小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命 第14巻

21世紀へ 若い世代の人材育成

『新・人間革命』第14巻 大河の章 P313~

学会員にとって、何よりも大きな変化は、「タテ線」組織から、「ヨコ線」のブロック組織に移行したことであった。青年たちは、ブロックへの移行にあたって、"新時代の開拓者"の誇りを胸に、さっそうと活動を開始したのである。

ブロック組織は、活動の舞台が居住地域であることから、大いに時間を節約できた。皆、以前に比べると、家族が一緒にいると時間も増え、地域に貢献するための時間なども、確保しやすくなった。

山本伸一は、ブロック組織への移行に際して痛感していたことは、学会員が核になって、日本の社会のなかに、地域的な人間の連帯をつくり上げなければならないということであった。

戦後は、個人主義の風潮のなかで、人びとは地域での互いの干渉を嫌って、隣近所の付き合いにも、次第に距離を置くようになった。さらに、都市開発や新興住宅地の建設にともなう人口の流動で、地域での人間関係はますます希薄になり、連帯も断たれていった。その結果が、人間の分断であり、孤立化、孤独化であった。

山本伸一は、近年の世相を見るにつけ、こう痛感してきた。"地域に、互いに守り励まし合い、平和と幸福を創造するための民衆の連帯をつくり上げなくてはならない。そして、今度は、婦人が、平和建設のリーダーとして、大きな力を発揮していくのだ。それが「女性の新世紀」の開幕となるはずだ"

伸一が、ブロック組織への移行を強く推進してきた最大の理由も、そこにあったといってよい。このブロック組織での新しい活動を進める機軸となるのが、大ブロック座談会であった。"地域広布"へ、創価が大河は、滔々と流れ始めたのである。

伸一は30年先を、21世紀を見すえていた。"21世紀を、「平和の世紀」とし、「生命の世紀」といていくために、自分の手で、本物の人材を育てよう。本当の弟子をつくろう。"と決意していた。

21世紀を展望する時、さらに若い世代の中核となる人材を育成しておかなければならないと、彼は考えた。
そして、高等部、中等部、少年・少女部の代表メンバーの研修会を箱根研修所で行うことにした。伸一は、この箱根研修所が、学会の歴史のなかで、どんな意味をもっているかについて語っていった。

1957年7月、山本伸一が選挙違反の無実の罪を着せられ、逮捕されるという弾圧事件が起きた時、学会の正義を証明しようと、青年たちが集まり、打ち合わせを行った場所がここであると話した。

伸一は、広布後継の指導者になる使命をもって人ゆえに、学会の真実の歴史を教えておきたかった。そして、民衆を隷属させようとする魔性の権力との、熾烈な闘争が広宣流布であることを、若い魂に伝えておきたかったのである。


彼は、あえて厳しい口調で言った。「人は、みんな自分の弱さに敗れていく。自分に勝つ人が、本当の勇者なんです。」


「頭がよいということは、どういうことでしょうか」という質問に、「常に疑問をもっている人である」といい、探求心が大切だと話す。"獅子"とは、何も特別な存在になることではない。自身の使命に生き、個性を最大に伸ばしていくことであり、広宣流布を担う尊い使命を本当に自覚するならば、能力が開発されないわけがない」
と激励した。

そして、理想を実現するために、健康であることが大事であり、勉強すること、人格を磨くこと、誰からも信頼される人になっていくよう話した。

人間の生命を変え、人間の心のなかに平和の砦を築くことが人間革命であり、その源泉が題目であると語った。


太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋

ブロック組織への移行

『新・人間革命』第14巻 大河の章 P303~

立正安国の原理についても、再確認した。「"安国"とは社会の繁栄であり、民衆の幸福、世界の平和であります。"立正"が宗教の次元であるのに対して、"安国"は社会の次元であります。そして、"安国"の直接的に拠って立つ理念とは『生命の尊厳』であり『人間性の尊重』『平和主義』の原理であるといえます。」

「生命の尊厳等の理念こそ、"立正"と"安国"の接点であります。ゆえに、立正安国とは政治などの社会的な活動の次元に、直接、信仰や宗教それ自体を持ち込むことでは、決してありません。」

