小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

青年

団結・危機管理・魔との闘争

『新・人間革命』に学ぶ 番外編④ー2

「新・人間革命」につづられた名言をテーマごとに紹介

テーマ「団結」

妙法の 広布の旅は 遠けれど 
共に 励まし 共どもに征かなん

ここには、師弟の、そして、同志の絆の大切さが歌われている。

広宣流布は一人立たねばできない。と同時に、互いに励ましあい、共に進もうという団結なくしては、広宣流布の広がりはない。戸田は、その大聖業を果たし行く創価学会という教団は、「創価学会仏」であると宣言した。

大聖人は仰せである。『総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思いを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり』

つまり、水魚の思いをもって、心を一つにして信心に励む時、生死一大事の血脈、すなわち、妙法の血脈が流れ通うのだ。ゆえに、「創価学会仏」たる根本条件は、広宣流布への異体同心の団結にある。
(第24巻「母の詩の章」p95~96)

テーマ「危機管理」
人間には、「慣れ」という感覚がある。今いる状況に慣れると、危険が進行していても“これまでも何もなかったから、これから先も大丈夫であろう”と、安易に思い込んでしまいがちである。いや、危険かどうかを考えることさえしなくなってしまうのだ。

いわば、感覚の麻痺であり、まさに油断である。危機管理とは、まず、自身の、その感覚を打ち破るところから始まるといえよう。

御書には、「賢人は安きに居て危きを歎き」と記されている。安全なところにいても、常に危険に備えているのが、賢い人間の生き方であるとのご指導だ。

ゆえに伸一は、火災をはじめ、さまざまな事故、事件が多発しがちな師走を前に、自分から率先して、本部周辺の建物の点検をしようと決めていたのである。
(第24巻「厳護の章」p102)


テーマ「魔との闘争」
「もし、行き詰まりを感じたならば、自分の弱い心に挑み、それを乗り越えて大信力を奮い起こしていく。(中略)

長い人生には、信心なんかやめて、遊んでいたいと思うこともあるでしょう。病気にかかってしまうこともあれば、家族の死に直面し、悲しみに沈むこともあるかもしれません。

それは、煩悩魔という行き詰まりとの“闘争”であり、病魔という行き詰まりとの“闘争”であり、死魔という行き詰まりとの“闘争”といえます。

それを唱題で乗り越え、絶対的な幸福境涯を開き、最高に意義ある人生を創造していくところに、仏法の最大の意味があります。

ゆえに、何か困難にぶつかったならば、行き詰まりとの”闘争”だ、
障魔との”闘争”だ、今が勝負であると決めて、自己の宿命と戦い、
勇敢に人生行路を開いていっていただきたいのであります」
(第2巻「練磨の章」p98~99)


太字は 聖教新聞 小説『新・人間革命』番外編④より 抜粋

祈り・後継・人間外交

『新・人間革命』に学ぶ 番外編④ー1

「新・人間革命」につづられた名言をテーマごとに紹介

テーマ「祈り」
「試練に次ぐ試練、涙また涙というのが、現実の社会といえます。そのなかで人生に勝利していくには、唱題しかありません。信心強気人とは、何があっても"題目を唱えよう"と、御本尊に向かえる人です。その持続の一念が強ければ強いほど、磁石が鉄を吸い寄せるように福運がついていきます」

「次に、御本尊の力を実感していくうえでも、祈念は具体的でなければならないということです。また、日々、唱題の目標を決めて、挑戦していくこともいいでしょう。祈りは必ず叶います。すると、それが歓喜となり、確信となり、さらに信心が強まっていきます。また、たとえ、すぐに願いは叶わなくとも、冥益となって、時とともに所願満足の境涯になることを確信していただきたい」
(第26巻「法旗の章」p141)

テーマ「後継」
「牧口先生が、戸田先生に広宣流布のバトンタッチをされたように、戸田先生は、未来のために、広宣流布の一切を、私をはじめとする青年たちに託された。それが、あの6千人の青年が集った『3・16』の儀式なんです。
  
次の広宣流布の流れは、青年につくってもらう以外にない。そして、さらに若い世代が、次のもっと大きな拡大の流れをつくる。その永続的な戦いが広宣流布なんです。したがって、後継者が臆病であったり、力がなく、自分たちの世代に、仏法流布の流れを開いていくことができなければ、広宣流布の未来も、学会の未来もなくなってしまう。

ゆえに私は、青年部の、また、高等部をはじめ、未来に生きる各部の皆さんの育成に真剣勝負で臨んでいるんです。広宣流布は諸君に託すしかない。私は、君たちのために、すべてを注ぎつくします。命をも捧げる思いでおります。
(第25巻「福光の章」p101~102)


