『新・人間革命』第30巻(上) 大山の章 100p~
伸一は、1951年(昭和26年)の1月6日、恩師、戸田城聖が最も窮地に立たされていた時、自宅へ呼ばれ、後事の一切を託された日のことを思い出した。残務整理のために、伸一を自宅に呼んだのである。「私に、もし万一のことがあったら、学会のことも、組合のことも、また、大東商工のことも、一切、君に任せるから、引き受けてくれまいか。そして、できることなら、私の家族のこともだ」
戸田の目は、広布の未来を見すえていた。その未来へ、創価の魂の水脈を流れ通わせるために、彼は山本伸一という一人の弟子に、後継者として一切を託そうとしていたのである。
この時、伸一の脳裏に、湊川の戦いに赴く武将・楠木正成と長子・正行の父子が交わした別れの語らいが浮かんだ。伸一は、今、静岡研修道場にあって、後継の人を残して決死の大戦に赴こうとする勇将の胸の内を、そして、わが師の思いを噛み締めていた。
彼もまた、十条ら新執行部に、さらには後継の若き人材たちに、これからの学会を託して、新しき世界広宣流布へと旅立つことを思うと、あの時の戸田の覚悟が強く心に迫ってくるのである。
伸一は、しみじみと思うのであった。“戸田先生は、私という一人の真正の弟子を残した。全生命を注ぎ尽くして、仏法を、信心を教え、万般の学問を授け、将軍学を、人間学を伝授し、訓練に訓練を重ねてくださった。また、先生の事業が破綻し、烈風に立ち向かった、あの辛酸の日々を過ごしたことも、師子として私を鍛え上げるための、諸天の計らいであったのかもしれない。
私も会長就任以来19年、全精魂を傾けて後継の人材を、一陣、二陣、三陣、四陣…と育ててきた。しかし、その本格的な育成は、いよいよこれからだ。後を継ぐ第一陣ともいうべき首脳幹部たちは、嵐の中に船出し、学会の全責任を担い、懸命に戦うなかで、真正の師子となってもらいたい。
退路なき必死の闘争が覚悟を決めさせ、師子の魂を磨き上げるからだ。それに、今ならば、私も彼らを見守り、個人的に励まし、一人の同志としてアドバイスしていくこともできる。執行部を、後継の同志を、正行のように、討ち死になど、断じてさせるわけにはいかぬ!”そう考えると、すべては御仏智であると、伸一は強く確信することができた。
彼は、青年たちに、その思いを伝えるために、“大楠公”の歌のピアノ演奏をテープに収め門下の代表に贈ろうと思った。“立てよ!わが弟子よ、わが同志よ。勇み進め!君たちこそが伸一なれば!”と心で叫びながらーー。
5月3日ーー「七つの鐘」の総仕上げを記念する第40回創価学会本部総会が、八王子の創価大学の体育館で行われた。この総会には、法主の日達をはじめ、宗門僧の代表も出席することになっていた。伸一は、モーニングに身を包み、丁重にお辞儀をし、僧たちを迎えた。
しかし、多くはあいさつもせず、無表情に、傲然と通り過ぎていく。なかには、したり顔で一瞥し、冷ややかな笑いを浮かべるものさえいる。
伸一の脳裏には、悪僧の冷酷な仕打ちに苦しんできた学会員の悲痛な顔が浮かんでは消えた。今回、自分が身を引くことで、宗門が言うように事態が収まるなら、それでよいと彼は思った。守るべきは誰かーー健気な学会員である。最愛の同志である。尊き仏子たちである。そのために自分は盾になり、犠牲にもなろうと、彼は心を定めていたのである。
この日の総会には、いつもの学会の会合に見られる、あの弾けるような生命の躍動も歓喜もなかった。運営にあたる幹部らは、僧たちを刺激するまいと、腫れ物に触るように、彼らの顔色に一喜一憂していた。
開会前には、青年部の幹部から、伸一の入場や登壇の折に、声をかけたり、歓声をあげて拍手をしたりすることのないように徹底された。それを聞いた伸一は、修羅に怯えるかのような、その心根が悲しかった。
伸一を見つめる参加者の目は真剣そのものであった。“大丈夫だ!いよいよこれからだよ”と心で語りかけながら場内を見渡し、にっこりと微笑み、一礼した。そこには、いつもと変わらぬ伸一がいた。
