小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命 第25巻

熊本での人材育成

『新・人間革命』第25巻 人材城の章 307p~
<人材城の章 開始> 

中国の名宰相・諸葛孔明は、「国を治める道は、力を尽くし、優秀な人材を見出し、登用することにある」との言葉を残している。創価学会の未来もまた、一に、どれだけ多彩な、たくさんの人材が育成できるかにかかっている。

1977年(昭和52年)熊本文化会館に到着した。石碑の除幕を行い、県青年部長勝山平八郎に碑文を読むよう指示。彼は「聳ゆ」などの読み方でつまづく。「青年は、未来のために、どんなに忙しくても、日々、猛勉強するんだよ」と教養を深く身につけ、一流の人材に育ってほしいと、あえて、厳しく指導したのだ。

「学会の人材の要件とは何かーー。根本的には、生涯、広宣流布のために生き抜く人です。学会と共に、師弟不二の大道を歩み続けていこうと決意し、それを実践している人です。しかし、人間の心のなかを見ることはできない。自分が偉くなって権勢を得ようという、野心である場合もあります。最悪なケースは、中心幹部が、それを見抜けずに、そういう人たちにおだてられ、乗せられてしまうことです。ゆえに、リーダーは、一人ひとりの奥底の一念を見極めていく眼をもつことです。

奥底の一念を見極めていくには、自身の生命に濁りがあってはならない。わが生命の鏡が、曇っていたり、歪んでいたりすれば、一人ひとりを正しく見極めていくことはできないからです。結局は、我見になり、自分の好き嫌いで、人を見ていってしまうことになる。ゆえに、常に唱題第一で、わが生命を磨き抜くんです。

それでも、人間の奥底の一念は、すぐにはわからないものです。短期間で見極めることは難しいこともある。しかし、一年、二年と、長い時間をかけて見ていればわかります。どんなに表面を装っていても、ふとした時に、驚くような傲慢極まりない言動や、怠惰な態度が出てしまうものだからです。

また、人が見ていない時に、何をしているかに、その人の本質が表れます。ともかく、人材の根本要件を、一言でいえば、"労を惜しまず、広宣流布の師弟の道に生き抜く人"ということです」

どんな優れた能力をもち、社会的に高く評価される立場にあったとしても、信心の一念という根本が揺らいでいたのでは、広宣流布の本当の人材とはなり得ない。奥底の一念を"広宣流布のため"という大目的に定めてこそ、性格も、能力も、地位も、すべてが生かされ、人びとの幸福実現のための大きな力となるのである。

「入会した時から、広宣流布のために生きようと決意している人はほとんどいないでしょう。今度は皆さんが、広宣流布の大願に生き抜こうという、決定した信心の人たちを育てていくんです」

「皆、さまざまな宿業をもっていますから、何があるかわからないのが人生なんです。ですから、若い世代に、福運をたくさん積み、宿命の転換に励むとともに、何があっても負けない心の強さを培うことが大事になる。そのための信心なんです」伸一は、女子部員は、一人も残らず幸せになってほしかった。

本当の幸福は、自分で創り上げていくものだ。誰かから与えられるものではない。幸せになるには、「幸せとは何か」を明らかにした「哲学」が必要になる。「哲学」というのは、生き方の根本となる考え方である。

仏法では、生命の因果の理法によって、その原因を明快に説き示している。過去世からの自身の言動や心が、宿業を形成する。そして、現在の自身の生き方が、未来を決していくと。

しかも、自身のあらゆる「宿命」は、それを転換して幸福の実証を示し、人びとに希望と勇気を与えるための、尊き「使命」となることを教えているのである。

「学会の根本精神は、どんなに時代が変化しても、変わってはなりません。しかし、活動形態などは、時代とともに、また、世代によって、当然、変化していかなくてはならない」

「『激励』というのは、年長者が、年少の人に対して行うものであるかのように思い込んでいませんか。『激励』は、双方から発信できるんです。人間は、たとえ、自分より年下の人であっても、"いつも自分のことを思ってくれ、一生懸命励ましてくれる""信頼し、尊敬してくれている"という人がいれば、嬉しく、力強いものです。人間は人との絆のなかで、勇気を得るし、希望を得ていきます。その麗しい励ましの絆を、社会の隅々にまで広げていくのが、広宣流布とも言えます」


