小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命 第20巻

ソ連と中国関係正常化への貢献

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 349P~

1975年の4月、創価大学は日本で初となる新中国からの正式な国費留学生6人を、キャンパスに迎えたのである。その留学生の身元保証人となったのが、山本伸一であった。また、留学生らの手で、周恩来総理の健康を祈り、構内に「周桜」が植樹された。

だが、翌76年には、周恩来総理が、さらに毛沢東主席が、相次いで亡くなったのである。やがて、華国鋒党主席が誕生するが、中ソの関係は冷え切ったままであった。

80年4月、伸一が5度目に訪中した時には、ソ連のアフガニスタン侵攻を非難する声が渦巻いていた。会談した人たちから、こんな要請もあった。「山本先生がソ連に行かれると、せっかく先生が架けられた日中の友誼の橋は固まりません。ソ連訪問はできる限り控えていただきたい」

伸一は、答えた。「お気持ちはわかります。しかし、時代はどんどん変化しています。21世紀を前に、全人類を平和の方向へと向けていかなくてはならない。もはや大国が争い、憎み合っている時ではありません。『お互いのよいところを引き出しながら、調和していこう』『人間が共に助け合って、新しい時代をつくっていこう』という人間主義こそが、必要なのではないでしょうか」

伸一は、真心を込めて訴えたが、なかなか納得してもらえなかった。最後は、中国とソ連と、どちらが大切なのかという話になってしまうのだ。

「私は中国を愛しています。中国は大事です。同時に人間を愛します。人類全体が大事なんです。」どんなに厳しい状況になっても、伸一は、あきらめなかった。

何があってもあきらめずに、信念の道を進むことが、"勝つ"ということなのだ。伸一は、あらゆる人の「仏性」を信じて、人類の平和を願う心を確信して語りかけ続けた。彼は、この第5次訪中では、華国鋒党主席と会見し、今後の中国の方向性を尋ねている。

そして、翌1981年(昭和56年)には、三度目のソ連訪問を果たし、チーホノフ首相と会見した。全人類を平和の方向へとの強き一念で、行動し抜いたのだ。

ソ連のブレジネフ書記長が、中国に、両国の関係改善を呼びかけたのは82年3月のことであった。時代は動きはじめたのだ。89年5月には、ソ連の最高指導者としては30年ぶりに、ゴルバチョフ書記長が中国を訪問する。そして、中国の最高実力者となっていた、あの鄧小平国家中央軍事委員会主席と会談し、双方が、遂に関係正常化を宣言したのだ。

この首脳会談は、世界を冷戦から緊張緩和へと回転させる新しき時代の曙光となったのである。
山本伸一は、進展する中ソ関係正常化のニュースに、熱い感慨が込み上げてきて仕方なかった。

彼は、中ソ両国の平和共存を胸に描き、祈りに祈ってきた。また、一民間人という立場で動きに動き、両国首脳たちに、相互の平和友好を訴え続けてきた。それは、小さな波を起こしたに過ぎなかったかもしれないが、中ソの和解という伸一の念願は、結実を見たのである。

「人類の幸福と世界の平和の実現が、広宣流布だ。私は仏法者として、そのために走り抜くよ。人が見ていようがいまいが、社会がどう評価しようが、そんなことはどうでもいい。いつか歴史が審判を下すからだ。どんなことがあっても、平和のための戦いをやめるわけにはいかないのだ。それが私の信念だ!」

伸一の第一次訪ソ当時、ソ連駐日大使館の参事官であったY・D・クズネツォフは、1974年に伸一が中国とソ連を訪問し、両国首脳と対話したことについて、後年、次のように語っている。「ソ連と中国の関係の正常化に貢献したという事実は否定できません。あの時の正常化への行動がなければ、現在のような幅広いロシアと中国の関係の発展はなかったと私は思うのです」

水面下の流れは見えにくい。しかし、信念の行動は、必ず時代を動かす底流となることを、伸一は確信していたのだ。人類の英知の結晶である平和の建設が広宣流布だ。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

