小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命 第15巻

世界のボーイスカウトたちとの友情

『新・人間革命』第15巻 開花の章 380P~ 

普段は、大石寺参詣者の休息所として使用している数息洞に 伸一が着くと、ちょうど第一陣のメンバーが到着したところであった。ボーイスカウトたちは、雨でびしょ濡れで、靴や足は泥まみれであった。

伸一は、ボーイスカウトの少年たちに声をかけながら、用意したタオルを手渡していった。

窮地という闇夜に光るのは、人を思いやる心と行動である。それは、人への尊敬から発する。誠実の火といてよい。アメリカの第32代大統領の夫人エレノア・ルーズベルトは、「文明社会のあらゆる人間関係の基となっているのは、相互の尊敬である」と述べている。



伸一は、大講堂に向かい、歓迎指揮本部をつくり、高等部員のなかから、語学委員や英語ができるメンバーで通訳団をつくった。

150人ほどの高等部員が はりきって集った。
伸一の指示は、間断なく発せられ、毛布の数や、食料品の確保など、伸一は、曖昧さを許さなかった。
一つ一つ厳しく確認した。もし、緊迫した状況のなかで、いい加減な情報に基づいて物事が進められれば、大失敗や大事故につながる。正確さこそが行動の生命だ。

伸一たちの奮闘を目の当たりにしていた音楽隊、鼓笛隊から、「避難してくるボーイスカウトの歓迎演奏をさせていただきたい」と申し出があった。皆が心を一つにして、自分に何ができるかを考える時、自ずから、よき提案が生まれる。

赤々と燃えるかがり火と、音楽隊、鼓笛隊の奏でる軽快な調べ、そして、高等部員の温かい大拍手に迎えられたボーイスカウトの少年たちは、驚きを隠せなかった。メンバーの顔にも、安堵と喜びの花が咲いた。


避難してきたボーイスカウトたちには、通訳の高等部員らの手で、パンやおにぎり飲み物等が配られていった。おにぎりは総本山の売店の人たちなどが、炊き出しをしてくれたものであった。その他の食料品は、輸送班の青年たちが、雨のなか、富士宮市街にまで行って調達してきたものだ。

人間の真実は行為にこそ表れる。人びとのために、今、何をなすべきかである。その姿を見ていた、ある国チーフが、伸一に感謝を述べに来た。「私たちの仲間には、砂漠の国から来た者もいます。生まれて初めて、台風を経験した少年もいます。恐ろしさで、胸がいっぱいだったと思います。それだけに、これほど深い真心に包まれ、一夜を送れることは、生涯の思い出となるでしょう。ありがとうございます。」

伸一は、約6時間時に激しい風雨にさらされながら、彼は陣頭指揮をとり続けたのである。翌朝、ボーイスカウトの少年たちは、すっかり元気になっていた。メンバーは、大石寺から自衛隊駐屯地などへ移動する、バスの乗車が始まった。夏期講習会を終えた高等部員も下山する日であり、それぞれのバスに乗るため、並んで道を歩いた。あちこちで、固い握手を交わし合う姿があった。

ボーイスカウト日本連盟の世話役の一人が伸一に駆け寄り語った。「私どもは、もっともっと、日本のなかで、理解すべきものがあったことを知りました。それは、創価学会についてです。」

この救援活動に、学会員は、慈悲の光を万人に注ぐ、社会貢献の時代の到来を強く感じたのである。
後日、ボースカウト日本連盟の理事長は、学会本部を訪問して、山本伸一に感謝状と盾を贈っている。

また伸一は、後年、世界を旅するなかで、「あの時、お世話になりました」という青年たちと、思いがけぬ嬉しい再会を重ねることとなる。社会を離れて仏法はない。ゆえに、わが地域、わが職場に、君の手で、人間主義の花を断じて咲かせゆくのだ。

