小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命 第22巻

核廃絶への行動

『新・人間革命』第22巻 命宝の章 344p 

山本伸一は、この広島での本部総会に向かって、果敢な平和行動を展開してきた。前年の1974年(昭和49年)の5月以来、わずか1年半の内に、中国を三度、ソ連を二度にわたって訪問。ソ連のコスイギン首相、中国の周恩来総理をはじめ、両国の要人と、対話を重ねてきた。

その最大の眼目は、一触即発の状況にある中ソ紛争の和解の道をさぐることであった。さらに、この75年の1月には、アメリカを訪問し、国連本部でワルトハイム事務総長と会談。仮称「国連を守る世界市民の会」の設置を提唱した。

そして、青年部が1千万から集めた、戦争の絶滅と核廃絶を訴える署名の一部を手渡したのである。また、キッシンジャー米国務長官とも初の会談を行い、中東問題、米ソ・米中関係などについて語り合った。伸一は、中東の紛争解決の基本原則を示すとともに、東西冷戦の終結への流れを開こうと、懸命に対話を交わしたのである。

平和への闘争は、生命尊厳の哲理を持った仏法者の使命である。平和のために、何をするのかーーその具体的な行動こそが、肝要なのである。「人生は早いよ。だから私は、一瞬一瞬が真剣勝負だという思いで戦っているんです。」

広島文化会館は、11月3日に落成したばかりであった。伸一は、文化会館の館内を施設した。「どこに何があり、誰がいるかーー指導者というのは、それを、すべて知ったうえで、指揮を執っていくんです。そのためには、ほんのわずかな時間も活用して、自ら足を運んで、回ってみることです。

それは、一切の戦いに言えます。その努力を怠り、人の話を聞いて事足れりとするところから、惰性、官僚主義が始まる。幹部がもっとっも戒めなけらばならないことです」「師に代わって」--その自覚こそが、真の弟子の心である。

伸一は、会館建設の在り方を語った。「会館には、大勢の人が来るんだから、トイレの数が少なかったり、階段が狭く、急であったりすれば、人を大切にした設計とはいえない。学会の会館は、特に安全性を考慮していくことが大事です。建物には、思想が表れる。人格が表れる。学会は、生命の尊厳を守る人間主義の団体なんだから、人への配慮が表れている設計にしていかなければならない」

「ともかく幹部は"どうすれば、頑張ってこられた方を顕彰できるのか。喜んでいただけるのか"また、"皆が希望と張り合いをもって活動に励めるのか"を、常に考え続けていかなければならない。幹部に、そうした意識がなく、無慈悲であれば、会員がかわいそうです」矢継ぎ早の指導であった。

そこには、一瞬たりとも、時間を無駄にすまいという、強い気迫があふれていた。それが、「臨終只今にあり」との覚悟で戦う、勇将の行動である。

広島の青年たちは、山本伸一が広島に到着してからの、こうした奮闘を、直接、目にし、あるいは、その話を耳にしてきた。だからこそ、「一瞬一瞬が真剣勝負だ」との伸一の言葉が、強く胸に迫ったのである。

伸一は、代表者会議では、指導者論などを語った。「広宣流布の活動を進めるうえで、大事なことは、幹部の率先垂範です。命令では人は動きません。全同志を心から包容しながら、自分の実践を通して、共に活動に励もうと、呼びかけていくことです。」

「実践の伴わない観念的、抽象的な話では、人の心は打たない。しかし、行動、体験に裏打ちされた話には、説得力があり、共感を覚えます。この"共感"が勝利の大波を広げていくんです。ゆえに、幹部は、常に自らが、真っ先に動くことです。」

「戦いに臨んだならば、幹部には、勝利への執念と、自分が一切の責任をもつのだという気迫が、ほとばしっていなければならない。皆が一丸となって勝負すべき時に、幹部ありながら、本気になって戦おうとせず、事の成り行きを静観しているような態度は、最も卑怯だと、私は思う。それは、皆のやる気を失わせ、獅子身中の虫となるからです」

