小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命 第11巻

塚原問答

『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P392~

文永9年、1月16日、佐渡はもとより、越後、越中、出羽、奥州、信濃等の諸国から、諸宗の僧ら数百人が塚原三昧堂に、集まり、日蓮を罵り、騒ぎ、わめいて、異様な雰囲気であった。

日蓮は、諸宗の僧らの言い分を聞いて、それを一つ一つ確認したうえで、鋭く、誤りを突き詰めていった。日顕の破折は、利剣が瓜を切るような鮮やかさであった。これが有名な「塚原問答」である。

この問答を契機に、学僧の最蓮房はじめ、多くの人びとが日蓮に帰依することになるのである。

それから間もない、2月11日、幕府で「北条時輔の乱」が勃発、北条一族の同志討ちであり、日蓮の預言通り、自界叛逆難が 起こったのだ。

相次ぐ預言の的中に、幕府は弟子を釈放したり、日蓮の身柄を一谷入道邸に移したが、過酷な状況に変わりはなかった。そんななか、佐渡流罪中に、日蓮は、多くの重要な御書を残している。

日蓮は、佐渡に流されてからも、弟子たちのことが頭から離れなかった。竜の口の法難以来、弾圧の過酷さ、恐ろしさから、退転したり、法門への確信が揺らぎ始めた弟子たちが、少なくなかったからである。臆病と不信によって、信心の心が食い破られていったのである。

臆病な心と戦おうとはせず、弘教の方法論に問題をすり替えて師匠を批判し、弟子としての戦いの放棄を正当化しようというのだ。堕落し、退転しゆく者が必ず用いる手法である。


佐渡で認めた御書には、弟子の惰弱さを打ち破り、まことの信心を教えんとする、日蓮の厳父のごとき気迫と慈愛が脈打っている。諸天の加護や安穏を願って、一喜一憂していた弟子たちの信仰観を砕き、真実の「信心の眼」と「境涯」を開かせんとする魂の叫びであった。「善につけ悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」と、強く警鐘を発する。

また、「難即悟達」の原理を示し、法難こそ、一生成仏のための不可欠な条件であり、難を「喜び」「功徳」ととらえ、難を呼び起こせと説いているのである。

これこそ、最大の「マイナス」を最大の「プラス」へと転じ、最高の価値を創造しゆく、大逆転の発想であり、人間の生き方を根本から変えゆく、創造の哲学といえよう。


佐渡の念仏者たちは、日蓮を絶対に鎌倉に帰すまいと、さまざまな画策をつづけ、殺害の計画も立てたが、すべては虚しく終わった。

蒙古襲来におびえ、社会の混乱から、太陽が二つに見えたなど、不可思議な現象が相次いで起こり、もはや日蓮の預言の的中を見過ごすことができなくなった執権時宗は、文永11年3月、日蓮に赦免状を届け、3月15日、日蓮は佐渡を後にしたのである。

山本伸一は、佐渡を離れる船のなかで、自分もまた、「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」との決意で、広布に生き抜こうと誓ったことが忘れられなかった。

伸一は、佐渡の同志たちに、必ず大難があると語ったが、このところ、その予感が、日ごとに強くなっていくのである。特に、公明党が衆議院に進出してからは、それが、ことのほか、胸に迫ってきてならなかった。

創価学会も公明党を誕生させ、その党が衆議院に進出し、いよいよ仏法の慈悲を根底にした人間主義の政治の実現に、本格的に着手したのだ。これは、政治権力の悪を断とうとするものであり、諫暁に通じよう。

ゆえに、それを排除せんとする画策がなされるのも、また、当然といえる。

しかし、伸一は、すべてを覚悟で、進もうと思った。仏法を社会に開きゆくためにーー。

<躍進の章 終了>

<「新・人間革命」 11巻 終了>


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋


滝の口 発迹顕本

『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P384~

兵士たちは、狂ったように経巻を踏みつけるなど、常軌を逸した光景が繰り広げられていた時、日蓮の大音声が響いた。「あらおもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす」大獅子吼であった。

