小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命 第24巻

蘇生の光を送る地域の灯台たれ

『新・人間革命』第24巻 灯台の章  369p 

「日蓮大聖人の仏法は、下種仏法であります。今だ仏法の真実の教えを聞いたことがない末法の衆生に
南無妙法蓮華経という成仏得道の種子を下ろし、一生成仏せしめ、人びとを救済していくことができる
大法です。したがって、その仏法を保ち、広宣流布の使命に生きる私どもの振る舞いは、一切が下種へとつながっていかねばならない。

つまり、日々の学会活動はもとより、毎日、毎日の生活の姿や行動が、すべて妙法の種子を植えていく
大切な作業であるということを、自覚していただきたい。ゆえに、信心していない人に対しても、
また現在は、信心に反対であるという人に対しても、幸せを願い、大きな、広い心で笑顔で包み込むように接して、友好に努めていくことが大事です。それが、仏縁を結び、広げていくことになるからです」

伸一は、訴えた。「今後、社会の関心は、農村地域に集まっていかざるを得ない。
したがって、現代における農村の模範となるような、盤石な家庭を築き上げることが
できれば、そのご一家は、地域社会を照らす確固たる灯台となります。

そして、そのご一家との交流を通して、妙法の種をは下ろされ、広宣流布の堅固な礎が築かれていきます。ゆえに、私は、農村部の皆さんには、『地域の灯台たれ』『学会の灯台たれ』と申し上げておきたい。

また、農村には、地域のさまざまな伝統行事や風習もあるでしょう。私たちの信心の根本は、どこまでも御本尊です。それ意義の事柄については、随方昆尼の原理に則り、社会を最大限に大切にして、
知恵を働かせて、地域に友好と信頼を広げていってください。

私どもは、決して、偏狭な生き方であってはならない。信仰の原点を踏まえたうえで、
寛大な振る舞いで、どうか魅力にあふれる農村のリーダーに成長していってください。」

世間を離れて仏法はない。日蓮大聖人は、「まことの・みちは世間の事法にて候」と仰せである。
仏法は、地域、社会での、自身の振る舞いのなかにある。自分が今いる、その場所こそが、
仏道修行の場であり、広宣流布の場所なのだ。

「日蓮大聖人の仏法は、『直達正観』、すなわち『直ちに正観に達する』といって、即身成仏の教えです。極端な話になるかもしれませんが、テレビに譬えて言うならば、日蓮大聖人は、テレビ自体を
残されたことになる。それが御本尊に当ります。もったいない譬えですが、私どもが御本尊を保った
ということは、既に完成した立派なテレビを手に入れたことになります。
部品を組み立てたりしなくとも、理論はわからなくとも、すぐに見ることができる。

しかし、テレビを見るためには、スイッチを入れ、チャンネルを合わせなければならない。それが、
御本尊への信心であり、仏道修行です。具体的な実践で言えば、唱題と折伏です。それによって、
即座に、希望の画像を楽しむことができる。これが、『直達正観』の原理です」

悲しみにも、苦しみにも、喜びにも、常に題目とともに!常に折伏とともに!その実践ある限り、
道は必ず開かれる。強盛なる信心を奮い起こして題目を唱え抜くこと自体が「直達正観」なのである。

「たとえ、一時的に行き詰まっても、『妙とは蘇生の義なり』で、そこからまた、題目によって
新たな生命力、新たな福運の泉を湧現していくことができる。いな、その挑戦の繰り返しが
人生であることを忘れずに、明るく、さっそうと前進していってください」

1995年(平成7年)11月、団地を、心と心が通い合う、理想の人間共同体とするための具体的な実践を、10項目の指針にまとめ、団地部のメンバーに贈った。この指針は、地域の繁栄と幸福を目指す
団地部の友の、大切な規範となっていった。

あきらめと無気力の闇に包まれた時代の閉塞を破るのは、人間の英知と信念の光彩だ。一人ひとりが、
あの地、この地で、蘇生の光を送る灯台となって、社会の航路を照らし出すのだ。そこに、
創価学会の使命がある。

