小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命 第17巻

未来を開く、環境保護運動の潮流

『新・人間革命』第17巻 緑野の章 402P~ 

伸一は、"群響"のメンバーに言った。「皆さんは今、生活は大変かもしれない。しかし、人生の勝負はは最後の5年間です。その時に充実と幸福をかみしめながら『私は勝った!』と宣言できる生涯を送れるかどうかです。何事も最後が大事なんです。最後に勝つために、今、苦労し抜くんです。」

彼は、"一人も洩れなく激励したい。皆の信心の転機となる、心の交流を図りたい"と念じながら、精力的に広大な会場を回ったのである。

彼は、群馬県に「県長」「県婦人部長」を設けることを提案したのである。「広布第二章」の大空に、一県一県をいかに飛翔させていくかーーこれこそが、創価学会の最大のテーマであった。それゆえに、伸一は、東奔西走し、力の限り、大胆に動いた。皆に信心の活力をもたらし、人材を見つけることに必死であった。

その地のメンバーと対話し、地域広布の方途を探り当て、皆が取り組むべき課題を明らかにしていったのである。

何事も漫然とした歩みでは前進はない。地域広布の実現のためには、まず、未来展望を広げ、必ず、こうすると決めることだ。それに向かって、年ごと、月ごとの具体的な挑戦目標を明らかにしていくのだ。その目標のもとに、皆が今日の課題に勇んで挑み、一日一日を勝利していくことである。

そのために今を勝て!瞬間瞬間が勝負だ。勇気を奮い起こせ!知恵を絞れ!「懸命」の二字こそ一切の力の源泉だ。君でなければできぬ君の使命を果たし抜け!そこから、広宣流布の栄光の未来が開かれるのだ。

翌週には、大きく変容しつつある茨城へ向かい、前進のための4つの指針を示した。6月25日には、北海道へ飛び、函館文化会館の開館式に出席。翌日には、大沼研修所で行われた「大沼湖畔・懇親の夕べ」に出席した。そこに集った同志に『北海道広宣流布の碑』を建設し、功労者の名を刻み、後世に残すことと、歴史をとどめる意味から、北海道の広布史を作成することを提案した。

さらに、北海道にあっても、自然破壊、環境破壊が進んでいるとの報告に「すぐに、緑を植える運動を起こしましょう」と提案。戸田先生は、タンチョウを保護するために50万円(公務員の初任給が1万円もしない時代)寄付したことを話す。

自然保護に力を注ぐとともに、自然を大切にする仏法の思想を人びとの心に打ち立てていくことが大事だと話し、その先陣を北海道の皆さんから切ってほしいと話した。

「北海道を、『緑の寂光土』にしようではありませんか。仏法者として、新たな社会貢献の道を切り開いていくのが、『広布第二章』なんです」環境保護への伸一の構想は、日本国内はもとより、やがてSGI各国に広がっていった。

そして、ブラジルSGIの「アマゾン自然環境センター」の設立をはじめ、各国の植樹運動や環境教育運動となり、未来を開く、持続可能な環境保護運動の潮流となったのである。

2005年2月、伸一は、ノーベル平和賞受賞者で植樹運動「グリーンベルト運動」の指導者ワンガリー・マータイ博士と会見した。

彼女は、伸一に語った。「皆さまが、仏教の教えにもとづいた深い価値観をもっていることに感銘しています。」そして、伸一が、その大切な価値観を何百万人もの人に広めたことに、「心から最大の感謝を捧げたい」と述べた。

彼女は毅然と訴えた。「未来は未来にあるのではない。今、この時からしか、未来は生まれないのです。将来、何かを成し遂げたいなら、今、やらなければならないのです」それは、伸一の一環した信条であり、彼の魂の叫びでもあった。

<緑野の章 終了>
<新・人間革命 17巻 終了>


太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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群馬交響楽団の音楽精神

