小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命 第23巻

厚田村の歌詞の志

『新・人間革命』第23巻 敢闘の章 310p

伸一は、研修所で夏期講習会を開催していた、中部学生部の代表を励ました。「研修会の期間中は、寸暇を見つけて、研修所の草取りや清掃に、汗を流すようにしてはどうか。」と提案した。「会員のため、民衆のために、陰で労作業に励み、尽くしていくという精神を身につけてほしいんだよ」

懇談会の折、『厚田村』のテープを皆で聴こうと提案。戸田城聖の「志」を、若き青年たちに受け継いでほしかったのである。人生を大成させるかどうかは「志」の有無によって決定づけられてしまう。

創価学会は、無名の庶民の団体である。それゆえに、清く、尊く、強いのである。「わが子に期待を託し、大学に行かせてくれた。ありがたいことではないですか。その感謝の心、報恩の心を、絶対に忘れないでいただきたい」

中部学生部長の長田耕作は、父母の苦闘を思い起こして唇をかみしめた。人に騙され、経済的にも大きな打撃を受け、途方に暮れていた両親は、入会した。一家に初心の功徳が現われた。人生の再出発ができたのだ。父も母も歓喜に燃え、真剣に唱題に励んだ。やがて、広くて、新しい店舗を構え、その二階の住居を座談会場とした。

最初、青い顔で、意気消沈して、座談会に連れて来られた人たちが入会し、信心に励むようになると、日増しに、はつらつとしていく様子を、長田は目の当たりにしてきた。創価学会には、庶民のなかに脈動する、仏法の力の証明がある。

「今日、一緒に『厚田村』の歌を聴いたこのメンバーを『学生部厚田会』としてはどうだろうか。『厚田村』を歌い、私たちの恩師である戸田先生を偲んで、誓いを新たにしていってはどうかと思う」

戸田は、牧口に仏を見ていたのだ。人類の救済を宿願とする師匠の大生命を、一心に見すえていたのである。仏法の眼を開いてこそ、眼前の現象に惑わされることなく、深い生命の本質を見ることができる。仏法の師弟の道は、信心の眼によってこそ、見極められるのである。

「よく、創価学会は、どちらの勢力なのかと尋ねられることがあります。結論からいえば、学会はどちらでもありません。人間の生命を中心とした中道主義であり、人間主義です。真実の仏法は、円経であり、円融円満で、完全無欠な教えです。そこには、すべてが具わっています。したがって、左右両極を包含し、止揚しながら、人類の幸福と世界の平和をめざしているのが、学会の立場です。」

さまざまな制度も、科学も、文化も、すべては、人間の幸福と平和の実現が、出発点であり、そして、目標である。これを忘れれば、人間は手段かされてしまう。

「いかなる体制であっても、最終的に求められるのは、生命の尊厳を説く人間主義の哲学です。それがないと、制度などによって、人間性が抑圧されていってしまう。また、エゴイズムなどを律する人間革命がなくてはならない。特に、指導者層の不断の人間革命が必要です。そこに、権力の乱用や組織の官僚主義化を防ぐ道があるからです」

「資本主義、自由主義の国々にあっても、やはり、人間革命が最大のテーマになってきます。さらに、戦争などの元凶もまた、その人間のエゴにこそあります。」

「どうか諸君は、社会にあって、大指導者に成長し、仏法の人間革命の哲理を訴え抜いていってください。21世紀は、諸君の双肩にある。」

伸一は、敢闘していた。彼は、一分1秒が惜しかった。人と会い、人と語り、一人ひとりの心に、発心の光を注ぎ、一騎当千の人材を育てることに必死であった。

8月20日、九州総合研修所では「鳳雛会」の結成10周年を記念する大会が、晴れやかに開催された。男子「鳳雛会」、女子「鳳雛グループ」は、1966年(昭和41年)1月から、山本伸一が高等部の代表に行ってきた会長講義の受講生によって、人材育成グループである。その講義は、伸一が全精魂を注ぎこみ、真剣勝負で臨んできた、後継者の育成作業であった。

