『新・人間革命』第26巻 厚田の章 64p~
入会した飯野夫妻は、厚田地区の初代地区部長であった山内悦郎から、厚田村の使命について聞かされた。「これほど、師匠と絆が強い村はありません。厚田村で活動に励む私たちには、世界のどこよりも早く、広宣流布の模範の地域を築いていく使命があるんです。その厚田村に暮らして、学会活動ができるなんて、すごいことじゃないですか!」
情熱を込めて訴える山内の話に、飯野夫妻は燃えた。勇弘教に走った。このころ厚田村には、「聖教新聞」は、小樽から郵送されていた。
飯野夫妻は、『聖教グラフ』を目にしたことが入会の契機になっただけに、機関紙誌のもつ重みや、その波及性を、身に染みて感じていたのである。二人は、「聖教新聞」を自分たちが取りに行き、配達員に渡す中継役を買って出た。
夫婦は、毎日、夜明け前に車で家を出て、新聞を受け取り、厚田村に新聞を運び続けたのである。冬場は、運び終わるまでに3時間ほどかかった。二人は、やがて厚田総ブロックの総ブロック長、総ブロック委員の任命を受けた。隣接する浜益村にも運ぶことにしたのである。
間には急なカーブが続く細い山道があり、曲がり切れず、崖から落下する車もある難所であった。雪の日路面が凍って、車が止まらず、崖から落ちそうになったこともあった。しかし、誰かがこれをしなければ、広宣流布は進まない。自分がやるしかないとの責任感で勇気を奮い起こし、新聞を運んだ。
学会活動のなかには、人の目にはつきにくい、光の当たらない地味な活動もある。しかし、皆が嫌がり、なかなかやろうとしないことも、"広宣流布のためには、なんでもやらせていただこう"と、勇んで引き受けてくれる人こそ、創価の真の英雄といえる。山本伸一は、各地を巡りながら、"誰が陰で最も苦労し、この組織を支えてくださっているのか"を、じっと洞察し、見極めてきた。
幹部は、"誰が陰の力として学会を守り、支えてくれているのか"を見極め、深く感謝し、最大に賞賛していかなければならない。そこに、創価学会の永遠の繁栄もあるのだ。
山本伸一は、飯野夫妻が営む喫茶店「厚田川」で、飯野チヨが入れたコーヒーを飲みながら語り、色紙に句を認め、夫妻に贈った。
10月3日、戸田講堂で、北海道の広布功労者に対する追善法要が営まれた。そのなかに、「札幌・夏の陣」と呼ばれる、1955年(昭和30年)8月の札幌での夏季地方指導が契機となって入会した、石崎好治の名もあった。
石崎は、2か月前に入会した妻に初代会長が教育者だと言われ、小学校の教員の同僚を座談会に誘った。質疑応答に入ると、教員たちは反論しはじめた。学会への偏見があり、ともかく言い負かしてやろうという感情が先だっていた。
男子部の幹部が伸一を連れてきた。題目を三唱し、丁重にあいさつした。名前を尋ねても名乗ろうとしないものもいた。仏法対話に際しては、常識豊かに、そして相手を包み込む慈愛の大きな心が大切である。とともに、何ものをも恐れぬ、毅然として態度で臨むことである。
「皆さんが、仏法について、本当にお聞きになりたいのなら、お話しさせていただきます。まず、私の話を最後までお聞きください。仏法の概要について述べたあと、質問もお受けし、懇談いたしたいと思いますが、いかがでしょうか。よろしいですね」
途中、教員の一人が口をはさんだ。別の教員が勢いづいて叫んだ。「日蓮は、排他的なんだよ。宗教間の争いを生む、危険思想じゃないか!」伸一は、それを手で制しながら言った。「私の話を最後まで聞いてくださると約束されたではないですか!これでは、まともな語らいはできません。今日は、これで終了とします。しかし、本当に話をお聞きになりたいのでしたら、また、いらしてください」教員たちは、中傷するような言辞を吐きながら、席を蹴るようにして帰っていった。
石崎夫婦は、ひたすら詫びた。夫は、「石崎さんは、どうか、教え子たちの幸福を実現できる教育者になってください」との伸一の話に胸を打たれ、確信と慈愛にあふれた伸一の人柄に共感し、入会した。
"私は、自ら学会についていこうと決めて信心を始めた。一度心を決めたからには、なんでも引き受け、挑戦していこう"彼はそう心に誓っていたのだ。彼は他界するまで、北海道教育部長も務め、人間教育の開拓の鍬を振るい続けてきたのである。
太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋
入会した飯野夫妻は、厚田地区の初代地区部長であった山内悦郎から、厚田村の使命について聞かされた。「これほど、師匠と絆が強い村はありません。厚田村で活動に励む私たちには、世界のどこよりも早く、広宣流布の模範の地域を築いていく使命があるんです。その厚田村に暮らして、学会活動ができるなんて、すごいことじゃないですか!」
情熱を込めて訴える山内の話に、飯野夫妻は燃えた。勇弘教に走った。このころ厚田村には、「聖教新聞」は、小樽から郵送されていた。
飯野夫妻は、『聖教グラフ』を目にしたことが入会の契機になっただけに、機関紙誌のもつ重みや、その波及性を、身に染みて感じていたのである。二人は、「聖教新聞」を自分たちが取りに行き、配達員に渡す中継役を買って出た。
夫婦は、毎日、夜明け前に車で家を出て、新聞を受け取り、厚田村に新聞を運び続けたのである。冬場は、運び終わるまでに3時間ほどかかった。二人は、やがて厚田総ブロックの総ブロック長、総ブロック委員の任命を受けた。隣接する浜益村にも運ぶことにしたのである。
間には急なカーブが続く細い山道があり、曲がり切れず、崖から落下する車もある難所であった。雪の日路面が凍って、車が止まらず、崖から落ちそうになったこともあった。しかし、誰かがこれをしなければ、広宣流布は進まない。自分がやるしかないとの責任感で勇気を奮い起こし、新聞を運んだ。
学会活動のなかには、人の目にはつきにくい、光の当たらない地味な活動もある。しかし、皆が嫌がり、なかなかやろうとしないことも、"広宣流布のためには、なんでもやらせていただこう"と、勇んで引き受けてくれる人こそ、創価の真の英雄といえる。山本伸一は、各地を巡りながら、"誰が陰で最も苦労し、この組織を支えてくださっているのか"を、じっと洞察し、見極めてきた。
幹部は、"誰が陰の力として学会を守り、支えてくれているのか"を見極め、深く感謝し、最大に賞賛していかなければならない。そこに、創価学会の永遠の繁栄もあるのだ。
山本伸一は、飯野夫妻が営む喫茶店「厚田川」で、飯野チヨが入れたコーヒーを飲みながら語り、色紙に句を認め、夫妻に贈った。
10月3日、戸田講堂で、北海道の広布功労者に対する追善法要が営まれた。そのなかに、「札幌・夏の陣」と呼ばれる、1955年(昭和30年)8月の札幌での夏季地方指導が契機となって入会した、石崎好治の名もあった。
石崎は、2か月前に入会した妻に初代会長が教育者だと言われ、小学校の教員の同僚を座談会に誘った。質疑応答に入ると、教員たちは反論しはじめた。学会への偏見があり、ともかく言い負かしてやろうという感情が先だっていた。
男子部の幹部が伸一を連れてきた。題目を三唱し、丁重にあいさつした。名前を尋ねても名乗ろうとしないものもいた。仏法対話に際しては、常識豊かに、そして相手を包み込む慈愛の大きな心が大切である。とともに、何ものをも恐れぬ、毅然として態度で臨むことである。
「皆さんが、仏法について、本当にお聞きになりたいのなら、お話しさせていただきます。まず、私の話を最後までお聞きください。仏法の概要について述べたあと、質問もお受けし、懇談いたしたいと思いますが、いかがでしょうか。よろしいですね」
途中、教員の一人が口をはさんだ。別の教員が勢いづいて叫んだ。「日蓮は、排他的なんだよ。宗教間の争いを生む、危険思想じゃないか!」伸一は、それを手で制しながら言った。「私の話を最後まで聞いてくださると約束されたではないですか!これでは、まともな語らいはできません。今日は、これで終了とします。しかし、本当に話をお聞きになりたいのでしたら、また、いらしてください」教員たちは、中傷するような言辞を吐きながら、席を蹴るようにして帰っていった。
石崎夫婦は、ひたすら詫びた。夫は、「石崎さんは、どうか、教え子たちの幸福を実現できる教育者になってください」との伸一の話に胸を打たれ、確信と慈愛にあふれた伸一の人柄に共感し、入会した。
"私は、自ら学会についていこうと決めて信心を始めた。一度心を決めたからには、なんでも引き受け、挑戦していこう"彼はそう心に誓っていたのだ。彼は他界するまで、北海道教育部長も務め、人間教育の開拓の鍬を振るい続けてきたのである。
太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