『新・人間革命』第17巻 緑野の章 382P~ 

6月10日には、群馬県を訪問した。群馬は、どちらかといえば、組織的に光が当たる機会が少なかった。「広布第二章」とは、各県がそれぞれの特色を生かしながら、独自の広宣流布の歩みを開始していく時代である。それだけに、細部に手を入れることができなかった地域に足を運び、共に広宣流布の構想を練り、人材を育成し、新しい令法久住の地平を開こうと、伸一は心に決めていたのだ。

群馬県内で6千人もの人が集ってスポーツ大会や記念撮影が行える適当な会場はなかなか見つからなかった。かなり昔に捏造され、流された昔話を真に受けているのであった。

「これは、学会への誤解を打ち砕き、認識を新たにさせるチャンスだ!」群馬の中心幹部たちはそう決意し、祈り、動き、学会の真実を語り抜いていった。そして、町立のスケートセンターに決まった。

シーズンオフのスケート場は、汚れ、駐車場や道もデコボコで、危険でさえあった。町長らと話し合い、自分たちの手で会場の補修整備を行うことになり、多くの同志がかけつけ、割れた窓ガラスを取り換え、壁や床を磨き、道路や駐車場をきれいにならしていった。

もっとも気がかりだった変わりやすい当日の天気に、群馬は唱題の渦が巻き起こった。当日はみごとな晴天であった。

伸一は、撮影のたびごとに、メンバーを全力で指導していった。"今しかない。この一瞬を無駄にすれば、大事な時を逃してしまう"伸一は懸命であった。

さらに、群馬県が誇る群馬交響楽団の学会員とも懇談した。戦後間もなく、楽団を創設した中心者の胸には、音楽をもって日本の復興を図ろうとの、強い思いがあった。しかし、10万都市では、財政難に陥り、仕事もなく、食費を確保することさえままならなかった。それでも、「移動音楽教室」は粘り強く続けられた。解散の話も出て、毎日が背水の陣であった。

やがて、この楽団をモデルにした映画が製作され、大ヒットする。伸一も青年時代にこの映画を見て、感動した。映画の中の中心者の話が忘れられなかった。評価された原因は何かと問われ、「何年間もただ同じことを繰り返していたにすぎないんです。」と。

もがきながらも、自分の壁を破っていく。勝利とは、その積み重ねのなかに打ち立てられるものだ。
群馬交響楽団に10人ほどの学会員がいた。

群馬県の音楽隊の責任者を務めた小田敬義は、「音楽は人間と人間の心を結ぶ、世界の共通語です。人間主義の哲学を根本に、平和の心を、歓喜の共鳴音を広げていってください」との言葉に、自分の音楽の原点を再確認された思いがした。

小田は、将来ホルンの演奏家になりたかったが、家の家業を継がなければならず、悶々としていた時、創価学会の会合に誘われ、「願いは叶う」との確信ある言葉に入会。両親を説得し、音楽の道に進むことを決意し、大学を卒業後、群響の団員となった。

「あらゆる人に最高の音楽を伝えることが大事です。その民衆とともに音楽はあるべきです。私は"群響"がそういう視点を持っていることがすごいと思います」この言葉に、群響のコンサートマスターを務める宮坂は目を潤ませた。

彼は、まさにそのために、一年前、東京の日本屈指のオーケストラから群響に移ったのである。宮坂は
、実力を高く評価されるバイオリン奏者であった。"音楽といっても、それは人間性の発露だ。その人間性は、いかにすれば培えるのか‘'との疑問に近所の人から聞いた生命論に共感し、30歳で信心を始めた。

東京文化祭で、500人近くの青年にバイオリンの指導をした。青年たちは技術的には、未熟であったが、人類の幸福と平和を実現しようと、広宣流布の使命に燃え、その情熱をバイオリンにぶつけた。宮坂は、感動と興奮に震えた。仏法への確信は、次第に強まっていった。

さらに、社会のあらゆる人びとにすばらしい音楽を聴かせたい。聴衆との心の交流が図れる音楽活動をしたいと渇望するようになり、群響に入ることを決断した。


太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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生命軽視の風潮を根絶する戦い