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
伸一は、1951年(昭和26年)の1月6日、恩師、戸田城聖が最も窮地に立たされていた時、自宅へ呼ばれ、後事の一切を託された日のことを思い出した。残務整理のために、伸一を自宅に呼んだのである。「私に、もし万一のことがあったら、学会のことも、組合のことも、また、大東商工のことも、一切、君に任せるから、引き受けてくれまいか。そして、できることなら、私の家族のこともだ」
戸田の目は、広布の未来を見すえていた。その未来へ、創価の魂の水脈を流れ通わせるために、彼は山本伸一という一人の弟子に、後継者として一切を託そうとしていたのである。
この時、伸一の脳裏に、湊川の戦いに赴く武将・楠木正成と長子・正行の父子が交わした別れの語らいが浮かんだ。伸一は、今、静岡研修道場にあって、後継の人を残して決死の大戦に赴こうとする勇将の胸の内を、そして、わが師の思いを噛み締めていた。
彼もまた、十条ら新執行部に、さらには後継の若き人材たちに、これからの学会を託して、新しき世界広宣流布へと旅立つことを思うと、あの時の戸田の覚悟が強く心に迫ってくるのである。
伸一は、しみじみと思うのであった。“戸田先生は、私という一人の真正の弟子を残した。全生命を注ぎ尽くして、仏法を、信心を教え、万般の学問を授け、将軍学を、人間学を伝授し、訓練に訓練を重ねてくださった。また、先生の事業が破綻し、烈風に立ち向かった、あの辛酸の日々を過ごしたことも、師子として私を鍛え上げるための、諸天の計らいであったのかもしれない。
私も会長就任以来19年、全精魂を傾けて後継の人材を、一陣、二陣、三陣、四陣…と育ててきた。しかし、その本格的な育成は、いよいよこれからだ。後を継ぐ第一陣ともいうべき首脳幹部たちは、嵐の中に船出し、学会の全責任を担い、懸命に戦うなかで、真正の師子となってもらいたい。
退路なき必死の闘争が覚悟を決めさせ、師子の魂を磨き上げるからだ。それに、今ならば、私も彼らを見守り、個人的に励まし、一人の同志としてアドバイスしていくこともできる。執行部を、後継の同志を、正行のように、討ち死になど、断じてさせるわけにはいかぬ!”そう考えると、すべては御仏智であると、伸一は強く確信することができた。
彼は、青年たちに、その思いを伝えるために、“大楠公”の歌のピアノ演奏をテープに収め門下の代表に贈ろうと思った。“立てよ!わが弟子よ、わが同志よ。勇み進め!君たちこそが伸一なれば!”と心で叫びながらーー。
5月3日ーー「七つの鐘」の総仕上げを記念する第40回創価学会本部総会が、八王子の創価大学の体育館で行われた。この総会には、法主の日達をはじめ、宗門僧の代表も出席することになっていた。伸一は、モーニングに身を包み、丁重にお辞儀をし、僧たちを迎えた。
しかし、多くはあいさつもせず、無表情に、傲然と通り過ぎていく。なかには、したり顔で一瞥し、冷ややかな笑いを浮かべるものさえいる。
伸一の脳裏には、悪僧の冷酷な仕打ちに苦しんできた学会員の悲痛な顔が浮かんでは消えた。今回、自分が身を引くことで、宗門が言うように事態が収まるなら、それでよいと彼は思った。守るべきは誰かーー健気な学会員である。最愛の同志である。尊き仏子たちである。そのために自分は盾になり、犠牲にもなろうと、彼は心を定めていたのである。
この日の総会には、いつもの学会の会合に見られる、あの弾けるような生命の躍動も歓喜もなかった。運営にあたる幹部らは、僧たちを刺激するまいと、腫れ物に触るように、彼らの顔色に一喜一憂していた。
開会前には、青年部の幹部から、伸一の入場や登壇の折に、声をかけたり、歓声をあげて拍手をしたりすることのないように徹底された。それを聞いた伸一は、修羅に怯えるかのような、その心根が悲しかった。
伸一を見つめる参加者の目は真剣そのものであった。“大丈夫だ!いよいよこれからだよ”と心で語りかけながら場内を見渡し、にっこりと微笑み、一礼した。そこには、いつもと変わらぬ伸一がいた。