小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

使命

長野研修道場伝統の研修会

『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 158p~

伸一は、記念撮影の準備・運営にあたった役員の青年たちに語りかけた。そして、駐車場の草刈りなど、陣頭指揮を執っていた長野県の男子部長に言った。「雨の中、君たちが泥まみれになって草刈りをしていた姿を、私は永遠に忘れません。学会員に尽くし抜いていく。それが私との共戦です。

長い人生には、失敗も、挫折もあるかもしれない。しかし、それでも前へ進むんです。いちばん大事なことは、何があろうが、生涯、学会から離れず、同志のため、広布のために、献身していくことです。

自分が脚光を浴びようとするのではなく、冥の照覧を信じて、広宣流布に生き抜くんです。それこそが本当の勇気です。その時に、自身が最も輝くし、その人こそが、人生の最高の勝利者です。私は、みんなのことを、じっと見続けていきます」

県長の斉田高志に語った。「長野研修道場は、地の利も良いし、夏は涼しく、美しい自然に恵まれている。これからは、全国、全世界の同志がここに集い、研修会も盛んに行われ、世界の人びとの憧れの地となるでしょう。

したがって、その研修道場のある長野県創価学会もまた、世界一の人材山脈がそびえ、世界一の人間共和の模範となる組織を目指してほしい。世界の同志から、『信心は長野に学べ!』と言われるようになってもらいたいというのが、私の願いなんです。

それには、団結しかない。それぞれの地域の特色を最大限に生かしながら、広宣流布のために、皆が心を一つにしていくことです。そうしていくには、県長が同志のために必死に尽くすことです。

リーダーが怠惰でいいかげんな姿勢であれば、人はついてこないし、団結もできない。そうなれば会員がかわいそうです。真剣で、誠実であることが、人びとの信頼につながっていきます。懸命に走り抜くんだよ」

人材の育成は、来る日も来る日も、一人ひとりの心田に発心の種子を植える作業から始まる。伸一は、長野滞在中、身をもってそれを教えようとしてきたのである。行動に勝る、人を育むための教科書はない。伸一は、長野の同志に対して、全精魂を注いで激励に次ぐ激励を重ね、8月28日、敢闘の9日間を過ごして東京へ戻った。

この長野訪問は、長野広布の歩みのうえでも、創価学会の歴史のうえでも、時代を画する新しいスタートとなった。しかし、それが「聖教新聞」に大きく報道されることはなかった。伸一は、翌年も、翌々年も長野研修道場を訪問し、ここから清新なる広布の波動を起こしていくことになる。

同研修道場での研修は、年ごとに規模を大きくし、充実したものになっていった。そして、この研修会は、学会の新しき伝統行事となり、広布伸展の原動力となっていくのである。また、研修道場には、世界の識者も多数訪れ、平和・教育・文化交流の舞台となっていった。

伸一が戸田城聖の精神と偉業を永遠に記し伝えることを誓った後継の天地・軽井沢は、新しき前進と創造の電源の地となったのだ。彼が1993年(平成5年)8月6日、小説『新・人間革命』を起稿したのも、長野研修道場であった。

長野の同志は、この研修道場での伸一との出会いと共戦を、最高、最大の誇りとし、果敢に地域広布の大道を開いてきた。師子の誇りこそ、不撓不屈の闘魂となり、勇気の光源となる。そして、勝利の大力となる。

山本伸一の功労者宅を中心とした家庭訪問は続いた。伸一は、念願であった個人指導に、多くの時間を割き、同志と語り合えることが何よりも嬉しかった。その堅実な行動のなかにこそ、学会活動の醍醐味があるからだ。

山本伸一は、創立者として創価大学、創価高校・中学、東京創価小学校の諸行事等にも、極力、出席するように努めた。彼は、人生の最後の事業と定めた教育に、今こそ、最大の力を注ごうと決意していたのである。

11月2日には、創価大学の「創大祭」に、3日には、創価大学の卒業生の集いである「創友会」の総会に出席した。「創友会」総会に集った一人が報告した。「私たちは、確認し合いました。『もう創立者に決意を述べている時代は終わった。これからは、“実際に、こうしました。こうなりました”と結果をもって集う実証の時代である。それが、弟子が立つということである』と」

伸一の顔に笑みが浮かんだ。「そうか。嬉しいね。みんなが創立者の自覚で道を開いていくんだ。それが、わが創価教育の栄えある伝統なんだから」


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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長野研修道場での記念撮影

