小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命 第13巻

米軍基地の マーシー地区

『新・人間革命』第13巻 楽土の章 P316~

米軍の軍人やその家族などの入会者が増えていた。会場周辺で山本会長に一目会いたいと駆けつけてきたメンバーと記念写真を撮った。

間もなくベトナムに行く人もいるという通訳の話に、「絶対生きて帰ると決めて、真剣に唱題するならば、必ず、守られます。私も、お題目を送り続けます。大切な、使命ある仏子だ、死なせるものですか。そして、永遠の平和のために、妙法という慈悲の利剣を手に、広宣流布の戦士として戦ってください。」

「永遠の平和のために、妙法という慈悲の利剣を手に、広宣流布の戦士として戦ってください」メンバーの目頭が潤んだ。唇をかみしめ、大きく頷く人もいた。

通訳の男性は、アメリカ人のメンバーによって構成される、マーシー地区の地区部長をしている藤峰正則であった。

藤峰は、カナダのトロントで生まれ、戦後一家は日本に戻り、外資系の会派に就職し、酒類のセールスのため、沖縄に派遣された。藤峰は酒を飲むと荒れることが多く、それが、妻の須美代の悩みでもあり、入会の動機であった。

須美代は、入会せず、学会のことを勉強してみようと会合には参加したが、仏法は絶対であると言い切る学会に反発を感じ、学会批判の書物が出ると、すぐそれを学会の幹部に示し、質問していたが、幹部は微動だにせず、一つ一つの問題について、その誤りを明らかにしていった。

どんな質問をしても、いつも理路整然とした答えが返ってきた。学会の会合は明るく希望にあふれていて、3年がたった時、傍観者では体験もつかめない、最後は、実際に自分が信心してみるしかないと入会した。

夫は大反対で、信心するなら離婚すると言われたが、あきらめず題目をあげると本人だけならと言われたが、藤峰が酒乱であることから、御本尊を不敬する恐れから 授与は見送られた。それを聞いた藤峰は、自分のせいだと、御本尊授与に同行することになった。

唱題するうち、酒を飲んで暴れる夫の気持ちを思いやれるようになると、夫の態度も変わった。依正不二である。彼女の一念が変化し、境涯が変わっていったがゆえに、夫が変わっていったのである。

正則は、妻が変わっていく様子に、信仰の力を感じ、「俺もやる」と言って信心を始めたのである。正則は、悩んでいた上司との人間関係が改善し、功徳を実感し、酒を飲んで暴れることもなくなっていった。

藤峰の家は、米軍基地の近くであり、正則が英語を話すことから、夫妻が基地のメンバーを担当することになった。米軍のキャンプの名前をとってマーシー地区とした。マーシーには「慈悲」の意味がある。メンバーはこの名をほこりとし、活動に励んだ。

ある朝、会社から夫の乗った飛行機が墜落したが、夫は無事との電話が入る。藤峰の乗った飛行機は、悪天候のなか台北の空港に着陸しようとして、空港の十数キロ手前で陸地に接触し、民家などに接触し
激突した。

藤峰の乗った座席のすぐ前から機体は真っ二つに折れていた。隣の人に脱出しないと助からないと言われ、地上まで数十メートルありそうな期待から飛び降りた。暗くてわからなかったが、死ぬよりはいいと飛び降りると彼は、散乱していた荷物の上に降りて、どこにも傷を負うことはなかった。

ふらふらしながら全力で走りだすと 飛行機は火につつまれていた。この事故で、乗員乗客あわせて63人のうち21人が犠牲になった。無事に生還した正則の体験は、夫妻の信仰への大確信を育んだ。

