共学となり、関西小学校が開校し、関西でも男女共学となり、創価中学・高校と校名を変更した。創価一貫教育は、万全な体制を整え、21世紀に向かって、大きく翼を広げたのだ。


<若芽の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋

児童や家族への励まし

『新・人間革命』第27巻 若芽の章 66p~

児童の家庭は、さまざまであった。有竹正義という児童がいた。両親は、彼が5歳の時に離婚し、母親の富美枝が正義を育てた。

会社に勤めたが、得られる収入では、食べていくのがやっとであった。彼女は、“お金のことは、なんとかしよう!親の私が塩をなめてでも、息子を創価小にいかせよう!”母は強い。母は一途である。母は勇敢である。その母ありて、師子は育つ。

近隣の母親たちから、“私立の小学校は、どこも、家柄のよい、富裕層の子弟しか入学させない”という噂話を耳にして、面接の間も涙があふれてしかたがなかったが、選考の結果、合格となった。

入学して間もなく、知人から 今までの3倍の給料の会計事務所を紹介され転職。家計は楽になった。仕事は増え、帰宅が深夜になることがあっても、朝は、息子と一緒に勤行し、学校行へ送り出した。伸一は、正義の母親が大変な思いをして、子息を創価小に通わせているとの報告を聞いていた。

創価小の「銀河のつどい」に出席した折、正義と懇談し、お土産を渡した。正義は、創立者が母の苦労を知ってくれていることが嬉しかった。苦労を知ってくれる人がいるだけで、勇気を得ることができる。その苦労をたたえられることは、最大の励ましとなる。

創価小卒業後、正義は創価大学に進み、大学三年の時、初挑戦で公認会計士試験に合格し、長い長い、母の苦闘も、実を結んだのである。

山本伸一は、自らの信念を吐露するように語った。「創価小学校には、経済的に大変な家庭のお子さんだけでなく、体の不自由なお子さんも入学してくるでしょう。その一人ひとりが、最高の人生を歩めるように、強く、大きな心の子どもに育てていってください。何があっても負けない子どもを育むのが創価教育です」


4年生として公立の小学校から転入学してきた久藤智代は、左足に障害があった。一歳半の時、踏切で事故に遭い、左脛の中ほどから下を失ったのである。さらに、4歳の時、母親が他界し、再婚した継母に育てられる。継母から創価小受験を勧められたのだが、通学に片道1時間半ほど、乗り継ぎが5回あり、通勤ラッシュ時と重なり、押しつぶされそうになりながらの通学は、心身ともに疲れた。

伸一は、久藤に会い、何があっても負けない強い心をもってほしいと語った。伸一は、久藤への接し方について教師たちに語った。「彼女については、細やかな心配りをしていくことは大切ですが、特別扱いをすべきではありません。ほかの児童と同じように、なんにでも挑戦させるようにしてください。そうでないと、社会で自立することができなくなってしまいます。そうなれば、本人がかわいそうです」人間として子どもを自立させていくことにこそ、教育の眼目があるのだ。彼女は、大学卒業後、大手商社勤務を経て、やがて福祉の道を志すことになる。

本川雅広という児童が、5年生になった時、父親の会社倒産する。莫大な借金の取り立てに、小学校にも父親の情報を聞き出そうとの電話がかかった。教員たちも、待ち伏せされないよう気を配った。伸一は、本川に「一番苦しんでいるのはお父さんだよ。お父さんに代わって、お母さんたちを守ってね」と話した。それを聞いた父親は、懸命に働き、家計を切り詰め、息子に大学まで一貫教育を受けさせ、妹も創価の学舎に通わせた。

雅広は、大学時代、スペイン語を勉強し、アルゼンチンのブエノスアイレス大学に留学。卒業後は、自ら翻訳会社を設立。世界平和を願い、文化の交流に寄与していくことになる。

山本伸一は創価小の開校以来、逆境に立たされた児童がいると、自分の生命を削る思いで励ましてきた。最も苦しんでいる子どもの力にならずして、
教育の道はない。人間の道はない。

