小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

師弟

北海道の広布功労者に対する追善法要

『新・人間革命』第26巻 厚田の章 64p~

入会した飯野夫妻は、厚田地区の初代地区部長であった山内悦郎から、厚田村の使命について聞かされた。「これほど、師匠と絆が強い村はありません。厚田村で活動に励む私たちには、世界のどこよりも早く、広宣流布の模範の地域を築いていく使命があるんです。その厚田村に暮らして、学会活動ができるなんて、すごいことじゃないですか!」


情熱を込めて訴える山内の話に、飯野夫妻は燃えた。勇弘教に走った。このころ厚田村には、「聖教新聞」は、小樽から郵送されていた。

飯野夫妻は、『聖教グラフ』を目にしたことが入会の契機になっただけに、機関紙誌のもつ重みや、その波及性を、身に染みて感じていたのである。二人は、「聖教新聞」を自分たちが取りに行き、配達員に渡す中継役を買って出た。

夫婦は、毎日、夜明け前に車で家を出て、新聞を受け取り、厚田村に新聞を運び続けたのである。冬場は、運び終わるまでに3時間ほどかかった。二人は、やがて厚田総ブロックの総ブロック長、総ブロック委員の任命を受けた。隣接する浜益村にも運ぶことにしたのである。

間には急なカーブが続く細い山道があり、曲がり切れず、崖から落下する車もある難所であった。雪の日路面が凍って、車が止まらず、崖から落ちそうになったこともあった。しかし、誰かがこれをしなければ、広宣流布は進まない。自分がやるしかないとの責任感で勇気を奮い起こし、新聞を運んだ。

学会活動のなかには、人の目にはつきにくい、光の当たらない地味な活動もある。しかし、皆が嫌がり、なかなかやろうとしないことも、"広宣流布のためには、なんでもやらせていただこう"と、勇んで引き受けてくれる人こそ、創価の真の英雄といえる。山本伸一は、各地を巡りながら、"誰が陰で最も苦労し、この組織を支えてくださっているのか"を、じっと洞察し、見極めてきた。

幹部は、"誰が陰の力として学会を守り、支えてくれているのか"を見極め、深く感謝し、最大に賞賛していかなければならない。そこに、創価学会の永遠の繁栄もあるのだ。

山本伸一は、飯野夫妻が営む喫茶店「厚田川」で、飯野チヨが入れたコーヒーを飲みながら語り、色紙に句を認め、夫妻に贈った。

10月3日、戸田講堂で、北海道の広布功労者に対する追善法要が営まれた。そのなかに、「札幌・夏の陣」と呼ばれる、1955年(昭和30年)8月の札幌での夏季地方指導が契機となって入会した、石崎好治の名もあった。

石崎は、2か月前に入会した妻に初代会長が教育者だと言われ、小学校の教員の同僚を座談会に誘った。質疑応答に入ると、教員たちは反論しはじめた。学会への偏見があり、ともかく言い負かしてやろうという感情が先だっていた。

男子部の幹部が伸一を連れてきた。題目を三唱し、丁重にあいさつした。名前を尋ねても名乗ろうとしないものもいた。仏法対話に際しては、常識豊かに、そして相手を包み込む慈愛の大きな心が大切である。とともに、何ものをも恐れぬ、毅然として態度で臨むことである。

「皆さんが、仏法について、本当にお聞きになりたいのなら、お話しさせていただきます。まず、私の話を最後までお聞きください。仏法の概要について述べたあと、質問もお受けし、懇談いたしたいと思いますが、いかがでしょうか。よろしいですね」

途中、教員の一人が口をはさんだ。別の教員が勢いづいて叫んだ。「日蓮は、排他的なんだよ。宗教間の争いを生む、危険思想じゃないか!」伸一は、それを手で制しながら言った。「私の話を最後まで聞いてくださると約束されたではないですか!これでは、まともな語らいはできません。今日は、これで終了とします。しかし、本当に話をお聞きになりたいのでしたら、また、いらしてください」教員たちは、中傷するような言辞を吐きながら、席を蹴るようにして帰っていった。

石崎夫婦は、ひたすら詫びた。夫は、「石崎さんは、どうか、教え子たちの幸福を実現できる教育者になってください」との伸一の話に胸を打たれ、確信と慈愛にあふれた伸一の人柄に共感し、入会した。

"私は、自ら学会についていこうと決めて信心を始めた。一度心を決めたからには、なんでも引き受け、挑戦していこう"彼はそう心に誓っていたのだ。彼は他界するまで、北海道教育部長も務め、人間教育の開拓の鍬を振るい続けてきたのである。