太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋

人事後の各部への指導

『新・人間革命』第25巻 薫風の章 288p~ 

佐賀文化会館の庭には、咆哮する百獣の王・獅子のブロンズ像が置かれた。徳永明の寄贈によるものであった。徳永は、妻の竹代が自律神経失調症と診断された。その渦中、輸送班の野外研修に参加した時、伸一に、妻の病状をメモに書いて提出した。伸一は、書籍に揮毫して徳永に贈ったり、宝前の果物を竹代に届けたりした。

この日を境に、竹代の病状は快方に向かい、感謝と御礼の思いで、何か寄贈したいと、獅子の像を見つけるが、売り物ではないと断られ、作るのに3か月かかると言われる。徳永の必死の話に店主が注文で作ってあった獅子の像を回してくれ、開館に間に合った。

開館記念勤行会の終了後、記念植樹が行われ、役員として、植樹の楠の前に立っていた徳永だったが、
徳永の長男が伸一に歩み寄り、期せずして、徳永一家が伸一を迎える形になった。

伸一は、子どもたちの手を握り、微笑みながら夫妻に語った。「何があっても、悠々と題目を唱え抜き、信心の炎を燃やし続けていくならば、どんな病にも、負けることは絶対にない。必ず幸せになるんです!獅子吼のごとく、仏法、学会の正義を叫び、戦い抜いてください」徳永夫妻が、寄贈した獅子の像は、「佐賀獅子」と呼ばれて皆から親しまれ、後年、佐賀県創価学会の重宝となるのである。

伸一は、佐賀文化会館の庭で、会う人ごとに言葉をかけ、激励を続けた。もし、伸一の生涯を貫くものを一言で表現するなら、「広宣流布」であることは言うまでもない。さらに、彼を貫く行動を一言するなら、「励まし」にほかなるまい。

出会った一人ひとりに、全精魂を注ぎ、満腔の期待と祈りを込めて激励し、生命を覚醒させていくーー地味と言えば、これほど地味で目立たぬ作業はない。しかし、広宣流布は、一人ひとりへの励ましによる、生命の開拓作業から始まるのだ。

伸一は、県婦人部長になった酒田一枝に「学会の人事は、すべて広宣流布のためです。人事を進める側としては、個人の事情を考慮し、あらゆる角度から、慎重に検討していかなければなりません。でも、人事を受ける側の心構えとしては、仏意仏勅であるととらえて、なんでも引き受けていこうという姿勢が大事なんです」

そして、婦人部の県指導部長になった永井福子に言った。「本当に大事なのはこれからなんです。後任の幹部が、存分に力を発揮していけるかどうかは前任者の責任です。どれだけ、後任の人を守り、応援できるかです。そして、佐賀県創価学会が大前進できたら、皆に、『酒田婦人部長が立派だからです』と言って、讃え抜いていくんです。

あなたに、その度量があれば、佐賀は大発展します。誰が見ていなくとも御本尊は、すべて御存じです。影の力として頑張り抜き、勝利した功徳、福運は無量無辺です。それが仏法です」

県男子部長の飯坂貞吉には、「君は努力で勝利した人だね。学会は、実力主義であり、信心の世界ですから、学歴は関係ありません。しかし、学力は必要です。忙しくとも読書に励み、あらゆることを勉強し抜いていくんです。社会の一流の人たちが、"学会のリーダーはさすがだ"と感服するぐらい、教養を身につけて、智慧を発揮していかなければならない

しかし、高学歴者を否定的に見たり、自分を過信して傲慢になったり、虚勢を張ったりしてしまいがちな面もある。そうなると、人間としての成長が止まり、場合によっては、道を踏み外してしまうこともある。初心を忘れず、自分をわきまえ、謙虚に、生涯、『求道』『向上』の息吹を燃やし続けていくことです。」

副県長の武原成次には、「県長を、本当に支えていこうと思うならば、自分が県長の自覚で、一切の責任を、苦労を担っていくんです。それができてこそ、本当の指導者に育つ。私は、青年部の室長の時も総務の時も、そうしてきました。だから、32歳の若さで会長になっても、悠々と全学会の指揮を執ることができたんです。今こそ、自分の真価が問われていると思って、陰の力に徹して、黙々と働くんです」

伸一は、婦人部員の緒高紗智子との約束を果たすために、夫の武士が営む理容店へ行き、散髪した。武士は伸一の髪を触り、長年心身を酷使してきたのを感じる。伸一の誠実な姿を目の当たりにし、武士は真剣に活動するようになり、養女とその夫も入会する。