『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 144p~

いかなる権威、権力をもってしても、師弟の心の絆を断つことなど断じてできない。退転・反逆者や宗門僧は、創価の師弟を分断しようと、伸一が会合で指導したり、「聖教新聞」に登場したりできないように、陰で画策を進めてきた。その逼塞した状況のなかで、学会のなかに、暗い空気がつくられていた。

伸一は、大きな会合への出席を制約されれば、家庭訪問、個人指導に奔走した。会合での話をするなというのであれば、和歌や俳句を詠み、ピアノを弾いて激励した。

伸一は、入会32周年となる8月24日を、長野研修道場で迎えた。新しい決意で出発を誓い、真剣に勤行した。昼過ぎには、青年たちと自転車で周辺を回った。戸田城聖が最後の夏を過ごした地を巡ることで、在りし日の恩師を偲びたかったのである。

この日の夕刻も、伸一は、地元の同志の家を訪問し、集った人たちと懇談した。彼は、制約のあるなかで、どうすれば同志を励まし、勇気づけることができるか、祈りに祈り、智慧を絞った。広宣流布への強き一念と祈りがあるかぎり、いっさいの障壁を打ち砕き、必ず勝利の道を切り開いていくことができるのだ。

伸一は、佐久市の功労者宅を訪問するため、長野研修道場を出発した。50分ほどで、佐久市の石塚勝夫の家に着いた。石塚は40過ぎの壮年で、佐久本部の本部長をしていた。石塚宅から伸一が向かったのは、蔵林龍臣の家であった。蔵林家は江戸初期から庄屋を務めた旧家であり、母屋は築350年で、地元では「鶯館」と呼ばれているという。

蔵林家では、主の龍臣と妻の吉乃の孫たち10人が、琴やハーモニカ、横笛の演奏、合唱などで、伸一たちを歓迎した。子どもから孫へと信心が受け継がれ、すくすくと育っている未来っ子の姿が微笑ましかった。仏法が、地域へ、社会へと広まり、そして子どもたちへ、未来へと継承されていってこそ、広宣流布の流れが創られていく。

26日は、長野研修道場での記念撮影の日である。「希望する方は、全員、参加してください」との連絡を聞いて、長野全県から同志が研修道場に集ってきた。伸一が、ほとんど「聖教新聞」にも登場しなくなってから4か月近くになっていた。皆、ひと目でも伸一と会いたかった。そして、広宣流布への誓いを新たにしたかったのである。

学会の強さは、伸一が会員一人ひとりと結んできた師弟の糸と、同志の糸によって縒りあげられた、団結の絆にこそある。長野研修道場には、三台の撮影台が設置されていた。80代半ばだという老婦人には、力強く、こう語った。「21世紀まで生きて、広宣流布の未来を見届けてください。学会は、さらに大発展します。世界に大きく広がります。私は今、そのための戦いを開始したんです」

壮年には、断固たる口調で宣言した。「学会の正義は、必ずや明確になります。また、宗門僧による理不尽な攻撃や、一部の週刊誌による無責任な批判が続いていますが、そんなことで心が揺らげば、必ず後悔します。日蓮大聖人の仰せのままに広宣流布してきたのは学会しかありません。この厳たる事実を絶対に見失わないことです。戦おう!」

「師匠が表に出て動けないならば、師に代わって立ち上がるのが弟子です。私と会えなければ元気が出ない、勇気も湧かないというのであれば、真の師弟ではない。師をしのぐ果敢な実践をもって、広宣流布の未曽有の上げ潮をつくっていくんです。

私が君たちを指導・激励し、全力を注いで育成してきたのは、こうした時のためです。今こそ、『私たちに任せてください!弟子の戦いを見てください!』と胸を張り、私に代わって同志を励まし、元気づけていくのが師弟だ!君たち一人ひとりが山本伸一なんだよ!