彼は、この時、「鳳雛会」「鳳雛グループ」の根本精神として、どんなことがあっても、御本尊を一生涯抱き締め、学会を築き守っていくことを、遺言の思いで訴えたのである。


太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

師弟の絆をつなぐ映像化

『新・人間革命』第23巻 敢闘の章 300p

牧口常三郎の今日いう学説の発刊の難題は、いかに原稿を整理し、まとめるかであった。牧口の場合、原稿といっても、校長職の激務のなかで、封筒や広告の裏、不用になった紙などに、思いつくままに、書き留めてきた者が、ほとんどである。

それを順序立てて構成し、文章を整理しなければ、とうてい本にはならない。だが、その労作業を買って出る人などいなかった。その時に、名乗りをあげたのも、戸田城聖であった。

切れ切れの牧口の原稿の、重複する箇所はハサミで切って除き、自宅の八畳間いっぱいに並べてみた。すると、そこには、一貫した論旨と、卓越した学説の光彩があった。戸田は、牧口への報恩感謝の思いで、この編纂の労作業を、自らに課したのである。

そして、1930年(昭和5年)11月18日、『創価教育学体系』第1巻が「発行所 創価教育学会」の名で世に出るのだ。表紙の題字と牧口の著者名は、金文字で飾られていた。ここにも戸田の、弟子としての真心が込められていた。

牧口常三郎は、この発刊にあたって、青年たちが、原稿の整理や印刷の校正に尽力してくれたことに触れ、なかでも、戸田城聖の多大な功績について記している。まさに、創価学会は、その淵源から、師弟をもって始まったのである。ゆえに、師弟の道を、永遠に伝え残していくなかに、創価の魂の脈動があるのだ。

師弟の道は、弟子が師匠の精神と実践を学ぶことから始まる。それには、師匠の遺品や、ゆかりの品々に触れることが大事になると、山本伸一は考えたのである。

戸田の講義などのレコード制作を進めたのも、伸一であった。"先生の叫びを、永遠に残したい。いつかレコードのようなかたちで!"

また、伸一は、戸田の映像も、動画として残しておかねばならないと考えていた。1956年の主要行事をはじめ、大阪大会や、横浜・三ッ沢の競技場での「原水爆禁止宣言」、さらに、青年部に広宣流布の後事の一切を託した「3・16」の記念式典などが、映画フィルムに収められていくことになる。

すべては、師匠の真実の姿を永遠に残し、その精神を、誤りなく伝えたいとの、伸一の一念から発したものであった。

特に組織の中核となる最高幹部には、"ただ、ただ、広宣流布のために!"という、清浄にして崇高な師弟不二の大精神が、横溢していなければならない。ゆえに、伸一は、幹部をはじめ、時代のリーダーとなる青年たちに、この師弟の精神を、深く、深く、刻み込んでいかなければならないと思っていたのである。また、堕落の萌芽を目にしたならば、それは、直ちに摘みとらねばならないと、強く決意していた。

勤行会で、伸一は、記念館の意義に言及していった。「牧口先生、戸田先生がいらっしゃったからこそ、私どもは、仏法に、御本尊に巡り会い、御書を教わることができました。それによって、地涌の菩薩としての、この世の尊き使命を知り、絶対的幸福への大道を歩みことができました。その両先生の御遺徳を偲び、弟子の誓いを新たにしていくための記念館です。」

「共に、懇ろに唱題し、師弟不二の、三世にわたる一段と強い生命の絆を、結んでまいろうではありませんか」

「研修所も、会館も、会員の皆さんの浄財によって運営されている。したがって、使わない電気をつけっ放しにしておくようなことがあってはならない。互いに"あなた任せ"にするのではなく、担当者、責任者を明確にすることです」

「ただ、『気をつけよう』とか、『頑張ろう』といった抽象的なことではだめです。具体的な責任の明確化が大事になる」あいまいさがあれば、魔の付け入る隙を与えてしまうーーそれが、若き日から全責任を担って学会の一切の運営にあたってきた、伸一の結論であった。

「また、幹部の祈りも具体的でなければなりません。」「研修所にいる役員も多すぎます。みんな忙しいし、休みを取って、ここに来るのも大変です。少数精鋭での運営を心掛けなければならない」