佐賀から熊本に向かう日も、同志と共に唱題し、出発間際まで、何曲もピアノを弾いて激励する伸一。
車中でも、句を詠み激励する伸一だった。

<薫風の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋

団結の佐賀

『新・人間革命』第25巻 薫風の章 265p~ 

脊振本部の本部長、酒田英吉は、一日中汗まみれになって働いても、給料は安く、未来には、なんの希望も見いだせなかった。24歳で入会し、学会活動に参加すると、自分にもなすべき大事なことがあるように思え、次第に元気が出始めた。

男子部の会合で伸一の気迫に圧倒され、伸一の指導を胸に刻み、佐賀県の広宣流布に勇み、走った。片道切符で東京に駆けつけた時、伸一に帰りの電車賃を出してもらった。"自分も、後輩たちを、真心で包める、山本室長のようなリーダーに育とう"と決意する。

山口開拓指導に バイクで駆けつけた時、座談会で、目の不自由な婦人が目が見えるようになるのかという悩みに対し、伸一が「どこまでも御本尊を信じ抜いて不信をもたず、祈り切っていくことです。…なにがあっても、負けてはいけません。勝つんですよ。勝って、幸せになるんですよ。」伸一の
ほとばしる慈愛を感じた。

酒田は、指導、激励の"魂"を見た思いがした。"指導とは、慈悲なんだ。同苦する心なんだ。確信なんだ。その生命が相手の心を揺り動かし、勇気を呼び覚ましていくんだ!"

座談会が終わると 伸一から声をかけられ、一緒に月見うどんを食べる。伸一は、信心に励むうえで、最も大切なものは何かを語る。「信心の極意は、『師弟不二』にあるんだよ。先生を人生の師と定め、先生の仰せ通りに、先生と共に、また、先生に代わって広宣流布の戦いを起こしていくんだ。その時に、自分の大いなる力が発揮することができるし、自身の人間革命もある。

さらに、幸福境涯を築くことができる。事実、私はそうしてきた。それで、今日の私がある。『立正安国論』に『蒼洋驥尾に附して万里を渡り』という一節があるだろう。一匹のハエでも、名馬の尾についていれば、万里を走ることができる。

同じように広宣流布の大師匠につききっていけば、自分では想像もしなかったような、すばらしい境涯になれる。君も、自ら戸田先生の弟子であると決めて、師弟の道を、まっしぐらに突き進んでいくんだよ」酒田は伸一の真心を思うと、ありがたく、嬉しく、感謝と歓喜が、胸中を駆け巡るのだ。以来、20年余が過ぎていた。

伸一は、佐賀文化会館の開館記念勤行会に出席した。
県長の中森が、激しく緊張しているのを見て、伸一が楽しく歌でも歌おうと声をかけると、中森が直立不動で『春が来た』を歌いだす。生真面目な歌に、会場全員が一緒に歌いだす。伸一は団結の姿を見たと拍手を送った。

佐賀県の人事が紹介され、30代半ばの酒田一枝が県婦人部長に就いた。彼女は、養父の信心への理解が
ないなか伸一から贈られた色紙を心の支えとし、女子部員として健気に活動に励んできた。

伸一の励ましによって、一人ひとりの心が彼と結ばれ、創価学会という連帯の絆が創り出されていったのである。さらに、その励ましこそが、皆の勇気の源泉となってきたのだ。

伸一は、佐賀県がさらに大飛躍を遂げていくためには、若い人材を登用し、新しい原動力としていく必要があると考えていた。「中森県長は50歳で、東大出身のいわゆるエリートであり、温厚な知性派です。それに対して、武原成次副県長は、35歳で、活力にあふれた行動派であります。いわば、"静"と"動"の絶妙なコンビです。

完璧な人というのはいません。皆、それぞれ、短所をもっています。しかし、団結があるならば、互いに補い合い、一個の組織体として十全の力を発揮していくことができる。佐賀県は団結している。団結あるということは、最高の財産をもっていることになります。

創価学会は、仏意仏勅の組織であり、人類の幸福と平和を実現する「創価学会仏」ともいうべき存在である。その学会にあって団結できずに、反目し、非難し合うことは、組織という一つの統合体を引き裂く行為に等しい。それは、「破和合僧」であり、恐るべき仏法上の重罪となるのである。