私は、肝心な時に力を発揮できないような弱虫を育ててきた覚えはありません。今こそ君たちが、学会を、それぞれの地域を担っていくんだ。その重要な時に感傷的になって、力を出せないことほど、情けない話はありません。それが、今の私の思いだ。魂の叫びです。頼んだよ!」

記念撮影が終わったのは、午後4時近かった。撮影回数は30回ほどになり、一緒にカメラに収まった人は三千人を超えた。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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人間革命の執筆を決意

『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 132p~

この夏、世界41か国3地域のSGIメンバー1300人が来日していた。伸一は、SGI会長として出席し、メンバーを激励した。全世界から、求道の心を燃やし、喜々として集ってきた同志を目の当たりにして、伸一は、いよいよ世界広布の新時代が到達したとの思いを強くするのであった。

8月20日の午後、山本伸一は、長野県・軽井沢町の長野研修道場へ向かった。軽井沢は、戸田城聖が逝去前年の1957年8月に訪れ、最後の夏を過ごした地である。戸田は、伸一と森川一正を招き、鬼押出しに車を走らせて、奇岩の連なる景観を見せ、ホテルで共に食事をした。大阪事件で不当逮捕された伸一を、ねぎらいたかったのである。

師弟の語らいは弾み、話題は、戸田が「妙悟空」のペンネームで執筆した小説『人間革命』に及んだ。戸田は、「巌窟王」のごとく臥薪嘗胆し、軍部政府の弾圧で殉教した師の敵を討つことを深く心に誓ったのだ。その復讐とは、恩師の正義を証明することであった。師の正義を宣揚し抜いていくことこそ、弟子に課せられた責務にほかならない。

伸一は、深く心に期すことがあった。ーー戸田の『人間革命』は、彼の分身ともいうべき「巖さん」が、獄中で、生涯を広宣流布に生き抜く決意をしたところで終わる。

1945年(昭和20年)7月3日、戸田は、獄死した師の牧口常三郎の意志を受け継ぎ、生きて獄門を出る。その後、戸田が現実に何を成し遂げ、いかにして日本の広宣流布の基盤を築き上げたかーー伸一は、それを書き残さなければ、師の偉業を宣揚することも、牧口と戸田を貫く創価の師弟の精神を後世に伝えることもできないと思った。

伸一は、“先生の真実を記すことができるのは、私しかいない。また、それが先生の私への期待であり、弟子としての私の使命であろう”この時、彼は、これまでに何度か考えてきた、戸田の『人間革命』の続編ともいうべき伝記小説の執筆を、確固不動の決意としたのだ。長野県は、創価の師弟の精神を永遠ならしめる誓いの天地となったのである。

戸田が最後の夏を過ごした地を、世界広宣流布への新たな幕を開く最初の夏に訪れたのである。この宿縁の地から、新しい創価学会の建設に着手しようと心に決めていたのだ。

長野県長の斉田高志と握手を交わしながら語っていった。「地涌の菩薩の使命を自覚するならば、どんなに動きを拘束され、封じ込められようが、戦いの道はある。智慧と勇気の闘争だ。

大聖人は『いまだこりず候』と言われ、いかなる迫害にも屈せず、戦い抜かれたじゃないか!みんなも、生涯、何があっても、いかなる立場、状況に追い込まれようとも、広宣流布の戦いを、信心の戦いを、決してやめてはいけないよ。私は、会員の皆さんのために戦い続けます」

小諸本部の副本部長である木林隆の家を訪問した。11年前に交わした約束を果たしたのである。夜には、軽井沢支部の初代支部長・婦人部長を務めた田森寅夫と妻のタミとも語り合った。

寅夫は、一流ホテルで修業を積んだパン職人で、念願であった店舗を購入できたことなどから、信心への確信を強くし、歓喜を胸に弘教に励んでいった。

しかし、周囲には、学会に偏見をいだき、彼が信心をすることを快く思わぬ人たちが多くいた。客足も遠のいていった。学会の先輩は、確信をもって訴え、指導した。当時の学会員は、大なり小なり、こうした事態に直面した。そのなかで同志は、ますます学会活動に闘魂を燃やしていった。そして、御書を拝しては、互いに励まし合ってきたのである。

学会活動は御書と共にあり、生活のなかに教学があった。そこに学会の崩れぬ強さがある。思えば、それは、第二代会長の戸田城聖が、『日蓮大聖人御書全集』の刊行を成し遂げたからこそ可能となったのである。

伸一は、恩師が語っていた言葉を紹介した。「戸田先生は、『将来、ここで夏季研修会を開きたいな』と、しみじみと話しておられた。ここに研修道場ができたことによって、恩師の構想実現へ、また一歩前進することができました。

やがて、長野研修道場には、全国、いや全世界の同志の代表が集うようになり、いわば、広宣流布の電源の地となっていくでしょう。それだけに、この長野県に、世界模範の創価学会を創り上げてください。私も、全力で応援します」

同志は、伸一の姿を瞼に焼きつけ、“創価の師弟の大道を誇らかに歩もう”と、決意を新たにするのであった。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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世界の流れを開く対話