正則は、"自分は、御本尊に命をいただいた人間なんだ。生ある限り、広宣流布のために尽し抜こう!"と報恩感謝の思いで、弘教に、個人指導にと全力で取り組んだ。

飛行機事故から無傷で帰ってきた彼の体験談には、説得力があった。歓喜の波動となって、沖縄中に大きく広がっていった。



太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

沖縄に平和の楽土を建設する使命

『新・人間革命』第13巻 楽土の章 P304~

伸一は、勤行会で沖縄創価学会の会員の敢闘を心から讃えたあと、訴えた。「楽土の建設といっても、そこに住む、一人ひとりが、自らの宿命を転換し、さらに、国土の宿命を転換していくことが根本です。今日を沖縄の第二段階への出発の日として、再び"じっとこらえて今に見ろ"との心で、柔和忍辱の衣を着て、スクラムを組んで、朗らかに前進していこうではありませんか!」

伸一は、記念撮影のために並んでいたメンバーで二人の老婦人に、なんともいえない生命の輝きを感じ、声をかけ、傍らに招いた。

沖縄本島から南西320キロにある伊良部島から参加したメンバーであった。二人は、人口1万人ほどのこの島で、黙々と、広布の開拓に汗を流してきた。先に信心をした池谷カメは、娘の病弱や家庭不和、子どもの病気と事故で苦しみと諦めの人生を生きてきたが、入会して、人生に希望を感じ、人に幸福の道を教えることができると喜びと生きがいのある人生に変わった。

福岡カツと一緒に 毎日弘教に歩いた。そして、山本会長に決意を聞いていただこうと、懸命に唱題を重ねてきたのである。

伸一は、"広宣流布のために、人知れず汗を流し、涙を流している同志を探し出し、讃え、励ましたい。"と鋭敏なレーダーのように、常に心を研ぎ澄ましてきた。そのなかで、健気なる同士の発する魂の輝きともいうべきものを、敏感に感じ取るようになっていたのである。

伸一は、二人に声をかけ、「お二人が広宣流布のために、どれだけ真剣に戦ってこられたか、私にはよくわかりますよ。すがすがしい生命の輝きが、それを明確に物語っていますから。」伸一の言葉に、二人は、あれもこれも話したいと思っていたが、何も言えなかった。ただただ、涙が込み上げてくるのだ。

合掌する思いで、伸一は、老婦人を見送った。彼の目には、その姿は尊貴なる菩薩に、金色の仏に映った。広布に貢献しゆく同志に、仏を見ずして仏はないーーそれが、伸一の仏法者としての、信念であり、哲学であった。

高等部・学生部との記念撮影では、山本伸一はこう呼びかけた。「皆さんには、郷土であるこの沖縄に、平和の楽土を建設する使命があると、私は申し上げておきたい。21世紀の日本、アジア、世界の指導者は、戦争の辛酸をなめ、最も平和を希求してきた沖縄出身者のなかから出なければならない。特に、信心を持った皆さんは、平和創造の大人材として、雄々しく未来に羽ばたいていってもらいたいのであります」

この伸一の指導を、集った高校生、大学生は、目から鱗の落ちる思いで聞いた。ある高等部員は、昼となく、夜となく、戦闘機や輸送機が行き交う空を見て思った。"沖縄は、いつ戦争に巻き込まれてもおかしくない・・・。なんでこんなところに生まれてきてしまったんだろう。ぼくは、こんな島に、いつまでも住んでいたくはない。"

だが、伸一の言葉が、この高等部員の心を変えていくことになる。"誰が、この沖縄の現実を変えていくのか。それを成し遂げていくのが、沖縄に生まれ育った、ぼくたちの使命だと、先生は教えてくださった。また、この世界に、第二、第三の「沖縄」をつくってはならない。だから、その苦しみを知る僕たちこそが、世界の平和のために、貢献していかなくてはならないんだ"

この記念撮影を通して、郷土・沖縄の平和と繁栄のために生き抜こうと誓った、高等部員、学生部員は少なくなかった。そして、使命を自覚した青年たちは、沖縄に生まれたことに、誇りと喜びを持つようになっていったのである。