太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋
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厚田を生死不二の永遠の都に

『新・人間革命』第26巻 厚田の章 35p~

「ホール・ケインの名著『永遠の都』のなかで、主人公のロッシィが綴る手紙の一節に、こんな言葉があります。『常に断崖の淵を歩いてきた人間にとって、最大の緊急事態も、いわば、日常茶飯の出来事にすぎません』

思えば、初代会長の牧口先生も、第二代会長の戸田先生も、そして私も、広宣流布に生き抜こうと、戦いを起こしたがゆえに、常に断崖の淵を歩いてきました。人びとの永遠なる幸福を築くために、世界の恒久平和を実現するために、宗教改革の旗を掲げて立ち上がった創価学会の歩みは、いわれなき非難中傷の連続であり、波乱万丈の歴史でした。確かに私も、『永遠の都』にあるように、どんな緊急事態も、いわば日常茶飯の出来事にすぎないと実感しています。

皆さんも、日蓮大聖人の仰せのままに、また、創価の一門として、広宣流布への確固不動の信念を固め、このロッシィのような境地を確立していただきたいのであります。

広宣流布という未聞の大業を成し遂げようとする私どもの前途が、平坦であるわけがありません。穏やかな秋晴れの日が、永遠に続くことなど、決してありません。日本海の怒涛のような荒波に向かい、堂々と前進していくのが、広布の道であり、創価の道です」

何かを予言するかのような発言であった。多くの参加者は、その言葉を深く受けとめることはなかった。しかし、この時、日蓮正宗の宗門のなかに、伸一を排斥しようという画策が、顕在化しつつあったのである。

「厚田村は、”北海凍る”と詩にも詠んだごとく、確かに北風の村であり、厳寒の地であるかもしれません。しかし、法華経は冬の信心です。苦悩の闇が深ければ深いほど、まばゆい大歓喜の光が降り注ぎます。厳寒の地における春の訪れには、ほかでは味わうことのできない、大きな希望と喜びがあります。”法華経は冬の信心である。冬は必ず春となるのだ”と強く確信し、粘り強く苦難への挑戦を繰り返してください。

私どもは、戸田先生の故郷・厚田を、共々に”人生の原点の地”“心の故郷”と定め、”生死不二の永遠の都”にしてまいりたいと思いますが、いかがでしょうか!」

「この墓地公園を、”人間蘇生の憩いの広場”と意義づけて置きたいと思います」「皆さん!ともかく、何があろうが、驚いたり、臆してはいけません。どのような厳しい烈風に対しても、私が屋根となり、防波堤となっていきます」

戸田記念墓園の開園式は、会場の広場に立つ、詩「厚田村」の大きな碑に向かって、皆で、この歌を大合唱して終了した。

10月2日午後、「北海道未来会」第4期の結成式に出席した。”この一人ひとりが、広宣流布の大事な大事な後継者である。だからこそ将来のために、厳しい話もしておかなければならない”と思ったのである。「人間にとって大事なことの一つは、”粘り”ということなんです。

”みんなが尊い使命をもって生まれてきている。必ず自分らしく輝くことができる”と教えているのが仏法なんです。では、どうすれば、自分を輝かせていくことができるのかーーそれは”粘り”です。時には、生きる気力さえなくなってしまうかもしれない。それでも、また立ち上がり、自分の目標に向かって進んでいく。その粘り強さこそが大事なんです。

”力がなくてもいいじゃないか。かっこ悪くたっていいじゃないか。でも、自分は負けないぞ!”と心の炎を燃やすことです。忍耐強い人が、最後に勝つ人なんです。その粘り強さを身につけていくための唱題であり、仏道修行であることを忘れないでください。

人生勝利の栄冠は、信心を根本に、執念に執念を尽くし、粘って粘って粘り抜き、自分の決めた道を歩んでいった人の頭上に輝くことを宣言しておきます」

飯野富雄と妻のチヨは厚田川の近くで喫茶店を営んでいた。
二人は学会員の勧めで「聖教新聞」を購読し、「聖教グラフ」もよく見せてもらっていた。グラフに載っている青年たちのはつらつとした表情を見るとすがすがしさを覚え、希望を感じた。二人は、自分の心を輝かせたいとの思いで、信心を始めた。