伸一は、新しい出発にあたり、幹部自身の革命が最大の課題であると考えていたのだ。堅固な創価学会の建設のためには、各方面や各地域を、一カ所、また一カ所と、盤石にしていく以外にない。その意味から、山本伸一は、東京で行われてきた本部総会を、各方面で行うことを提案した。

幹部がどうすれば、次々と、事態の改善策や改革のプランが浮かぶのでしょうかと尋ねると「真剣だからです。核兵器の廃絶、戦争の絶滅を、戸田先生の弟子として、わが責任と定めているからです。本当に自分の責任で実現させなければならないと思えば、いやでも、さまざまな問題が見えてくる。そして、おのずから、どうすべきかを考える。」

「これは、広宣流布についても同じです。本気になって、自分が責任をもとうとすれば、問題がどこにあるか、何をすべきかが、わかってくる。したがって、その人は、必ず多くの建設的な意見をもっているものです。裏返せば、皆で協議をしても、何も意見や提案が出てこないということは、真剣でないということでもある」


太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋

広島平和記念公園 原爆死没者慰霊碑

『新・人間革命』第22巻 命宝の章 334p 

人間の本当の幸福は、蔵や身の財によって決まるものではない。心の豊かさ、強さによって決まるのだ。
どんな逆境にあろうが、常に心が希望と勇気に燃え、挑戦の気概が脈打っているならば、その生命には、歓喜と躍動と充実がある。そこに幸福の実像があるのだ。

日蓮大聖人の大境涯を知れ!また、獄中にあって「何の不安もない」「心一つで地獄にも苦しみがあります」と言い切る、牧口常三郎初代会長を思え!わが生命から込み上げてくる、この勇気、希望、躍動、充実、感謝、感動、歓喜・・・。これこそが「心の財」であり、私たちの信仰の目的も、その財を積むことにあるのだ。いわば、それは幸福感の転換であり、「幸福革命」でもあるのだ。

その「心の財」は、人びとの幸福のために、さらに言えば、広宣流布のために生きることによって、築かれるのである。

「人は、この『心の財』を積んでいくなかで、生きることの尊さを知り、エゴに縛られた自分を脱し、人びとの幸福という崇高な目的のために、生き生きと活動していくことができるのであります。しかも、こうした精神的な健康の確立が、どれほど大きな、身体上の健康回復、健康増進の力となっていくか、計り知れないものがあります。いな、心の健康なくしては、本当の健康はない。それを、広く、社会に認識させていくべきであると思うのであります」

また、伸一は、心の健康を確立していくという医学の在り方は、単に病気を治療するという"守りの医術"ではなく、健康を保持し、増進していく、"攻めの医学"の確立につながっていくと述べた。

そして、これからは、病気をしないという消極的な意味での健康ではなく、生き生きと活動し、生命が躍動しているという、積極的な意味での健康をつくりあげていくことこそが重要であり、そこに、ドクター部の使命があると力説。最後に、「『病気の医師』ではなく、『人間の医師』であっていただきたい」と呼びかけ、スピーチを結んだのである。

彼の話は、現代医学の進むべき道を示すものであった。それは、ドクター部の使命を再確認する、永遠の指針となったのである。

1975年(昭和50年)11月8日、山本伸一は、広島市にある平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の前に立った。広島市の荒木武市長らの出迎えを受け、慰霊碑に献花した伸一は、平和への深い祈りを込めて、題目を三唱した。

伸一は、献花台の先にある石棺に刻まれた文字を、じっと見つめた。「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」実は、この碑文をめぐって、論争が繰り返されていたのである。伸一は、この碑文は、核戦争の過ちを二度と起こさないという、人類の誓いであるととらえていた。

