『新・人間革命』第19巻 宝塔の章 371P~
反戦出版の完結は、終わりではなく、始まりであった。それは伸一と青年たちの、新しき平和運動の旅立を告げる号砲となったのである。
会長就任14周年を迎えた1974年(昭和49年)の5月、山本伸一は、中国やソ連、シンガポールの駐日大使との会談や、フランスの作家アンドレ・マルローとの対談など、平和への語らいに力を注いでいた。そして、月末には初の中国訪問が控えていた。
その準備に多忙を極めていた、5月26日、伸一が、聖教新聞社で行われていた、視覚障がい者のグループの座談会に突然姿を見せたのである。グループの名称は「自在会」。たとえ、目は不自由であっても、広宣流布の使命を自覚するならば、その生命は自由自在であるーーとの意義を込めた名である。
メンバーの願いは「いつの日か、私たちの座談会に、必ず、山本先生に出席していただこう」ということであった。伸一は言った「皆さんは勝ちました。人生の試練を見事に乗り越えてこられた。」
集ったメンバーは、いやというほど、人生の辛酸をなめてきた。不慮の事故で失明し、絶望のどん底に落とされた人もいる。職を得ることもできず、家族からも冷たい仕打ちを受けてきた人もいた。
伸一の導師で勤行が始まった。呼吸のぴったりと合った、清々しい勤行であった。伸一の背中にゴツンと後ろにいた青年の頭が当たった。視覚障害のため、伸一との距離がつかめなかったのである。伸一は、メンバーの苦労を深く感じ取った。
一つの事柄から、何を感じとるか。人の苦悩に対して想像力を広げることから、「同苦」は始まるのである。配慮とは人を思いやる想像力の結晶といえよう。
伸一は、仏道修行は、どのような難をも耐え抜いていく、忍辱の心が大切であることを訴えていった。心が弱ければ不幸である。幸せという花は、強い心の大地にこそ開くのだ。ゆえに伸一は「強くあれ!断じて強くあれ!」との祈りと願いを込めて、仏教説話を語っていった。
嫉妬とおごりに狂った王によって、耳や鼻、手足を次々と切られていったが、心は微動だにしなかったという話である。「目を一つずつ取られたとしても、まだ口がある。口を失っても、命はある。命ある限り、心で唱題し続けるんです。幸福は自身の信心でつかむ以外にない。ゆえに、信心には甘えがあってはならない」厳しい口調であった。
しかし、そこに伸一の慈愛があった。人間は助け合わなければならない。とともに、自立自助をめざす心が大事になる。その自立を阻むのが、甘えの心である。甘えは、時に自分自身を不幸にする要因となる。自分の思いや要求が満たされないと、他人や環境、運命を恨み、憎むようになるからだ。不平や文句、恨みや憎悪に明け暮れる人生は悲惨である。
幸福とは、自分の胸中に歓喜の太陽を昇らせることだ。それには自らの生命を磨く以外にない。自分を磨き、強くし、自身を変えゆく道こそが信心なのだ。だから彼は、信心の姿勢を厳しいまでに訴えたのである。
「自在会」の中核の一人である勝谷広幸は先天性緑内障で、生まれながら左目はほとんど見えず、右目の視力が、0.01であった。中学の時手術を受け入院していた時、隣のベッドの婦人から聖教新聞を渡される。目が見えないのに新聞を読めと言われたことに腹が立った。
しかし、捨てる前に体験記事を読み、ひかれるものがあった。彼は小学校5年生の時、父と共に入会していたが、信心に励んだことはなかった。退院すると聖教新聞や学会の出版物を読み、真剣に信心してみようと思った。
さらに教学を学ぶなかで、"目が不自由なぼくも、地涌の菩薩なのだ。みんなを幸せにしていく使命があるのだ!"とこの世に生を受けたことの、深き意味の発見であった。使命を自覚する時、人間の生命は蘇生する。その時、真の主体性が確立されるのだ。
伸一は、何人かの、泣いて赤く腫らした瞼を脱脂綿を取り換えては拭き、励ましの言葉をかけていった。
"君でなければ、あなたでなければ、果たせぬ尊き使命がある。その使命に生き抜き、広宣流布の天空に、尊厳無比なる宝塔として、燦然と、誇らかに、自身を輝かせゆくのだ!"