機関誌のもつ力は、大きい。購読を続けるなかで、学会理解の土壌が、着実につくられていく。機関紙誌の購読推進は、そのまま弘教拡大の推進力となるのだ。



太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋
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墓園の基本理念

『新・人間革命』第26巻 厚田の章 35p~

青年たちに墓地公園の感想を聞いた伸一は、「この墓地公園も、みんな青年部の諸君が受け継いでいくんだよ。学会も安定期に入った。すると、これから、学会の本来の使命、目的である広宣流布を忘れて、学会のなかで、上手に生きていくことばかりを考える人間も、出てくるでしょう。そうさせないためには、"世界の広宣流布のため、人類の幸福と平和のために、戦い続けよう!"とする、私と同じ志をもった青年たちに、すべてを託す以外にないんです」

あれは、昭和26年7月の、男子部の結成式前夜だった。「私は青年部に広宣流布を託す。伸一できるか!」「牧口門下生には、広宣流布頼まん。次の会長も戸田門下生ではない。青年部出身者だ。仏法に殉ずる覚悟をもった者でなければ、広宣流布の戦いはできないからだ。だから青年に期待するのだ」

戸田は、弾圧の嵐に遭えば、すぐに信念も理想も捨ててしまう、姑息で老獪な人間たちの変わり身の早さに、彼は、痛恨の思いを噛み締めてきたのである。

「伸一!君は、その事実上の原動力になるんだ。模範になれ!永遠にだ。」「頼んだぞ!万人の幸福を築け!そのために学会は、後世永遠に広宣流布を、立正安国をめざして進んでいくんだ。今夜の二人の語らいが、事実上の男子青年部の結成式だよ」

あいさつに立った戸田は、強い確信を込めて話を始めた。「今日、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや、次の創価学会会長が現れるであろう」「今日は、この席から、次の会長たるべき方にごあいさつ申し上げ、男子部隊の結成を心からお祝い申し上げる」

伸一は、厚田の墓地公園での祝賀の集いで、男子部結成式前夜の、戸田との師弟の語らいを青年たちに伝え、祈るような思いで訴えた。「青年は、広宣流布の大願を常に起こしていくんだよ。そして、現実の大地にしっかりと立って、地域に、社会に、仏法の生命尊厳の法理を、人間主義の哲理を弘め抜いていくんだ。」

「ここは、広宣流布に生きる師弟と同志の永遠の絆を象徴している墓地公園です。墓園には、死生観が表れるし、本来、そこには、基本となる思想があるんです」創価学会として墓園を建設するために、学会本部に、墓苑公益事業部門が発足した時、墓園の三つの基本理念が設けられた。

第一は「恒久性」である。永遠の生命観に立ち、ともに唱題しながら生死不二という仏法の真髄を共有しあっていく地である。ゆえに、恒久的に栄える墓地としていくために、優れた施設を建設するとともに、安定した質の高い維持、管理を行っていくことをめざすということである。

第二は「平等性」である。権威や財力によっては可の大小を競うような一般的な風潮に追随すべきではない。

第三は「明るさ」である。妙法に照らされた生死不二の「明るさ」を象徴できるように工夫した墓園とし、墓参者に潤いを当る親しみやすい環境整備を行うということである。

伸一は、望来で元藤徹・トミ夫妻が営む食料・雑貨店に向かった。「17年前の約束を果たしに来ましたよ。」という伸一の言葉に、忘れていた約束を思い出す夫婦だった。

約束は信頼の柱である。人の信頼を勝ち取るための最大の要件は、約束を忘れず、必ず果たしていくことだ。たとえ、相手が忘れていたとしても、それを守っていくことによって、自分の生き方、信念、人格が確立されていくのである。

伸一は言った。「小さな商店は、大きなスーパーなどと比べれば、生み出す利益は少ないかもしれません。しかし、地域の人々の生活を支える、大事な生命線の役割を担っています。どうか、地域に根を張り、信頼の大樹となってください」

徹は、ハッとした。"家族の生活を守るためだけの店じゃないんだ。地域の人々の生活を支えるための店なんだ"ーーそう思うと深い使命を感じた。

北海道の同志は、墓地公園完成を目標に"恩師の故郷にふさわしい、世界に誇れる広布模範の北海道を築くのだ"と、懸命に弘教の拡大に励んできた。つまり、墓地公園の建設とともに、広宣流布の建設に、わが人間革命の建設に、全力で取り組んできたのだ。だからこそ、皆の生命には、歓喜があふれ、その完成が嬉しくてたまらないのだ。