さらに、生命の尊厳等の普遍的理念を、いかにして具体化するかという、"技術"が政治の課題であり、公明党誕生の意味もそこにあることを語り、党と立正安国の関係を述べた。

「公明党は"安国"の次元に立つものであります。議員等が個人として"立正"の問題を考え、信仰に励むことは信教の自由でありますが、党として"立正"をテーマにし、宗教上の目的を党の目標とする必要はないし、すべきでもない」したがって、党は、あくまでも、現行憲法の定める信教の自由を順守していくべきであるとの、考えを伸一は語った。

さらに、学会の組織形態について言及した。紹介者と新入会者のつながりで構成された「タテ線」から、地域社会と密接なつながりをもち、社会に大きく貢献していく意味からも、地域を基盤としたブロック、すなわち「ヨコ線」へと移行することを発表した。

これまでの「タテ線」のような深い人間関係が、ブロックでつくれるのかという不安をいだく人もいた。この人間関係を深めることの難しさが、ブロック組織の最大の問題とされてきたのである。

伸一は、だからこそ、ブロック組織に移行し、学会員が中心になって、地域社会に人間と人間の強い連帯のネットワークをつくり上げなければならないと考えていた。それが、現代の社会が抱える、人間の孤立化という問題を乗り越え、社会が人間の温もりを取り戻す要諦であるというのが、伸一の確信であったのである。彼は、ブロック組織への移行に、学会と社会の未来をかけていたのだ。


そして、学会は新しい段階に入ったとし、一人ひとりが、"目覚めた意識"と"新しき自覚"に立ち、団結していくことこそが、未来の大発展の根本であると訴えた。

ここで伸一は、1970年代、さらには、21世紀の展望を述べていった。21世紀は人間が科学の奴隷となるのではなく、科学技術を使いこなしていく「人間の世紀」としなければならないと強調。そのために、人間の精神を高めゆく、優れた宗教が不可欠であることを語り、21世紀までの30年間を壮大な宗教運動の新しい夜明けとしたいと語った。

「創価学会は、創価文化ともいうべき新しい文化の母体として、社会に貢献してまいろうではありませんか!」第二の10年の展望と方向性が、ここに明確に示されたのである。


第33回本部総会をもって、学会は「大河の時代」の幕を開き、文化の旗を高く掲げて、広宣流布という希望の大海原をめざして、新しき前進を開始したのだ。

この新段階を迎えるにあたって、伸一が最も憂慮していたのは、皆の、なかんずく幹部の一念の改革が、十分なされていくかどうかであった。

この一念の改革とは、結論すれば、一人ひとりが「自分こそが学会の命運を担い、広宣流布を推進する主体である」との、自覚に立つことだ。つまり、"私自身が創価学会なのだ"と決めて、会長の伸一と、同じ決意、同じ責任感に立つことである。

皆が本当に主体者の自覚をもてるかどうかに、団結の要諦もあれば、すべての活動の成否も、勝敗の決めてもあるのだ。主体者の意識がなく、受け身になってしまえば、人は、全体観に立つことはできない。すると、自分が皆のために何をするかではなく、何をしてもらうかだけを考えるようになり、結局は、私利私欲に陥ってしまう。

その心に映るのは、現状への不平や不満である。果ては、中心者や周囲の人たちを批判し、尊い学会の組織を攪乱することにもなりかねない。恐るべきは、一念の置きどころといってよい。


太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋

大河の時代へ

『新・人間革命』第14巻 大河の章 P294~

<大河の章 開始>

人類の幸福と平和の大海原をめざす創価の流れは、いよいよ「渓流」から、「大河」の時代へと入った。


1970年(昭和45年)5月3日。山本伸一の会長就任10周年となる第33回本部総会が、行われた。伸一は、10周年の意義に触れ、これからの10年は、「創業の時代」「建設の時代」を終え、「完成期」に入ったとして、社会での一人ひとりの活躍が、最も望まれることを訴えた。

そこから、彼の話は、広宣流布観へと移った。「広宣流布とは決してゴールではありません。何か特別な終着点のように考えるのは、仏法の根本義からしても、正しくないと思います。大聖人の仏法は本因妙の仏法であり、常に未来に広がっていく正法であります。」