信義の絆

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 338P~

伸一が右手を差し出すと、総理は微笑を浮かべて、その手を握った。伸一は、総理の右腕を支えるように、そっと左手を添えた。総理は革命闘争のさなかの1939年(昭和14年)、落馬がもとで右肘の上部を骨折した。その後遺症で右腕が曲がったままになったことを、伸一は知っていたのだ。

総理の手は白かった。衰弱した晩年の戸田城聖の手に似ていた。伸一は胸を突かれた。周総理は76歳、伸一は46歳である。総理は、伸一の若さの可能性にかけていたのかもしれない。

峯子は、総理と伸一のやりとりを、懸命にノートに書き留め始めた。彼女は、これは重要な歴史的な会見になるにちがいないと思った。しかし、会見会場に記者は入っていなかった。峯子は、責任の重大さを感じながら、必死になってペンを走らせた。

「ぜひ、また、桜の咲くころに日本へ来てください」しかし、総理は寂しそうに微笑んだ。「願望はありますが、実現は無理でしょう」伸一は胸が痛んだ。その時、通訳の林のもとに、一枚のメモが回ってきた。そこには、「総理、そろそろ、おやすみください」と記されていたのである。医師団からのものであった。

周総理には、命を縮めても、今、会って、伸一と話しておかなければならないとの、強い思いがあったようだ。伸一は、同席していた廖承志会長に、会見を切り上げた方がいいのではないかと、何度か目配せした。しかし、廖承志はそのたびに、"まだいい"と合図を返してきた。

総理は、力を振り絞るようにして語り始めた。「20世紀の最後の25年間は、世界にとって最も大事な時期です。全世界の人びとが、お互いに平等な立場で助け合い、努力することが必要です」伸一は、遺言を聞く思いであった。

会見は、30分に及ぼうとしていた。伸一は、もうこれ以上、時間を延ばしてはならないと思った。伸一は、感謝の思いを伝え、会見を切り上げた。伸一は、さやかな記念の品として、"萩と御所車"の日本画を贈った。総理は、その夜から、それまで部屋に飾ってあった絵を、伸一が贈った絵に掛け替えたという。

周総理と伸一は、これが最初で最後の、生涯でただ一度だけの語らいとなった。しかし、その友情は永遠の契りとなり、信義の絆となった。総理の心は伸一の胸に、注ぎ込まれたのである。
山本伸一の第二次訪中は、日中友好の新しい黄金の歴史を刻んだ。

だが、伸一の思いとは反対に、中ソの関係は悪化の一途をたどっていくかに見えた。1975年1月中国は
、憲法を改正し、明確に反ソ路線を打ち出したのだ。「四人組」が一切を牛耳っていた時である。彼らにはコスイギン首相の言葉は伝わっていなかったのであろう。

この75年の全人代で周恩来総理は、病身を押して「政府活動報告」を行い、4つの現代化政策の推進を提起した。この「4つの現代化」という壮大な計画は、その後の中国がとった「改革・開放」路線の基盤となり、今日の大発展へとつながっていく。

周総理がその政策を提起しえた背景について、後年、南海大学周恩来研究センターの所長を務めた孔繁豊は、こう語っている。「この計画の実現には正確な国際情勢の判断が不可欠だった。その時、名誉会長を通じてソ連の態度を知り、周総理は『中ソ開戦はありえない』との確信を深め、国家の再建計画を大胆に実行することができたのだ」

山本伸一は、強く心に誓っていた。いかなる事態になろうが、私は絶対にあきらめない。それには粘り強い対話しかない。伸一は、中国が憲法の前文を変え、反ソ路線を打ち出した3か月後の1975年(昭和50年)4月、三たび中国を訪れた。そして、再び鄧小平副総理と会談した。

鄧小平は、ソ連への不信を強めていた。「ソ連の指導部の態度によります。」伸一は、思った。中国は本来、ソ連との平和共存を望んでいることは間違いない。ソ連もまた、それを望んでいるのだ。複雑な状況があるにせよ、両国の関係を改善できぬわけがない。」