<灯台の章 終了>
<新・人間革命 第24巻 終了>

生命の大変革 三変土田

『新・人間革命』第24巻 灯台の章  347p 

山本伸一は、団地という集合住宅に住む人たちの心がよくわかった。彼も、団地ではなかったが、青年時代にアパートで暮らした経験があるからだ。

東京都・大田区大森にある「青葉荘」というアパートに移り住んだのは、1949年(昭和24年)5月であった。勤行している時、隣室の人から、小さな声でしてくれと、注意を受けたこともあった。集合住宅では、ことのほか、周囲への配慮が必要なことを学んだ。

伸一が、青年として心掛けていたのは、明るく、さわやかなあいさつであった。同じアパートに住んだのは、決して偶然ではない。深い縁があってのことだ。だから、近隣の人びとを大切にし、友好を結ぼうと思った。

伸一は、自分の部屋で座談会も開いた。何人かのアパートの住人や近隣の人たちにも声をかけ、座談会に誘った。そのなかからも、信心をする人が出ている。周囲の人々の幸せを願っての友好の広がりは、おのずから、広宣流布のひろがりとなっていくのである。

1952年5月に峯子と結婚する。8月には、大田区山王のアパート「秀山荘」に移った。伸一は、すぐに名刺を持って、近所にあいさつに回った。正弘が成長し、走り回るようになると、妻の峯子は、隣室や上の部屋に気を使い、なるべく早く寝かしつけるようにした。

いずこの地であれ、誠実さをもって、気遣いと対話を積み重ねていくなかで、友好の花は咲き、信頼の果実は実るのだ。

山本伸一は、団地は、社会の一つの縮図であると考えていた。日本の社会は、やがて、先例のない高齢化の時代を迎えることが指摘され始めていた。古い団地は、たいていエレベーターもなく、また、高齢者や障がい者のためのスロープなども設けられていなかった。

伸一が、何よりも痛感していたのは、人と人との絆を固くし、強い共同体意識を育まねばならぬということであった。将来、高齢者の独り暮らしなどが増えていけば、隣近所の声かけや励まし、助け合いなどが、ますます必要不可欠なものとなるからだ。

災害への対策や防犯などに置いても、行政の支援だけでなく、住民相互の協力や結束こそ、地域を支える大きな力となる。そのために必要なことは、同じ地域、同じ団地のなかにあって、互いに人びとのために尽そうとする、心のネットワークづくりである。人間の心が通い合う新しいコミュニティーの建設である。

"分断された人間関係の果てにあるのは、孤独の暗夜だ。それを転ずるのが団地部だ"
1977年2月17日、山本伸一を迎えて、第一回「農村・団地部勤行集会」が開催された。伸一は、懇談的に話をすすめた。

「大聖人は、『心の一方より国土世間も出来する事なり』と仰せだからです。国土の違いも、わが一念から起こり、わが一念に国土も収まります。心の力は偉大です。何があっても負けない、強い、強い信心の一念があれば、一切の環境を変えていくことができる。それが『三変土田』の法理です」

「三変土田」とは、法華経見宝塔品第十一で説かれた、娑婆世界等を仏国土へと変えていく変革の法理である。「三変」とは、三度にわたって変えたことであり、「土田」とは、土地、場所を意味している。

天台大師は、国土の浄化は、一念の変革によることを表している、さらに、釈尊が、三度にわたって娑婆世界等を変革したことを、人間の迷いである、見思惑、塵沙惑、無明惑の「三惑」に対応させている。

「三変土田」とは、生命の大変革のドラマであり、自身の境涯革命なのだ。自分の一念の転換が、国土の宿命を転換していくーーこの大確信を胸に、戸田城聖は、敗戦の焦土に、ただ一人立ち、広宣流布の大闘争を転換していったのである。

広宣流布に邁進するわれらの生命は、釈尊すなわち仏であり、地涌の菩薩そのものとなるのである。ゆえに、娑婆世界を現実に「三変土田」させ得る力を有しているのだ。

「この私たちが、"断じて、国土の宿命を転換するのだ!"と、決然と立ち上がり、地涌の菩薩の底力を発揮していくならば、三世十方の仏菩薩にも勝る力が湧現します。しかも、その地域に、地涌の同志が陸続と誕生し、生命の宝塔が林立していくならば、国土が変わらぬわけがありません。ゆえに、なすべきは広宣流布です。」

