小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

使命

会長辞任の真実

『新・人間革命』第30巻(上) 大山の章 26p~

このころ、学会は、絶頂期を迎えていたといってよい。いわば、最高の上げ潮をもって、学会は1979年(昭和54年)という、「七つの鐘」終了の佳節を迎えたのだ。伸一には、いつでも、師の戸田城聖に胸を張って勝利を報告できるとの自負があった。

伸一には、以前から考えてきたことがあった。それは、会長の交代であった。いつかは辞任したい旨の意向を何度か執行部に伝えたが、会長は「終身」であることを理由に反対された。宗教法人としての創価学会の代表役員を理事長に委譲した際や、77年にも交代の話を出したが認められなかった。

しかし、“折を見て会長の交代を”とも考えていた。また、仏法者として世界を展望する時、伸一には、やらねばならぬことも多々あった。世界平和の建設のため、より広範に具体的な行動も起こしていきたかった。世界の指導者との対話も、さらに重ねていく必要性を感じていた。

そして、何よりも、世界広布は、いよいよこれから本格的な建設期を迎える段階にある。だが、自分が世界へと大きく踏み出すならば、日本国内のバトンを受け継ぐ者は、激浪の海へと船出していくことになる。後を託す幹部には、信心の透徹した眼で魔を魔と見破り、勇猛果敢に戦い進んでいく決意と行動が不可欠になろう。それだけに伸一は、今こそ皆に勇気をもってほしかった。

4月5日、伸一は学会の首脳会議に出席した。宗門との問題に、いかに対処するかを協議する場である。集っていたのは、十条をはじめ、数人の中心幹部である。皆、沈痛な面持ちであった。

伸一は、いよいよ魔が、その目論見を露わにしたと思った。彼を会長辞任に追い込み、創価の師弟を離間させようとする陰謀である。それは、結果的に、広宣流布を進めてきた仏意仏勅の団体である創価学会を破壊することにほかならない。魔の蠢動は、信心の眼をもって見破るしかない。

伸一が、一人の幹部に意見を求めると、つぶやくように語った。「時の流れは逆らえません・・・」なんと臆した心かーー胸に痛みが走った。

伸一は、自分が頭を下げて混乱が収まるならば、それでよいと思っていた。辞任は避けられないかもしれないとも考えていた。また、皆が対応に苦慮し続けてきたことも、よくわかっていた。しかし、それにしてもふがいないのは“時流”という認識である。

“ただ状況に押し流されて、よしとするなら、いったい学会精神はどこにあるのか!大事なのは、広宣流布のために学会を死守しようという奥底の強い一念ではないか!”

伸一の声が静寂を破った。「わかった。私は、法華講の総講頭も、学会の会長も辞めよう。一切の責任を負う。それでいいんだな!すべては収まるんだな!しかし、会長の辞任は、宗門ではなく、学会が決めることだ。私が会長を辞めるのは、前々から考えてきたことであり、学会の未来を開くためだ」

伸一には“宗門が創価学会の会長を圧力で辞めさせるなどという前例を、絶対につくってはならない。また、そんなことになれば、宗門の歴史に、永遠に汚点を残すことになるだろう”との思いもあったのである。

戦後、宗門が危殆に瀕した時、外後の赤誠をもって、それを救ったのは学会である。そして、何よりも学会は、伸一を先頭に死身弘法の戦いをもって実際に大聖人の御遺命通りに広宣流布を邁進し、世界に妙法を流布してきた唯一無二の仏意仏勅の団体だからだ。

広布の道は第六天の魔王との壮絶な闘争である。信心をもって、その魔を見破り、戦い、勝ってきたからこそ、学会は広宣流布の大潮流をつくることができたのである。

戸田城聖は、弟子たちに、「第三代会長を守れ!絶対に一生涯守れ!そうすれば、必ず広宣流布できる」と遺言していた。ここに、常勝の道を開く団結の要諦がある。しかし、恩師が広宣流布のために言い残した精神を皆が忘れかけていることに、心が震撼する思いがした。

彼は、学会の前途を見すえながら、祈るような気持ちで首脳幹部に言った。「私は師子だ!何も恐れはしない。皆も師子になれ!そうでなければ、学会員がかわいそうだ。烈々たる闘争心と勇気をもって、創価の師弟の大道を歩み抜くのだ。その一念が不動ならば、いかなる事態にも学会は揺らぐことはない。戸田先生は見ているぞ!」彼は、席を立ち、部屋を出ていった。

伸一は、牧口常三郎と戸田城聖の師弟の大闘争と思った。創価の師とは、広宣流布を誓願し、現代に出現した「地涌の菩薩」の棟梁であり、前進の主軸である。そこに弟子の一念がかみ合ってこそ歯車は大回転を開始する。ゆえに、師弟の結合こそが創価の生命線となるのだ。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