<新・人間革命 第15巻 終了>


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

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地域長は 友好の名士

『新・人間革命』第15巻 開花の章 365P~ 

第二回のカーニバルが行われた翌日、全国に先駆け、三浦市に地域長制度が設けられることが発表された。地域長は、市などの単位で、その特色を生かしながら、地域広布を考えていくための中心者である。三崎を地域建設のモデルにしたいとの思いから、伸一が提案したものであった。

初代の地域長に任命になった西崎厳太は、高知県の出身で戦争中は、志願兵として、国に命を捧げたが、戦後、激変する社会に生きる希望も目的も見いだせず、自暴自棄になり、三崎でマグロ漁船に乗った。

同僚の学会員に話を聞かされていたが、耳を貸さず、怒鳴ったり、居留守をつかったが、追い返しても来る学会員に、信心をすれば、もう来なくなるだろうと、学会に入る。

しかし、入会すると勤行だ、折伏だ、教学だとますますひんぱんに訪ねてくるようになり、言われるままに、行動するうちに、持病の扁桃腺の腫れが治まり、痛みが消えていることに気づく。信じられなかったが、実際に功徳の実感を得て、本格的に信心に励むことにした。

仕事で莫大な借金を抱えてしまうが、創価学会員であるという誇りが、夜逃げを思いとどまらせた。新しい商売を始め、必死で働き、祈り、知恵を絞った。しばらくすると、周辺にどんどん住宅が建ち、商売が繁盛し、10年足らずで、莫大な借金を完済できた。見事に再起した西崎は、以前よりも信用を増していった。

伸一は、西崎に「地域長は、地域広布を推進し、人びとを結ぶ”友好の名士”です。皆を幸福にする責任をもつ”幸福の市長”です」と声をかけた。西崎は、地域の人びとへの恩返しのつもりで、この地に人間共和の楽土を築こうと、心に誓っていた。

三崎カーニバルは、その後も回を重ね、地域興隆の新しい道を開いていった。このころから、学会の青年たちは、全国各地で、自分たちは地域のために何ができるかを考え、自主的に、さまざまな催しや運動を展開していった。

夜回りや、自然保護の守る会、地域の清掃や環境整備、緑化運動の推進、伝統文化を守る運動などに立ち上がった。

それが地域に定着し、実りをもたらすには、長い歳月を必要とする。まさに持続の戦いである。青年たちは、”自分たちの地域は私たちが守る。この地域を必ず繁栄させてみせる。それが、仏法を持った者の使命だ”との決意に燃えていた。

地道に粘り強く、社会への貢献を重ねていった。その姿を通して、多くの地域で、学会への理解が深まり、皆が共感と称賛を寄せるようになっていったのである。

1971年(昭和46年)夏期講習会が行われ、合計13期にわたり、10万人が参加し、大石寺で盛大に開催された。

高等部の夏期講習会が行われていた、8月5日、大型の台風19号が北上し、死者や負傷者が続出し、床上浸水などの被害も広がっていた。

午後6時ごろ、伸一のもとに、近くの朝霧高原でボーイスカウトの世界ジャンボリーが行われていて、台風で危険なので、参加者6千人ほど、非難させてもらえないかとの要請が入る。

総本山には、7千人の高等部員がおり、どの宿坊もいっぱいである。伸一は、間髪入れずに、受け入れを表明、大講堂や、大化城を開放するよう宗務院と連絡を取る。

宗務院では、ジャンボリーの運営本部から何かあった時の緊急避難先にしてほしいという話があったと言うが、その話は、学会には、連絡されていなかった。宗門の渉外部長は「あとは任せますので、学会の方で責任をもってやってください」と言って電話を切った。

登山部長の平原は、すぐに富士宮の市長に連絡を取り、受け入れを告げた。避難者の受け入れが決まると、伸一は矢継ぎ早に支持をしたあと、車で総本山の売店に向かい、販売しているタオル全部を 自ら購入に走った。

配慮とは、相手の立場に立ってものを考えることから始まる。そこから”かゆいところに手が届く”ような、的確な対応が生まれる。瞬間、瞬間、相手を思い、最大の誠意を尽くすなかに、人間性は輝きを放つのである。