「どうか農村部、団地部の皆さんは、地域広布の先駆けとなっていただきたい。」


団地部員が広げる友情のネットワーク

『新・人間革命』第24巻 灯台の章 335p 

団地部のメンバーは「1973年(昭和48年)10月の結成以来、我が団地を"人間共和の都"にと、懸命に活動に励んできた。

日本で、団地の建設が本格的に始まったのは、戦後のことである。高度経済成長と軌を一にして、団地は日本全国へと広がっていった。当初、団地の間取りは通常の企画よりも小さい、いわゆる"団地サイズ"であった。

しかし、新しい設備を施した団地は、極めてモダンな、都市生活の見本とされていた。特に若い世代には"団地に住みたい"という願望をいだく人が少なくなかった。「団地族」ともてはやされ、流行語にまでなるのである。入居希望者が多く、4200倍を超える団地もあった。

団地生活は、人びとのあこがれではあったが、その一方で、近所付き合いがあまりないことなどが、問題点として指摘されてきた。団地での"孤独死"も起きていた。騒音問題や人間関係が、にわかにクローズアップされることになったのである。

団地部のメンバーは、こうした事件に心を痛めつつ、自分たちの果たすべき使命を強く自覚していったのである。"私たちの団地を、温かい心と心が通い合う人間卿にしなければ・・・"身近に起こっている問題から目を背けるのではなく、それを自身の問題ととらえ、解決のために全力を尽くすーーそれが、立正安国の実現をめざす仏法者の生き方である。

団地入居者の世帯主は、30代が最も多く、若い世代が大半を占めていた。世代が若くなるにつれて、プライバシー意識が高くなり、できるだけ人との関りを避けようとする傾向が強かった。それが、隣家との"心の壁"を厚くしていた面があったことも否めない。

人との関りを断てば、人付き合いに伴う煩わしさを避けることはできる。しかし、集合住宅では、互いに配慮したり、皆で協力しなければならないことも多い。

人間が生きるには、人との協調や気遣い、また、礼儀やマナー、支え合い、助け合いが不可欠である。その心を育むには人間をどうとらえるかという哲学が必要である。まさに、それを教えているのが仏法なのである。

仏法の基本には、「縁起」という教説がある。「縁りて起こる」と読み、一切の現象は、さまざまな原因と条件が相互に関連して生ずるという考え方である。つまり、物事は、たった一つだけで成立するのではなく、互いに依存し、影響して成り立っているのである。人間もまた、一人だけで存在しているのではない。互いに関係し、助け合って生きているのである。

団地部のメンバーは、自分住む団地を、"人間共和の都"にしていこうと、各人が積極的に、行動を起こしていった。自治会の役員などを進んで引き受け、住民のために奔走し、献身していった人も少なくない。

大阪では、泉北ニュータウンの団地で、自治会の運動が実り、団地内に駐車場が完成したことが報じられた。この運動の中心となってきたのが、団地内に住む自治会長を務める学会員の婦人であった。以前は、路上に駐車する車で道がふさがれ、消防車も入ることができないような状態であった。

山本伸一は、折々に「学会員は地域の幸福責任者です」と訴えてきた。この指導は、同志の胸中に深く根差し、社会貢献という使命の自覚を促してきたのである。

学会員のなかには、かつては、社会の底辺で宿命に泣き、来る日も来る日も、ため息まじりに生きてきた人たちも少なくない。その庶民が、決然と頭を上げて、あの地、この地で、社会建設の主役となって、表舞台に躍り出たのだ。そこに、創価学会が成し遂げてきた民衆教育の、刮目すべき偉大な功績がある。

日蓮大聖人は、「人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」と仰せである。そこには、他者への献身が、自身のためにもなるという、共存共栄の思想がある。「立正安国論」には、わが身の安穏を願うならば、地域、社会の安泰を実現しなければならないと言われているのだ。

学会員には、こうした考えに則った行動が、各人の生き方として確立されていたのだ。団地部メンバーの貢献は、いずこの地にあっても、目を見張るものがあった。

学会員が、一つ一つの事柄に対して、懸命に、誠実に取り組み、さまざまな貢献の実績を残すうちに、「学会の人は、よう頑張りはるなぁ」との、簡単の声が上がり始めた。そして、次第に皆が協力してくれるようになっていった。「人間疎外」から「人間共和」へーー団地部員の運動は、各地に人間の輪、友情のネットワークを広げていったのである。