太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

創価教育学体系発刊

『新・人間革命』第23巻 敢闘の章 287p

<敢闘の章 開始>


時代も、社会も、時々刻々と変化を遂げていく。創価学会も、新しい人材が陸続と育ち、新しい会館や研修所も次々と誕生し、新時代を迎えようとしていた。しかし、いかに時代や環境が変わろうが、絶対に変わってはならないものがある。それは、広宣流布に生き抜く「創価の師弟の精神」である。

1976年(昭和51年)男女青年部が結成25周年を迎え、広宣流布の新しい時代に入った今こそ、後継の青年たちに、その精神を脈々と伝え抜いていかねばならないと考えていた。

全国から集って来た女子部「青春会」のメンバーと共に勤行し、指導・激励した。伸一は、何のための信仰かを、メンバーに心の底からわかってもらいたいとの思いから、女子柄の一生に即して、宿命について語っていった。

苦悩なき人生はない。それらの苦悩、宿命との格闘劇が、人生といえるかもしれない。その宿命を転換し、人生を勝ち越えていく、勇気と力の源泉が、仏法であり、信仰なのだ。そして、苦脳に負けない自信をつくり上げる場こそが、学会活動なのである。

伸一は、さらに、「生老病死」のなかの、「老」について語っていった。「若い時代に、懸命に信心に励み、将来、何のがあっても負けない、強い生命を培い、福運を積んでいくことが大事です。皆さんには、年老いて、"もっと、題目をあげておけばよかった""真面目に信心に励んでいればよかった""もっと、社会に貢献しておけばよかった"と、後になって悔いるような人生を送ってもらいたくない」

「ともかく、何があろうが、生涯、広宣流布に生き抜いていくことです。いざという時、『よし、やるぞ!』と決然と立ち上がり、勝利の旗を打ち立て、学会を守り抜いてください。そのための『青春会』です。21世紀の広宣流布の責任を担うのが皆さんです。その使命を絶対に忘れないでいただきたい」伸一は、未来の広宣流布を託すつもりで、全力で激励を重ねた。

三重の中部第一総合研修所に向かった。研修所の館内にある三重記念館内に入ると、初代・二代会長の遺品やゆかりの品々が展示されていた。

各地に、歴代会長の遺品等を展示した記念館や記念室をつくろうと提案したのは、山本伸一であった。牧口や戸田の闘争と、その精神を学び、継承していくうえで、遺品や、ゆかりの品々に触れることは、必要不可欠であると考えたからだ。

遺品や写真などを、直接、見ることができれば、師を偲ぶ縁となり、その存在を身近に感じることができる。また、その品々は、師の偉業を裏づける証拠ともなる。

「学会を永遠ならしめるために、師匠の魂魄を永遠にとどめる場所をつくらねばならない」というのが、戸田城聖の考えであった。戸田は、自分が使う会長室よりも立派な一室を、「牧口先生のための部屋」と定め、そこに、牧口の写真を飾った。

戸田は、それから、遺言を伝えるような厳粛な目で、伸一を見た。「将来、広宣流布のために、日本各地に会館をつくることになるだろう。いや、世界にも、多くの会館が誕生することになるだろう。また、断じて、そうしなければならない。その時には、『師と共に』という学会精神を、永遠ならしめるために、『恩師記念室』を設けて、創始者である牧口先生を偲び、顕彰していくのだ」

戸田の言葉は、伸一の胸を射た。どこまでも師匠の精神を伝え抜き、宣揚していこうとする心に、伸一は、熱いものが、胸に込み上げてきてならなかった。

創価学会の創立の日となった、1930年11月18日は、『創価教育学体系』の発行日である。思えば、この発刊自体が、師弟共戦の産物であった。

冬のある夜、牧口と戸田は、深夜まで語らいを続けていた。その席で、教育学説を残したいという牧口の考えを、戸田は、聞いたのだ。一小学校長の学説を出版したところで、売れる見込みはなく、引き受ける出版社もないことは明らかであった。

「先生、私がやります!」師の教育学説を実証しようと、私塾・時習学館を営んでいた戸田は、牧口の教育思想を世に残すために、全財産をなげうつ覚悟を定めたのである。

「私の教育学説に、どんな名前をつけるべきか・・・」「先生の教育学は、何が目的ですか」「一言すれば、価値を創造することだ」「創造の『創』と価値の『価』をとって『創価教育学』としたらどうでしょうか」師弟の語らいのなかから、「創価」の言葉は紡ぎ出されたのである。