誰が、加害者で、誰が被害者であるかを明らかにすることも必要であろう。だが、慰霊碑にとどめるべきは、平和への誓いである。また、被害者であるとの考えのみにとらわれ、加害者を糾弾しているだけでは、憎悪と報復の連鎖を繰り返すだけである。

世界の恒久平和を創造していくには、被害者・加害者という分断的な発想を転換し、地球上のすべての人が、同じ人類、世界市民としての責任を自覚することが必要である。伸一は、慰霊碑の言葉は、それを世界に明示するものとして、高く評価していたのだ。

その言葉を、広島の、日本の、そして、世界の人びとの誓いとしていくには、人類の心の結合が不可欠だ。それを可能にする生命尊厳の哲理こそが、日蓮仏法なのである。

「私は、平和への闘争なくして、広島を訪ねることはできないと思っています。それが戸田先生に対する弟子の誓いなんです」

戸田は、1957年9月8日「原水爆禁止宣言」を発表した。その約2か月後の11月20日、広島指導に出発しようとして、自宅で倒れたのである。

伸一は、戸田の広島行きは、命にかかわりかねないと感じていた。しかし、世界最初の原爆投下の地・広島に赴き、「原水爆禁止宣言」の精神と使命を、一人ひとりの魂に深く打ち込まねばならないという戸田の思いも、痛いほどわかっていた。

死を覚悟しての広島行きであったが、出発の朝、戸田は倒れた。その戸田の心を思うと、平和への死力を尽くした戦いなしには、弟子として、広島の地は踏めぬというのが、伸一の心情であった。


太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋

現代の四条金吾 ドクター部

『新・人間革命』第22巻 命宝の章 319p 

四条金吾の生き方に一貫しているのは、勇気と誠実であった。不誠実は、人の信頼を裏切るばかりでなく、自身の心に、悔恨の暗い影を残す。誰に対しても、何事に対しても、自分は誠実に行動し抜いたと、晴れやかに胸を張れる、日々の生き方のうえに、人生の勝利はある。

「2月騒動」が起こった文永9年2月、日蓮大聖人は流罪の地・佐渡にあって、人本尊開顕の書である「開目抄」を著される。四条金吾は、大聖人の安否を気遣い、心を痛め続けてきた。そして、供養の品々を、佐渡に大聖人のもとに送った。大聖人は、その使者に「開目抄」を託されたのである。

烈々たる御本仏の大確信と御決意が綴られた「開目抄」を、四条金吾は、感涙にむせび、身を震わせながら、拝したにちがいない。「開目抄」をいただいた四条金吾は、はるばると山海を越えて、鎌倉から、佐渡の大聖人を訪ねた。

込み上げる歓喜に、居ても立ってもいられなかったのだ。主君に仕える身でありながら、流罪された大聖人を訪ねることは、容易なことではなかったはずである。大難という烈風は、欺瞞の信仰者の仮面をはがす、誰が、真の信仰者か、本当の弟子かを明らかにしていくものだ。

自分という存在の、最も根源的な意味は、末法の一切衆生を救済するために出現した地涌の菩薩であるということだ。それが法華経の思想である。武士であることも、医術に秀でていることも、自分が本源的な使命を果たしていく、一つの側面にすぎない。

どんなに称賛されようが、地涌の菩薩としての広宣流布の使命を忘れ去ってしまえば、所詮は、砂上の楼閣を築いているにすぎない、本末転倒の人生である。大事なことは、広宣流布に生き抜き、そして、武士や医師としても、人格、技量ともに立派であると言われる人になっていくことである。

現代でいえば、創価学会員として胸を張り、その使命に生き抜き、それぞれの道にあって、称賛を勝ち取ることができるかどうかが、勝負となるのだ。

ビクトル・ユゴーは、こう記している。「戦闘の最後の勝利は、つねにもぎとるようにしてかちえられるものなのだ」

大聖人は持続の信心を強調されている。将来、四条金吾の身に迫害が起こることを、予見されていたかのように、信心を貫き通すことを訴えられたのである。

四条金吾は、主君の江間氏を折伏する。そのため、四条金吾の忠義から発した折伏は、主君の不興を買い、さらには、同僚からも迫害されることになる。江間氏は四条金吾に、「法華経の信仰を捨てるという起請文を書け。さもなくば、所領を没収する」と迫ったのである。

