小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

青年

「打ち砕かれしうるま島」発刊

『新・人間革命』第19巻 宝塔の章 319P~

聖教新聞の沖縄版で、戦争体験の連載が始まったのは、1973年(昭和48年)の8月3日付からであった。タイトルは「戦争を知らない子供達へ」である。この連載の最初に登場したのは、「ひめゆり部隊」で生き残った婦人であった。

婦人は学会員ではなあったが、取材に快く応じてくれた。彼女の話は、衝撃的であった。米軍が間近に迫り、病院の移動が決まった時、歩けない患者は残すことになった。彼女は、"残った患者たちに、衛生兵が青酸カリ入りのミルクを飲ませた"と聞かされる。しかも、その人たちは「戦死」とされたのである。

艦砲射撃のなか、アダンの葉の下に隠れて暮らした。壕に行ってみると、重なり合うようにして、たくさんの骨があった。死後、火炎放射器で焼かれたのだ。その壕こそ、現在、「ひめゆりの塔」が立っている場所であった。その女性は、白骨の残る壕にとどまった。

語りながら婦人は何度も声を詰まらせ、泣き濡れた。取材した女子部員も、共に泣いた。婦人は、最後に怒りをかみしめるように、こう語るのであった。「国のために、必ず勝つ、と教え、信じ込ませた教育。今になって軍国主義教育がいかに大へんなものであったかがわかります。私は戦争を体験したが故に、戦争は再び起こしてはならないと思うし、また、あのような軍国主義の教育にも絶対に反対しなければならないと思っています」

この婦人の証言は、8回にわたる連載となった。集められた証言は、どれも戦争の暗部をえぐり出していた。「集団自決」の悲劇もあった。また、沖縄の人びとにとっては、米軍だけでなく、日本兵の横暴もまた大きな恐怖であった。

さらに、こんな婦人の証言もあった。軍人の夫と離れ、4人の子どもを連れて本土に疎開。疎開先で女の子を出産するが、3歳で肺炎で亡くしてしまう。何の罪もない、けなげな庶民の女性に、癒し難い心の傷を残してしまう戦争の残酷さを、彼女の手記は訴えている。

連載は58回に及び、さらに、翌年3月から「続・戦争を知らない子供達へ」の連載が続けられた。そして、この連載を中心に、戦争体験記として一冊の本にまとめることになったのである。本の題名は「打ち砕かれしうるま島」とつけられた。

沖縄戦の終結から29年後の6月「創価学会青年部反戦出版委員会」による「戦争を知らない世代へ」の第一弾として、発刊されたのである。この本の反響は大きかった。地元紙でも大きく取り上げられた。そして、この一冊が、各県の青年部による、反戦出版の突破口をひらいたのである。

伸一は、第1号となる本の扉に「創価学会は 平和反戦の集団なり 此の書 その証なり」と認めて、男子部に贈った。

「沖縄は、本土に復帰し、新時代を迎えた。沖縄の歴史はあまりにも悲惨だった。だからこそ、仏法という生命の大哲理をもって、最も平和で幸福な島にしなければならない。そうなることで、仏法の真実を証明するのだ。それが沖縄の使命なんです。『宿命』を『使命』に転ずるのが妙法の一念です」

「お父さんもいない。家も貧しい。人前で話もできないーーだからこそ盛山君には、沖縄の民衆の大リーダーになる使命がある。その資格があるんだよ」

「父親がいないから、貧しいから、話すのが苦手だからといって、自身をなくしていた人たちが、みんな、勇気をもてるようになるじゃないか。その実証を示せば、仏法の正しさが証明され、広宣流布の大きな力となる。したがって、自分のもって生まれた宿命は、そのまま使命になる。人生には、意味のないことなど一切ないし、すべてが生かされるのが信心なんだよ。」

伸一は、宿命の転換ということについて、さらに語っておこうと思った。「宿命を転換するといっても、それはまず、自分の一念を転換することから始まる。結論するならば、一念の転換とは、広宣流布の使命を自覚し、広布に生きると決めることです。戸田先生は、妙悟空のペンネームで書かれた『人間革命』で、そのことを教えてくださっているんです」

太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋

沖縄青年部による戦争体験記発刊準備

『新・人間革命』第19巻 宝塔の章 306P~

いち早く計画がまとまったのは沖縄であった。終戦から28年、40代、50代で戦争を体験した人たちから、証言を取材するには、最後のチャンスというべき時を迎えていた。

その一方で、「戦争を知らない子どもたち」は、「戦争を知らない大人」へと成長していた。既に、戦後生まれが、日本の人口の半分に達しようとしていたのである。

沖縄にあっても、戦争体験は次第に風化しつつあったのだ。何ごとにも「時」がある。「時」を見極め、「時」を逃さずに行動を起こしてこそ、大業の成就もある。「今」を見失うことは、「未来」を失うことである。沖縄の青年たちは立ち上がった。
編纂委委員長には沖縄学生部長の盛山光洋が、副委員長には男子部の桜原正之が就いた。

盛山は沖縄の竹富島生まれ。父は、徴兵され、戦地で結核にかかり、戦後も寝たきりのが続き、母親と祖母が父の面倒をみながら子どもたちを育てた。盛山が中学三年の時母が創価学会に入った。盛山は高校は石垣島に出た。環境になじめず、信心に反対していたが、題目をあげると勇気が涌くのを覚えた。浪人中唱題に励み琉球大学に合格。誓い通り学生部員として活動を始める。

同学年だったのが、桜原正之であった。彼は横浜出身であったが、空襲に遭い、戦後両親の実家の沖縄で生活する。しかし、5歳の時に両親が他界。彼の幼少期には、沖縄は戦争の爪痕が残り、戦車が放置され、弾丸もいたるところに落ちていた。彼は中学3年の時に信心を始めた。