『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 123p~

<雌伏の章 開始>

第三代会長を辞任し、名誉会長になった山本伸一は、1979年(昭和54年)5月3日の本部総会で、十条潔新会長のもと、新体制がスタートしたことを見届けると、世界広布の新しい雄飛のために行動を開始した。

同志との励ましの対話に徹し、また、世界平和への流れを開くために、各国の大使や識者らとの語らいに努めた。対話の力こそが、次代を開く平和力となる。

伸一は、学会本部に行くことを、なるべく控えるようにしていた。彼は、深い祈りを捧げながら、「獅子の子落とし」の言い伝えを思い起こした。今、彼も、同じ思いで、後継の奮闘を見守っていたのである。

週刊誌などのマスコミは、毎週のように伸一の会長辞任などを取り上げ、囂しかった。学会批判を繰り返してきた評論家らが登場し、学会は滅亡に向かうといった、邪推に基づく無責任な報道も続いていた。

そのなかで彼は、行く先々で学会員の姿を見ると声をかけ、激励を重ねていった。記念のカメラにも収まった。何があろうが、広宣流布の軌道を外さず、自ら定めたことを、日々、黙々と実行していくーーまさに太陽の運行のごとき前進のなかにこそ、人生の栄光も広布の勝利もある。

彼は、世界を結び、確かな平和への道を開くために、各国の識者や大使らとも積極的に交流を図っていた。5月19日には、中日友好協会の廖承志会長と都内のホテルで会談した。2009年10月中国・広州市にある仲愷農業工程学院から、伸一と妻の峯子に、それぞれ名誉教授の称号が贈られる。さらに同校には、廖承志と伸一の研究センターがつくられ、2010年11月に開所式が行われた。

彼は、5月22日には、ソ連のノーボスチ通信社の国際部長や論説委員、大使館関係者らと語り合った。米ソ第二次戦略兵器制限交渉や、アジアおよび世界の平和・文化・教育の問題などをめぐって意見交換したのである。その席で伸一に、強い訪ソの要請が出されたのだ。

伸一は、平和友好の対話を積極的に推進していった。特に、アフリカの関係者らとの語らいに力を注ぐようにしていた。21世紀は「アフリカの世紀」になるというのが、彼の信念であったからだ。また、長年、大国の植民地として支配され、貧困や飢餓に苦しんできたアフリカの平和と繁栄が約束されなければ、人類の未来はないと痛感していたからである。

彼は、海外の要人と会話する一方で、日本の有識者とも対話を重ねていった。また、その間隙を縫うようにして、共に広宣流布に汗を流してきた同志の家を訪問し、激励に努めた。

伸一は、草創の同志と会うと、決まって言うことがあった。それは、「人生は、総仕上げの時が、最も大切である」ということであった。過去にどんなに活躍し、栄光の歴史を残したとしても、晩年になって退転してしまえば、結局は敗北の人生となってしまう。

「生涯求道」「生涯挑戦」「生涯闘争」の精神を保ち続けていくなかにこそ、三世永遠にわたる燦然たる生命の勝利がある。

山本伸一が法華講総講頭、学会の会長を辞任することで、若手僧らによる学会攻撃はピリオドが打たれることになっていた。それでも若手僧の寺の多くが、御講の席などで、学会への中傷、攻撃を繰り返していたのである。

また、学会員を檀徒にする動きも、むしろ活発化していた。もはや、彼らは、宗務院の言うことも、さらには、法主の言うことさえも、耳を、耳を傾けようとはしなくなっていたのだ。宗内は、次第に混乱の様相を見せ始めていたのである。

7月22日、山本伸一のもとに日達法主が亡くなったとの連絡が入った。心筋梗塞のために、息を引き取ったのである。77歳であった。伸一は、直ちに弔問に向かった。この夜から、大客殿で仮通夜が営まれ、席上、重役である僧から、「重大発表」があった。それは、総監の阿部信雄が、前年4月、日達から内々に相承を受けており、彼が第67世の法主になることが決まったというものである。この時も、広宣流布のために和合を願い、宗門を守っていくというのが、学会の姿勢であった。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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「大山」「大桜」「共戦」「正義」

『新・人間革命』第30巻(上) 大山の章 111p~

「師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし」である。伸一は、今こそ、一人ひとりが師子のごとく、強くなってもらいたかった。伸一の落ち着いた力強い声が、場内に響いた。