太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

師弟の共戦譜 人間革命の歌

『新・人間革命』第23巻 勇気の章 274p

伸一は、思った。"広宣流布の使命に生きる学会のなかにも、牧口先生の時代から、メ歳の利害や、安逸、保身のために、あるいは、迫害を恐れるゆえに、同志を、いや、師匠をも裏切っていった人間がいた。これからも現れるにちがいない。しかし、断じて、そんな人間に屈してはならないし、翻弄されてもならない"

そして、全会員に"広宣流布という人生最極の理想に生き抜き、三世に輝く永遠の勝利者の道を歩んでほしい"と呼びかける思いで、「同志」という言葉を使ったのである。しかし、あえて、その二行を、削る決断をしたのだ。

新しいものを創造するには、時には、これまで作り上げてきたものへのこだわりを、躊躇なく捨てる勇気が必要な場合もある。

歌詞にも、曲にも、また、手直ししたい個所が出てきた。「ここは、『正義と勇気の 旗高く』にしようと思う。平和、慈悲といっても、仏法の正義を断じて貫こうという勇気から始まる。」「臆病を打ち破り、勇気をもって戦いを起こしてこそ、自身の人間革命がある」

一つ一つの事柄を、徹して完全無欠なものにしていくーーそれは、広宣流布の"戦人"ともいうべき彼の哲学であった。会合一つとっても、焦点の定まらぬ、歓喜の爆発がない会合など、絶対に開かなかった。それでは、忙しいなか、集ってきてくださった方々に、失礼であり、貴重な時間を奪うことにもなると考えたからだ。妥協は、敗因の温床であるからだ。

"参加者の心を一新させ、大歓喜と闘魂を燃え上がらせることができるか!"彼は、必死であった。おざなりの行動で、その場を取り繕うことはできても、待っているのは敗北である。

「『人間革命の歌』を作ったよ。みんなに勇気を送ろうと作った歌だよ。私の生命の叫びだ。今から、歌を流すからね」そして、電話口をカセットデッキの前に置き、テープをかけるのである。「この歌を歌いながら、一緒に、この世の使命を果たすために、頑張ろうよ!」

皆が歌いやすいように、転調され、低い音程に移調された。この日の夜には、早くも各地の会合で、「人間革命の歌」が、声高らかに歌われた。「人間革命の歌」は、瞬く間に、全国で、さらに、世界各地の同志にも歌われるようになっていくのである。

山本伸一は、「人間革命の歌」で戸田城聖が獄中で悟達した「われ地涌の菩薩なり」との魂の叫びを、いかに表現し、伝えるかに、最も心を砕いた。

この悟達にこそ、日蓮大聖人に直結し、広宣流布に生きる、仏意仏勅の団体である創価学会の「確信」
の原点がある。

「地涌の菩薩」の使命の自覚とは、自分は、人びとの幸福に寄与する使命をもって生まれてきたという、人生の根源的な意味を知り、実践していくことである。それは人生の最高の価値創造をもたらす源泉となる。また、利己のみにとらわれた「小我」の生命を利他へと転じ、全民衆、全人類をも包み込む、「大我」の生命を確立する原動力である。いわば、この「地涌の菩薩」の使命に生き抜くなかに、人間革命の大道があるのだ。

伸一は、若者たちが、人生の意味を見いだせず、閉そく化した精神の状況を呈している時代であるだけに、何のための人生かを、訴え抜いてきた。

この年の暮れに、学会本部の前提に「人間革命の歌」の碑が建立された。

「人間革命の歌」は、師弟の共戦譜である。そしt生命の賛歌である。碑の歌詞の最後に、伸一は、刻んだ。「恩師戸田城聖先生に捧ぐ 弟子 山本伸一」

<勇気の章 終了>









太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

人間革命の歌に込めた決意

『新・人間革命』第23巻 勇気の章 260p

日蓮大聖人は仰せである。「魔競はずは正法と知るベからず」大聖人の仰せ通りに仏法を行じて広宣流布を推進し、事実上、日本第一の教団として、民衆の幸福の道を開いてきた創価学会である。それゆえに、御聖訓に照らして、世界広布の大海原に船出した創価学会丸に、諸難の嵐が競わぬわけがないというのが、伸一の覚悟であり、確信でもあったのだ。