テーマ「人間外交」

「戸田先生が、外交、渉外というものを、どのように考えられていたかから、お話ししましょう。先生は、外交を最重要視され、常々、『広宣流布は渉外戦、外交戦である』と言明されていた。また、『外交のできぬ人間を重用してはならない』ともいわれていた。そして、私を本部に新設した渉外部の初代部長に任命された。その時、先生は私に こうおっしゃった。

『伸一、大事なのは人間としての外交である。どんどん人と会って、友情を結んでいきなさい。すべて勉強だ。また、それが広宣流布につながるのだ』つまり、人間として、いかに信頼と尊敬を勝ち得ていくかが勝負であるーーというのが、戸田先生の渉外に対するお考えであり、それが私たちの外交なんです」
(第18巻「飛躍の章」p340~341)


太字は 聖教新聞 小説『新・人間革命』番外編③より 抜粋

加害者側の視点からの反戦出版

『新・人間革命』第19巻 宝塔の章 363P~

沖縄、平尾島、長崎と進められた青年部の反戦出版は、1979年(昭和54年)には一都一道二府24県に
広がり、56巻を数えた。さらに、81年からは「戦争を知らない世代へⅡ」として、再び出版を開始。85年までには、新たに24巻が発刊され、全47都道府県を網羅するに至った。

この12年間にわたる青年の地道な取り組みによって、全80巻、3千2百人を超える人びとの平和への叫びをつづった"反戦万葉集"が完結したのである。各県の青年部は、テーマを絞り込んでいった。

和歌山県の青年部は『中国大陸の日本兵』を上梓した。"日中友好を考えるならば、たとえ目を背けたい歴史であっても、真摯に凝視しなければならない"と、青年たちは考えたのである。証言は、永久に自らの胸の内に秘めておこうと決めてきた、兵士の"忌まわしい過去"である。

取材に応じてくれた一人の元兵士は、取材を契機に、やめていた酒を飲み始め、夜ごと、苦悶の叫びをあげるようになった。彼の妻は、そのたびに馬乗りになって、彼をおさえつけなければならなかった。青年たちは加害者のもつ、心の傷の深さをあらためて知った。加害者もまた、軍国主義の被害者であることを痛感したのである。

熊本県の青年部も、加害者の側からの視点で反戦出版を行っている。残忍な行為に加担した人も、会って話を聞いてみれば、皆、好々爺であった。「出征前は、鶏一羽も殺すこともできなかった」という人もいた。"なぜ、そんな人が無感覚に人を殺せるようになってしまったのか"そこに、戦争というものの魔性の仕組みがあることに気づく。

「自分が死にたくないという本能を、逆に利用して人を殺させるのだ。ひとたび戦場に押し出されたら、もはや、その流れに逆らうことはできないものだ」そして、「戦争になってからでは遅い。その前に、戦争なんかさせないために、諸外国との友好の推進など、政治を、平和の方向に動かすことだ」というのが、青年たちの結論であった。

「青年は心して政治を監視せよ」とは戸田城聖の叫びである。メンバーは、その言葉の重さをかみしめるのであった。

外地での抑留や引き揚げを反戦出版のテーマとした県もあった。引き揚げの道もまた、悲惨であった。
満州の開拓民として入植した婦人は、突然、避難命令が出され、家財道具を売り払い、逃げた。盗賊団にも襲われた。ソ連軍の爆撃も受けた。機銃掃射の標的にもなった。ソ連軍の収容所に入ると、女性は、次々と暴行された。彼女は頭を丸坊主にし、顔に墨を塗って難を逃れた。女児を出産するが、母乳も出ず、赤ん坊は、44日目に死んだ。

舌を噛みきっても死ぬことはできなかった。彼女が九死に一生を得て、帰国したのは1946年であった。戦争の最大の犠牲者は女性と子どもである。だからこそ、女性は、平和を守るために立ち上がらなければならない。社会の主役として、正義の声をあげるのだ。

反戦出版では、子どもたちの被害に焦点を当てたものも少なくない。戦争がその国の"今"を破壊するだけでなく、"未来"をも破壊する非道な行為であることを、様々な角度から訴えている。滋賀県の青年部は、戦時中の教育者を中心に取材を進めた。

志願して予科練に入り、終戦を迎えた少年に、教師が「志願して兵隊に行った馬鹿者がいる」と冷淡に言い放った。それを聞いていた同じ予科練帰りの少年が教師に殴りかかった。信頼してくれた大人たちに裏切られた、悲憤であったにちがいない。