日蓮は、「佐渡流罪」を言い渡されたが、それは、表向きで、夜半に、日蓮は馬に乗せられ、密かに竜の口の刑場で斬首されることになった。

途中、日蓮は、八幡宮の前を通る時、八幡宮に向かって、「いかに八幡大菩薩はまことの神か」と叫び、法華経の行者を守護すると誓った諸天善人が、法華経の行者日蓮を守護しないならば、仏説が、虚妄となってしまうので、釈尊の責めをうけると、叱咤したのである。

日蓮は、四条金吾に使いを出し、法華経のために命を奉ることができる喜びを、語った。処刑の瞬間まで、弟子のために法を説き、指導し続けようとする師であった。殉難を恐れぬ日蓮の言葉に、四条金吾も、勇気を奮い起こした。

四条金吾は、日蓮の乗った馬の轡にすがるようにして、ともに歩み始めた。もし、この師が死ぬならば、自分も、ともに殉ずる覚悟で竜の口までついて行ったのである。


処刑されようと言う時、声をあげて泣く四条金吾に、日蓮は、毅然として「なんという不覚の殿方か!こんな喜びはないではないか。笑いなさい」と叱咤した。

処刑の準備が整い、日蓮は頸の座にすえられた。兵士が太刀を抜いて、頸を斬らんとした、まさにその時。江の島の方向から、漆黒の闇のなかを、月のように光る物が現れた。それは毬のようでもあった。そして、東南から北西の方角に光り渡った。

兵士たちの顔は、どの顔も恐怖に引きつっていた。太刀を手にしていた兵士は目がくらみ、その場で倒れ伏した。皆、怖じけづき、もはや頸を斬る気など、全く失せてしまった。

日蓮の声が響いた。「頸を斬るならば、早く斬れ!夜が明けてしまえば、見苦しかろうぞ!」だが、日蓮を斬ろうとする者は、誰もいなかった。

まさに法華経に説かれた「刀杖不加」「刀尋段段壊」の文の通りであった。それは、大宇宙に遍満する魔性の生命を打ち破り、本仏の生命が顕在化した証であった。この時、日蓮は、凡夫の生命から久遠元初の自受用報身如来、すなわち末法の本仏の命を顕したのである。発迹顕本の瞬間であった。

幕府では、日蓮の処置について意見がまとまらず、その間も、念仏者たちの仕組んだ罠で、殺人や放火が日蓮の弟子のせいだと噂され、投獄されたり、所領を取り上げられる弟子が後を絶たなかった。

結局、1か月以上もかかって、日蓮は佐渡に配流となったのである。

佐渡の冬の塚原は、極寒で、日蓮は衣は薄く、食は乏しく、寒さと飢えにさいなまれながらの毎日であった。島民も流人の日蓮に接する態度は荒々しかった。佐渡にあっても、念仏者の力は強く、彼らの憎しみは甚だしかった。

念仏を信ずる者のなかでも、ことのほか強情な信者の阿仏房は高齢であったが、塚原に乗り込んできた。しかし、日蓮が、念仏の誤りを経文に照らして、理路整然と語る、清廉さと威厳と、人格の輝きに、眼から鱗の落ちる思いで、その場で念仏を捨てて、日蓮に帰依したのである。

阿仏房は、妻の千日尼にも念仏を捨てさせ、以来、二人は、信心の誠を尽くして、日蓮を外護していくことになる。監視の目をくぐり抜け、食物をはじめ、紙など、必要な品々の供養も届け続けた。その紙を使って、日蓮は、この佐渡の地で、次々と重要な訪問を書き残していったのである。

