『新・人間革命』第24巻 灯台の章 296p
1977年(昭和52年)2月2日、社会部の勤行集会に、山本伸一が姿を現した。予期せぬ会長出席に、場内は大拍手と大歓声に包まれた。伸一は、社会部のメンバーが、職場で勝ち抜いていくための要諦を、何点か、語っておこうと考えていた。
会合で、何を、どう話すかーー伸一も、青年時代から、真剣に悩み、考えてきた。また、自らの実感に裏打ちされた言葉で語るために、いかなる活動も、率先垂範で戦ってきた。実践あるところにはドラマがある。ドラマがあるところに感動が生まれる。当然、失敗もあろう。それでも、めげずに挑み抜いた体験にこそ、共感が生まれるのだ。
苦闘を勝ち越えた体験談は、"自分には、とてもできない。もう無理だ!"と弱気になっている同志の、心の壁を打ち破る勇気の起爆剤となる。また、伸一が信条としてきたのは、戸田城聖の指導を語ることであった。
広宣流布の師の指導と心を知り、行動する時、勇気が、歓喜が、生命力が、沸々とたぎり立つーーそれは、伸一自身が、常に体験し、強く実感してきたことであった。
伸一は、広宣流布といっても、自分の足元を固めていくことが重要であると訴えた。「具体的に言えば、平凡なようですが、まず、健康であるということです。・・・健康管理をし、事前に病を防ぐという姿にこそ、信心の智慧があるんです」
次に伸一は、家庭の大切さに言及した。家庭が盤石であってこそ、職場でも、安心して力を発揮していくことができるからだ。
「職場にあって、第一人者になるためには、まず、信心をしているからなんとかなるだろうという考えを、徹底して排していくことです」
「社会では、さまざまな付き合いや、他宗の儀式の場に参加しなければならないこともあるでしょう。賢明に、広々とした心で、人間の絆を結んでいくことが大事です。信心をしているからといって、社会と垣根をつくり、偏狭になってはいけません。また、信心のことで、家庭や職場で争ったりする必要もありません。温かく包み込みながら、皆を幸せにしていくのが、仏法者の生き方です」伸一は、最後に、「常識を大切に」と訴えていった。
ある大手デパート美術品部門で働く女子部員の代田裕子は、入社以来仕事と信心についての、伸一の指導を糧に、直面する困難を一つ一つ乗り越えてきた。一日中立っているだけの仕事の時は、最高の立ち方を考え、工夫を重ねた。高価な美術品をただ、ひたすら磨く業務も、意味のあることだととらえ自分を磨く思いで、ひたすら磨いた。
たとえ、お茶を入れたり、アシスタント的なものであっても、どんな仕事でも、なくてはならない大事なものだと考え、それらを完璧にこなすプロになろうと努力、創意、工夫をかさねた。"どんな立場であれ、職場の第一人者になろう!"
そんな彼女の姿を、職場の上司や周囲の人たちはじっと見ていた。手抜きをしても、要領よく立ち回れば、うまくいくかのように思ってしまう人もいる。だが、それは、浅はか極まりない考えである。信頼という、人間として、社会人として、最も大切な宝を自ら捨て去ってしまうことになるからだ。
代田は"ショップマスター"に抜擢され、さらに、そこで実績を挙げ、さらに、大事なポジションをまかされていくことになる。
社会部員の活躍は目覚ましく、満点の星のごとく、人材が育っていた。
東京の半導体メーカーに勤める中山勇は、高校の普通科の出身であった。時代は次第に高学歴化しつつあった。どうすれば、自分が職場で力を発揮できるか悩んで、経理の専門学校の夜学に通った。学会活動も一歩も引かなかった。中山が経理の勉強をしていることが上司の耳に入り、彼は、工場から経理部門に移動となった。
彼は、さらに勉強を重ね、26歳の若さで、経営管理室の係長になる。その後32歳で経理課長となる。自分が、この会社の責任者であるとの思いで、仕事に臨んだ。独学でコンピューターの勉強をはじめ、会社がコンピューターの導入に踏み切ると彼の研鑽が役立ち彼は後年役員となった。
現状に甘んじ、勉強を怠れば、職場で勝利の旗を掲げ抜くことはできない。社会に出れば、学生時代以上に勉強が求められる。日々努力、日々研鑽、日々工夫なのだ。そして、その根底には、確固たる経営の理念、生き方の哲学がなければならない。そうでなければ、時流に踊らされ、流されていってしまうことになりかねないからだ。