この軍国主義教育が行われていった時代のなかで、「教育は児童に幸福なる生活をなさしめるものを目的とする」として、教育改革を叫び続けてきたのが、牧口常三郎であり、創価教育学会であった。

反戦出版に携わった青年たちは、人びとの証言から、国家神道を精神的支柱とした軍国主義思想の恐ろしさを、痛感するのであった。守るべき中心は国民ではなく国家とし、国のために勇んで死んでいける人間をつくることが教育であったのだ。

青年たちは、この反戦出版を通して、一人ひとりの胸中に生命尊厳の哲理を確立する広宣流布こそ、恒久平和の直道であることを深く自覚していった。また、人間の生命を制御し、善の方向に変えていく人間革命なくして、平和の創造はないことを強く実感したのだ。



太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋

広島・長崎の反戦出版

『新・人間革命』第19巻 宝塔の章 346P~

14歳の時に被爆し、大火傷を負った金子光子は、鏡を見たいと思わなくなった。寒くなれば風邪を引き、夏になると貧血で倒れ、季節の変わり目には火傷の跡がひきつるように痛むのだ。子どもたちから「ケロイド娘」とはやし立てられたこともあった。

「なんで死なせてくれなかったの!」と怒りを母にぶつけると母は娘を抱きしめ、「誰がなんと言おうとお前が一番素敵だよ」と励ましてくれた。同じ被爆者と結婚し娘に恵まれるが、娘は重度の視力障害で、失明に近い状態であった。自分の運命を呪った。そんな時、金子は入会した。娘を救いたい一心であった。懸命に学会活動に励み、1年後、担当医が他で治療を受けているのかと尋ねるほど娘の視力が回復したのだ。

金子は、信仰に励むなかで、原爆の恐ろしさを未来に伝え、平和の永遠の礎をつくることが、被爆者である自分の使命だと考えるようになった。広島を訪れる修学旅行生などに、被爆体験を語るようになる。

インドのガンジー記念館館長のラダクリシュナン博士が「原爆を投下したアメリカをどう思いますか」と尋ねると、金子は「憎んだ時期もありました。でも、恨むことに心を費やすことが、どれほど惨めであるか・・・。人生は何に生命をかけるかが大事です。私はすべての人の幸福のため、すべての国の平和のために生命を捧げます」博士は感嘆の声をあげた。


また、胎内被曝し、原爆小頭症として生まれた娘をもつ壮年は、信心を始めてから同じ障害のある子とその親たちの会を結成。会長として活躍する。

広島県反戦出版委員会のメンバーである山上則義も、体内被爆者であり、彼自身の手記も収められている。中学2年の夏、首に悪性腫瘍ができ、命は長くないかもしれないと言われ、自分が 体内被爆者であることを思い知らされた。

彼は、いつ死ぬかもしれないという恐怖から、自暴自棄になり、母と祖母が肝臓も肺も、癌に食い荒らされ亡くなると、東京へ行き一人暮らしを始める。自分の生きる意味を探し求めた。知り合った日系カナダ人の婦人から仏法の話を聞き、『人間革命』第1巻を借りて読む。「黎明の章」の終わりの「闇が深ければ深いほど、暁は近いはずだ」一節に、涙がこぼれた。彼は入会した。結核が再発し、信心に不信をいだき、仏壇を叩き壊した。そこに青年部員が訪ねてきて、話を聞いてくれ、励ましてくれた。共に唱題するなかで、真剣に信心に励んでみようと思った。

16人の友人の折伏が実ったころ、なんと結核は固まっていた。この体験で信心の確信をつかんだ山上は、反戦出版を通して、原爆の悲惨さを伝え残し、平和を叫びぬいていくことこそ、胎内被爆者である自分の使命であると思ったからだ。

彼は広島平和記念館で、母の朝子を追悼して友人たちが発刊してきた、数冊の被爆体験誌『あさ』を見つけた。母は、友人たちと勉強会を行い、平和と人権を守ろうと、原水禁運動なども、果敢に推進してきたのである。山上は、反戦出版に携わる自分と、この文集との出会いは、単なる偶然とは思えなかった。母が自分の作業を見守っているように感じた。

8月9日には、長崎青年部による『ピース・フロム・ナガサキ』が発刊されたのである。
証言によって描き出された被爆地・長崎も地獄絵図さながらであった。長崎の青年たちが被爆体験の取材、証言収集を重ねるなかで、長崎原爆の記録に残されていなかった新事実も発掘された。

これまで、被災当日8月9日午後1時50分に運行された救援列車による被災者の収容が、国鉄の救援活動の最初とされてきた。しかし、その前に線路状況の確認のために、トロッコを連結したモーターカーが出され、その段階で、既に救援活動が行われていたことが判明したのだ。