これが創価学会だ

『新・人間革命』第24巻 人間教育の章 193p

<人間教育の章 開始>

創価学会はどこにあるのかーー。遠く彼方にあるのではない。自分が暮らし、日々戦い、励ましの歩みを運ぶ、わが地域、わが地区、わがブロックにこそ、絢爛たる創価の大城があるのだ。ゆえに、そこに、「わが組織を見よ。これが創価学会だ!」と胸を張れる、歓喜と麗しき人間共和の実像をつくらねばならない。

わが組織に、功徳の体験の花は咲き薫っているか!信心の歓喜と確信はあふれているか!宿命の嵐に敢然と挑み立つ、勇気はみなぎっているか!仏道修行への挑戦と、切磋琢磨はあるか!粘り強い
励ましの対話はあるか!信頼の絆と団結はあるか!皆に創価の師弟の誇りは脈打っているか!

御聖訓には、「法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此を去って彼に行くには非ざるなり」と仰せである。自分が今いる活動の舞台が、「当詣道場」、すなわち、一生成仏のための仏道修行の場となるのだ。したがって、どこか別の世界に、本当の「創価学会」があるなどと考えるのは誤りである。

"広宣流布の建設とは、まず、自分のいる組織を、盤石に築き上げていくことだ。それには、自身が、建設の勇者となることだ。誰かではない。自分が立つのだ。一人立つーーそこから、すべては始まる。それが、創価の永遠の精神だ。皆が山本伸一の分身だ。皆が会長だ!"これが、伸一の生命の叫びであった。

1977年(昭和52年)「教学の年」は、大ブロックの教化をめざし、活動方針の一つに「座談会運動で魅力ある大ブロックの建設」を掲げてスタートした。さらに、毎月、「大ブロック建設週間」を設け、座談会を中心に、全幹部が大ブロックに入り、協議会や家庭指導に力を入れていくことになったのである。

山本伸一は、大ブロック担当員勤行会で訴えた。「私たちの現実の日々は、悩みだらけでしょう。学会活動の場でも、"わからずや"ばかりで、もうやっていられないと思うこともあるかもしれない。病苦と闘っている方もいるでしょう。しかし、戸田先生は、大確信をもって、よく、こう言われておりました。『朝晩の勤行を励行し、懸命に唱題氏、折伏を行っていくならば、人間革命できないわけがない。幸福にならないわけがない。これだけは断言しておきます』」

伸一は、集った大ブロック担当員の生命の奥深く、仏法への大確信を打ち込んでおきたかった。彼に話は一転して、家庭での振る舞いに移った。「人間革命といっても、決して特別なことではないんです。一例をあげれば、・・・いつも怒りっぽかったのに、怒らなくなった。笑顔で接するようになった。よく気遣いできるようになった。ーーそれが、人間革命なんです。

幸せといっても、自分の身近なところにあるんです。家庭で、隣近所との付き合いの中で、あるいは、職場で、いい人間関係をつくれるかどうかです。そして、心から感謝でき、幸せだと思えるーーそこに、幸福があるんです。」

最後に彼は、「愚痴」について語っていった。「せっかく頑張っても、愚痴ばかり言っていると、その福運を消してしまうし、功徳もありません。卑近な例でいえば、風邪を治そうと薬を飲みながら、薄着をして、雨に打たれて歩いているようなものです」

「愚痴の怖さは、言うたびに、胸中に暗雲を広げていくことです。心を照らす太陽が闇に覆われ、希望も、感謝も、歓喜も、次第に薄らいでいってしまう。御聖訓にも『わざわいは口より出でて身を破る』と仰せです。さらに、愚痴っぽい人というのは、自分では気づかぬうちに、全体の空気を重くし、人のやる気をも奪っていく」

「つまり、広宣流布への勢いを削ぎ、戦いの力がみなぎるのを止めてしまっているんです。それでは、功徳どころか罰を受ける結果になりかねない。だから、皆で、互いに戒め合っていくことが大事なんです。大聖人が『心こそ大切』と仰せのように、大事なことは、どういう一念で信心に励んでいくかです。どうせ信心をするなら、愚痴を言いながらではなく、自ら勇んで、実践していかなければ損です」