太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

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文化の開花をもって地域貢献をめざす

『新・人間革命』第15巻 開花の章 350P~ 

三崎の同志は、全友人にさんかしてもらおうと真剣だった。地域の興隆と発展のために「三崎カーニバル」を行うことを、地域の人たちに懸命に訴えて歩いた。しかし、ほとんど色好い返事はもらえなかった。

メンバーは、たとえ、いやな顔をされても、ニッコリと微笑むことを忘れなかった。そして、その後も、さわやかなあいさつを交わし続け、対話を重ねた。その誠実さが、春の太陽が雪をとかすように、誤解に基づく学会への先入観を、ゆっくりととかしていったのである。

当日は朝から、雨がふったりやんだりしていた。開会は夕刻である。伸一は、晴天を祈った。地元のメンバーも婦人部を中心に、懸命に唱題に励んでいた。仏法では、「一心法界」と説く。わが心に、宇宙のすべてが収まっているのだ。だから、自分たちの祈りの一念で雨を晴らせないわけがないというのが、皆の決意であり、確信であった。

そして、なんと午後の最終リハーサルが終わりかけたころ、雨は完全にあがった。会場の上空だけ晴れ、盛夏の到来を感じさせる強い日差しであった。

伸一は、近隣へのあいさつが終わっていることを確認し、向こう岸の方たちにもあいさつをするよう指示した。「声をかけられなかったお宅は、寂しい思いをするだろうし、また、騒いでいれば、近所迷惑だと感じるだろう。それではなんのための催しかわからない。あいさつ一つ、配慮一つで、同じ行事を行っても、結果は全く異なってくる。だから、幹部は、鈍感であってはならない。細かいところまで気を配っていくんだよ」と基本を一つ一つ教えていった。

第1回「三崎カーニバル」が開演になった。海の方向には、くっきりと富士の勇姿が浮かび上がっていた。楽しく有意義なひとときが終わると伸一は「これから大事なことは、青年が地域に対してどう貢献していくかだ。今、社会では、青年は地域から離れつつある。このままでは地域社会は、どんどんすたれていってしまう。だから、学会の青年部が先頭にたって、地域の繁栄のために、積極的に行動をおこしていかなければならない。そのために、青年部が中心となって、地域の文化や産業などを守り、発展させることを目的とした、社会的な団体を結成してはどうだろうか」青年たちは、目を輝かせながら頷いた。

「鎌倉祭り」と「三崎カーニバル」は、地位友好の突破口を開いた。9月初めには、滋賀県の琵琶湖で「びわこ祭り」が、また、10月初めには神奈川県の箱根で「箱根すすき祭り」が盛大に開催されている。また、伸一の提案を受けて、「鎌倉文化保護連盟」「三崎青年文化連盟」が結成された。

文化の開花をもって地域貢献をめざす、新たな運動が開始されたのだ。これが、全国の青年部員に大きな触発をもたらし、やがて各地に、社会貢献のための団体が誕生していくことになるのである。


三崎では、第二回の「三崎カーニバル」を開催した。この主催は、「三崎青年文化連盟」と「鎌倉文化保護連盟」等の団体であった。第二回のカーニバルを、最も積極的に応援してくれたのが、漁業協同組合の役員であった。

第二回のカーニバルは規模も内容も一段と充実し、市民行事として盛大に開催されたのである。日が暮れると海上には、サーチライトが照らされ、高さ3メートルほどの巨大なタコの飾り船が出現した。それを追いかけるように、タイや竜宮、浦島太郎など、色鮮やかな飾り船が続いた。

これは、地元の青年たちが、三崎の繁栄と大漁の願いを込めて作ったものだ。青年たちは、そのためにも、カーニバルを充実させ、地域の伝統になっていくような、特色のある企画を考えていかなくてはならないと思った。そして、青森の伝統行事である”ねぷた”に着目したのである。

青森から、”ねぷた”の職人を招き、真剣に技術を学んだ。その奮闘の成果が会場を飾ったのだ。ユーモラスな飾り船は大好評であった。地域を担い立とうとする青年の知恵と情熱が咲かせた、海の花であった。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