所領を没収されたならば、武士としての暮らしは成り立たない。一家一族が路頭に迷うことになる。しかし、彼は屈しなかった。彼が決意の手紙を送ると、直ちに大聖人から返信が届いた。その冒頭には「仏法は勝負」であることが述べられていた。正法を持った者は、最後は必ず勝たねばならない。そこに仏法の正義の証明があるからだ。

江間氏は、やがて悪性の流行病にかかり、四条金吾が治療に当った。誠心誠意、全力を尽くし、主君の病は快方に向かい、勘気も解けたのである。彼は、主君の出仕の列にも加えられるようになり、以前の三倍の所領を与えられる。彼の人生の海原に、勝利の太陽は燦然と昇ったのだ。

現代の四条金吾ともいうべき勇者たちーーそれがドクター部である。ドクター部の第三回総会で伸一は「医学と仏法」の関係について言及していった。「『医学』は、病気の原因を客観的に認識し、治療していくのに対して、『仏法』は、病の根底にある生命そのものを把握し、そこから、病気の原因をとらえ、変革していく立場であります」

そして、伸一は「崇峻天皇御書」の「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」の一節を拝した。巨額の富も、使えばいつかなくなるし、災害などで、一瞬にして失ってしまうこともある。しかし、健康でさえあれば、また働いて、富を手に入れることができる。

だが、「身の財」である肉体も、やがて老い、病にもかかる。「身の財」も永遠ではない。人間の幸福のために、最も必要不可欠なものは「心の財」である。

「心の財」は、今世限りではない。三世にわたり、永遠にわが生命を荘厳していく。それはまた、「蔵の財」「身の財」をもたらす源泉ともなる。


太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋

命宝を守るドクター部結成

『新・人間革命』第22巻 命宝の章 307p 
<命宝の章 開始>

この世で元も尊厳な宝は、生命である。それゆに「命宝」と言う。生命を守ることこそ、一切に最優先されなければならない。本来、国家も、政治も、経済も、科学も、教育も、そのためにこそ、あるべき者なのだ。「立正安国」とは、この思想を人びとの胸中に打ち立て、生命尊重の社会を築き上げることといってよい。

1975年(昭和50年)9月15日、山本伸一は、ドクター部の第3回総会に出席した。仏法を根底にした「慈悲の医学」に道を究め、人間主義に基づく医療従事者の連帯を築くことを目的として、1971年9月に発足した部である。

このころ、医療保険の改正をめぐって厚生省と日本医師会の対立が続いていた。医療費が急増し、その大部分は、薬代、注射代などが占めていて、医師の医療技術は、ほとんど評価されず、薬漬け、検査漬けと言われる医療を加速させていた。

厚生省は、打開策として、医療費はそのままに、診療報酬体系の見直しを図る。医師会は「医師の犠牲のもとに低医療費政策を押しつけるもの」として猛反発し、保険医総辞退の方針を決議。おおくのサラリーマン家庭が一時、医療費の全額立て替え払いを余儀なくされ、新料金との差額が 患者の自己負担となった。それにより、医療費が払えず、治療を中断したり、自殺する人が出るなどがおこる。

保険医辞退は、1か月で終わったが、医師会と厚生省の対立は続いていた。伸一はそうした状況を見ながら、医師の良心という問題を考え、"人命を預かる医師という仕事は、聖職である。医師が生命の尊厳を守ろうとする信念をもち、慈悲の心を培うことこそ、再重要のテーマではないか・・・"山本伸一はドクター部の結成を提案した。

