『新・人間革命』第14巻 大河の章 P376~
1970年(昭和45年)11月8日、全国の通信員の代表500人が参加し、聖教本社の新社屋で通信員大会が開催された。参加者の大きな共感を呼んだのは、活動報告であった。
北海道釧路で男子部総ブロック長をしている遠山正治は、6年前の入会で、通信員の活動を始めたのは4年前である。入会の契機がパン屋で目にした聖教新聞からであり、恩返しのつもりで、原稿を書いたが、何度も原稿が「ボツ」になることが続き、通信員活動から遠ざかってしまった。
しかし、学会活動で、担当した組織にいる、女手一つで3人の子どもを育てる婦人を知り、信心の素晴らしさを痛感し、この婦人に育てられた子どもの体験をなんとしても、多くの人に紹介したかった。彼は、一家を取材し、原稿を送った。数日後、自分の書いた体験記事が、北海道版に大きく掲載された。
彼は涙し、通信員の喜びと使命をかみしめた。"俺は記事がボツになったことで、自分の使命までボツにしていたのだ"遠山は決意を新たにした。道東の広大な根釧原野を走るために、中古の自動車を購入した。真冬のある夜、取材の帰り、車のエンジンが動かなくなってしまい、凍死しかねないという、九死に一生を得たこともある。
原稿の執筆に取りかかり、朝になってしまったこともある。そんな時、彼を元気づけてくれたのが、聖教新聞を配る配達員さんの足音であった。"配ってくれる人がいるから、この記事を読者が読んでくれる。吹雪の日も、雨の日も、毎日毎日、新聞を配達してくれる人の苦労は、もっと、もっと、大変なものがあるはずだ。"こう思うと、疲れも吹き飛んだ。
遠山は、こう話しを結んだ。「いよいよ言論戦が、広宣流布の流れを、大きく左右する時代に入ったと思います。私は、その先駆けともいうべき通信員として、力の限り、学会の真実の姿を伝えてまいります。仏法の正義を訴え抜いてまいります。皆さん、私たちの手で日本第一の、世界最高の聖教新聞をつくり、新しい歴史の幕を開いていこうではありませんか!」
通信員は、女性の活躍も目覚ましかった。新潟支部でただ一人の通信員だった小沢悠子は、高校を卒業したばかりであった。活動を始めたものの、写真も満足にとれず、失敗してしまった。彼女は、撮影技術を徹底して学んだ。
小沢はやがて、新潟の女子部の中心者になり、多忙を極めていくが、通信員の使命を果たし抜き、"広宣流布の現場証人として、ニュースを送り続けよう"というのが、彼女の決意であった。M7.5の自身が新潟県北部を襲った時、被災地を駆け巡り、会員の激励にあたりながら、地震禍から立ち上がった学会員の様子を、いち早く記事にしたのである。
新潟の友の安否を気遣う同志は、それらの記事を見て、心から安堵するとともに、信仰をもつことのすばらしさを知るのであった。
また、通信員の使命の大きさとやりがいを小沢は、多くの女子部員に語っていった。彼女の話を聞き、新潟では、女子部員が次々と通信員を希望し、若い力が、支局の原動力となっていた。
小沢に励まされ通信員となった本田芙美代は、薬剤師の国家資格を持っていたが、持病の貧血のため、故郷の新潟に帰っていた。彼女は、やがて薬局を開き、日蓮大聖人のゆかりの佐渡で広宣流布に生きたいと願うようになっていた。彼女が最も心を砕いたのは、正確な記事を書くことであった。
佐渡の同志の活動や体験が皆の目に触れるのだと思うと、通信員の使命を果たした喜びに、胸が熱くなるのであった。そして、自分でも気づかぬうちに、いつの間にか、持病の貧血も治っていたのである。
伸一は、通信員の姿のなかに、広宣流布という平和社会を建設する、言論の闘士の模範を見ていたのである。
伸一は、自らに言い聞かせていた。"私も、皆の先頭に立って戦おう。広宣流布という言論戦の砦たる聖教新聞に、生涯、一通信員、一記者のつもりで、原稿を書いて書いて、書きまくろう。さあ、戦闘開始だ!”