この第3次訪中の翌月、伸一は、再度、ソ連を訪問し、コスイギン首相をはじめ、ソ連首脳と会談していった。あきらめ、絶望ーーそれに打ち勝つ勇気が時代を開く力となる。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

鄧小平副総理との会談

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 327P~

5日には、鄧小平副総理との会談が予定されていた。伸一が鄧副総理と初対面のあいさつを交わし、握手をした時、副総理は傍らの廖承志を見ながら言った。「山本会長のお話は廖承志同志から伺いました。しかし、問題は複雑です」一瞬、副総理の顔が曇った。人民大会堂での会談が始まった。

伸一は、明年が国連の「国際婦人年」となることから、周恩来夫人の鄧頴超ら女性リーダー、さらに、青年リーダーの訪日を提案した。伸一は、心の隔たりを、一日も早く取り除きたかったのである。そして、そのための焦点となるのが、婦人と青年であると考えていた。

アジアの平和に話が及んだ時、伸一は言った。「ソ連は中国を攻めようとは考えていません」すると鄧副総理は、「それは大変に難しい判断を必要とします」と言って、話を制するように、胸のあたりまで手をあげた。伸一は、前回の訪中を通して、文化大革命の混乱のなかで、一部の人間が権力を握り、党と国家を意のままに動かしていることを感じた。

その彼らの情報網が張り巡らされ、政府首脳さえ、発言には至って慎重にならざるを得ないことを知ったのである。伸一は、ソ連は中国を攻めないとのコスイギン首相の言葉などを、事前に、詳しく廖承志会長に伝えておいてよかったと思った。伸一は、話題を変えた。

伸一は、率直に尋ねた。毛沢東主席や周恩来総理の健康状態についても、率直に尋ねた。また、「前回、お会いした李千念副総理にもよろしくお伝えください」

伸一は、全人代(全国人民代表大会)の開催時期についても、単刀直入に尋ねた。全人代は、かつては毎年、開催されてきたが、1964年12月下旬から翌年1月初めにかけて行われたのを最後に、文化大革命期に入ってからは、開催されていなかった。

伸一は、こんな事態が続き、中国が国家として信頼をなくしてしまうことを、深く憂慮していたのだ。鄧副総理は答えた。「全人代の開催は、もう近いと思います」全人代の開催を表明すれば、世界各国は中国がルールに則った国家の運営をしようとしていることを認識し、安心するはずである。

ゆえに伸一は、あえて全人代の開催を尋ねたのである。彼はどうすれば、中国が、世界の理解、信頼を勝ち得るか、真剣に考えていたのだ。伸一は、この会談終了後の記者会見で、全人代開催についての副総理の回答を伝えた。

真の友好とは、親身になって相手のことを思う、誠意と信念の結実にほかならない。伸一の中国への思いは、鄧小平の胸に、強く響いたにちがいない。一時間近い会談の最後に、鄧副総理は言った。「これからは、山本会長のご都合のよい時に、いつでも中国を訪問してください。」

滞在最後の夜となる5日、山本伸一、峯子による答礼園が行われた。伸一は、必ず相手の名前を呼んで話を始めた。伸一の頭の中には、一人ひとりの顔と名前はもとより、これまでのやり取りや、どのように尽力してくれたかが、克明に記憶されていた。

通り一編のあいさつでは、儀礼的な交流しかできない。真実の人間交流のためには、徹底して相手を知り、琴線に触れる言葉を交わすことだ。

答礼園が終わりに近づいたころ、廖承志会長に電話がかかってきて、小声で伸一に「実は周総理が待っておられます」と告げた。突然の話であった。

周恩来総理の病状が思っていた以上に重いと聞いていた伸一は、会見を丁重に辞退した。廖会長は、いかにも困ったという顔で言った。「会見は、周総理の強い希望なのです」周総理の医師団も、こぞって、伸一との会見に反対したのだ。「命の保証はできません」だが、周総理は、毅然として言った。「山本会長には、どんなことがあっても会わねばならない!」