佐渡の念仏、禅、律の僧らは、日蓮への憎悪を燃やし、いかに対処すべきか詮議を重ねていた。殺害計画も考えられたが、守護代の本間六郎左衛門が「法門で責めるべきだ」と、厳重に申し渡したことから、法論を行うことにしたのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋


日蓮大聖人の 法難

『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P376~

諫暁によって、幕府の権力と癒着し、庇護されて栄華を極めてきた諸宗、なかでも念仏の僧らにとって、日蓮は、自分たちを脅かす危険な人物となったのである。

「立正安国論」の提出から1か月余りが過ぎた8月27日の夜、突如、念仏者が退去して、日蓮がいた鎌倉・松葉ヶ谷の草庵を襲撃した。日蓮への本格的な迫害の始まりであった。

翌弘長元年(1261年)5月、時の執権・北条長時によって、理不尽にも、伊豆の伊東に流罪される。伊豆流罪は、1年9カ月に及んだ。

赦免された日蓮は、母の妙蓮が病床にあると聞いて、故郷の安房(千葉県)に向かった。この安房の小松原で、東条景信ら多数の武士たちによって、襲撃されるのだ。刀を振りかざし、矢を射て、襲いかかる武士たちにとって、鏡忍房が殺され、さらに二人の弟子が重傷を負ったのである。また、日蓮も、額を切られ、手を折られている。

文永5年蒙古のフビライから国書が届き、日蓮が「立正安国論」で予言した他国侵逼難が、現実のものとなろうとしていたのである。蒙古が責めて来るーーその恐れと不安に、国中が包まれた。幕府は、諸寺に蒙古調伏の祈祷を命じた。高齢の政村にかわって、18歳の北条時宗が執権に就いた。

日蓮は、幕府に強い影響力を持っていた僧に「安国論御勘由来」を送った。さらに、時の権力者や、高僧らに、11通の諫状を矢継ぎ早に認めて送った。

為政者、そして、その権力と癒着した他宗の高僧を完膚なきまでに破折し、諫めれば、どんな結果になるかは、目に見えていた。

日蓮が諫状を出した相手は、いずれも世間の尊敬を集めていた人物である。特に良観などは、聖人として崇められ、自らも、表面上は、そのように振る舞ってきた。

しかし、日蓮の痛烈な破折を浴びるや、“法師の皮を著たる畜生”の本性をさらけ出し、日蓮を叩きつぶそうと、阿修羅のごとき姿を現じ始めたのである。彼らは、必死だった。日蓮との公場対決などという事態になれば、勝ち目など全くないことを、彼ら自身が最もよく知っていたからだ。

彼らは、日蓮を抹殺せんと、密かに奸計を巡らしていたのである。

国難の危機が高まるなか、大旱魃が続き、人びとの窮乏と疲弊は、一層激しさを増していった。対応の術のない幕府は、極楽寺良観に雨乞いを命じたのである。

日蓮は、良観に「もしも、7日以内に雨を降らすことができたら、自分が良観の弟子となる。降らなければ、良観が法華経に帰依せよ」と言付けた。

良観は、弟子120余人を集め、7日間必死に祈ったが、雨が降らないばかりか、暴風まで、吹き荒れたのである。良観は、期限を7日間伸ばしてもらって、祈祷をつづけたが、雨は降らず、旱魃、大風は、激しくなるばかりであった。まぎれもなく、良観の完敗である。

良観は、恨みと憎悪と嫉妬の炎を燃え上がらせ、日蓮をなき者にせんと、幕府の高官の夫人や、夫を亡くして尼となった女性に讒言して幕府を動かし、日蓮を葬り去ろうと計画したのだ。

日蓮は、評定所に召喚され、侍所の所司平頼綱により、取り調べを受けるが、それは、日蓮による折伏の場となった。頼綱は怒り狂った。日蓮は、釈放されるが、1日おいた9月12日、頼綱は、夕刻武装した数百人の兵士を率いて、日蓮を捕らえようと 松葉ケ谷の草庵へ向かった。

