『新・人間革命』第27巻 求道の章 336p~
東北婦人部書記長の野崎裕美は、4歳の時に、戦争で父を亡くし、母一人子一人で生活した。戦後、母は過労で、胃潰瘍になり、生活も困窮し、宗教遍歴もしたが、床に伏している日が続いていた。そんな時、母子ともに学会に入会する。
1955年のことだ。入会を機に母は元気になり、暗かった未来に明かりが差した。野崎は入会半年後に参加した登山会で戸田城聖に初めて会う。戸田から「青年は親孝行できる温かい心、大きな心をもたねばならぬ」と激励され、その言葉が野崎の胸に響く。
女で一つで育ててくれた母への、感謝を忘れていた自分を恥じた。また、自分の思い通りにならないと、人のせいにしてしまう生き方を反省した。野崎は、真剣に信心に励んだ。戸田が逝去し、深い悲しみに沈んだが、総務に就任した山本伸一が、女子部員と「人生の並木道」を歌おうと提案されたとき、野崎は、歌いながら、“自分は一人じゃないんだ!”と感じ、心強さを覚えた。
“広宣流布の活動のなかで、ひとたび決めた目標は、何があっても必ず達成する!”それが、彼女の信条であった。また、一人ひとりを、最愛の妹と思って接していくように努めた。女子部時代に培った、この勝利への執念が、彼女を強くし、何があっても負けない心を磨き上げていった。野崎が、常に心がけていたことの一つは、求道ということであった。
東北のメンバーは、地理的な条件もあり、東京などに比べて、どうしても最高幹部との接触の機会が少なかった。野崎は、決意する。“会長の山本先生を広宣流布の師と定め、しっかり呼吸を合わせていこう。そのためには、まず私自身が、最高幹部の方々に体当たりして指導を受け、少しでも先生の心を知ろう。そして、皆に、絶えず清新の息吹を伝えていけるようにしよう”
彼女は、列車で仙台駅を通る幹部がいると聞けば、駅で待っては指導を求め、それを皆に伝えた。やがて、東北女子部は、“自分たちは、本部と直結しているのだ”という自覚と誇りを持つようになっていった。また野崎は、学会本部にも足しげく通っては、指導を受けた。そのなかで、彼女自身が、大きく成長していった。
求道心を失った時、信心の向上は止まり、慢心に侵され始める。仏法者とは、永遠の求道者であらねばならない。そこに、人間革命の道があるのだ。
彼女は、婦人部でも次第に頭角を現し、東北婦人部の書記長兼任で、宮城県婦人部長に就いたのである。斉間と野崎は、結婚後も幾度となく人生の試練にさらされた。しかし、女子部時代から苦労して学会活動に励み、自分を磨き鍛えてきた二人は、決して挫けることはなかった。
生きるということは、宿命との壮絶な格闘といってよい。それに打ち勝ってこそ、幸せはある。勝つか、負けるかーーその避けがたき現実を直視する時、信仰という生命の力の源泉をもち、何ものにも揺るがぬ人間の芯を確立する必要性を、痛感せざるを得ない。
田岡は、個人指導に行く前に、懸命に唱題した。全身に生命力が満ちあふれるまで、仏壇の前を離れぬという気迫のこもった唱題であった。彼女は、婦人部員の家庭を訪問すると、満面の笑みで包み込むように語りかけ、相手の悩みを聞き出していった。そして、真剣に耳を傾け、時には、深く頷きながら、目に涙さえ浮かべるのであった。
それから、諄々と、仏法の偉大さを、御本尊の絶対の力を訴えるのだ。信心の姿勢に誤りがあれば、明快に、率直に、歯に衣を着せずに指摘した。そこには信心への大確信と、相手を思う慈悲の一念があふれていた。最後には、唱題や弘教など、具体的に実践すべきことを示し、再開を約束するのである。
再訪問すると、実に見事な結果が出ていた。必ずといってよいほど、皆が悩みを克服しているのだ。斉間は、田岡と接した人たちが、とても人には言えないような、深刻で複雑な悩みを打ち明けることに、不思議さを感じた。しかし、一緒に激励・指導に回るなかで、田岡の“この人と同苦しよう!”という真心の一念が、相手の心に響いているからだということに気づいた。
先輩と後輩が共に活動するなかで、後輩は、折伏・弘教、個人指導などを習得していく。“共戦”という実践なくして、本当の人材の育成はない。
東北婦人部書記長の野崎裕美は、4歳の時に、戦争で父を亡くし、母一人子一人で生活した。戦後、母は過労で、胃潰瘍になり、生活も困窮し、宗教遍歴もしたが、床に伏している日が続いていた。そんな時、母子ともに学会に入会する。
1955年のことだ。入会を機に母は元気になり、暗かった未来に明かりが差した。野崎は入会半年後に参加した登山会で戸田城聖に初めて会う。戸田から「青年は親孝行できる温かい心、大きな心をもたねばならぬ」と激励され、その言葉が野崎の胸に響く。
女で一つで育ててくれた母への、感謝を忘れていた自分を恥じた。また、自分の思い通りにならないと、人のせいにしてしまう生き方を反省した。野崎は、真剣に信心に励んだ。戸田が逝去し、深い悲しみに沈んだが、総務に就任した山本伸一が、女子部員と「人生の並木道」を歌おうと提案されたとき、野崎は、歌いながら、“自分は一人じゃないんだ!”と感じ、心強さを覚えた。
“広宣流布の活動のなかで、ひとたび決めた目標は、何があっても必ず達成する!”それが、彼女の信条であった。また、一人ひとりを、最愛の妹と思って接していくように努めた。女子部時代に培った、この勝利への執念が、彼女を強くし、何があっても負けない心を磨き上げていった。野崎が、常に心がけていたことの一つは、求道ということであった。
東北のメンバーは、地理的な条件もあり、東京などに比べて、どうしても最高幹部との接触の機会が少なかった。野崎は、決意する。“会長の山本先生を広宣流布の師と定め、しっかり呼吸を合わせていこう。そのためには、まず私自身が、最高幹部の方々に体当たりして指導を受け、少しでも先生の心を知ろう。そして、皆に、絶えず清新の息吹を伝えていけるようにしよう”
彼女は、列車で仙台駅を通る幹部がいると聞けば、駅で待っては指導を求め、それを皆に伝えた。やがて、東北女子部は、“自分たちは、本部と直結しているのだ”という自覚と誇りを持つようになっていった。また野崎は、学会本部にも足しげく通っては、指導を受けた。そのなかで、彼女自身が、大きく成長していった。
求道心を失った時、信心の向上は止まり、慢心に侵され始める。仏法者とは、永遠の求道者であらねばならない。そこに、人間革命の道があるのだ。
彼女は、婦人部でも次第に頭角を現し、東北婦人部の書記長兼任で、宮城県婦人部長に就いたのである。斉間と野崎は、結婚後も幾度となく人生の試練にさらされた。しかし、女子部時代から苦労して学会活動に励み、自分を磨き鍛えてきた二人は、決して挫けることはなかった。
生きるということは、宿命との壮絶な格闘といってよい。それに打ち勝ってこそ、幸せはある。勝つか、負けるかーーその避けがたき現実を直視する時、信仰という生命の力の源泉をもち、何ものにも揺るがぬ人間の芯を確立する必要性を、痛感せざるを得ない。
太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