太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

楽土の建設

『新・人間革命』第13巻 楽土の章 P293~

< 楽土の章 開始 >

1969年(昭和44年)「建設の年」の元日付の「聖教新聞」に、伸一の詩「建設の譜」が発表され、伸一の特徴のある、力強い毛筆の文字が躍っていた。

総本山では、正本堂の建設が始まっていた。正本堂建設の喜びに、学会も宗門も、わきかえっていた。だが、仏法上、極めて重要な意義をもつ正本堂も、建設の建造だけをもって事足れりとすれば信心の内実を欠いた、権威のための伽藍となってしまう。それでは魂の抜け殻に等しい。

伽藍は、信心という光源があってこそ、光り輝くのである。したがって、今こそ、全同志が勇猛果敢に立ち上がり、万代にわたる広宣流布の堅固な基盤を完成させなければならないと、伸一は、強く決意していたのである。

破壊は 一瞬
建設は 死闘
惰性は暗 希望は明
後退は死 前進は生


だから彼は、詩のなかで「礎は 深く ふかく そして 岩底まで 掘らねばならぬ」と訴えた。

この年の5月3日で、伸一は 会長就任9周年を迎え、10年の佳節に突入することになる。"いよいよ学会は、新しい大前進が始まるに違いない"と、誰もが感じていた。

"今しかない。時は戻らない。この1年を勝利しよう。広宣流布の新しい幕を開くのだ。自分自身の黄金の歴史をつくろう!"

「建設の年」の大勝利の因は、実に、伸一の年頭のこの詩にあったといってよい。

2月伸一は、新装なった沖縄本部での勤行会に出席した。沖縄は、本土復帰、さらに、米軍基地の問題で揺れ続けていた。沖縄の問題は、山本伸一が最も胸を痛めてきたことの一つであった。

学生部総会で、沖縄問題について、次のように言及していった。「日本の一部である沖縄が、戦後22年間もアメリカの統治下に置かれてきたことは、沖縄の百万島民はもちろんのこと、日本人全体にとっても、忍びえないことでありました。」

「したがって、名実ともに、沖縄のすべてを日本に復帰させることは、現地住民の悲願であるだけでなく、日本国民全体の願いであります。」

そして、『施政権の即時全面返還』『核基地の撤去』『通常基地の段階的全面撤去』を訴えたのである。核も、基地もない、平和で豊かな沖縄になってこそ本土復帰であるーーそれが、沖縄の人びとの思いであり、また、伸一の信念であった。

「本土復帰」という住民の悲願の実現を盾に、核兵器や基地を沖縄に背負わせるとするならば、かつて沖縄を本土決戦の"捨て石"にしたことと同様の裏切りを、政府は重ねることになる。

まだ、返還への具体的な目途が見えない状況のなかで、伸一は、日本の進むべき道を、必死になって示そうとしていた。沖縄の友の、崩れざる幸福と、永遠の平和の建設こそ、伸一の誓願であった。

とともに、沖縄の友に寄せる伸一の励ましは、一段と力強さを増した。真の繁栄と平和を勝ち取ることができるかどうかは、最終的には、そこに住む人々の、一念にこそかかっている。人間が、絶望や諦めの心をいだき、無気力になったり、現実逃避に走れば、社会は退廃する。

楽土の建設は、主体である人間自身の建設にこそかかっているのだ。楽土を築こうとするならば、他の力を頼むのではなく、平和のため、人びとの幸福のために、自分が一人立つことだ。何があっても、絶対に屈することのない、強き信念と希望の哲学をもつことだ。

複雑な現実の迷路を切り開く、聡明な知恵を働かせることだ。そして、その源泉こそが、日蓮大聖人の仏法なのである。御聖訓には「心の一法より国土世間も出来する事なり」と仰せである。ゆえに伸一は、会員一人ひとりの胸中深く、確固不動なる信心の杭を打ち込もうと、心に誓っていた。