救援列車より約2時間も早く、被爆直後の市内に入って救援活動を行ったという、国鉄職員だった壮年の証言に、マスコミも注目した。まさに、長崎の原爆被災史の空白を埋める新証言となったのである。


太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋

反戦への松明を受け継ぐ沖縄青年部

『新・人間革命』第19巻 宝塔の章 332P~

「『よし!ぼくの一生は決まった!この尊い法華経を流布して、生涯を終わるのだ!』この言葉こそ、戸田先生の究極の決意であり、創価学会の使命を明言しています。そして、ここに、人間革命、宿命転換の直道があるんです」


「末法にあって、題目を唱え、広宣流布の戦いを起こせるのは、地涌の菩薩です。私たちは、どんな宿業に悩んでいようが、本来、地涌の菩薩なんです。宿業も、末法に出現して広宣流布するために、自ら願って背負ってきたものなんです。」

「みんな、日々悩み、悶々としている。しかし、広宣流布の使命を自覚し、その戦いを起こすとき、自らの胸中に、地涌の菩薩の生命が、仏の大生命が厳然と湧現するんです。不幸や悩みに負けている仏などいません。苦悩は必ず歓喜に変わり、境涯は大きく開かれ、人間革命がなされていく。そして、そこに宿命の転換があるんです。」

では、地涌の菩薩の生命とは何か。法華経の会座において、末法の広宣流布を託されたのが地涌の菩薩である。そして、その上首・上行菩薩の姿を現じられたのが御本仏である日蓮大聖人である。したがって、私たちは広宣流布の使命に生きる時、地涌の菩薩であるその本来の生命が現われ、大聖人の御生命が、四菩薩の四徳、四大が顕現されるのである。それによって、境涯革命、人間革命、宿命の転換がなされていくのだ。

一人ひとりが、凡夫の姿のままで自分を輝かせ、病苦や経済苦、人間関係の悩みなど、自身のかかえる一切の苦悩を克服し、正法の功力を実証していくことができるのである。

「人類には生存の権利があるといっても、それを裏付ける哲学がなければ、本当の思想の潮流はならない。その思想が、世界の指導者に、全人類の胸中に打ちたてられるならば、戦争など起こるはずがない。また、貧困や飢餓、疾病、人権の抑圧などが、放置されるわけがない。」

「私たちがめざす平和は、誰もが人間らしく、幸福に生きることのできる社会の実現だ。私が世界に伝えようとしているのは、この世から戦争をなくすための、生命の尊厳という普遍の哲理です。人間が人間らしく生きるための人間主義の哲学です」

沖縄青年部は、その後も反戦出版に取り組み、翌年には「沖縄戦ー痛恨の日々」が発刊。1976年には、中高生が、父母や親戚などに聞いた戦争体験をまとめた「血に染まるかりゆしの海」を。翌年には娘たちが母親に取材した「沖縄戦・母の祈り」を発刊。79年には5冊目となる「沖縄6・23 平和への旅立」が刊行されている。

琉球大学の仲程昌徳教授は自著の「沖縄の戦記」でこの5冊は「最も注目に値する」と称賛を惜しまなかった。「肉親の体験を直接耳にしていくことによって『青年個々の胸中に反戦へのたいまつがともされ、それが確かな砦となって構築されて』いくということはありえる」と述べている。

体験を聞いた高校生は「母たちの心からの叫びを僕たちが継承していこうと思いました」記している。
若い世代が立ち上がってこそ、平和という偉業はなる。崩れざる平和を築くために、青年を、若い力を育むのだ。

広島の青年部では、『広島のこころー29年』を出版することになっていたのである。また、長崎でも長崎の原爆投下の日である8月9日に、『ピース・フロム・ナガサキ』を発刊する予定であった。

被爆体験の執筆を断る人も少なくなかった。考えることさえ辛く、忌まわしいというのである。青年たちは自分たちの考えの甘さを思い知らされた。しかし、メンバーは、ここからが本当の戦いだと思った。誠実と粘り強さーーこれこそが人間の心を動かすのだ。

どの証言も、この世のこととは思えぬ悲惨さを伝えていた。しかも、被爆の苦しみは、それで終わりではなかった。被爆者として生きた苦闘も記されている。

しかし、証言者が学会員であるだけに、多くの人が、手記の後半には、その苦悩を、信仰によって、いかに乗り越えていったかを、感動的につづっていた。

だが、作ろうとしている本は、被爆体験をまとめた反戦出版であり、信仰の体験談集ではない。委員会のメンバーは被爆とその苦しみのなかで、いかに生きたかに絞ってもらった。


太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋

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