『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 349P~
「私は中国を愛しています。中国は大事です。同時に人間を愛します。人類全体が大事なんです。」どんなに厳しい状況になっても、伸一は、あきらめなかった。
何があってもあきらめずに、信念の道を進むことが、"勝つ"ということなのだ。伸一は、あらゆる人の「仏性」を信じて、人類の平和を願う心を確信して語りかけ続けた。彼は、この第5次訪中では、華国鋒党主席と会見し、今後の中国の方向性を尋ねている。
そして、翌1981年(昭和56年)には、三度目のソ連訪問を果たし、チーホノフ首相と会見した。全人類を平和の方向へとの強き一念で、行動し抜いたのだ。
ソ連のブレジネフ書記長が、中国に、両国の関係改善を呼びかけたのは82年3月のことであった。時代は動きはじめたのだ。89年5月には、ソ連の最高指導者としては30年ぶりに、ゴルバチョフ書記長が中国を訪問する。そして、中国の最高実力者となっていた、あの鄧小平国家中央軍事委員会主席と会談し、双方が、遂に関係正常化を宣言したのだ。
この首脳会談は、世界を冷戦から緊張緩和へと回転させる新しき時代の曙光となったのである。
山本伸一は、進展する中ソ関係正常化のニュースに、熱い感慨が込み上げてきて仕方なかった。
彼は、中ソ両国の平和共存を胸に描き、祈りに祈ってきた。また、一民間人という立場で動きに動き、両国首脳たちに、相互の平和友好を訴え続けてきた。それは、小さな波を起こしたに過ぎなかったかもしれないが、中ソの和解という伸一の念願は、結実を見たのである。
「人類の幸福と世界の平和の実現が、広宣流布だ。私は仏法者として、そのために走り抜くよ。人が見ていようがいまいが、社会がどう評価しようが、そんなことはどうでもいい。いつか歴史が審判を下すからだ。どんなことがあっても、平和のための戦いをやめるわけにはいかないのだ。それが私の信念だ!」
伸一の第一次訪ソ当時、ソ連駐日大使館の参事官であったY・D・クズネツォフは、1974年に伸一が中国とソ連を訪問し、両国首脳と対話したことについて、後年、次のように語っている。「ソ連と中国の関係の正常化に貢献したという事実は否定できません。あの時の正常化への行動がなければ、現在のような幅広いロシアと中国の関係の発展はなかったと私は思うのです」
水面下の流れは見えにくい。しかし、信念の行動は、必ず時代を動かす底流となることを、伸一は確信していたのだ。人類の英知の結晶である平和の建設が広宣流布だ。
太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋
1975年の4月、創価大学は日本で初となる新中国からの正式な国費留学生6人を、キャンパスに迎えたのである。その留学生の身元保証人となったのが、山本伸一であった。また、留学生らの手で、周恩来総理の健康を祈り、構内に「周桜」が植樹された。
だが、翌76年には、周恩来総理が、さらに毛沢東主席が、相次いで亡くなったのである。やがて、華国鋒党主席が誕生するが、中ソの関係は冷え切ったままであった。
80年4月、伸一が5度目に訪中した時には、ソ連のアフガニスタン侵攻を非難する声が渦巻いていた。会談した人たちから、こんな要請もあった。「山本先生がソ連に行かれると、せっかく先生が架けられた日中の友誼の橋は固まりません。ソ連訪問はできる限り控えていただきたい」
伸一は、答えた。「お気持ちはわかります。しかし、時代はどんどん変化しています。21世紀を前に、全人類を平和の方向へと向けていかなくてはならない。もはや大国が争い、憎み合っている時ではありません。『お互いのよいところを引き出しながら、調和していこう』『人間が共に助け合って、新しい時代をつくっていこう』という人間主義こそが、必要なのではないでしょうか」
伸一は、真心を込めて訴えたが、なかなか納得してもらえなかった。最後は、中国とソ連と、どちらが大切なのかという話になってしまうのだ。
「私は中国を愛しています。中国は大事です。同時に人間を愛します。人類全体が大事なんです。」どんなに厳しい状況になっても、伸一は、あきらめなかった。
何があってもあきらめずに、信念の道を進むことが、"勝つ"ということなのだ。伸一は、あらゆる人の「仏性」を信じて、人類の平和を願う心を確信して語りかけ続けた。彼は、この第5次訪中では、華国鋒党主席と会見し、今後の中国の方向性を尋ねている。
そして、翌1981年(昭和56年)には、三度目のソ連訪問を果たし、チーホノフ首相と会見した。全人類を平和の方向へとの強き一念で、行動し抜いたのだ。
ソ連のブレジネフ書記長が、中国に、両国の関係改善を呼びかけたのは82年3月のことであった。時代は動きはじめたのだ。89年5月には、ソ連の最高指導者としては30年ぶりに、ゴルバチョフ書記長が中国を訪問する。そして、中国の最高実力者となっていた、あの鄧小平国家中央軍事委員会主席と会談し、双方が、遂に関係正常化を宣言したのだ。
この首脳会談は、世界を冷戦から緊張緩和へと回転させる新しき時代の曙光となったのである。
山本伸一は、進展する中ソ関係正常化のニュースに、熱い感慨が込み上げてきて仕方なかった。
彼は、中ソ両国の平和共存を胸に描き、祈りに祈ってきた。また、一民間人という立場で動きに動き、両国首脳たちに、相互の平和友好を訴え続けてきた。それは、小さな波を起こしたに過ぎなかったかもしれないが、中ソの和解という伸一の念願は、結実を見たのである。
「人類の幸福と世界の平和の実現が、広宣流布だ。私は仏法者として、そのために走り抜くよ。人が見ていようがいまいが、社会がどう評価しようが、そんなことはどうでもいい。いつか歴史が審判を下すからだ。どんなことがあっても、平和のための戦いをやめるわけにはいかないのだ。それが私の信念だ!」
伸一の第一次訪ソ当時、ソ連駐日大使館の参事官であったY・D・クズネツォフは、1974年に伸一が中国とソ連を訪問し、両国首脳と対話したことについて、後年、次のように語っている。「ソ連と中国の関係の正常化に貢献したという事実は否定できません。あの時の正常化への行動がなければ、現在のような幅広いロシアと中国の関係の発展はなかったと私は思うのです」
水面下の流れは見えにくい。しかし、信念の行動は、必ず時代を動かす底流となることを、伸一は確信していたのだ。人類の英知の結晶である平和の建設が広宣流布だ。
太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