『新・人間革命』第17巻 緑野の章 369P~ 

戦国武将たちの戦いは、憂国の情熱の半面、野心、名聞名利によるものであったことを述べ、それに対して、創価の広宣流布運動は、慈悲から発する、平和への大闘争であることを訴えた。

また、ますます社会は生命軽視の風潮に流されつつあることを指摘し、こう力説した。

「生命の法理に暗ければ、いかに学校教育が普及し、また、学問の理論水準が高まろうとも、生命軽視の風潮を根絶することはできない。そこに、仏法の深遠なる生命哲理に着目せざるをえない理由があります。信心とは、結局のところ、この『生命の内なる法則の確認』をすることにほかなりません。」

「私どもは、色心不二の大生命哲学を掲げ、生命軽視という恐るべき現代の風潮に、勇気凛々と、真っ向から挑んでいこうではありませんか」

伸一は、最後に、「崇峻天皇御書」を拝した。「『人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ』

「人間として生まれてくることは難しく、また、人間として生まれてきても、人の一生は草の上の露のように、はかなく短いものである。その尊い一生を、いかに生きるかについて、大聖人は明確に結論されている。」

「たとえ、百二十歳まで長生きして、汚名を残して一生を終わるよりも、生きて一日でも名をあげることこそ、大切である。では、『名をあげる』とはどういうことか。」

「仕事・職場の第一人者、勝利者になることです。広宣流布の闘将となって、常勝の旗を打ち立てていくことです。そして、地域・社会での人びとの信頼といえます」

「仏法即社会です。ゆえに信心の勝利は、社会での勝利とならねばなりません。社会での戦いで断固、勝つことです。どうか皆さんは、人生のあらゆる局面で誠実を尽し、智慧を尽くし、努力し抜いて、周囲から『よかりけり・よかりけり』と称賛される勝利者になってください。その実証こそが、創価学会の正義と真実の証明になるんです。」

伸一は、岐阜本部へ向かうと聖教新聞の岐阜支局の編集室へ入り、作業に励むメンバーを激励した。忙しくて、十分睡眠をとるなんて無理だと言いたげな青年に、「どうやって睡眠をとるか。それには、一瞬一瞬、自分を完全燃焼させ、効率的にやるべきことを成し遂げていくことです。」と言った。

「『臨終只今』の思いで、素早く、全力投球で事に当たっていくんです。その原動力となるのが真剣な唱題です。特に朝が勝負だ。生命力が強くなれば、価値創造の活力も生まれ、能率を上げる智慧もわくからね。食生活に注意を払い、ラジオ体操など、持続的に運動していくことも必要です。」

「仏法は道理です。自己を律してこそ、仏法なんです。」健康に対する彼のアドバイスは、自身の体験に基づくものであった。

編集部のメンバーに、俳句をつくろうと話す。「俳句のリズムは、新聞の見出しにも通ずる。また、句や歌で、人を励まし、勇気づけることもできる。広宣流布は言論戦なんだから、青年は言論の力をつけなくてはならない。そのためには、句や歌で、的確に心を表現する力も必要です」

支局長で県男子部長の久山忠夫を見て言った。「青年部は、言論の勇者になり、民衆を足蹴にするような権力者や裏切り者とは、徹底して戦うんだよ。青年が悪を見破り、打ち破っていかなければ、健気な同志が、民衆がかわいそうです」

「悪は放置しておけば、必ず増長し、蔓延する。慈悲ゆえに、民衆の幸福を願うがゆえに、正義の声を放っていくんです。成長の原動力は、自分が一切の責任を担おうと決めることだ。主体者となることだ。それが師弟ということだよ」

広宣流布の建設とは、広布の使命に生き抜く、不屈の人間を育むことである。それには、一人ひとりの心田に決意の種子を植えることだ。


太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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郡上一揆の創作劇「一人立つ」