兵士たちは狼藉の限りをつくし、日蓮は、懐にあった法華経第5の巻で、頭を打たれた。第5の巻は、末法において法華経を弘めるならば、刀で切られ、杖で打たれる難に遭うと説かれた勧持品が収められた巻である。日蓮は、その第5の巻をもって杖の難を受けたのだ。法華経の身読である。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋


佐渡流罪

『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P368~

会合終了後、男女青年部と懇談をもった伸一は、青年たちの励ましの意味を込め、一緒に卓球をした。女子部のメンバーは、急遽『佐渡おけさ』を見てもらいたいと話し合い、旅館の浴衣を借りて、踊りの上手な従業員に加わってもらい、踊ったが、どこかぎこちない踊りであったが、一生懸命披露した。

伸一には、何よりもその真心がうれしかった。途中から加わった同行の幹部の一人が、「旅館のショーですか。従業員が踊っていたんですかね。あまり上手くなかったな。」と女子部の真心を踏みにじる、横柄な響きがあった。

伸一は、憮然とした顔で「旅館の方も踊ってくださったが、あとの三人は、ぼくの妹だよ」と言った。そのやり取りを聞いていた女子部員は、胸を詰まらせた。「妹」という言葉に、伸一のやさしさと期待を感じとったのである。

伸一は、記念にピアノ演奏をプレゼントすると言って、皆で“大楠公”の曲を弾いた。この歌は、戸田城聖が、生前、よく青年たちに歌わせた歌であった。戸田は、この歌に広宣流布の指定の精神を託して、青年たちに歌わせ、歌い方についても、厳しく指導してきた。

殉難を覚悟で広宣流布に生き抜く後継の獅子を、鍛え育もうと、戸田は必死であったのである。「君たちも、一にも早く大成長し、立派な指導者になって、広布のため、社会のために、献身していくんだぞ。いいな!」

伸一の奏でる“大楠公”の曲に合わせて合唱していると、戸田の姿が目に浮かび、胸が熱くなるのであった。伸一は、歌い終わった青年たちを励ますように、大きな声で言った。「早く生い立てーーこれが戸田先生の私たちへの願いであり、期待であった。佐渡のみんなも、その心で立ち上がり、大成長していくんだ。私は、もう立ち上がったよ。君たちも早く立とうよ」

東京に帰る日、船をバックに見送りにきた同志と記念写真を撮った伸一は、新潟の幹部に、「佐渡の男子部は、両津の埠頭に、百人の男子部員の結集をしてみてはどうか」と提案。それができれば、佐渡の広宣流布の基盤がつくられるし、未来は盤石になると話した。

伸一は、この佐渡の地での、日蓮大聖人のまさに師子王のごとき戦いに思いをめぐらせた。
 
日蓮が、佐渡の松ヶ崎に着いたのは、文永八年(1271年)10月28日のことである。10月下旬といっても、旧暦であり、既に季節は初冬であった。配所の塚原に到着したのは、11月1日であった。塚原は、佐渡島のほぼ中央に位置し、そこは、死人を捨てる場所であり、弔いのために里人が建てた、四本柱の荒れた堂があった。三昧堂である。ここが日蓮の配流の場所である。

この三昧堂で、彼は日興とともに、極寒の佐渡の冬を過ごした。日蓮は齢50であった。日蓮の生涯は迫害に次ぐ迫害であったことはよく知られている。そのなかでも、竜の口の首の座から佐渡流罪に至る迫害は、最も過酷な大法難であった。

この法難を引き起こしたそもそもの要因は、文応元年(1260年)7月16日、「立正安国論」をもって、時の最高権力者である北条時頼を諫暁したことにあったといえる。

日蓮は、大風、洪水、飢饉、疫病、地震と、相次ぐ災厄に苦しむ民衆を救わんがために、「立正安国論」の筆を執り、経文を通してその災厄の原因を明らかにしていった。すなわち、この苦悩の根本原因は、正法に背き、誤った教えを尊崇していることにあると指摘したのだ。