広布の城の建設を、自分の外にある出来事とするのではなく、それと呼応し、全同志が信心の目標を立て、果敢に前進していくーーそこに、学会の建物を建設する重要な意義の一つがある。創価の建造物は、広宣流布の象徴である。ゆえに、それを荘厳するのは、一人ひとりの尊き信心の戦いなのである。







太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋
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創価学会の基盤できあがる

『新・人間革命』第26巻 厚田の章 25p~


「恩師の遺言を、生死不二の原理に照らしていうならば、再び新たなる生命を蘇らせ、共々に広宣流布に戦っていこうとの意味でありましょう。その永遠の広布旅、師弟旅の象徴ともいうべきものが、この墓地公園であります。

私自身、会長就任17年半の間、幾多の慶事を迎えてきましたが、本日は、ことのほか嬉しく、また、晴れがましい慶事であると思っておる次第でございます」それは伸一の偽らざる心境であった。

「創価学会の基盤も、これで完璧に出来上がったと言っても過言ではありません!この恩師ゆかりの厚田の大地は、私にとって"心の故郷"であります。これからも、この地を訪れ、生涯にわたって同志を守り、恩師の遺徳を偲びながら、広布開拓の歴史を創っていきたいと念願してやみません。

皆さん方も、苦しい時、辛い時、行き詰った時には、この地を訪れて墓参し、唱題して、恩師の心をわが心とし、蘇生して帰ってください。そして、広宣流布への満々たる闘志をたぎらせ、生死不二、師弟不二の旅をしていっていただきたいのであります」

「釈尊は、仏として人びとから最高の尊敬を受けておりました。それでも、心の曲がった悪人は、金色に輝く仏を、炭と見たり、灰と見たり、敵と見てしまうとの意味であります。

いわんや、われらは凡愚の身であり、民衆、信徒です。その私どもが、大聖人の仰せ通りに、広宣流布を現実のものとしてきた。軽んじられてきた庶民が、最も尊い聖業を担ってきたのであります。さまざまな難が、北風が、怒涛が、嵐が吹き荒れるのは、これまた当然のことと言わざるを得ません。

御書に照らして、当然、これからも、わが学会には、激しい北風の突風が吹くでありましょう。しかし、絶対に負けてはならない。絶対に屈してはならない。北海道の同志の皆さんは、『覚悟』を定め、この学会の新しき原点の地から、凛々しく出発し、北海道広布のため、自身の一生成仏のために戦い抜いてください。そして、また、ここに帰り、三世永遠に、勇猛果敢なる広布旅を続けようではありませんか!」

『覚悟』とは、本来、迷いを去り、道理を悟ることだ。正法正義の大道に大難ありーーその道理を悟ることが、覚悟の信仰なのだ。

墓地公園の所長である伊藤順次が、入会7か月後の昭和30年3月11日、「小樽問答」が行われた。身延の日蓮正宗側は、僧籍をもつ大学教授らが法論の登壇者であり、伊藤は、勝てるのか不安だったが、伸一の言う通り学会側が大勝利を収めた。

伊藤は、大感動で身が震える思いがした。創価学会の正義を実感し、生涯、学会とともに生きようと決意したのである。冬の厚田行きは、難行苦行の危険な旅であった。深い雪の中を、腰まで埋まりながら歩くことになる。

伊藤の心にあったのは、"厚田は戸田先生の故郷であり、山本室長が、世界の広宣流布を誓った地である。その厚田村に、断じて仏法の光を注ぐのだ!"との一点であった。"師のために"ーーそう思うと、挑戦の勇気が、無限の力が沸いた。一人立つ広宣流布の勇者がいれば、魂の炎は、一人、また一人と燃え広がり、明々と暗夜を照らし出す。一人立て!すべては一人から、自分自身が始まるのだ。

信心を貫き通していくには、信心の依処となる良い先輩が必要だ。幹部になればなるほど、指導を求める先輩がいなくなってしまいがちなんだ。実は、これが、怖いんだよ」

組織の中心幹部が強い求道の心をもち、成長し続けてこそ、後輩も成長していくし、組織も発展していくことができる。ゆえに、幹部自身が信心の啓発を受けていくための、依処となる"人"の存在が大切になる。その依処の根本となるのが、"師"である。

戸田は、伊藤に語った。「君は、伸一に、しっかり、ついていきなさい。絶対に離れないことだ。私の本当の心を知っているのは伸一だ。いろいろな幹部がいて、いろいろなことを言うかもしれないが、ついていくのは伸一だ。伸一がわかっていればいいとの思いで、進んでいきなさい」戸田の、伸一に対する全幅の信頼を感じた。二人の、強い師弟の絆を見た思いがした。