さらに、何事にも「根本」があり、宇宙の根本、生命の根本は御本尊であることを語った。そして、その御本尊への信心のなかに、崩れざる幸福の大道があることを力説したのである。


太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋

創価大学生への期待

『新・人間革命』第25巻 薫風の章 265p~ 

山本伸一は、中森の来し方について話を聞いた。「あなたは、農島さんに育ててられたんですね。その方は、偉大な庶民の指導者です。学会には、自分は高い教育を受けていなくとも、思いやり、誠実さ、真剣さをもって、多くの人材を育んでこられた方が、たくさんいらっしゃる。人間を育てるのは、結局は、人間性の温もりなんです」

創価大学の現役学生と卒業生と懇談した山本伸一。創価大学三年生の尾崎一利に「元気そうでよかった」と声をかけた伸一に、尾崎は、"なぜ、先生は自分のことをご存じなのか”と不思議だった。しかし、伸一は、入学式で壇上から新入生一人ひとりに視線を注ぎ、皆のことを心に焼きつけていたのだ。

その時、尾崎の顔を見て、心にかかっていたのだ。”山本先生は、創大生一人ひとりを、本当に大事に思ってくださっているんだ!”尾崎は、驚きに身がすくむ気がした。

「創大出身者は、どんどん世界に羽ばたいていってもらいたいが、君たちのように郷土の発展のために黙々と働き、尽力してくれる人の存在も、極めて重要なんです。創大生の誇りを胸に、社会に貢献し、人びとの幸せのため、地域の繁栄のために、粘り強く頑張り抜いていくんですよ。期待しています」

「佐賀県は、学会のなかで何か一つこれは”日本一”であるというものをもってほしい。弘教でも、機関誌の購読推進でも、教学でもよい。何かで一つ、勝利し続けていけば、それが、伝統となり、自信となり、誇りとなっていく。すると、そこから、すべての勝利の道が開かれていきます」

故郷に帰って来た創価大学の学生部出身者たちは、懸命に努力し、県内で就職を勝ち取ったのである。そのメンバーに共通しているのは、地域に貢献し、両親や地元の同志に、喜んでもらいたいとの、強い一念であった。

彼らは、東京の創価大学に行かせてもらったことに、両親をはじめ、家族に、深い感謝の思いをいだいていた。彼らの家庭の多くが、経済的には裕福とはいえなかった。しかし、笑顔で送り出してくれたのだ。

寺津克彦の両親も生活費を切り詰め、入学金等を用意してくれた。学会の会合で、創大合格が伝えられ、温かい祝福の拍手を浴びた。ある婦人部員は、目を潤ませながら、「あなたは、佐賀の誇りやけん。何があっても頑張らんね!」と言って励ましてくれた。家族の、そして、同志の真心を、胸にいだいての東京行きであった。

青年部の先輩は、杉瀬茂に「君には大きな使命があるんだ。創価大学で、ぼくらの分まで勉強してきてほしい。また、学会の本陣・東京で、しっかり信心を磨くんだ」と励ましてくれた。”自分は一人じゃないんだ。みんなが応援してくれているんだ”と思うと、元気が出た。

「創価大学は、誕生して間もない、新しい大学です。卒業生も、ようやく三期生まで送り出したにすぎない。大学の社会的な評価もまだ、定まっていません。大学の存在さえ知らない人も、たくさんいます。だからこそ諸君が、創立者の自覚で、パイオニアとなって、道を開いてほしいんです。

それには、一人ひとりが、”創大生というのは、これほど力があるのか!これほど勉強しているのか!これほど崇高な志をもっているのか!ここまで誠実で、真剣なのか!ここまで、地域、国家、人類のことを考えているのか!”と、人びとから、賞賛、尊敬されるようになっていくことです。諸君が輝くことによって、大学の名も輝いていきます」

”創大生よ。皆が創立者たれ!皆が永遠の開拓者たれ!”と、伸一は、心で叫びながら、メンバーに訴えるのであった。

太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋

佐賀文化会館での指導

『新・人間革命』第25巻 薫風の章 251p~ 

1977年5月佐賀文化会館では、山本伸一が、創大生たちの到着を待っていた。"青年と会おう!青年を育てよう!青年こそ、広宣流布のバトンを託す人なれば"伸一は、そう深く心に期しながら、真剣勝負の思いで、九州指導を続けていた。