母親が他界した林田新華と弟の弘高を呼び、語らいの機会をもち、生涯子どもたちを見守り続けていこうと思った。伸一・峰子の励ましに、姉弟は、“師子のように強く、勇気をもって生きよう”と、深く心に誓い、姉の新華は、母と同じ看護師となり、弟の弘高は、聖教新聞社の記者となった。

太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋

創価一貫教育の意味

『新・人間革命』第27巻 若芽の章 58p~

山本伸一は、東京創価小学校の入学式終了後、1本の桜の前に立った。小学校の校舎建設の責任者を務めた所長の鈴木元雄を顕彰する桜である。伸一は、桜を見ながら、児童たちに語っていった。「この桜は、小学校の校舎を建ててくださった人たちへの、感謝の思いを込めて植えたものです。

みんなの周りには、みんなのために、陰で、いろいろな苦労をして働いてくれている人が、たくさんいるんです。学校を建ててくださった方もそうです。お父さんやお母さんもそうです。これからお世話になる学校の先生や職員の方たち、また、通学で利用することになる電車の運転手さんや駅員さんもそうです。

みんなのために、朝早くから夜遅くまで頑張ってくださっている。その方々のご恩を忘れない人になってください」恩を知ることによって人間の道を知り、恩を返すことから人間の生き方が始まる。

入学記念の昼食会がランチルームで行われた。伸一は校長の新木に言った。「食事は楽しく、皆で和やかに語り合ってすることが大事ですね。しかし、大人になり、社会に出ると、食事は、親睦を深める場であったり、交渉の場であったりする。特に、世界では、食事の際の語らいが大事です。

したがって、若い時から、しっかりとした食事のマナーや、何を話題にして、どう語るかなどを身につけていく必要があります。将来、一流のレストランで食事をしながら交渉事にあたるようになるかも知れない。その時に、気後れしてしまうようでは、十分な働きができないからです。

私は、常に若い世代を未来のリーダーと信じ、敬意を表し、誠意をもって育んできました。それが、教育の根本姿勢ではないでしょうか。人を育てましょう。皆が逸材です。未来の希望は、教育のなかにしかありません」

彼は、会う人すべてを全力で励ました。“創価一貫教育が完成するまでに、どれほど多くの人びとのご尽力を賜ったことか”そう思うと伸一は、関係者一人ひとりに、深い感謝を捧げずにはいられなかった。また、創価の学舎を巣立った同窓生にも、同じ心をもってほしかった。

教育にかける自分の真情を語っていった。「人類の未来のために、最も大切なものは何か。それは、経済でも政治でもなく、教育であるというのが、私の持論です。人類の前途は、希望に満ちているとは言いがたい現実があります。

社会の在り方、さらには、文明の在り方そのものが問われる大転換期を迎えざるを得ないのではないかと、私は見ています。したがって、深い哲学と広い視野をもち、人類のため、世界の平和のために貢献できる人間を、腰をすえて育てていく以外に未来はありません。そのための一貫教育です」

伸一は、教員たちに、一貫教育を行うことの、本当の意味をわかってほしかった。教育は、未来を見すえることから始まる。

“この子たちの未来のために、断じて平和の大道を開かねばならない…”彼は固く決意しながら、皆に
言った。「こうやって一つ一つ、創価小学校の歴史を創っていこうね。生きるということは、自分の歴史を創っているということなんだよ。そして、最高の歴史を創るためには、勇んで困難に挑戦していくことが大事です。偉人というのは困難に挑んだ人なんです」

伸一は、教職員の代表との懇談会に出席した。校歌を作っていただきたいとの要望に、「皆さんで作ってください」と言った。教員たちに、“すべて自分たちが責任をもって、最高のものをつくり上げていくのだ”という、決意と自覚を持ってほしかったのである。

伸一が最も詳細を聞きたかったのは、児童の現況であった。さまざまな配慮をするようアドバイスを重ねた。「経済的に大変ななか、苦労に苦労を重ねて、子どもさんを創価小学校に通わせてくださっている、ご一家もあるでしょう。ありがたくて涙が出ます。それだけに、期待も大きい。ご家族が“本当に創価小に通わせてよかった”と心の底から喜んでいただける教育をしなければ申し訳ない。どうか皆さんも、そのつもりで、日本一、世界一の小学校をめざしてください」


