『新・人間革命』第19巻 宝塔の章 306P~
いち早く計画がまとまったのは沖縄であった。終戦から28年、40代、50代で戦争を体験した人たちから、証言を取材するには、最後のチャンスというべき時を迎えていた。
その一方で、「戦争を知らない子どもたち」は、「戦争を知らない大人」へと成長していた。既に、戦後生まれが、日本の人口の半分に達しようとしていたのである。
沖縄にあっても、戦争体験は次第に風化しつつあったのだ。何ごとにも「時」がある。「時」を見極め、「時」を逃さずに行動を起こしてこそ、大業の成就もある。「今」を見失うことは、「未来」を失うことである。沖縄の青年たちは立ち上がった。
編纂委委員長には沖縄学生部長の盛山光洋が、副委員長には男子部の桜原正之が就いた。
盛山は沖縄の竹富島生まれ。父は、徴兵され、戦地で結核にかかり、戦後も寝たきりのが続き、母親と祖母が父の面倒をみながら子どもたちを育てた。盛山が中学三年の時母が創価学会に入った。盛山は高校は石垣島に出た。環境になじめず、信心に反対していたが、題目をあげると勇気が涌くのを覚えた。浪人中唱題に励み琉球大学に合格。誓い通り学生部員として活動を始める。
同学年だったのが、桜原正之であった。彼は横浜出身であったが、空襲に遭い、戦後両親の実家の沖縄で生活する。しかし、5歳の時に両親が他界。彼の幼少期には、沖縄は戦争の爪痕が残り、戦車が放置され、弾丸もいたるところに落ちていた。彼は中学3年の時に信心を始めた。
三女の姉が皮膚病で苦しんでいて、外出もできなかったほどだったが、その姉が入会し、皮膚病を克服したのを見てのことであった。彼は、"大学に行き、広宣流布の力ある人材に育ちたい"と猛勉強し、琉球大学に合格した。
盛山と桜原は互いに励まし合いながら、沖縄広布の大願に燃えていた。1964年(昭和39年)12月2日、沖縄を訪れていた山本伸一と初めて会った。
「沖縄の歴史は、悲惨であった。宿命の嵐のごとき歴史であった。だからこそ、ここから、幸福の風が吹かねばならない。平和の波が起こらねばならない」伸一の言葉に、世界の平和を建設しゆく沖縄の使命を感じた。沖縄は、"戦後"ではなく、まだ"戦中"といってよかった。それでも沖縄戦の体験は次第に忘れ去られ、風化しつつあったのだ。
「戦争体験記」の発刊準備にあたる盛山と桜原は、この出版に、不思議な使命を感じていた。それは、"自分たちが山本先生に初めてお会いした1964年の12月2日は、先生が沖縄の地で、小説『人間革命』の筆を起こされた日である"ということであった。
「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない・・・」この平和宣言ともいうべき一節で始まる『人間革命』の寄稿の日に、彼らは、生涯、伸一についていこうと決意を定めたのだ。
そう思うと彼らは、平和の永遠の礎となるような反戦の書を、自分たちの手で真っ先に完成させたかった。いや、それが沖縄に生きる自分たちの責務であると感じた。
取材が始まった。皆、趣旨には快く賛同してくれた。しかし、実際に本題に入ると、涙ぐみ、口をつぐんでしまう人が少なくなかった。戦場で受けた恐怖、むごたらしい死、愛する家族を奪われた悲しみーー思い出すには、あまりにも辛いことであった。青年たちは困惑した。だが、勇気を奮い起こして懇請した。
また、戦争体験を聞き出せても、時系列があいまいであったり、話が前後で食い違ってくることも珍しくなかった。そんな時には、何度も取材を重ねるのである。粘り強さが求められる作業であった。何事を成し遂げるにも、不可欠な条件は忍耐ということだ。
いち早く計画がまとまったのは沖縄であった。終戦から28年、40代、50代で戦争を体験した人たちから、証言を取材するには、最後のチャンスというべき時を迎えていた。
その一方で、「戦争を知らない子どもたち」は、「戦争を知らない大人」へと成長していた。既に、戦後生まれが、日本の人口の半分に達しようとしていたのである。
沖縄にあっても、戦争体験は次第に風化しつつあったのだ。何ごとにも「時」がある。「時」を見極め、「時」を逃さずに行動を起こしてこそ、大業の成就もある。「今」を見失うことは、「未来」を失うことである。沖縄の青年たちは立ち上がった。
編纂委委員長には沖縄学生部長の盛山光洋が、副委員長には男子部の桜原正之が就いた。
盛山は沖縄の竹富島生まれ。父は、徴兵され、戦地で結核にかかり、戦後も寝たきりのが続き、母親と祖母が父の面倒をみながら子どもたちを育てた。盛山が中学三年の時母が創価学会に入った。盛山は高校は石垣島に出た。環境になじめず、信心に反対していたが、題目をあげると勇気が涌くのを覚えた。浪人中唱題に励み琉球大学に合格。誓い通り学生部員として活動を始める。
同学年だったのが、桜原正之であった。彼は横浜出身であったが、空襲に遭い、戦後両親の実家の沖縄で生活する。しかし、5歳の時に両親が他界。彼の幼少期には、沖縄は戦争の爪痕が残り、戦車が放置され、弾丸もいたるところに落ちていた。彼は中学3年の時に信心を始めた。
三女の姉が皮膚病で苦しんでいて、外出もできなかったほどだったが、その姉が入会し、皮膚病を克服したのを見てのことであった。彼は、"大学に行き、広宣流布の力ある人材に育ちたい"と猛勉強し、琉球大学に合格した。
盛山と桜原は互いに励まし合いながら、沖縄広布の大願に燃えていた。1964年(昭和39年)12月2日、沖縄を訪れていた山本伸一と初めて会った。
「沖縄の歴史は、悲惨であった。宿命の嵐のごとき歴史であった。だからこそ、ここから、幸福の風が吹かねばならない。平和の波が起こらねばならない」伸一の言葉に、世界の平和を建設しゆく沖縄の使命を感じた。沖縄は、"戦後"ではなく、まだ"戦中"といってよかった。それでも沖縄戦の体験は次第に忘れ去られ、風化しつつあったのだ。
「戦争体験記」の発刊準備にあたる盛山と桜原は、この出版に、不思議な使命を感じていた。それは、"自分たちが山本先生に初めてお会いした1964年の12月2日は、先生が沖縄の地で、小説『人間革命』の筆を起こされた日である"ということであった。
「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない・・・」この平和宣言ともいうべき一節で始まる『人間革命』の寄稿の日に、彼らは、生涯、伸一についていこうと決意を定めたのだ。
そう思うと彼らは、平和の永遠の礎となるような反戦の書を、自分たちの手で真っ先に完成させたかった。いや、それが沖縄に生きる自分たちの責務であると感じた。
取材が始まった。皆、趣旨には快く賛同してくれた。しかし、実際に本題に入ると、涙ぐみ、口をつぐんでしまう人が少なくなかった。戦場で受けた恐怖、むごたらしい死、愛する家族を奪われた悲しみーー思い出すには、あまりにも辛いことであった。青年たちは困惑した。だが、勇気を奮い起こして懇請した。
また、戦争体験を聞き出せても、時系列があいまいであったり、話が前後で食い違ってくることも珍しくなかった。そんな時には、何度も取材を重ねるのである。粘り強さが求められる作業であった。何事を成し遂げるにも、不可欠な条件は忍耐ということだ。
太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