未来の勝敗は、今、どれだけ青年のために力を注ぎ、育んでいるかにかかっている。佐賀県長の中森富夫は、不動産会社を営む50歳の壮年である。


母は病弱で、親孝行のつもりで、佐賀県に帰り、父の経営する炭鉱に勤めた。実家は、日蓮正衆の旧信徒であったが、姉が、夫共に学会に入会し、母にも勧めた。入会した母が、元気になる姿を見て、中森の妻が入会。子どもができないことが悩みだったが、子どもができ、信心への確信を持った。

中森父子は、家族の現症を目の当たりにして入会した。彼らが、入会に踏み切った背景には、炭鉱の事故を防ぎたいとの思いもあった。折伏の歓喜と感動も知ったが、仕事の忙しさに負け、活動から遠ざかっていった。

中森が、東京での同窓会に出席した時、胸に学会のバッジを着けていた。それを見て、山本伸一が「学会の方ですね?」と声をかけてきた。驚く中森に、伸一は、三ツ沢競技場での男子部総会の入場券を手配してくれた。彼は大いに歓喜したが、仕事に忙殺され、活動からは遠ざかったままであった。

ある時、支部の幹部に「いつになったら、本気になって信心するんですか。一生は短い。時は今ですよ。忙しいなかで時間をこじ開け、広宣流布のために懸命に働くなかに成長もあるし、功徳もあるんです。早く決断して行動を起こすんですよ」

数日後、中森は、妻の恵美子と共に、組長、組担当員の任命を受けた。彼の組長就任を最も喜んでくれたのは、炭鉱作業員をしている、班長の農島重勝であった。

農島は、生活苦と戦い、周囲に嘲笑されながら、一途に弘教に励んできた壮年である。農島は、組長になった中森を連れて、唐津一帯を指導、弘教に歩いた。「自分の組の同志には、必ず会うことが大事ばい。人間は、目と目を見合わせ、腹を突き合わせて語らんと、本当のところはわからんばい。本当のところがわからんと、本当の激励も、指導もできん。生命ばい。生命の触れ合いがあっての、指導であり、折伏たい」

農島は、仏法対話も実に上手であった。中島の場合は、一生懸命に話せば話すほど、仏法とは何かという、くどくどとした説明になってしまう。その話に、相手は納得しても、信心するとは言わない。「相手の生命に刺さっていない」のだ。

その点、農島の話は、単純明快であった。「俺も、信心ばしてから、病気やら、幾つも悩みを乗り越えてきたとばい。今は金もなかし、ただの労働者ばってん、俺は必ず幸せになる。絶対になるっちゅう確信のあるけん。あんたも、一緒に信心せんね!」大確信をもって、こう語るのだ。

すると、中森が仏法の話をしても、入会を渋っていた人が信心するというのだ。中森は、"折伏は、単なる理屈ではない"ことを知った。

「弘教を実らせるとは、一番に、絶対に、この人に幸せになってもらいたいっちゅう、相手をば思う真心の唱題たい。二番目は、弘教はこっちの確信ばい。第三に粘りたい。一度や二度、話ばして、信心せんからって、あきらめたらいかんばい。長い目でみらんと。また、一人や二人に下種ばして、信心せんからって、くさったらいかん。苦しかこつに出おうたら、ますます闘志ば燃え上がらせるとが、学会精神たい」

農島が、最も真剣に中森に訴え続けたのは、師弟についてであった。「信心にも師匠が必要なんよ。我見じゃいかんとばい。山本先生を師匠と決めて、その指導通りに実践ばしてきた。聖教新聞に載った先生の指導は、頭ん中に叩き込んできたばい。」

「あんたも、師匠を見失わんごとせないかんばい。自分の心ん中に、いつ、いかなる時も、先生がおらんといかん!」

後輩を育てるために必要なのは、学歴でも、社会的な地位でも、学会の役職でもない。相手の成長を祈り願って、共に行動し、共に苦労しながら、実践のなかで信心を教えていく情熱と忍耐と誠実である。

時代は、"石炭"から"石油"へと、エネルギーの転換が図られた。閉山が続いていった。中森は、必死に頑張り抜いた。広宣流布のための戦いは、一歩も引くことはなかった。彼の炭鉱も閉鎖を余儀なくされた。時代の試練に立ち向かいながら、土木工事、不動産業へと事業の舵を取っていった。


太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋
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