やむなく夫人の鄧夫人に相談し、説得してもらおうとしたが、夫人は周総理の意思を尊重した。総理が入院中のの305病院に入ると人民服を着た周総理が立って、待っていてくれた。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

信義の絆への道

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 313P~

北京大学の学生代表に、創価大学の学生からのメッセージや論文集、また、この年の10月に行われた、創価大学の第一回「中国弁論大会」のテープなどを贈呈した。さらに、北京大学の付属小学校の児童には、日本の小学生の絵や書道の作品を贈ったのである。

高価な贈り物は何もない。しかし、互いの考えや思いを理解し合うには、最もふさわしい贈り物であったといえよう。伸一は、どうやって若い世代の、心と心を結び合わせるかを真剣に考えていたのだ。

伸一は、かつて日本の学生たちの集会で、「日中国交正常化提言」を行った信条について明らかにした。「中国とは、どんなことがあっても、友好を堅持しなければならない。二度とあの悲惨な戦争を繰り返してはならないーーこれは戦争によって肉親を失い、苦しんできた私の、若い時代からの信念でありました。」

「『諸君が、社会の中核となった時には、日本の青年も、中国の青年も、ともに手を取り合って、明かるい世界の建設に、笑みを交わしながら働いていけるようでなくてはならない。』」

私は、この信念のもとに中国を訪れました。私が、贈本をさせていただいたのも、この信条から教育交流を通し、相互理解を深め、力を合わせて輝かしい未来へ進んでいきたいと念願するからにほかなりません」日中友好への伸一の烈々たる思いが、胸に迫るスピーチであった。

伸一は、世界の平和のために、ただただ誠実に行動し抜いてきた。彼の話に、皆がその「心」を感じたのだ。「誠実」への共感に国境はない。「誠実」こそが、人間を結ぶ心の絆となるのである。伸一に続いて、北京大学側から丁重な謝辞があった。

図書贈呈式の後、伸一たちは、北京大学の図書館を視察した。贈呈した図書5千冊が、力学、数学、医学、工学、日本文学など、整然と分類して展示されていた。書物を大切にすることは、精神を大切にすることに通じよう。

図書館を視察したあと、日本語学科に学ぶ十数人の学生とテーブルを囲んで懇談した。彼は、学生たちの、日本人に対する、"心の壁"を取り除きたかった。中国は、日本軍との戦いで、多くの犠牲者を出した国である。その悲惨な歴史は、父や母などから、何度となく聞かされてきたにちがいない。それだけに、日本や日本人に対しては、当然、複雑な感情があるはずである。

日本人としては、過去の歴史を正しく認識し、詫びるべきは、真摯に詫びねばならない。そのうえで、触れ合いを通して、同じ人間として心を通わせ合い、信頼と友情の絆を結ぶことだ。歴史のなかでつくられてきた「わだかまり」や「誤解」という氷塊を溶かすものは、友誼への情熱であり、人間の心と心の触れ合いから生まれる温もりである。

ゆえに、民衆次元の交流が何よりも大切になるのである。夜には、北京大学の学生会主催による「歓迎の夕べが、大学の大講堂で開催された。大学をあげての「歓迎の夕べ」であった。

翌日は、北京大学の首脳と懇談した。そして、今後も密接な連携を取り合いながら、いつまでも、友誼を保ち続けていくことを確認し合った。

午後には、中日友好協会を訪問した。孫平化秘書長、林理事長らと意見を交換し合った。

12月4日の夜、伸一の一行は、人民大会堂で行われた、中日友好協会の廖承志会長による歓迎宴に出席した。日中の交流を本気になって推進する創価学会に対して、反中国的な勢力からは、激しい批判が浴びせられていた。しかし、伸一は、すべて覚悟のうえであった。

守るべきは、平和を願う人間としての信義である。日中両国人民の繁栄であり、幸福である。そのためには、何ものをも恐れず、揺るぎなき信念をもって、敢然と突き進んでいくつもりであることを、彼は表明しておきたかったのである。