太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋

初等教育の新しい道

『新・人間革命』第27巻 若芽の章 32p~

学歴偏重から、国立や有名私立大学の付属中学校、中高一貫の有名校への受験が過熱し、進学塾通いや模擬テストに追われる小学生が少なくなかった。

また、都市開発などによって、遊び場は失われ、皆で遊ぶ子どもたちの姿は、ほとんど見られなくなっていた。

学齢期にあたる小学生は、学校生活や交友関係の中で、社会への適応力を培っていくとともに、知的興味も増し、思考力も一段と発達する年代である。また、体力的にも基礎をつくる大切な時期といってよい。

過熱化する受験競争の中で、知育ばかりが重視され、徳育、体育はなおざりにされていたのだ。それによって教育は、大きなほころびを見せ始めていたのである。

教育の根本には、人間をいかにとらえるかという、正しい人間観がなければならない。

児童の多くの親たちは、“有名中学に入ることが、偏差値の高い有名大学に進むことにつながり、それが一流企業など、社会的評価も高く、高収入で安定した職業に就く道である。そして、そこに人生の幸福がある”との考えに立っていた。

しかし、社会は常に変化を遂げ、企業の永続的な安定を保証するものなど何もない。希望する企業に入ったとしても、必ずしも、希望する仕事に就けるとは限らない。また、長い人生にあっては、人間関係で苦しむこともあれば、病に倒れることもあろう。

したがって、子どもたちが幸福を築き上げるには、知識だけでなく、どんな事態に遭遇しようが、怯まずに困難を乗り越えていける精神の力や知恵、向上心、挑戦心などを培うことが大切な要件となる。そして、そのための基盤をつくる時代の始まりが学齢期であると、山本伸一は考えていた。

そもそも、牧口常三郎の創価教育学は、教育の目的は子ども自身の幸福にあるとし、“どうすれば障害、幸福生活を送らせることができるか”をテーマにしている。

自身のなかの無限の創造性を開花させて、価値創造の喜びの人生を歩むことが、幸福生活であると考えたのである。したがって彼は、知識の切り売りや、暗記中心の「詰め込み教育」に厳しい眼をむけた。

教育は、知識を与えることを目的とするのではなく、自分で考え、自分で得た知識を生かしていく方法を会得するためにあるのだ。

児童が勉強への興味、関心をいだき、自ら学べる素地をつくらなければ、「ゆとり教育」は、結果的に、学力の低下をもたらすだけになりかねないからである。ゆえに、彼は、初等教育の新しい道を開こうと、創価教育を実践する小学校の創立を決断したのだ。

1974年(昭和49年)7月に創価小学校設立準備委員会がスタートした。この年、伸一は、中国とソ連を初訪問している。世界の初等教育の現場を視察して、子どもたちと交流を図り、さまざまな角度から小学校の在り方を考えてみたかったのである。

そのなかで彼は、創価小学校は日本一国という視点ではなく、世界の平和に貢献できる、世界市民を育てる学校にしなければならないとの思いを、強くするのであった。

教育は、子どもたちが、より良い人生を生き抜くためにある。ただ知識の習得に終わるのではなく、人間の心を育まねばならないというのが、彼の一貫した考え方であった。

建設予定地が史跡指定地となったり、児童の健康を考えた間取りを考えて、敷地や設計の変更が繰り返され、工事が始まったのは、開校まで、1年を切った時だった。工事は急ピッチで進められていった。かなりの突貫工事になることが予想された。

伸一は関係者にかなりのご苦労をおかけするのではないかと考え、作業服に身を包んだ鈴木所長に語りかけ、自分の思いを率直に語り、握手を交わした。東京創価小学校を建設する意義に、深く感銘してくれたようであった。

物事の意義を深く理解し、共感することから、ますます大きな活力と闘魂が生まれる。“工事は、なんとしても間に合わせる!”その鈴木の一念と気迫に打たれ、現場の作業員も懸命に努力してくれた。