三女の姉が皮膚病で苦しんでいて、外出もできなかったほどだったが、その姉が入会し、皮膚病を克服したのを見てのことであった。彼は、"大学に行き、広宣流布の力ある人材に育ちたい"と猛勉強し、琉球大学に合格した。

盛山と桜原は互いに励まし合いながら、沖縄広布の大願に燃えていた。1964年(昭和39年)12月2日、沖縄を訪れていた山本伸一と初めて会った。

「沖縄の歴史は、悲惨であった。宿命の嵐のごとき歴史であった。だからこそ、ここから、幸福の風が吹かねばならない。平和の波が起こらねばならない」伸一の言葉に、世界の平和を建設しゆく沖縄の使命を感じた。沖縄は、"戦後"ではなく、まだ"戦中"といってよかった。それでも沖縄戦の体験は次第に忘れ去られ、風化しつつあったのだ。

「戦争体験記」の発刊準備にあたる盛山と桜原は、この出版に、不思議な使命を感じていた。それは、"自分たちが山本先生に初めてお会いした1964年の12月2日は、先生が沖縄の地で、小説『人間革命』の筆を起こされた日である"ということであった。

「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない・・・」この平和宣言ともいうべき一節で始まる『人間革命』の寄稿の日に、彼らは、生涯、伸一についていこうと決意を定めたのだ。

そう思うと彼らは、平和の永遠の礎となるような反戦の書を、自分たちの手で真っ先に完成させたかった。いや、それが沖縄に生きる自分たちの責務であると感じた。

取材が始まった。皆、趣旨には快く賛同してくれた。しかし、実際に本題に入ると、涙ぐみ、口をつぐんでしまう人が少なくなかった。戦場で受けた恐怖、むごたらしい死、愛する家族を奪われた悲しみーー思い出すには、あまりにも辛いことであった。青年たちは困惑した。だが、勇気を奮い起こして懇請した。

また、戦争体験を聞き出せても、時系列があいまいであったり、話が前後で食い違ってくることも珍しくなかった。そんな時には、何度も取材を重ねるのである。粘り強さが求められる作業であった。何事を成し遂げるにも、不可欠な条件は忍耐ということだ。




太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋

生命尊厳の反戦出版運動

『新・人間革命』第19巻 宝塔の章 297P~

<宝塔の章 開始>

1974年(昭和49年)の4月28日、伸一は、北陸広布20周年を祝す記念総会に出席していた。「大聖人がこの世に広めようとされたものは、端的に申し上げれば『本尊』であります。では、その『本尊』の内容とは何か」

「それは、『御本尊七箇相承』に『汝等が身を以て本尊と為す可し』とある通り、あえて誤解を恐れずに申し上げれば、総じては『人間の生命をもって本尊とせよ』ということであります」「つまり、大聖人の仏法は『一切の根源は"生命"それ自体である。根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに"人間生命"そのものである』という哲理であり、思想なのであります」明快な話であった。

日蓮大聖人は、「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」と仰せになっている。仏は、遠い彼方の世界にいるのではない。わが生命が本来、尊極無上の仏であり、南無妙法蓮華経の当体なのである。

ゆえに、自身の生命こそ、根本尊敬、すなわち本尊となるのである。そして、その自身の南無妙法蓮華経の生命を映し出し、湧現させるための「明鏡」こそが、大聖人が曼荼羅として顕された御本尊なのである。

人間の生命に「仏」が具わり、"本尊"であると説く、この仏法の哲理こそ、生命尊厳の確固不動の基盤であり、平和思想、人間主義の根本といってよい。その生命の哲理を、人類の共有財産として世界に伝え、平和を実現していくことこそ、自身の使命であると、伸一は決意していたのである。

この仏法という生命の法理を原点として、あらためて人間とは何かを問い直し、新しき『人間の復興』をめざしているのが、私たちの広宣流布の大運動なのであります」そして、学会が、人間の復興のために、地域に根ざした広範な文化活動を展開し、社会の建設に取り組んでいることを訴えていった。

北陸は、浄土信仰が深く根を下ろしてきた地域である。その念仏の哀音と思想は、心の"なぐさめ"になったとしても、社会を変革・創造し、未来を切り開く理念とはなりえなかった。そうした仏教に慣らされてきた人びとにとっては、「生命の尊厳」の哲理を根本に、人間の復権をめざす創価学会の仏法運動は、衝撃的でさえあったようだ。

山本伸一の行動に休息はなかった。未来というゴールで勝つには、「今」が勝負である。この一瞬一瞬に勝たねばならない。

1972年(昭和47年)11月に開催された、第35回本部総会での山本会長の講演で、訴えたのである「世界のあらゆる国の民衆が、生きる権利をもっている。その生存の権利に目覚めた民衆運動が、今ほど必要な時はないのであります。私は、その運動を青年部に期待したい」

第二代戸田城聖は、「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」と断じて、「原水爆禁止宣言」を発表したのである。

伸一は、戸田の弟子として、仏法者として、この思想を世界に弘めようと、東奔西走重ねてきた。そして、人類の生存の権利を守ろうとの思いから、さまざまな識者との対話も推進してきた。さらに、平和のための提言も行ってきた。この生存の権利を守る戦いを、彼は青年たちに委ね、未来に流れる、人間復権運動の大河を開こうとしていたのである。

伸一の講演を受けて、青年部では真剣に検討を重ねた。そして、翌1973年に行われた第21回男子部総会で、「生存の権利を守る青年部アピール」が採択されたのである。そこでは、戦争の廃絶や公害の絶滅
、生命軽視の風潮や暴力などとの戦いが掲げられていた。

青年部では、この方針をもとに、各地で、具体的な取り組みについて、協議が重ねられていった。


太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋

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