太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

北京大学への図書贈呈

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 297P~

<信義の絆の章 開始>


ソ連訪問から帰国して、二か月ほど過ぎた1974年(昭和49年)の11月中旬のことであった。中日中国大使館を通して、北京大学から、伸一を招待したいという電報が届いたのである。

二度目となる伸一の中国訪問は、1974年の12月2日からであった。今回、伸一は、日本から飛行機で、直接、中国に入ることになる。半年前の初訪中の折には、日本から中国に行く飛行機便はなかった。しかし9月末、日中定期航空路が開設されたのだ。

伸一は、そこに時代の変化を感じていた。6年前に、彼が「日中国交正常化提言」を行った時、いったい誰が、こうした時代の到来を想像したであろうか。時代は動く、時代は変わる。そこには、まず人間の心を動かすことだ。人が変われば、間違いなく歴史も変わるのだ。北京大学の首脳は、五千冊の図書贈呈を心から喜ぶとともに、贈呈式のために山本伸一が訪中したことに、深く感謝の意を表した。

そして、刷り上がったばかりの自著『中国の人間革命』を、北京大学の首脳に贈った。これは、第一次訪中の印象をつづったもので、発行日は三日後の12月5日であった。しかし、今回の訪中で関係者に贈呈しようと、持参してきたのである。

廖会長と伸一は、互いに抱き合い、半年ぶりの再会を喜び合った。廖承志は、感慨深い顔で頷いた。「今回は武漢大学にも図書贈呈されるという話も、駐日大使から伺っております」

「武漢大学の場合は、一人の創価大学生が、私と同じ心で日中友好の道を開こうと、懸命に奮闘し、交流の道を開いてくれました。私は、その努力に報いたいんです」伸一は、武漢大学に図書贈呈をすることになった経緯を語り始めた。

創価大学の一期生に、倉田城信という学生がいた。倉田は、伸一の『日中国交正常化提言』に触発され、創価大学に中国研究会を発足させた。学生訪中団に参加。この訪問で、武漢大学を訪れた折、同大学の日本語教師である呉月娥と知り合う。

在日華僑の叔父の看病のため来日していた彼女を、創価大学に来賓として招待した。この時、創価大学と武漢大学に対しても、図書贈呈を行うことを構想していった。伸一は、この経緯を廖承志に語った。二人だけになると、伸一は言葉を選ぶように語り始めた。

ソ連を訪問し、コスイギン首相と会談した折の首相の話を 廖先生の方から、中国の首脳に伝えていただければと話した。

北京到着の二日の夜には、北京大学の主催で、一行の歓迎宴が行われた。中国の関係者は伸一が、中国の素顔を日本のみならず、世界中に伝えようと既に中国訪問中から、依頼を受けていた新聞や雑誌の原稿執筆に取り組んできた。そして、帰国後も、睡眠時間を削って、ペンを執ってきた言論活動に、中国の関係者は着目し、高く評価していた。

伸一がスピーチに立った。平和は、人類の悲願である。本来、それを実現していくことこそ、最高学府の最も重要な使命であるはずだ。たとえ、どんなに優秀であっても、世界の民衆が戦争や飢餓、貧困、差別などに苦しんでいることに無関心で、痛みさえも感じない、冷酷なエリートしか輩出できないならば、それは既に教育の破綻である。ゆえに、人間教育が一切の根本となるのだ。

伸一は、平和など、至高の目的のために、すべての大学、学生が結ばれていくべきであると確信していた。彼が提唱した「教育国連」構想も、国やイデオロギーの壁を超えた、世界の平和を創造する学生のスクラムをめざすものでもあった。

12月3日、山本伸一の一行は、北京大学のロシア語館で行われた図書贈呈式に出席した。これには、北京大学の首脳、学生、また、中日友好協会の廖承志会長をはじめ、国務院、北京市の関係者ら百人ほどの人びとが参加した。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

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