「広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体であり、生きた仏法の、社会への脈動なのであります。」広宣流布が「流れそれ自体」ということは、間断なき永遠の闘争を意味する。ゆえに、広布に生きるとは永遠に戦い続けることだ。

さらに伸一は、「宗教は文化の土台であり、人間性の土壌である」と述べ、広宣流布とは"妙法の大地に展開する大文化運動"であると定義づけたのである。そして、「いっさいの人びとを包容しつつ、民衆の幸福と勝利のための雄大な文化建設をなしゆく使命と実践の団体が創価学会である」と語り、こう呼びかけた。

「私どもは『社会に信頼され、親しまれる学会』をモットーに、再び、さっそうと忍耐強く進んでいきたいと思いますが、皆さん、いかがでありましょうか!」参加者は、崇高な社会建設の使命を、一段と深く自覚したのである。

伸一は、あの「言論・出版問題」に言及していった。「今度の問題は、学会のことを『正しく理解してほしい』という、極めて単純な動機から発したものであり、個人の熱情からの交渉であったと思います。ゆえに、"言論妨害"というような陰険な意図は全くなかったのでありますが、結果として、これらの言動がすべて"言論妨害"と受け取られ、関係者の方に圧力を感じさせ、世間にも迷惑をおかけしてしまい、まことに申し訳なく、残念でなりません。」

「名誉を守るためとはいえ、私どもはこれまで、批判に対して神経過敏にすぎた体質があり、それが寛容さを欠き、わざわざ社会と断絶をつくってしまったことも認めなければならない。関係者をはじめ、国民の皆さんに、多大なご迷惑をおかけしたことを、率直にお詫び申し上げるものであります」伸一は、頭を下げた。

"先生が、なぜ謝らなければならないのだ!"ある人は、学会の会長として、すべて自分の責任ととらえ、真摯に謝罪する伸一の姿に、申し訳なさと感動を覚えながら、心に誓った。"私たちは、社会に迷惑をかけるようなことは絶対にしてはならない。それは、学会に迷惑をかけることになるのだ"

言論の自由の尊さを述べた伸一は、さらに、「本門の戒壇」は「国立戒壇」の必要などまったくないこと、政治進出は戒壇建立のための手段では絶対にないことを改めて確認したのである。

次いで、学会と公明党の関係についても明らかにしていった。学会は、公明党の支持団体として、党を支援するが、組織的には双方を明確に分離することを述べたのである。今後も、学会と党は一線を画し、社会的にも、分離のかたちが明らかになるように5点にわたる原則を発表したのである。

さらに、自分自身、宗教人として生き抜く決意であり、政界に出るようなことは決してないと、重ねて明確に語った。これまでにも、折に触れて、語ってきたことであった。しかし、謀略的な噂を打ち破るために、再度、その考えを明らかにしたのである。

ーーーーー
<一言コメント>

「大河の章」の連載中、「新・人間革命」執筆開始より10年となった2003年8月に

池田先生は「寄稿10周年」と題する随筆を発表した。

その中で、執筆に対する思いを記されている。

「私の胸には、言論の闘争の決意がたぎっている。広宣流布の大道は、今つくるしかないからだ」
「『真実』を明確に書き残すことが、未来の人びとの明鏡となる」と。

言論・出版問題は「広宣流布の流れは、渓流より大河の流れ」となり、
「広宣流布の波が広がり、人間主義に目覚めた民衆勢力が台頭し、時代の転換点を迎えた」
転換期に起こった、会長就任以来、初めての大試練だった。

しかし、池田先生は、
「最も理想的な社会の模範となる創価学会をつくろう」という決意を一段と強くし、

障魔の嵐を、「未来への新たな大飛躍台」としていったのだ。

逆風を追い風に転じるところに、「学会の強さがある」


太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋

大河の時代への飛躍台

『新・人間革命』第14巻 烈風の章 P289~

伸一は、日蓮大聖人が流罪の地・佐渡でお認めの「開目抄」に「世間の失によせ」との一節があることを思い起こした。弾圧は、「社会的な問題を」探し出し、時には捏造して罪を被せ、それを理由にして起こるのである。