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半島には新しい文化を伝える天職がある

『新・人間革命』第15巻 開花の章 338P~ 

「鎌倉祭り」は、近隣の人びとや地域の友人を含め、数百人が参加し、盛大に行われた。
伸一も一人ひとりとあいさつを交わしていった。創価学会の最高責任者の丁重なあいさつに、近隣の人たちは驚いた。知らないことは人びとの不安をつのらせる。ゆえに、心を開き、交流をもって、真実を伝えることが大事になるのだ。

参加者に深い感銘を与えたのが、青年たちによる、「延年の舞」と「鎌倉源治節」と題する二つの創作舞踊であった。「鎌倉グルーフ゜」代表6人による日本舞踊である。前年伸一が体調を崩し、病と闘い続けていたことから、いつまでも元気で、広宣流布の指揮をとり続けてほしいとの思いを込めた舞であった。

真心あふれる演技に伸一は同行の幹部に語った。「30歳まで生きられないと言われていた私が、戦い続け、働き続けて、43歳になった。それ自体が寿量品に説かれた『更賜寿命』の姿であり、『延年』の実証ではないだろうか。」

「仏法は道理だから、健康に留意することは大事です。しかし、広宣流布のために、人びとの幸福のために働けば、歓喜が込み上げ、使命力がわき、元気になっていく。だから私の健康法は、戦うことなんです。」

「鎌倉源治節」の踊りを鑑賞しながら、伸一は、「青年は、義経のように、自分にとっての“鵯越の逆落とし”の歴史をつくってもらいたい。みんなの惰性や臆病を打ち破り、”こうやれば、わが地域の広宣流布はできるんだ”という自信と確信を与える突破口を開くんだ。それが、青年の使命だよ」と語った。

それから、鎌倉には、大聖人ゆかりの史跡も多く、数々の伝統文化があることから、若い世代がそれを守り抜いていくために、青年部が中心となって、「鎌倉文化保護連盟(仮称)」といったものをつくてはどうかと提案した。

午後六時に閉幕すると、地元の幹部に「近隣の方たちに、少しでも早く、御礼に伺ってください。やる時だけ、あいさつに行っても、終わった後は、知らん顔をしているようでは、無責任です。友好というのは持続であり、対話の積み重ねです。それがなければ、心はとけ合いません。むしろ、終了後、いろいろな意見を聞くなどして、次につなげていくことが大事なんです。私が、『くれぐれもよろしく』と言っていたとお伝えください」と言った。

翌日には、三崎で、第一回「三崎カーニバル」が予定されていた。伸一は思った。”学会の世界には、社会に誇るべき、数多くの無形の財産がある。それを社会に開き共有化していくのが、これからの時代の大事なテーマだ。その先駆を神奈川が切るのだ”

三浦市三崎は、マグロ漁船の基地として知られているが、地元の人びとの多くは、半農半漁で、沿岸漁業に従事している人が多く、神社仏閣の祭事が盛んであり、旧習の深い地域であったが、草創の同志は、勇んで折伏に歩いた。

伸一は、三浦半島の先端である三崎の広宣流布に、重要な意味を見いだしていた。初代会長牧口常三郎は、『人生地理学』のなかで、半島には、新しい文化を伝える”天職”があるというのだ。さらに、半島に住む人々の先駆性にも着目している。大陸に先んじて半島の人びとが覚醒することから、半島の国民は「文化の起発点」として称賛されてきたことを述べているのである。

山本伸一は、広宣流布の展望のうえからも、三浦半島のもつ大きな役割に着目していた。「広布新時代の起発点」というのが、伸一の三浦半島への期待であった。特に、旧習も深い三崎で、地域友好のモデルケースをつくり上げることができれば、それは、全神奈川に、さらに、東京に、そして、全国に波及していくにちがいない。三崎のメンバーも、伸一の思いを深く理解し、新たな活動に挑戦した。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