婦人部は、創価学会の太陽である。その婦人たちの、はつらつとした姿が、包容の微笑みが、幸の光源となって、暗く閉ざされた友の心に降り注いでいくのだ。


太字は 『新・人間革命』第24巻より 抜粋

波濤を越えて「働く海の男の写真展」

『新・人間革命』第22巻 波濤の章 246p 

「尾道丸」の海難事故を受け、運輸省は、船の強度や三角波の実態など、本格的に研究が進めれた。その結果、コンピューターによる安全運行システムが開発され、船の設計基準も大きく変わっていった。それによって、"魔の海域"での海難事故は激減していくことになる。

「だんぴあ丸」による「尾道丸」の救助活動は、その後、何度か、テレビのドキュメンタリー番組などに取り上げられ、NHK総合テレビの「プロジェクトX~挑戦者たち~」が、この救出劇を取り上げた。それは日本中に大きな感動を広げた。

1982年(昭和57年)3月第1回の「波濤会総会」が開催された。伸一は、全精魂を傾ける思いでスピーチした。「行き詰ってしまい、もう自分の人生は駄目なのかと、思うこともあるかもしれない。しかし、何があろうが、信心から離れてはならない。苦境に陥った時こそ、祈って祈って、祈り抜くんです。広宣流布のために戦い切っていくんです。その時こそが、宿命打開のチャンスなんです」

伸一は必死であった。海運業界は、今後、ますます厳しくなっていくであろうことを、強く感じていた。1985年9月、ドル高修正に向けて協調介入をとっていく「プラザ合意」で1ドル240円前後から、2年後には、120円台になるという、急速な円高となっていった。

海運会社は日本人船員の削減を進め、5万5千人近かった日本人船員が、89年には1万1千となった。海運業界の前途は暗澹としていた。

"船員たちになんらかのかたちで、希望と勇気と誇りを与えることはできないものか"メンバーの間から「波濤会」のメンバーによる写真展の開催が提案された。

学会の週刊写真誌「聖教グラフ」では、「波濤を越えて」と題するメンバーが撮影したカラー写真と紀行文からなる連載を続けていた。なかなか行けない場所や、航海中でなければ出会えない珍しい光景が撮影され、迫力に富み、好評を博していたのである。

山本伸一に、メンバーの考えと決意を伝える手紙をしたためた。伸一は手紙を読むと「メンバーは、自分たちの明日が、どうなるかもわからないような状況のなかで、海運業界を元気づけようというのだ。その心意気が嬉しいね。これが、学会の精神だ。」

「学会の草創期、学会員は、みんな貧しく、病気や家庭不和などの悩みをかかえていた。しかし、そのなかで、自分たちが日本中の人を幸せにするのだといって、意気揚々と折伏に走った。自分の悩みなどを突き抜けて、友のため、社会のために、懸命に戦ってきた。大事なことは心意気だ」


写真展は「波濤を越えてーー働く海の男の写真展」のタイトルで、横浜にある、日本丸メモリアルパークの訓練センターで開催されることが決まった。彼らは会社の社長や上司、同僚、組合関係者、海運の各種団体などを回っては、写真展の趣旨を訴え、出席を呼びかけた。


海運会社のある重役の問いに、メンバーは胸を張って答えた。「仏法を持った者として、業界が大変な時だけに、なんらかのかたちでエールを送りたいと思いました」

開幕式には東京商船大学の学長や日本船長協会の会長をはじめ、多くの海運関係者が出席。鑑賞者は最終的に2千人を超えた。

第二回の写真展が開幕した1988年、伸一は 波濤会の代表を招いて懇談した。そして、「波濤会」の写真を、伸一の写真展と一緒にセットで 世界に巡回させることを伝えた。さらに、ソ連の海運大臣と会談した折、波濤会のメンバーの活躍を紹介し、交流を検討するよう話した。

それを知ったメンバーは"日ソ友好のために、力を尽くしていこう!"とさまざまな可能性を探った。ロシアを訪問する豪華客船の乗組員のなかにいた波濤会メンバーが、通訳にあたっていたロシアの極東国立総合大学の学生たちと友好を結び、個人的にも交流に努め、何度かウラジオストクを訪問した。

交流の種子が蒔かれた、丹精して育て上げることだ。誠実な交流を重ねてこそ、種は芽吹き、友情の花は開く。彼らは、学生たちからS・N・イリイン東洋学部長を紹介され、大学で、写真展を開催してはどうかと提案し、実現させようとの話がまとまった。

メンバーから報告を聞き、学会本部の首脳たちは戸惑った。大学に打診する前に、学会本部とよく連携を取り、一つ一つ判断を仰いで事を進めるのが、鉄則である。事は、創価学会と極東大学、創価学会とロシアという問題になるからだ。

当時、ロシアではソ連崩壊後の社会的な混乱が続いていた。そのなかにあって、極東大学で写真展を開催することに、学会本部の首脳たちは慎重にならざるを得なかったのだ。


太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋

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