太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋
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厚田に戸田記念墓地公園完成

『新・人間革命』第26巻 厚田の章 7p~

<新・人間革命 第26巻 開始>
<厚田の章 開始>


1977年(昭和52年)9月30日、山本伸一と妻の峯子は、恩師・戸田城聖の故郷である厚田村を目指していた。厚田に、師の名を冠した戸田記念墓地公園が完成し、その式典に出席するためであった。

ここは望来川があることから『望来』といい、アイヌ語の『モライ』が語源だと説明を聞く。「"希望が来る地"か。いい地名だね。仏法には、どんな逆境にあろうが、絶望はない。わが"宿命"は、この世の"使命"であると、確信していくことができる。その確信から、努力が生まれ、人生の勝利への、さまざまな創意工夫が生まれていく。

心が破れてしまえば、希望の種子は腐り、芽が出ることはない。希望は、豊かで、強い心の大地から生まれるんだ。自分の心の外にあるものじゃないんだ。私たちの手で、厚田の地を、希望が来る『望来』にしていこうよ。それが、戸田先生を本当の意味で顕彰していくことになるし、弟子としてのご恩返しにもなる。」


緑の芝生のなかに、白御影石の同じ形をした、「妙法」の文字と家名を刻んだ墓碑が整然と並んでいた。一切衆生が平等に「仏」の生命をもっていると説く仏法の教えの通り、そこには、なんの差別もない。"日蓮仏法の生命観を表現した、平等で明るく、雄大なものにしたい"というのが、墓園建設にあたっての、伸一の考えであった。

"戸田先生を、後世永遠に顕彰していっくためにも、いつかこの地に、先生の精神をとどめる、『記念の城』を築かねばならない。それが弟子としての私の使命であり責任である。"その思いは、時を経て熟成し、三世にわたる師弟旅の象徴ともいうべき、この墓地公園建設の構想となっていった。師ありての弟子であり、弟子ありての師である。

伸一が、墓園の建設を念願してきた、もう一つの理由として、いわゆる"墓地問題"があった。学会員の弘教によって、檀徒離れが進む既成仏教各派にとっては、檀徒を引き留める最後の砦が"墓"であったのである。寺院に埋葬を拒否された学会員の悩みは、深刻であった。

墓園は、学会が運営するのではなく、宗門に任せようと考えてきた。学会として宗門に、墓園や墓園建設用地を寄進したこともあった。宗門の墓園建設は、遅々として進まなかった。やむなく、学会として墓園構想をねていくことになり、宗門の日達管長の了承も得て、学会の総合的な墓園建設構想が発表されたのだ。

伸一は、峯子、長男の正弘と共に、戸田城聖の親戚が営む戸田旅館を訪れた。恩師の故郷のことを、若い世代にも教えておこうと、この厚田訪問に、あえて青年部の正弘も同行させたのである。伸一は、昭和29年の夏、戸田と共に宿泊し、金の思い出を刻んだことが忘れられなかった。

石狩川に橋が完成したことで、旅館に泊まる客が激減したという主の貞蔵に、商売を繁栄させるための源泉こそ、信心であることを語り、「厚田の発展は、先生の願いです。戸田旅館は、その戸田先生の
心をとどめる、由緒ある場所なのだという誇りをもって、末永く繁栄させていってください」と語った。

厚田の海岸に向かい、浜辺を歩き、戸田先生から『君は、世界の広宣流布の道を開くんだ』と語られたことを話した。「天も私を捨てるがよい。いかなる難にも遭おう。身命をなげうつ覚悟であるーーというのが大聖人の御覚悟であった。それは会長就任以来の、私の誓いでもある。」

翌日、戸田講堂の開館記念勤行会が営まれた。あいさつのなかで、この墓地公園の意義について語っていった。「墓園の構想は、ある時、戸田先生が何がなく語られた、一言に由来しています。『わが同志と一緒に、どこかで静かに眠りに就きたいものだな』

その恩師の言葉は、私の脳裏に焼き付き、消えることはありませんでした。このお言葉が、一つの重要な構想を芽生えさせていったのであります。」伸一は、戸田の言葉を、一言たりとも聞き流すようなことはなかった。すべてを生命に刻み、すべてを実現させてきたのだ。そこに真実の師弟の道がある。

太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋
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