従って、少しでも社会に誤解を与えるような、曖昧さがあってはならないし、社会のルールをいい加減に考える、甘えや驕りがあっては絶対にならない。それが、魔の付け入る隙を与えてしまうからだ。ゆえに、学会の組織も個人も、常に社会との緊張感をもち、どこから見ても、非の打ち所のない、社会の模範となる存在でなければならない。

彼は、批判書の発刊をめぐる学会の対応について、社会という観点から冷静に分析を重ねていった。

ーーまず、秋月らが著者の藤沢達造に会い、内容についての申し入れを行ったことは、要請を伝えたにすぎず、言い方も丁重であったが、本の出版前に接触をもったということ自体が問題にされたのだ。

事実と異なる屈辱的なことを書きたい放題書かれ、名誉や人格が傷つけられることがわかっていても、事前には、なんの対応もできないことになる。おかしな話ではある。だが、社会性のうえから、慎重に配慮し、より適切な対応をするべきではなかったか。

また、学会が書籍の取次各社や書店に対して、批判書を扱わぬよう組織的に圧力をかけたと盛んに喧伝されている。しかし、その書籍を取り扱うかどうかは、取次各社が独自で判断したはずである。

義憤を感じてのこととはいえ、一部の学会員の取次店や書店への訴えかけが、"組織的な圧力"などと喧伝されてしまったのである。気持ちはわかるが、一つ一つの行為が結果的にどう見られるかという客観的なものの見方、慎重さを欠いていたことは間違いない。

さらに、学会の圧力で新聞広告や電車の中吊り広告の扱いも断られたと言っているが、それは、各社が広告倫理規制などに基づいて判断したものであろう。

そもそも、衆院選挙前に、学会と公明党を攻撃する、選挙妨害の疑いさえある書籍の広告を、不偏不党をうたった大新聞等が扱うなど、考えられないことではないか。

では、膨大な数の抗議の電話や手紙が殺到し、学会から圧力をかけられたとされていることはどうか。学会員の怒りは、確かに激しいものがある。自分たちの団体が、「狂信者の群れ」「ナチス」「愚民化」などと罵倒されれば、普通の神経なら、誰でも怒りをおぼえるであろう。

悔しさと怒りに震える学会員の抗議には、強い語調の電話や、論旨に飛躍が見られる文面もあったかもしれない。学会は既に750万世帯を突破している。仮に千世帯に一人、1万人に1人が抗議の手紙を書いても、受け取った側から見れば膨大な数に上り、脅威を感じ、結果的に迷惑をかけてしまったにちがいない。

それにしても、伸一が腑に落ちないのは、いやがらせや脅迫電話、脅迫状が相次いだと言われていることである。学会員が、脅迫じみた言動をとれば、さらに学会に避難が集中することは自明の理である。そんな学会を貶めるようなことを、あえて学会員がするとは、どうしても考えられなかった。

あったとするなら、学会への反発や敵意を高めさせるための謀略かもしれない。しかし、困ったことには、それを証明する手立てはなかった。

ともあれ、学会が小さな団体であれば、なんでもないことでも、大きな勢力になれば、意図に反して相手は脅威を感じることもある。日本第一の教団に発展した今、学会は、社会を包み込む、成熟した寛容さをもつことの大切さを、山本伸一は痛感するのであった。

そして、今回の問題で、結果的に社会を騒がせ、関係者に迷惑をかけてしまったことについては、会長である自分が率直に謝ろうと思った。ただ、言論の暴力と戦う権利は誰にでもある。悪を許さぬ、清らかな正義の心は永遠に失ってはならない。

その"純粋性"と"寛容性"とをいかにして併せ持っていくかが、これからの学会の課題であろうと彼は感じていた。純粋なる正義の心が失われてしまえば、「大河の時代」は、濁流の時代と化してしまうからだ。