1960年、5月3日、第三代会長の就任の折、心に深く刻んだ「開目抄」の一節を拝した。「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」伸一は、力説した。「このお言葉は、生涯にわたって、私並びに私どもの、信心の確固たる決意として持続していかなければならないと思いますが、皆さんはいかがでしょうか!」

伸一のあいさつに与えられた時間は、10分にも満たなかった。総会は型通りに終わった。この時、狂ったように学会を誹謗し、信徒支配を狙っていた宗門の悪僧や、背後で暗躍した邪智のペテン師らは、“計画道りだ。これでよし!”とほくそ笑んでいたにちがいない。伸一には、妬みと欲望の虜となった、その滅びゆく実像がよく見えていた。

伸一は、別室に入ると、妻の峯子に、和紙と硯、墨、筆を用意してもらった。創価学会の歴史に大きな足跡を刻むであろうこの日の、わが誓いと、弟子たちへの思いを、書として認めておきたかったのである。既に揮毫の文字は決まっていた。

ーー「大山」 その下に、「わが友よ 嵐に不動の信心たれと祈りつつ」「54年5月3日 創大にて式後記す也」と書いた。「大山」の揮毫には、伸一の魂の叫びが込められていた。

“妙法は永遠不滅である。その妙法と共に、広宣流布に生き抜くわれらには、無限の希望がある。いかなる烈風にも、大山のごとく不動であらねばならない。何を恐れる必要があろうか!学会は、日蓮大聖人の仰せ通りに死身弘法の実践を貫き、忍辱の鎧を着て進んできた。創価の師弟は、この不動の信心によって、すべてを勝ち抜いてきたのだ。”

伸一は、さらに、筆を執った。ーー「大桜」そして、下に脇書きとして記した。「わが友の功徳満開たれと祈りつつ」“どんな厳しい試練にさらされようが、仏法の因果は厳然である。全同志よ!胸に創価の「大桜」をいだいて進むのだ”と、伸一は念願した。

彼は学会本部には戻らず、横浜の神奈川文化会館へ向かった。世界につながる横浜の海から、新しい世界広宣流布の戦いを、真の師弟の戦いを起こそうと、心に決めていたのである。伸一は、ようやく一息つけた気がした。

側近の幹部が、「今朝の新聞に先生のお名前が出ておりました」と教えてくれた。それは、「読売新聞」がアメリカのギャラップ世論調査所と提携して実施した日米両国の生活意識調査の結果で、日本国民が選んだ「最も尊敬する有名な日本人」の上位20人の第6位に、伸一の名が挙がっていた。

「現存する民間人では第1位ですし、宗教界ではただ一人です」という。伸一は、この劇的な一日を振り返ると、不思議な気がした。さらに同志の大きな期待と懸命な応援のようにも感じた。

彼は、ここでも筆を執り、「共戦」と認めた。そして、“弟子よ。われと共に起て!”と心で叫びながら、脇書きに、こう記した。「54年 5月3日夜 生涯にわたり われ広布を 不動の心にて 決意あり 真実の 同志あるを 信じつつ 合掌」

5月5日、伸一は、クルーザーを所有する地元の学会員の方が、横浜港周辺を案内したいと言ってくれていると聞き、30分ほど、乗せてもらうことにした。船の名は「21世紀」号である。海から見た神奈川文化会館もまた、すばらしかった。この海は太平洋につながっているのだと思うと、21世紀の世界広布の大海原が見える気がした。彼の胸は躍った。

伸一は、前日の4日には、神奈川県の功労者の代表と懇談し、この5日も、草創の向島支部、城東支部の代表からなる向島会、城東会のメンバーと語り合い、敢闘の労をねぎらった。功労者を中心とした伸一の激励の車輪は、既に勢いよく回転を開始していたのだ。

神奈川文化会館の前にある山下公園には、連日、多くの学会員が集ってきた。そうした同志と会合をもち、力の限り、讃えたかった。しかし、今、それは許されなかった。“ならば、未来、永遠にわたる創価の魂を、後継の弟子たちに形として残そう!”

この日、彼は、広宣流布の師匠・戸田城聖の真正の弟子として、わが誓いを筆に託して、一気呵成に認めた。「正義」ーーその右下には、「われ一人正義の旗持つ也」と記した。

“いよいよ本当の勝負だ!いかなる立場になろうが、私は断じて戦う。たった一人になっても、師弟不二の心で断固として勝利してみせる。正義とは、どこまでも広宣流布の大道を進み抜くことだ!”

<大山の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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