1977年(昭和52年)2月2日、社会部の勤行集会に、山本伸一が姿を現した。予期せぬ会長出席に、場内は大拍手と大歓声に包まれた。伸一は、社会部のメンバーが、職場で勝ち抜いていくための要諦を、何点か、語っておこうと考えていた。
会合で、何を、どう話すかーー伸一も、青年時代から、真剣に悩み、考えてきた。また、自らの実感に裏打ちされた言葉で語るために、いかなる活動も、率先垂範で戦ってきた。実践あるところにはドラマがある。ドラマがあるところに感動が生まれる。当然、失敗もあろう。それでも、めげずに挑み抜いた体験にこそ、共感が生まれるのだ。
苦闘を勝ち越えた体験談は、"自分には、とてもできない。もう無理だ!"と弱気になっている同志の、心の壁を打ち破る勇気の起爆剤となる。また、伸一が信条としてきたのは、戸田城聖の指導を語ることであった。
広宣流布の師の指導と心を知り、行動する時、勇気が、歓喜が、生命力が、沸々とたぎり立つーーそれは、伸一自身が、常に体験し、強く実感してきたことであった。
伸一は、広宣流布といっても、自分の足元を固めていくことが重要であると訴えた。「具体的に言えば、平凡なようですが、まず、健康であるということです。・・・健康管理をし、事前に病を防ぐという姿にこそ、信心の智慧があるんです」
次に伸一は、家庭の大切さに言及した。家庭が盤石であってこそ、職場でも、安心して力を発揮していくことができるからだ。
「職場にあって、第一人者になるためには、まず、信心をしているからなんとかなるだろうという考えを、徹底して排していくことです」
「社会では、さまざまな付き合いや、他宗の儀式の場に参加しなければならないこともあるでしょう。賢明に、広々とした心で、人間の絆を結んでいくことが大事です。信心をしているからといって、社会と垣根をつくり、偏狭になってはいけません。また、信心のことで、家庭や職場で争ったりする必要もありません。温かく包み込みながら、皆を幸せにしていくのが、仏法者の生き方です」伸一は、最後に、「常識を大切に」と訴えていった。
ある大手デパート美術品部門で働く女子部員の代田裕子は、入社以来仕事と信心についての、伸一の指導を糧に、直面する困難を一つ一つ乗り越えてきた。一日中立っているだけの仕事の時は、最高の立ち方を考え、工夫を重ねた。高価な美術品をただ、ひたすら磨く業務も、意味のあることだととらえ自分を磨く思いで、ひたすら磨いた。
たとえ、お茶を入れたり、アシスタント的なものであっても、どんな仕事でも、なくてはならない大事なものだと考え、それらを完璧にこなすプロになろうと努力、創意、工夫をかさねた。"どんな立場であれ、職場の第一人者になろう!"
そんな彼女の姿を、職場の上司や周囲の人たちはじっと見ていた。手抜きをしても、要領よく立ち回れば、うまくいくかのように思ってしまう人もいる。だが、それは、浅はか極まりない考えである。信頼という、人間として、社会人として、最も大切な宝を自ら捨て去ってしまうことになるからだ。
代田は"ショップマスター"に抜擢され、さらに、そこで実績を挙げ、さらに、大事なポジションをまかされていくことになる。
社会部員の活躍は目覚ましく、満点の星のごとく、人材が育っていた。
東京の半導体メーカーに勤める中山勇は、高校の普通科の出身であった。時代は次第に高学歴化しつつあった。どうすれば、自分が職場で力を発揮できるか悩んで、経理の専門学校の夜学に通った。学会活動も一歩も引かなかった。中山が経理の勉強をしていることが上司の耳に入り、彼は、工場から経理部門に移動となった。
彼は、さらに勉強を重ね、26歳の若さで、経営管理室の係長になる。その後32歳で経理課長となる。自分が、この会社の責任者であるとの思いで、仕事に臨んだ。独学でコンピューターの勉強をはじめ、会社がコンピューターの導入に踏み切ると彼の研鑽が役立ち彼は後年役員となった。
現状に甘んじ、勉強を怠れば、職場で勝利の旗を掲げ抜くことはできない。社会に出れば、学生時代以上に勉強が求められる。日々努力、日々研鑽、日々工夫なのだ。そして、その根底には、確固たる経営の理念、生き方の哲学がなければならない。そうでなければ、時流に踊らされ、流されていってしまうことになりかねないからだ。