地域、社会の建設は、最終的には、民衆がいかに活力と意欲に満ち、聡明であるかに、いっさいはかかっている。その民衆の力を引き出すことが、信仰の大きな意義でもある。

太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

芸術部 ヤングパワー

『新・人間革命』第13巻 光城の章 P282~

彼女は念願の歌手でデビューを果たすことができた。レコード会社の社運を賭けた売り出しもあり、デビュー曲は爆発的な売れ行きとなるが、酷評の集中砲火も浴びた。まだ、10代の少女にとって、それは、あまりにも大きな衝撃であった。打ちのめされたような気がした。

だが、必死に唱題し、"私は学会っ子なんだから、絶対に負けるわけにはいかない。下手ならば、レッスンを重ね、上手になって見せる!"エリカは 誇りをもって、自分が創価学会員であることを皆に語ってきた。

芸能界の関係者は、「学会員であるなんて言わない方がいい」と忠告したが、彼女は、宗教は、人間の信念や価値観、生き方などを形成する土台であり、自分を紹介するときに、宗教に触れることは極めて自然なことであると思っていた。そうでなければ、本当の自分はわかってもらえないからだ。

さらに、広宣流布のために、歌手として実証を示したいと願う彼女にしてみれば、学会員であることを伏せて、どんなに高い評価や人気を得ようが、全く意味のないことであった。彼女にとって学会員であることは、自分の支えであり、人間としての最高のプライドであった。

雑誌の取材で生い立ちを聞かれ、話は、いつの間にか信仰体験になっていったが、掲載された記事は全く違うものになっていた。彼女は、華やかな芸能界のスポットライトに幻惑され、人生の価値を見失うことはなかった。

彼女は民音の企画で、アメリカ公演に出かけた。ロサンゼルスで、著名な日本人歌手で、歌謡界の女王と呼ばれるようになる歌手らと『三人娘』で売り出し、一世を風靡した大スターで、アメリカに渡っていた月村ますみと会う。

彼女は、母親の事業の失敗から借金をかかえ、必死に働かなければならなかった。また、結婚の失敗もあり、華やかなイメージとは反対に、宿命の悲哀に泣き続けてきた。エリカの母親の百合枝が、彼女の大ファンで、憧れの人になんとしても幸せになってほしいと仏法の話をした。

彼女は、9歳で父を亡くし、さらに母親が病に倒れ、10代半ばから、歌手として働いてきた彼女は、いやというほど人生の辛酸をなめてきた。人間の冷酷さも知り尽くしてきた。それだけに、学会員の温かさに、大きな衝撃を受けた。現地のメンバーも訪れ、真心こめて話す姿に感じ、入会する。

これが、月村ますみの蘇生の瞬間であった。彼女は、やがて日本に帰り、芸術部の中核として大活躍していくことになるのである。

芸術部では、歌手や俳優などの、若い女性の活躍が目立っていた。彼女たちはそれぞれの分野で第一人者をめざし、芸術の創造に情熱を注ぐ一方、広宣流布の大きな推進力となっていた。

浮き沈みの激しい芸能界で生きる、彼女たちの信心への取り組みは、誰よりも真剣であり、懸命であった。甘えやいい加減さはなかった。また、それぞれが、多くの信仰体験をもち、仏法への強い確信をつかんでいた。

その存在は、全会員の希望であり、各地から、会合等に来て、体験を話してほしいなどの要請が後を絶たなかった。彼女たちの活躍を見てきた伸一は、最大の敬意を表するとともに、未来のために、"学会の宝"として、大切に育てていかなくてはならないと思っていた。


伸一は、若手の女性芸術部員の"核"となっていく、メンバーを選抜し、このグループを「ヤングパワー」と名づけ、互いに信心を根本に切磋琢磨していくことにした。

現代の妙音菩薩というべき「ヤング・パワー」の活躍は目覚ましかった。第三文明の先駆けとして、新しき芸術の道を切り開きながら、人びとの心に七彩の光を注ぎ、仏法理解の輪を、幾重にも幾重にも、広げていくことになるのである。