<宝塔の章 終了>
<新・人間革命 19巻終了>
反戦出版の完結は、終わりではなく、始まりであった。それは伸一と青年たちの、新しき平和運動の旅立を告げる号砲となったのである。
会長就任14周年を迎えた1974年(昭和49年)の5月、山本伸一は、中国やソ連、シンガポールの駐日大使との会談や、フランスの作家アンドレ・マルローとの対談など、平和への語らいに力を注いでいた。そして、月末には初の中国訪問が控えていた。
その準備に多忙を極めていた、5月26日、伸一が、聖教新聞社で行われていた、視覚障がい者のグループの座談会に突然姿を見せたのである。グループの名称は「自在会」。たとえ、目は不自由であっても、広宣流布の使命を自覚するならば、その生命は自由自在であるーーとの意義を込めた名である。
メンバーの願いは「いつの日か、私たちの座談会に、必ず、山本先生に出席していただこう」ということであった。伸一は言った「皆さんは勝ちました。人生の試練を見事に乗り越えてこられた。」
集ったメンバーは、いやというほど、人生の辛酸をなめてきた。不慮の事故で失明し、絶望のどん底に落とされた人もいる。職を得ることもできず、家族からも冷たい仕打ちを受けてきた人もいた。
伸一の導師で勤行が始まった。呼吸のぴったりと合った、清々しい勤行であった。伸一の背中にゴツンと後ろにいた青年の頭が当たった。視覚障害のため、伸一との距離がつかめなかったのである。伸一は、メンバーの苦労を深く感じ取った。
一つの事柄から、何を感じとるか。人の苦悩に対して想像力を広げることから、「同苦」は始まるのである。配慮とは人を思いやる想像力の結晶といえよう。
伸一は、仏道修行は、どのような難をも耐え抜いていく、忍辱の心が大切であることを訴えていった。心が弱ければ不幸である。幸せという花は、強い心の大地にこそ開くのだ。ゆえに伸一は「強くあれ!断じて強くあれ!」との祈りと願いを込めて、仏教説話を語っていった。
嫉妬とおごりに狂った王によって、耳や鼻、手足を次々と切られていったが、心は微動だにしなかったという話である。「目を一つずつ取られたとしても、まだ口がある。口を失っても、命はある。命ある限り、心で唱題し続けるんです。幸福は自身の信心でつかむ以外にない。ゆえに、信心には甘えがあってはならない」厳しい口調であった。
しかし、そこに伸一の慈愛があった。人間は助け合わなければならない。とともに、自立自助をめざす心が大事になる。その自立を阻むのが、甘えの心である。甘えは、時に自分自身を不幸にする要因となる。自分の思いや要求が満たされないと、他人や環境、運命を恨み、憎むようになるからだ。不平や文句、恨みや憎悪に明け暮れる人生は悲惨である。
幸福とは、自分の胸中に歓喜の太陽を昇らせることだ。それには自らの生命を磨く以外にない。自分を磨き、強くし、自身を変えゆく道こそが信心なのだ。だから彼は、信心の姿勢を厳しいまでに訴えたのである。
「自在会」の中核の一人である勝谷広幸は先天性緑内障で、生まれながら左目はほとんど見えず、右目の視力が、0.01であった。中学の時手術を受け入院していた時、隣のベッドの婦人から聖教新聞を渡される。目が見えないのに新聞を読めと言われたことに腹が立った。
しかし、捨てる前に体験記事を読み、ひかれるものがあった。彼は小学校5年生の時、父と共に入会していたが、信心に励んだことはなかった。退院すると聖教新聞や学会の出版物を読み、真剣に信心してみようと思った。
さらに教学を学ぶなかで、"目が不自由なぼくも、地涌の菩薩なのだ。みんなを幸せにしていく使命があるのだ!"とこの世に生を受けたことの、深き意味の発見であった。使命を自覚する時、人間の生命は蘇生する。その時、真の主体性が確立されるのだ。
伸一は、何人かの、泣いて赤く腫らした瞼を脱脂綿を取り換えては拭き、励ましの言葉をかけていった。
"君でなければ、あなたでなければ、果たせぬ尊き使命がある。その使命に生き抜き、広宣流布の天空に、尊厳無比なる宝塔として、燦然と、誇らかに、自身を輝かせゆくのだ!"
<宝塔の章 終了>
<新・人間革命 19巻終了>
太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