伸一は、本来、医療の根本にあるべきものは「慈悲」でなければならないと考えていた。「慈悲」とは、抜苦与楽ということである。一切衆生を救済せんとして出発された、仏の大慈悲に、その究極の精神がある。医療従事者が、この慈悲の精神に立脚され、エゴイズムを打ち破っていくならば、医療の在り方は大きく改善され、「人間医学」の新しい道が開かれることは間違いない。いわば、医療従事者の人間革命が、希望の光明となるといってよい。

ドクター部では、その伸一の激励に応えるために、自分たちに何ができるのか、協議を重ねた。そして、住民の無料健康相談を行う「黎明医療団」を組織し、医師のいない地域などに、派遣することにしたのである。

「黎明医療団」は各地に赴き、無料健康相談を重ねていった。その数は10年間で、120回に達している。この活動には、学会のドクター部以外の医師たちも、共感、賛同し、加わるようになっていった。ドクター部のメンバーは、自分たちの進めている運動に、自身と誇りをもち、なぜ、「黎明医療団」を組織し、無料健康相談を行うのかを、語っていったのだ。

慈悲の医学の体現者たる使命を自覚した、ドクター部員の活躍は目覚ましかった。それぞれの職場にあって、各人が人間的な医療の在り方を探求していった。体に負担の少ない治療法の研究に取り組む人もいれば、病院の環境改善に力を注いだ人もいた。さらに、健康セミナーの講師や、仏法と医学についての講演なども積極的に引き受け、地域にも、広宣流布の運動にも大きく、貢献していった。

医学は諸刃の剣ともなる。多くの人びとの生命を救いもするが、副作用をはじめ、さまざまな弊害を生みもする。特に医師をはじめ、医学にかかわる人たちが、誤った生命観に陥れば、医療の大混乱を招くことにもなりかねない。それだけに、正しい生命観を極めていくことは、必要不可欠な意思の要件といえよう。

「医学の分野に、慈悲の赫々たる太陽光線を差し込む作業は、単なる社会の一分野の改革にとどまるものではない。生命を慈しみ、育て、羽ばたかせる思想が、人びとの心の隅々にまで染み込んだ時に、初めて現代文明が、機械文明から人間文明へ、物質の世紀から生命の世紀へと転換され、人類が光輝ある第一歩を踏み出すのであります」

"ドクター部よ、現代の四条金吾たれ!"それが、伸一の心からの叫びであった。

太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋

創価学会は 生涯人生学習

『新・人間革命』第22巻 波濤の章 291p 

女子部の部長から正役職と副役職の関係について質問があった。伸一は、副役職の根本姿勢は、副役職は遠慮し、活動に消極的になったり、組織から遠ざかってはいけないと話し、広宣流布の責任を、どこまで担っているかが、信心のバロメーターだと話した。

「組織につき切って戦い抜いた人と、離れていった人とでは、二年、三年、五年とたった時に、その差は歴然と現れます。」「人間と人間の絆、即ち組織のなかにこそ、仏道修行のための切磋琢磨があり、それによって、教えの流布も可能となるからだ」

「戸田先生は『創価学会仏』と言われた。末法万年の広宣流布のために、大聖人の御意思を受け継いで出現したのが創価学会です。だから、先生は、学会の組織は、ご自身の命よりも大事であると語られている。たとえ、時間的には制約があったとしても、戦う一念は、一歩たりとも退いてはならない」

「正役職の人は、副役職の人が、遠慮して力が発揮できなかったり、寂しさを感じたりすることがないように、しっかり抱きかかえる思いで、スクラムを組むことです。副部長との団結こそが、組織を重厚にし、何があっても崩れない万全な態勢をつくる力になります。」

「それには、まず、情報を共有し合い、副役職の人の意見をよく聞き、動きやすいようにしてあげることもです。何かの部門を担当してもらうこともいいでしょう。」伸一は、組織論の要諦を、未来の指導者となる彼女たちに、しっかりと語っておかなければならないと思った。