『新・人間革命』第17巻 緑野の章 356P~ 

岐阜本部は、鵜飼で名高い長良川河畔に立つ鉄筋コンクリート4階建ての建物である。対岸には金華山があり、その山頂に岐阜城の天守閣がそびえる、風光明媚な地にあった。

中部にあって、岐阜の組織は、大都市・名古屋を擁する愛知県に比べ、世帯数も少ないことから、十分に力を発揮できずにいた面がある。しかし、この岐阜本部の完成によって、本格的な岐阜の牙城が誕生し、地域広布の夜明けが訪れたといってよい。

幹部会に先立ち、岐阜本部落成1周年を記念する文化祭が行われ、創作劇「一人立つ」が行われた。江戸時代に現在の岐阜県の郡上で起こった「郡上一揆」を題材にした創作劇である。郡上金森藩では、増税が続いていた。農民たちは死罪を覚悟で幕府への直訴を敢行する。直訴のために江戸に向かった義民の代表は打ち首となった。農民たちは恐れ、おののき、絶望の淵に叩き落される。

その時、青年・弥兵衛は決然と叫ぶ「何をぐずぐずしているんじゃ!今、立たずしていつ立つんじゃ!今こそ"まことの時"じゃねえか!"時"は待っちゃあくれないぞ!」「誰かが、やらねばならない。」

「おらぁ、戦って、戦って、戦って死んでいく。たとえ、両手を取られようが、足をもぎ取られようが、この生命の続く限り、おらの生命の続く限り、戦い抜くんだ!」その叫びに万雷の拍手が鳴りやまなかった。


伸一は、出演者にこう伝言した。「この精神が学会精神です。心から感動しました。」

主役の弥兵衛を演じたのは長松正義という33歳の青年であった。高校卒業後東京へ出て2年目に眼が見えずらくなり、「視束交叉部癒着性くも膜炎」と診断され、手術を受け、故郷の郡上へ戻る。その2か月後、母が他界。彼が1歳半の時、線路で列車に轢かれそうになったのを母が身を挺して救ってくれた。頭を9針縫っただけで、一命をとりとめたのだ。病の遠因なのかもしれなかった。

母が亡き後、ミシンの女性販売員から仏法の話を聞くが、彼は、むきになって学会を否定した。しかし、熱心にすすめるその源を知りたくて入会する。唱題に挑戦すると発作が起き、意識を失う。学会の先輩の「それは宿命転換の一歩を踏み出したということだよ。必ず、宿業は転換できる」との親身な真心の励ましに、彼は、本気になって信心をしてみようと決意したのだ。

就職の願いも叶い、信心に励むなかで、長松は、そのハンディをかかえながら、最高の仕事をし、幸福になることに、自分の使命があると自覚したのである。

ヒルティは断言する。「試練は、将来われわれの上に咲き出ようとする、新しいまことの幸福の前ぶれである」

岐阜駅での追突事故にも遭ったが、幸い怪我はなかったが、山本伸一の励ましの言葉と激励の品が届けられ、"この先生の心に応えなければ"と長松は、"次にお会いするまでに、郡上の広布を一歩でも、二歩でも前進させよう!"と一日一日を勝ち抜いた。

瞬く間に1年が過ぎようとしていた時、文化祭で、創作劇を行うことが決まり、長松が主役に選ばれた。師である伸一への感謝と、郡上広布に一人立つ決意を劇に託し、彼は体当たりで演技した。

伸一は、大拍手を送りながら思った。"主役の青年の一途さが光る演技であった。彼には、妙法の弥兵衛として、生涯、求道心を燃え上がらせ、謙虚に自分を見つめながら、誠実に黙々と、広宣流布のために生き抜いてほしい。信心の世界にあっては自分が表舞台に立とうとするのではなく、皆のために勇んで労苦を担っていくことが大事だ。それが、弥兵衛の心である"

感動の文化祭が終了すると、岐阜県幹部会の開始である。伸一は、岐阜の歴史をひもとき、天下取りをめざした戦国の武将たちの雄大な気概と勇気こそ、今なお、岐阜の人びとに脈打つ心意気であることを語った。


太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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福井県長任命