<第14巻 終了>
太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋
1970年(昭和45年)11月8日、全国の通信員の代表500人が参加し、聖教本社の新社屋で通信員大会が開催された。参加者の大きな共感を呼んだのは、活動報告であった。
北海道釧路で男子部総ブロック長をしている遠山正治は、6年前の入会で、通信員の活動を始めたのは4年前である。入会の契機がパン屋で目にした聖教新聞からであり、恩返しのつもりで、原稿を書いたが、何度も原稿が「ボツ」になることが続き、通信員活動から遠ざかってしまった。
しかし、学会活動で、担当した組織にいる、女手一つで3人の子どもを育てる婦人を知り、信心の素晴らしさを痛感し、この婦人に育てられた子どもの体験をなんとしても、多くの人に紹介したかった。彼は、一家を取材し、原稿を送った。数日後、自分の書いた体験記事が、北海道版に大きく掲載された。
彼は涙し、通信員の喜びと使命をかみしめた。"俺は記事がボツになったことで、自分の使命までボツにしていたのだ"遠山は決意を新たにした。道東の広大な根釧原野を走るために、中古の自動車を購入した。真冬のある夜、取材の帰り、車のエンジンが動かなくなってしまい、凍死しかねないという、九死に一生を得たこともある。
原稿の執筆に取りかかり、朝になってしまったこともある。そんな時、彼を元気づけてくれたのが、聖教新聞を配る配達員さんの足音であった。"配ってくれる人がいるから、この記事を読者が読んでくれる。吹雪の日も、雨の日も、毎日毎日、新聞を配達してくれる人の苦労は、もっと、もっと、大変なものがあるはずだ。"こう思うと、疲れも吹き飛んだ。
遠山は、こう話しを結んだ。「いよいよ言論戦が、広宣流布の流れを、大きく左右する時代に入ったと思います。私は、その先駆けともいうべき通信員として、力の限り、学会の真実の姿を伝えてまいります。仏法の正義を訴え抜いてまいります。皆さん、私たちの手で日本第一の、世界最高の聖教新聞をつくり、新しい歴史の幕を開いていこうではありませんか!」
通信員は、女性の活躍も目覚ましかった。新潟支部でただ一人の通信員だった小沢悠子は、高校を卒業したばかりであった。活動を始めたものの、写真も満足にとれず、失敗してしまった。彼女は、撮影技術を徹底して学んだ。
小沢はやがて、新潟の女子部の中心者になり、多忙を極めていくが、通信員の使命を果たし抜き、"広宣流布の現場証人として、ニュースを送り続けよう"というのが、彼女の決意であった。M7.5の自身が新潟県北部を襲った時、被災地を駆け巡り、会員の激励にあたりながら、地震禍から立ち上がった学会員の様子を、いち早く記事にしたのである。
新潟の友の安否を気遣う同志は、それらの記事を見て、心から安堵するとともに、信仰をもつことのすばらしさを知るのであった。
また、通信員の使命の大きさとやりがいを小沢は、多くの女子部員に語っていった。彼女の話を聞き、新潟では、女子部員が次々と通信員を希望し、若い力が、支局の原動力となっていた。
小沢に励まされ通信員となった本田芙美代は、薬剤師の国家資格を持っていたが、持病の貧血のため、故郷の新潟に帰っていた。彼女は、やがて薬局を開き、日蓮大聖人のゆかりの佐渡で広宣流布に生きたいと願うようになっていた。彼女が最も心を砕いたのは、正確な記事を書くことであった。
佐渡の同志の活動や体験が皆の目に触れるのだと思うと、通信員の使命を果たした喜びに、胸が熱くなるのであった。そして、自分でも気づかぬうちに、いつの間にか、持病の貧血も治っていたのである。
伸一は、通信員の姿のなかに、広宣流布という平和社会を建設する、言論の闘士の模範を見ていたのである。
伸一は、自らに言い聞かせていた。"私も、皆の先頭に立って戦おう。広宣流布という言論戦の砦たる聖教新聞に、生涯、一通信員、一記者のつもりで、原稿を書いて書いて、書きまくろう。さあ、戦闘開始だ!”
<第14巻 終了>
太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