4月に入っても、学会への執拗な追及が続いていた。
いまだ闇は深く、烈風が吹き荒れていた。

言論・出版問題は、伸一の会長就任以来、初めての大試練となった。だが、それは、最も理想的な社会の模範となる創価学会をつくろうとする彼の決意を、一段と固めさせた。

いわば、この試練が未来への新たな大発展の飛躍台となったのである。

<烈風の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋

渓流から大河への転換期

『新・人間革命』第14巻 烈風の章 P282~

このころ、国会では衆院予算委員会で、社会、民社、共産の三党が言論・出版問題を取り上げ、証人喚問並びに調査特別委員会の設置を要求していた。

そして、検討した結果、各党の国対委員長会談に処理をゆだねることにしたが、会談からは共産党が外された。京都府知事戦をめぐって共産と民社の激しいいがみ合いが続いていたためである。結局、会談では、論議は、ほかの適当な委員会に移し、証人喚問についても話し合われたが、最終的に自民党は、これは「国会で取り上げる問題ではない」と判断した。

証人喚問は難しいとみた社会、民社両党は国対委員長会談を打ち切り、3月17日に、社会、民社、共産三党の議員たちは、藤沢達造をはじめ、学会と公明党によって言論・出版妨害を受けたとする著者や出版関係者らを呼び、会合を開く。

この集会から2日後、民社党は、政教分離の原則に違反する疑いがあるとして政府に質問主意書を提出するが、政府は、政教分離の原則は宗教法人の政治活動を排除しているわけではないと回答しているが、民社党は、再度、政治と宗教についての質問主意書を提出している。

一方、社会党は、参院予算委員会でも、言論・出版問題を取り上げていった。あらゆる手を使っての執拗な攻撃である。この機会に、なんとしても学会と公明党に大ダメージを与えたいと、血道をあげていたのだ。

山本伸一は、病床にありながらも、学会の未来、そして、日本と世界の未来について、試案をめぐらせていた。ようやく病状に好転の兆しが見え始めたのは、春三月に入ってからのことであった。彼が真っ先に行ったことは、日中友好の先達である松村謙三との会談であった。

4月2日、戸田城聖の13回忌大法要が厳粛に営まれた。山本伸一の体調は、まだ完全に回復したとは言えなかったが、大法要に出席した彼は、気迫にあふれていた。全国から集った参列者は、伸一の姿を見て、安堵に胸を撫でおろした。本部幹部会を除けば、山本会長の会合等へ出席は、2月はほとんどなく、3月も数回にすぎなかったことからである。

最後に伸一の話となった。伸一は、在りし日の戸田を偲び、遺徳を讃えたあと、師亡きあとの弟子たちの戦いの歩みを語っていった。「先生!広宣流布の流れは、遂に渓流より大河の流れとなりました。必ずや、やがて洋々たる大海に注ぐ日も、眼前でありましょう。」

「私たちは、いかに嵐が叫ぶとも、怒涛が猛り狂うとも、御仏の、師子王の子らしく、また、戸田門下生の誇りをもち、それぞれの使命の庭に、必ずや勝利の記念碑を打ち立ててまいります。」

「先生が亡くなられる直前に言われた『一歩も退くな!』『追撃の手をゆるめるな!』とのお言葉を、私ども弟子一同は、深く、深く、胸に刻んで、障魔と戦い、勇気凛々、仲良く生き抜いてまいります。」烈々たる誓いの言葉であった。

伸一は、広宣流布の流れは渓流から大河へと大きく変わろうとしていることを実感していた。その転換期に言論・出版問題が起こったのだ。御書には「夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違することあり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障りいできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」と仰せである。


この御文に照らして、言論・出版問題は、広宣流布の波が広がり、人間主義に目覚めた民衆勢力が台頭し、時代の転換点を迎えたがゆえに起こった烈風といってよい。新時代に飛翔するために、学会は、機構の改革を推進していた。 

「政教一致」などという批判は、その機構の整備が進みつつあることを知ったうえで、改革上ゆえの未整理な部分を、あえて突き、攻撃材料としたのかもしれない。


太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋

カテゴリー


新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


→メルマガで届く 『小説 新・人間革命』に学ぶ
ブログでは 言えないこと

メルマガ『勝利の哲学 日蓮大聖人の御書に学ぶ』