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地域社会の誇りと安心の牙城

『新・人間革命』第15巻 開花の章 326P~ 

写真展を鑑賞した人たちの反響は大きかった。自分の撮った写真を贈ることで、少しでも同志の激励になればというのが、伸一がカメラを手にした最大の動機であった。

写真を目にした本部の職員たちから、「写真を、会館に飾りたい」との声が起こった。会館のロビーや階段の踊り場に絵画を飾れば、かなり高額なものになる。伸一は、自分の写真が少しでも役に立つのならと、その要請に応えることにした。「創価」とは、すべてにわたる価値の創造である。

こうして、全国の会館で、彼の写真が飾られるようになっていった。伸一の写真展は、その後も行われ、やがて『自然との対話』写真展の名で、国内はもとより、世界各地で行われるようになっていった。

写真は「世界語」である。言葉は理解できなくとも、写真を見れば、すべてがわかる。心をわかち合うこともできる。

写真には力がある。ビクトル・ユゴーが、亡命先で数多くの肖像写真を撮らせたことは有名である。それは、権力者ナポレオン三世の暴圧に対する挑戦であったのである。”われは健在なり!”“われは不屈なり!”彼にとって、写真は敵を打ちのめす武器であり、挑戦状であったのである。

伸一にとっても、写真は、人びとの胸の奥深く、歓喜と希望と勇気を送る、蘇生への光の弾丸であった。そして、写真は「負けるな!強くあれ!私とともに進もう」との、同志への励ましのメッセージとなった。

文化は、野蛮に抗する力である。文化という人間性の力をもって、社会を建設していくことーーそれが、われらの広宣流布の運動である。

伸一は、日本の文化の行方を憂えていた。なかでも、各地域文化の著しい衰退に、彼は心を痛めていた。彼が、これまで、各方面ごとに文化祭の開催を提案し、推進してきたのも、地域文化の復興と新しき想像を願ってのことであった。

その学会の象徴ともいうべき各地の会館は、地域社会の誇りと安心の牙城とならねばならない。それが、伸一の信念であった。

神奈川県鎌倉会館で行われる「鎌倉祭り」と翌日に三浦市・三崎会館に隣接した海岸で行われる「三崎カーニバル」は、伸一の提案をもとに、地域との交流を図るために、新たな試みとして開催されることになったものである。

学生部、高等部、中等部のメンバーで結成された人材グループ「鎌倉グルーフ゜」のメンバーは、「言論問題」が起こると、伸一にくつろいでいただこうと、慣れない手つきでお茶をたてたり、琴の演奏をおこなった。

その企画を見て、翌年は地域の人びとも招いて開催しようと提案したのだ。学会の本当の姿を知る機会をつくり、人びととの交流を図るには、どうすればよいかを、常に思索し続けていたのである。

会館は堅固で立派な建物にし、災害の折などには、避難場所としても使えるようにしたいと考えていた。「地域社会への貢献の城」--これが伸一の会館像でもあった。

地域には、大きな屋敷が立ち並び、文化人など、社会的に、著名な人びとの住居も多かった。地元の学会の幹部たちは「鎌倉祭り」の開催にあたって、近隣の家々にあいさつに回った。

幹部たちは、日ごろからの交流がいかに重要であるかを痛感するのであった。あいさつは、心のドアを開くノックである。さわやかで感じのよい、あいさつの姿には、人間性の勝利がある。

会館を使用していくうえで、ほんの少しでも油断があり、注意を怠り、近隣に迷惑をかけるようなことがあれば、蟻の穴から堤が崩れていくように、地域広布は崩れてしまうことになる。

伸一は「鎌倉祭り」を行うに際しても、周囲に迷惑がかからないようにすることと、無事故を徹底してきた。しかも、会館は、学会の前進を阻もうとする、さまざまな勢力に狙われる可能性もある。それだけに、油断して警戒心をなくせば、いつ何が起こるかわからないのだ。伸一は、この催しが無事故、大成功で終わるように、連日、懸命に祈り続けてきたのである。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

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新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


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