『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 390P~
平和友好条約については、1972年(昭和47年)9月に発表された日中共同声明のなかで、締結に向けて交渉していくことが明記されていた。
三木首相も平和友好条約の締結を望んでいた。だが、党内では難色を示す勢力が強く、前途は多難であった。それを押し切るには、三木首相の党内基盤は脆弱過ぎた。日中友好を推進することは、命がけの作業といっても過言ではない。
大平は、外相として国交正常化を推進していた時には、自宅に脅迫状も投げ込まれたという。しかし、彼は、『たとえ八つ裂きにされても、やる』との壮絶な決意を固めて、事に当たってきたのである。日中航空協定でも、党内の反対派から、何度もつるし上げられた。
伸一もまた、日中友好の華僑作業に突き進んだ日から、幾度となく、脅迫や避難、中傷の嵐に打たれ続けてきた。それだけに、大平の心も、決意もよくわかった。
伸一は、言葉をついだ。「さきほど、キッシンジャー国務長官とお会いしてきました。長官は、日本と中国は、ぜひ平和友好条約を結ぶべきだというご意見でした。」「そうなんです。キッシンジャーさんは周総理から、条約締結の応援を頼まれているようです」
伸一は、周総理を思いながら大平に言った。「これは断固、成し遂げなければならないテーマです。大平先生への皆の期待は大きいと言えます」
大平は、決意をかみしめるように語った。「日中平和友好条約は必ずやります。しかし、若干、時間はかかります。年内は無理かもしれません。日中問題は、実は『日日問題』なんです。日中友好に慎重な勢力の強い抵抗があります。三木総理はやりたくとも見方は少ない」
伸一は、ひときわ大きな声で言った。「国民が味方ですよ。平和を望む国民はみんな味方です。応援します」
「この日中平和友好条約は、日中のみならず、世界にとっても極めて大事です。社会主義の中国と資本主義の日本が、『平和友好』を宣言することは、画期的なことです。人類は、いつまでも、『冷戦』を続けている時代ではありません」大平蔵相との語らいは、日中友好への決意を固め合う対談となった。
日中友好条約の締結への道のりは険路であった。条約に派遣反対の条項を盛り込むかどうかで、交渉は、暗礁に乗り上げることになる。
ソ連に配慮しつつ「反派遣条項」が盛り込まれた日中平和友好条約が調印されたのは、伸一の「日中国交正常化提言」から10年後の、1978年8月のことである。福田赳夫首相、大平自民党幹事長の時代であった。
山本伸一は、1月14日、アーリントン墓地を訪れ、「無名戦士の墓」に献花した。さらに、伸一は、墓地内にある、第35代大統領のジョン・F・ケネディ、その弟のロバート・F・ケネディの墓を訪れ、冥福を祈った。
かつて、ケネディ大統領とは会談が決まっていたにも関わらず、実現せずに終わってしまったことが悔やまれてならなかった。
伸一は、このあと、シカゴ、ロサンゼルス、ハワイを訪問し、1月23日に、グアムに向かった。グアムでは、26日に世界51ヵ国・地域からメンバーの代表が集い、第1回「世界平和会議」が開催されることになっていた。いよいよ平和の新章節の幕が開かれようとしていたのだ。
人類が結束して行うべき最大の事業ーーそれは恒久平和の建設である。伸一は、そのための人類結合の「芯」となる絆を創ろうと、固く、強く、心に決めていたのである。
<信義の絆の章 終了>
<新・人間革命 第20巻 終了>
平和友好条約については、1972年(昭和47年)9月に発表された日中共同声明のなかで、締結に向けて交渉していくことが明記されていた。
三木首相も平和友好条約の締結を望んでいた。だが、党内では難色を示す勢力が強く、前途は多難であった。それを押し切るには、三木首相の党内基盤は脆弱過ぎた。日中友好を推進することは、命がけの作業といっても過言ではない。
大平は、外相として国交正常化を推進していた時には、自宅に脅迫状も投げ込まれたという。しかし、彼は、『たとえ八つ裂きにされても、やる』との壮絶な決意を固めて、事に当たってきたのである。日中航空協定でも、党内の反対派から、何度もつるし上げられた。
伸一もまた、日中友好の華僑作業に突き進んだ日から、幾度となく、脅迫や避難、中傷の嵐に打たれ続けてきた。それだけに、大平の心も、決意もよくわかった。
伸一は、言葉をついだ。「さきほど、キッシンジャー国務長官とお会いしてきました。長官は、日本と中国は、ぜひ平和友好条約を結ぶべきだというご意見でした。」「そうなんです。キッシンジャーさんは周総理から、条約締結の応援を頼まれているようです」
伸一は、周総理を思いながら大平に言った。「これは断固、成し遂げなければならないテーマです。大平先生への皆の期待は大きいと言えます」
大平は、決意をかみしめるように語った。「日中平和友好条約は必ずやります。しかし、若干、時間はかかります。年内は無理かもしれません。日中問題は、実は『日日問題』なんです。日中友好に慎重な勢力の強い抵抗があります。三木総理はやりたくとも見方は少ない」
伸一は、ひときわ大きな声で言った。「国民が味方ですよ。平和を望む国民はみんな味方です。応援します」
「この日中平和友好条約は、日中のみならず、世界にとっても極めて大事です。社会主義の中国と資本主義の日本が、『平和友好』を宣言することは、画期的なことです。人類は、いつまでも、『冷戦』を続けている時代ではありません」大平蔵相との語らいは、日中友好への決意を固め合う対談となった。
日中友好条約の締結への道のりは険路であった。条約に派遣反対の条項を盛り込むかどうかで、交渉は、暗礁に乗り上げることになる。
ソ連に配慮しつつ「反派遣条項」が盛り込まれた日中平和友好条約が調印されたのは、伸一の「日中国交正常化提言」から10年後の、1978年8月のことである。福田赳夫首相、大平自民党幹事長の時代であった。
山本伸一は、1月14日、アーリントン墓地を訪れ、「無名戦士の墓」に献花した。さらに、伸一は、墓地内にある、第35代大統領のジョン・F・ケネディ、その弟のロバート・F・ケネディの墓を訪れ、冥福を祈った。
かつて、ケネディ大統領とは会談が決まっていたにも関わらず、実現せずに終わってしまったことが悔やまれてならなかった。
伸一は、このあと、シカゴ、ロサンゼルス、ハワイを訪問し、1月23日に、グアムに向かった。グアムでは、26日に世界51ヵ国・地域からメンバーの代表が集い、第1回「世界平和会議」が開催されることになっていた。いよいよ平和の新章節の幕が開かれようとしていたのだ。
人類が結束して行うべき最大の事業ーーそれは恒久平和の建設である。伸一は、そのための人類結合の「芯」となる絆を創ろうと、固く、強く、心に決めていたのである。
<信義の絆の章 終了>
<新・人間革命 第20巻 終了>
太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