その吹きすさぶ嵐に向かい、広宣流布のために戦うことによって、我が胸中に、地涌の菩薩の生命が脈動し、人間革命がなされるのだ。ゆえに、伸一は、愛する同志が、何ものにも負けぬ闘魂を燃え上がらせる、勇気の歌を作らねばならないと思った。

伸一は、新しき人間文化の創造と人間主義の時代を築き上げるために、同志の心を奮い立たせる生命の賛歌を作りたかったのである。

伸一は、新しい歌を作ろうと考えた時、既に、タイトルは「人間革命の歌」にしようと決めていた。それ以外にはないと思った。

それぞれの幸福境涯の確立も、家庭革命も、社会の建設も、世界平和の創造も、すべては人間革命から始まるからだ。そして、その人間の変革を推進している。唯一無二の団体が創価学会である。まさに創価学会は「人間革命の宗教」であるからだ。

「私は、戸田先生を偲び、心で対話しながら、師弟の共戦譜となる『人間革命の歌』の制作に取り組もうと思っているんだよ。今年の後半からは、この歌を皆で声高らかに歌って、誇らかに前進していくんだ。」広宣流布の歩みは、学会歌の調べとともにある。躍動する生命の歌声とともにあるのだ。

彼は、後世永遠に歌い継がれる、最高の歌を作りたかった。だから安易に妥協したくはなかった。"努力を重ねてきたのだから、もうこれでいいのではないか"との思いが、進歩、向上を止めてしまう。その心を打ち破り、断じて最高のものを作ろうとする真剣勝負の一念から、新しい知恵が、力が、創造が、生まれるのだ。

本部幹部会で、伸一は、広宣流布の指導者として銘記すべき、6つの心得を示した。
「個人指導を大切に」
「小会合を大切に」
「言葉遣いを大切に」
「ふだんの交流を大切に」
「その家庭を大切に」
「その人の立場を大切に」

皆に意見を求めながら、伸一は、曲作りを進めていった。しかし、納得のいく曲はできないまま、時が過ぎていった。伸一は、もう一度、歌詞を遂行した。歌詞は、5行詞である。どうやら、これが、作曲を難しくしているようだ。「五行ある歌詞を、思い切って4行にしては、どうだろうか」

"歌詞のどの部分を削るのか"となると、山本伸一は、困惑せざるを得なかった。熟慮に熟慮を重ねてきた歌詞である。一言一言に、深い思いが込められていた。「残念だが、二行目を削ろう。この『同志の人びと』というところには、深い意義があるんだがね・・・。でも、仕方ないな」

伸一が、この言葉を使った背景には、若き日に読んだ、山本有三の戯曲『同志の人々』への共感があった。『同志の人々』は、幕末の、寺田屋騒動で捕らえられた8人の薩摩藩士が、薩摩に護送されていく船の中が舞台である。

船底に幽閉されている、公家の臣下である父と子を殺害すれば、軽い刑にすると告げられる藩士の同志たち。助からないなら、討幕の再挙をはかるために、殺害することもやむを得ないという意見が出される。是枝という藩士は、父と子に、維新を成就させるため、同志の犠牲となって切腹するよう、説得にあたる。父親は、是枝に自分たちの死を無駄にすることなく、維新の成就を訴える。父親の遺言は「ただ同志の方々に、よろしくとお伝えください」であった。

山本伸一は、青年時代に『同志の人々』を読んだとき、強く胸に打たれた。志をもった人間の生き方に、鋭い示唆を投げかける作品であると思った。是枝の苦渋の選択に、理想と現実の狭間で、矛盾と向き合い、葛藤を越えねばならぬ、革命に生きる人生の厳しさを感じた。

また、再挙を理由に、同志の殺害を決めた藩士たちと、死んでいった公家臣下の父子と、人間として、どちらが勝者で、どちらが敗者かを考えざるを得なかった。

やがて幕府は倒れ、明治維新は訪れる。しかし、いかに自己正当化しようとも、藩士たちが、討幕を誓い合った父子の殺害を決めたことは、同志への裏切りにほかならない。同志を裏切ったという事実は、自身の生命に無残な傷跡を刻み、永遠にうずき、さいなみ続けるにちがいない。



太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

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