生命を支え守る農村部

『新・人間革命』第24巻 灯台の章 323p 

日蓮大聖人は「人は食によって生あり食を財とす」、「白米は白米にはあらず・すなわち命なり」と仰せである。山本伸一は、人間の命をつなぐ食の生産に従事する農村部は、人類の生命を支え、守る、極めて需要な部であると、考えていた。

"メンバーの智慧と営農の実証は、先細りの様相を見せ始めた農業の、未来を開く力となる。さらに、それは日本、そして、世界の食糧問題を解決する糸口ともなろう"伸一の農村部への期待は大きかった。伸一の心に呼応するかのように農村部のメンバーは、農村の活性化が、新しい時代を開く力になると自覚し、さまざまな活動を積極的に推進していった。

「農業講座」を開催したり、時代を担う農村青年を育成するために、「全国農村青年講座」が行われている。農村はいずこも、後継者不足が深刻化していた。さらに、減反政策など、農政のひずみが、農家を疲弊させ切っていた。


1974年10月山本伸一は、農業問題に言及した。彼は、食料の大部分を海外に依存する日本の農業政策の在り方の転換を主張したのだ。さらに、11月17日に、本部総会では、食糧危機の問題について、提言を行っている。

総会前日まで、世界食糧会議が開催され、世界的な食糧危機打開への討議が行われていたのである。しかし、その語らいには、国家間の利害と思惑が絡み、食糧危機が国家の取引、政争の具に供されていた。今日死ぬか、明日まで生命が持つかといった人々の苦しみよりも、それぞれの国家利益が優先されていることが、伸一は、残念でならなかった。そこで彼は、食糧問題に取り組む先進諸国の、基本的な姿勢を、まず確認していったのである。

「『何を要求するかではなく、何を与えうるか』に、発想の根本を置くべきであるということであります。駆け引きをし、奪い合うのではなく、まず『何ができるか』『何をもって貢献できるか』ということから、話をはじめなければならない」

次いで伸一は、日本は世界に対して「何をすべきか」を語った。第一にあげたのは「農業技術の援助」であった。根本的な解決は、長期的に見るならば、発展途上国の自力による更生にかかっているからである。第二に農政の在り方を改善し、食料自給率を高めていくべきであると訴えた。

第三に「民衆も、食糧問題を他国のことと傍観視していてはならない」とし、その具体的検討及び実施を、青年の諸君に託したいと思うと話す。

さらに伸一は、世界食糧会議でも提案された「世界食糧銀行」に触れた。「それは、援助の見返りを求めるのではなく、あらゆる国の、あらゆる人びとの生存の権利を回復するというものであり、あえて言えば、人類の幸せと未来の存続に賭けるという『抜苦与楽』の慈悲の理念であります」

「今、必要とされるのは、グローバルな見地に立つこととともに、国家エゴイズムを捨てて、人類の生存という一点に協力態勢をしいていくことに尽きるのであります」

伸一の提案を受け、「食料問題調査会」が設けられ、人類の「食」を守るための運動の準備が、着々と整えられていったのである。日本ユネスコ協会連盟からは、人道的大義に立脚した活動に対し「食糧問題調査会」に感謝状が贈られた。

初の試みとして、山形県の「農村青年主張大会」が開催された。やがて全国に広がっていった。そして、衛星中継による「農漁村ルネサンス体験主張大会」も開催されていくことにになる。

初の農村部大会に伸一はメッセージを贈った。「いつの場合でも、新しい道をつけるためには、誰かが泥まみれになって死闘しなければならないのが、歴史の宿命であります。いかなる苦しみの中でも、前進を止めてはなりません。ひとたびは後退を余儀なくされることがあっても、必ず、次はさらに進むのだという執念を失ってはなりません」

農業の現実は、依然として厳しかった。しかし、参加者は、伸一の呼びかけに応え、"だからこそ、仏法という価値創造の大法を持った私たちが活路を開こう!"と、赤々と闘志を燃え上がらせるのであった。

農村部の抱える大きなテーマが、人口の過疎化のなかで、どうやって農業を再生させるかであるのに対して、一方の団地部は、人口の過密化した団地という居住環境のなかで、潤いのある人間共同体をいかにして作り上げていくかが、大きなテーマであった。農村の過疎、都会の過密――現代社会の抱える大テーマに、創価学会は、真っ向から取り組んでいったのである。