< 光城の章 終了 >


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

方面別 芸術祭開催

『新・人間革命』第13巻 光城の章 P267~

1968年秋 芸術祭が、各方面で盛大に開催された。芸術部の力を結集して、各方面ごとに開催しようとの伸一の提案であった。

新しい人間文化を創造する芸術祭にーーと、芸術部員の意気は盛んであったが、具体的に何をやればよいのかとなると、なかなか名案が浮かばなかった。

芸術祭を成功させるうえで、一番大切なことはという質問に伸一は「皆が仲良く団結していくことです。芸術家が自分の芸や個性を大切にするのは当然のことが、協調も、団結もできないと、自分の小さな殻に閉じこもるばかりで、新しい境地が開けなくなってしまう場合もある。また、それでは、人間的にも偏波であるし、芸術祭のような総合的な芸術の創造は難しい」

"個性"を尊重することと"団結"は 相反しないのかという質問に「その原理が『異体同心』ということなんです。」と答えた。「世間では、団結というと、よく『一心同体』と言われる。これは、心を同じくするだけでなく、行動や形式も同じことを求める。つまり、全体主義となり、どうしても、個性は抑圧されることになる。」

「それに対して、大聖人は『異体同心』と言われた。これは"異体"である個人、また、それぞれの個性や特性の尊重が大前提になっています。その一人ひとりが"同心"すなわち、広宣流布という同じ目的、
同じ決意に立つことから生まれる、協力、団結の姿が異体同心です。


「それは、外側からの強制によるものではなく、個人の内発的な意思による団結です。だから強いんです。また、自主性が基本にあるから、各人が個性、特質をいかんなく発揮できるし、それによって、さらに全体が強くなる。」

「学会の強さは、この『異体同心』の団結にありました。その力によって、常に不可能の壁を破り、新しい歴史を開いてきた。皆が仲よく団結しているということは、それ自体が、各人の境涯革命、人間革命の証なんです。なぜなら、我欲が強く自己中心的な人、傲慢、見栄っ張り、嫉妬心が強い人、わがままな人などは、団結することができないからです。」

「そして結局は、組織をかき乱し、皆に迷惑をかけ、最後は、自分から学会を離れていってしまうことになる。しかし、そうなれば、自分が不幸です。最後は哀れです。だから、広宣流布のために団結しようと決め、自分を見つめて、わがままや慢心に挑戦し、人間革命していくことが大事になるんです。」

10月14日トップを飾って、中部芸術祭が開催され、流儀の違いを超えた、琴と尺八の「団結」の調べが演奏された。皆が成功を祈念し団結の祈りを重ねた結果であった。

各地の芸術祭では、郷土色があふれていた。四国では、坂本竜馬の青春時代を題材にした舞踏劇が演じられ、九州では、小倉祇園太鼓、福沢諭吉とその弟子を描いた創作劇など、芸術部員は、地域文化の振興に情熱を燃やしていた。

芸術祭の掉尾を飾った東京芸術祭で人びとを魅了したのは人気歌手の幸山エリカであった。彼女は、アメリカ軍人の父と日本人の母の間で生まれたが、父は、挑戦戦争でなくなり、母は女手一つで苦労してエリカを育てた。

1958年、「宿命転換」の話に心を打たれ、親子は入会した。小学生の頃、容姿のせいで、いじめられたが、大人たちからその容姿ならファッションモデルになれると言われ、題目をあげ、応募すると、合格し、功徳を実感した。

さらに、歌手になる夢を実現するため、レッスンに励み、祈りに祈った。歌手になりたいのは、芸術部員として、学会員として、信仰の実証を示したいという強い思いがあったからである。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

0
カテゴリー


新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


→メルマガで届く 『小説 新・人間革命』に学ぶ
ブログでは 言えないこと

メルマガ『勝利の哲学 日蓮大聖人の御書に学ぶ』