『新・人間革命』第17巻 緑野の章 341P~ 

伸一は、広宣流布の新展開のためには、方面や県を一つの独立した創価学会ととらえ、それぞれの方面、県で、地域に即した広宣流布の構想と運動を練り上げ、自主的に活動を推進していく必要があると考えていた。

そして、県長制の導入を提案し、「地域の年」と名づけられた1972年(昭和47年)には静岡長、福井長などが任命された。この県長制は順次、各県に導入され、全国的に布陣が整うのである。

福井長になった魚津健司は、高校三年の時に、家族と共に信心を始めた。大阪の大学に進み、会社に勤めたあと、学会の職員となった。関西の男子部の中核となり、また、関西高等部長として、時代を担う鳳雛たちの育成に力を注いできた。そして、29歳で初代の福井長となったのである。

「保守王国といわれる福井を変えていくのは、青年の力しかない。青年とは、第一に大願を起こす心をもっていることだ。そして、その大理想に向かって、間断なき挑戦と向上を重ねていかなければならない。第二に、破邪顕正の革命精神にあふれていることだ。第三に、勇気あふれる果敢な行動力だ。」魚津は、山本会長の指導を、全生命で受けとめようとしていた。

彼は尋ねた。「若輩者の私が、県長として指揮を執るうえで、留意すべきことはなんでしょうか」伸一は言下に答えた。「誠実ーーこれしかありません。同志に仕えるために自分がいるんだと決めて、一つ一つの問題に対して、真剣に、真面目に、謙虚に、全力で取り組んでいくことです。その姿に人は共感し、"応援しよう。共に戦おう"と思うんです。先輩や年長者に対しては、尊敬の思いをもって接していくことです。」

伸一は、魚津のために青年指導者の在り方を、徹底して語っておこうと思った。「誰もが、"うちの県長はここまで頑張っているのか""これほどまでに皆のために尽してくれるのか"と感嘆するようでなければならない」

翌日、新たに建設が決まった福井文化会館の起工式に出席した。そのあと、福井総合本部長の田山勝治の家を訪問した。伸一は、"総合本部長と県長の、この団結があれば、福井は盤石だ"と思った。

大聖人は仰せである。「総じて日蓮が弟子旦那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」

互いに、広布の使命に生きる同志を、なくてはならない尊い存在として支え合い、敬い合っていくことが、「水魚の思」の姿といえよう。

「異体同心」の姿こそ、今、大聖人が弘通される最も肝要なことなのであると言われているのだ。「異体同心」の姿は、それ自体が人間共和の縮図であり、広宣流布の実像である。いわば目的ともいえよう。そして、「異体同心」で進んでいくならば「広宣流布の大願も叶うべき者か」と仰せになっているのである。

伸一は、福井県に引き続き、翌6月7日には、岐阜県幹部会並びに文化祭に出席するため、岐阜に向かった。岐阜県もまた、人びとの汗と涙の苦闘の年輪が刻まれた天地であった。

岐阜県内でも空襲が本格化し、市内の半分が焼けたといわれるほど、凄惨を極めた。当時、女学生であった伸一の妻の峯子も、岐阜市美園町の叔母の家に疎開しておりここで岐阜空襲に遭遇している。

戦後の伊勢湾台風、7月豪雨、岐阜駅での追突事故などの様子も伸一と峯子で語り合った。岐阜駅構内で停車中の普通列車に貨物列車が追突し、多数の乗客が負傷した。この普通列車には、総本山に登山した郡上や美濃などの同志が数多く乗車していた。

不幸中の幸いというべきか、怪我をし、入院した人もいたが、皆、命に別状はなかった。伸一は、「変毒為薬」を呼びかける伝言とともに、書籍や袱紗など、激励の品々を贈り、中部の幹部らに見舞いと励ましを頼んだ。そして、3か月後の1972年3月に、岐阜市で記念撮影会が行われ、岐阜を訪問した。

苦しむ人のために実際に何をするのかーーそこに人間の真実が現われる。



太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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