職場の勝利者に

『新・人間革命』第24巻 灯台の章 310p 

山本伸一が出席しての社会部勤行集会は、社会部員の自覚を一段と深めた。

大路直行は、大手自動車販売会社の、営業マンだったが、入社2年目で、売り上げは営業所で最下位。大きな壁に突き当たり、転職すべきか悩んでいた時、男子部の先輩に紹介された、自動車セールスマンの壮年部工藤重男に指導を受けた。

工藤は自分の体験をもとに、セールスの基本姿勢は、お客様の信頼を勝ち取ることであり、営業には、勇気と粘り強さが大事であることを訴えた。自分には能力がないから努力しかないと思って、人の倍努力したと話す。大路は自分の甘さを痛感する。

大路の疲れている様子を見て、工藤は、健康、生命力が大事だとの山本先生の指導を通し、強い生命力を湧現させるために、何があっても『題目第一』に徹し、特に朝の唱題に勝負をかけて、真剣に祈るところから一日を始めると話した。

大路は、「題目第一」「努力第一」でいこうと決めた。この月、大路は、車2台を売り上げ、年末には、職場で実績が評価され、表彰されるまでになったのである。

社会部の多くのメンバーが課題としていたのが、仕事と学会活動の両立であった。波留徳一も、仕事と学会活動の両立で、苦闘し続けてきた。多望さに流され、信仰の世界から遠ざかると 随所で行き詰まりを感じ始めた。

男子部の先輩が「天晴れぬれば地明らかなり法華を識る者は世法を得可きか」との御聖訓を引いて訴えた。強い信心に立てば、「大地」すなわち仕事も含めた生活の面でも、おのずから勝利していくことができる。だから、もう一度、信心で立ち上がるんだよと話してくれた。

波留は、もう一度、本気になって信心してみようと思った。仕事は、ますます増えていったが、学会活動は優先させた。"信心していれば、仕事の面でも守られる!"と言う確信があったからだ。だが、それがいつの間にか、甘え、油断となり、仕事が疎かになっていった。

遂に、上司から「仕事と信心とどっちが大事なんだ!」と叱責された。"これではいけない!周囲の人たちは自分の姿を通し、創価学会を見ているんだ"「信心第一、仕事も第一」と決めた。両立への本格的な挑戦が始まった。


学会活動に参加しても、深夜には、仕事に戻った。夜更けて、手紙を、メンバーの家のポストに入れてくることもあった。情熱を傾け、奮闘する青年には、生命の輝きがある。その光彩が、人を引き付ける。仕事でも、下請け業者や関係者が、彼のために協力態勢をつくり、支えてくれたのだ。

波留は、職場では、係長、課長と昇進し、店舗開発を一手に任されるようになっていった。そして、部長、取締役を歴任し、常務取締役になっていく。

「職場の勝利者に」--それは、既に創価学会の伝統となった。仏法即社会なれば、そこに、仏法の勝利があり、人間の勝利があるのだ。

山本伸一は、社会部のみならず、地域、社会に根を張る社会本部の各部メンバーを、徹底して激励しようと、深く心に決めていた。

伸一は、第一回「農村・団地部勤行集会」に出席した。旧習の深い地域で奮闘する農村部の友を、また、人間関係が希薄になりがちな団地で信頼と友好を広げる団地部の友を、ねぎらい、讃え、励ましたかったのである。

農村部と団地部が結成されたのは、1973年(昭和48年)10月24日であった。この年、世界は、深刻な食糧不足に脅かされていた。天災という非常事態が生じた時こそ、政治の深化が問われる。日本政府は、穀物の世界的な高騰への対応策として、麦や大豆などに生産奨励金を支払い、国内生産を拡大することや、輸入先の多元化、輸入穀物の備蓄などを打ち出した。

戦後日本農業は、食料の自給率を高めるため、増産政策を推進した。高度経済成長を迎えるころには、農村人口は都市に流失し始め、専業農家は減っていったが、生産者米価を引き上げると農家による生産の向上で 米の収量は 増大した。だが、その頃から 国民の食生活の変化により、米の消費は減少傾向にあった。

政府は米が余剰になると、生産調整のため、新田開発の抑制と、野菜などへの作付け転換を進め、農家は農外所得への依存を高めていった。田中角栄が「日本列島改造論」を掲げ、農地法を廃止するという構想に、農業関係者のあいだに危機感が走った。

そこに、世界的な食糧危機が起きたのだ。そのなかで、農村部が誕生した。


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