組織の強さというのは、正役職者と副役職者との、連携、協力によって決まってしまうといってよい。正役職者が、一人で、すべてをやっていれば、いつか疲れて、行き詰ってしまう。正役職者と心を合わせて働いてくれる副役職者が、何人もいれば、活動も、より重層的になる。

組織の団結とは、まず、この正・副の団結から始まる。そこから異体同心の連帯が広がり、難攻不落の城の石垣のように、堅固にして盤石な組織が出来上がるのだ。

伸一は、小説『坂の上の雲』に登場した大山巌元帥の例を通し、彼は、総参謀長の児玉源太郎らが、やりやすいように一切を任せ、細かな指図などしなかった。最後は、自分が責任をもつから安心して頑張れという、真の包容力があった。「あなたたちもそういう度量の、女性リーダーに育っていくんだよ」

グループ員が自分の言うことを聞いてくれないという質問に伸一は「根本的には題目です。一生懸命に唱題していけば、生命が輝く。そうなれば、磁石のように、人を引き付けていくことができる。みんなが、あなたの言うことを聞くようになっていきます。」

題目をあげていっても 断られてしまうという彼女に「それは、結論を急ぎ過ぎるからです。まず、心を通わせ合うことだよ。人間として打ち解け合い、理解し合っていくことから始めるんです。世間話から、人生には生き方の哲学が必要だという話をし、それから、教学を勉強しようとか、学会の会合に参加してみようと言ってみるんです」

「女子部、婦人部という組織自体が、最大の女性教育機関であることは間違いありません」「学会の女性たちは、仏法の生命哲理を根本に、さまざまな勉強をしている。幸福論、価値論、宗教論、教育論、平和論も学べば、政治、芸術、文化なども勉強している。そして、何よりも人間学に精通している」

「学会には、『知情意』を培う人間教育があります。しかも、学会では、単に教わるだけでなく、同時に、自分も教える側になり、互いに励まし合うという、切磋琢磨がある。また、信心には定年はない。したがって、学会には永遠の生涯教育がある。この伝統を守り、発展させていくことが必要です」

「組織といっても人間関係です。あなたたちが、自分の組織で、一人ひとりと、つながっていくんです。あなたたちが皆から、"あの人に励まされ、私は困難を克服した""あの人に勇気をもらった"と言われる存在になることです。」

伸一は、「青春会」の結成を記念し、記念写真を撮り、色紙に署名した。この日、21世紀の新しき創価の女性運動の流れを開く、人材の核がつくられたのである。新世紀建設の布石がなされたのだ。

「青春会」は、次々と各方面に誕生していった。結成から10年がたち、メンバーの多くは、既に結婚し、婦人部の最前線組織の先頭に立って活躍していた。彼女たちにとっては、環境の大きな変化の時であり、試練の時代であったともいえよう。

ここで、どう頑張り抜くかによって、広宣流布のリーダーとして、頭角を現していけるかどうかが、決定づけられてしまう。いわば、人生の飛躍を決定する正念場であった。

"「女性の世紀」である21世紀を、「青春会」に託すのだ!"伸一も、峯子も、その心で、生命を注ぐ思いで激励し、成長を見守り続けてきた。

遂に、目標とした21世紀。「青春会」は、見事に、婦人部の中核に育った。また、小学校の校長や国会議員など、社会の重責を担っている人もいる。「青春会」は、誓い通りに、皆が人生の本舞台に立った。いよいよ、この世の使命を果たすべき勝負の時を迎えた。創価学会、広宣流布は、その双肩にかかっているのだ。

人間として何をなすのか!弟子として、広宣流布のために何を残すのか!伸一は、師弟の道を貫く彼女たちの、尊き栄光の人生を、峯子と共に、ますます健康で、永遠に見守り続けていこうと、心に誓うのであった。
<波濤の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋

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