優れたリーダーの要件とは何か。それは、まず自らが、絶対に目的を成就すると決めて、率先垂範で物事に取り組むことである。そして、自分と同じ思いで、共に行動してくれる人たちへの、感謝と配慮を忘れぬことである。



太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋

東京創価小学校開校

『新・人間革命』第27巻 若芽の章 7p~

<新・人間革命 第27巻開始>
<若芽の章 開始>

1978年(昭和53年)4月9日東京創価小学校の第一回入学式が晴れやかに行われたのである。校長の新木高志が、「明るい子」「思いやりのある子」「ねばり強い子」という低学年のモットーを紹介した。

学園の理事の一人が、創立者・山本伸一のメッセージを読み上げた。メッセージのなかで伸一は、『イソップ物語』の「塩を運ぶロバ」の話を紹介した。

伸一は、まず子供たちに、困難に挑むという、人としての最も大切な生き方を教えておきたかったのである。困難を避ける生き方が身についてしまえば、最終的に、子ども自身が不幸になってしまうからだ。

伸一は、学年ごとに児童と記念撮影し、最後に教職員ともカメラに納まった。それから正門の近くに移動し、開校を記念する植樹に臨んだ。

入学式前日、山本伸一は、創価中学・高校の入学記念祝賀会に出席したあと、新木に案内され、小学校を視察したのである。伸一は、教員たちと握手を交わした。

「最初の授業というのは大事なんです。その時に、子どもたちが“勉強って面白いな”と思えれば、しっかり学んでいくようになるでしょう。何事も始めが肝心なんです」

教育者でもあったフィリピン独立の父ホセ・リサールは「一度みんなの前でほめられた子どもは、次の日にはその倍も勉強して来ます」と記している。自信は、成長をもたらす力である。

伸一は、教員たちに言った。「放任はいけないが、過保護であってもいけません。過保護であれば、人間としてなかなか自立できず、臆病で挑戦心が乏しい子どもになってしまいがちです。

子どもの将来を考え、一人ひとりが、幸福な人生を生き抜くために、何が大切かを熟慮し、教育にあたっていくんです。皆さんが、この学校で行っていくことは、子どものための教育革命でもあるんです」

創価小学校への期待は大きかった。「東京の創価中学・高校の開校からちょうど10年になる。この間に創価大学が開学し、大学院もできた。大阪には創価女子中学・高校も開校し、札幌には創価幼稚園も開園した。創価の人間教育が、各地で輝きを放ち始めています。

そして、東京の小学校開校によって、創価の一貫教育が完成した。いよいよ“創価教育”建設の第二期を迎えたんです」彼は、小学校の設立を、創価一貫教育完成の、重要な事業と考えてきた。

創価教育の父・牧口常三郎と、その弟子である戸田城聖が、実際に教壇に立ち、最も力を入れて取り組んだのが初等教育であった。それだけに伸一も、小学校の設立に、一段と情熱を傾け、力を注いできた。

大事業は、一代で成し遂げられるものではない。弟子が、さらに、そのまた弟子が、先師の志を受け継ぎ、創業の思いで、全身全霊を注いでこそ、成就されるものである。

弟子は、師が道を開いてくれたからこそ、大業に連なることができる。師は、弟子が事業を継承してくれるからこそ、大願の成就がある。永遠なる師弟の流れがありてこそ、新しき創価の大潮流がつくられていくのである。

牧口は、自らの教育実践と思索をもとに、創価教育学の体系をつくり上げた。創価の一貫教育の学校をつくることは、牧口の、さらに、戸田の念願であった。

戸田は、牧口の創価教育学を、私塾「時習学館」で実践し、その成果を世に示した。しかし、それは、師の教育思想、教育実践の一貫を実証したにすぎなかった。

今、戸田の弟子・伸一の手で、幼稚園から大学院までの本格的な創価の教育城が完成をみたのである。

伸一は、日本の小学校教育の現状を考えれば考えるほど、創価小学校を開校して、模範の教育を行い、進むべき教育の道を示さねばならないと痛感してきた。

当時、「知育偏重」「詰め込み教育」などの指摘が繰り返されていたように、人間教育は忘れ去れていたからである。


太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋
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