また、誤った教えに執着し続けるならば、まだ起こっていない三災のうちの兵革の災、すなわち、七難のうちの自界叛逆難、他国侵逼難が起こるであろうと警告した。同志討ち、内乱であり、他国に侵略されると警告したのだ。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋


佐渡の同志の使命

『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P354~

4月22日、伸一は 3年半ぶりに新潟を訪れ、新潟本部の新会館の起工式に臨んだ。三年前、新潟地震により、信濃川の氾濫により、新潟会館は、床下浸水の被害にあった。

伸一は、各県などの中心会館を、しっかりとした、大きな建物にし、ひとたび災害が起きた時は、学会の会館は、救援対策本部となり、また、臨時の避難所として、被災者を受け入れられる建物にすることを、考慮してのことであった。

当初は、既存の建物を購入する予定であったが、新潟会館は、新しく建てることとし、日本海側で、最初の鉄筋の本部となった。

起工式終了すると記念撮影に移った。伸一は 来ていた、佐渡のメンバーと、語らい、9年前に佐渡を訪問した時のことを思い出していた。この年、戸田城聖が世を去り、同志はまだ、その悲しみから立ち上がることができずにいた。

学会は、「空中分解するであろう」というのが、世間の大方の見方であった。そのなかで伸一は、実質的に全学会の指揮をとることになったのである。

新潟支部の初の運動会に出席するため、新潟入りした伸一は、佐渡で会合が予定されていることを知り、急遽、佐渡行が決まった。海が荒れ、欠航する恐れがあったので、急いで正午の船で佐渡へ向かうことにした。

雨は、降ったりやんだりを繰り返し、伸一たちが乗った船は500トンほどの船であったが、木の葉のように揺れに揺れた。船は漂流するような進み方であった。通常の所要は3時間であったが、4時間かかった。

佐渡には、まだ地区も誕生していなかったが、全島から200人ほどのメンバーが会場に集って来た。伸一は、佐渡が金山で有名であったことから、御書を拝して、「黄金の人生」とは何かについて述べようと思った。

「生老病死は、生命の実相であり、それぞれに深い意義と価値があります。そのなかで、生きるということは、黄金にあたると仰せになっているんです。」

「人生の輝きは、自身の使命を自覚して、自ら勇んで広宣流布に邁進していくなかに生まれます。信心は義務ではありません。権利です。」

「自分から一人立ち、積極的に果敢に行動していくところには、大歓喜があります。さらに、日々、自分を磨き鍛えていくことです。つまり、持続の信心です。持続というのは、ただ、昨日と同じことをしていればよいのではありません。『日々挑戦』『日々発心』ということです。信心とは、間断なき魔との闘争であり、仏とは戦い続ける人のことです。その戦いのなかにこそ、自身の生命の輝きがあり、黄金の人生があることを知っていただきたいのです。」

次いで伸一は、佐渡の同志の使命について言及していった。「大聖人ゆかりの地には、いずれも、大聖人の御精神に違背した、日蓮宗の寺院がたっております。そこには、真実の日蓮仏法はありません。精神の廃墟にすぎない。大聖人が魂魄をとどめられたこの佐渡の地に、まことの日蓮仏法を、大聖人の大精神を復興させ、佐渡を最高の“幸福島”にしゆくことこそ、わが創価学会の使命であります。」

「佐渡が広宣流布の先駆となるために、大切なことは、まず、皆さんの心のなかにある、“無理だろう”“そんなことができるわけがない”といった、あきらめを打ち破ることです。大聖人は佐渡に流罪されるなどしても、『いまだこりず候』と仰せになっているではありませんか。」

「戸田先生亡き今こそ、弟子が立ち上がる時です。佐渡の皆さん、私とともに戦いを起こしましょう!」大拍手がわき起こった。

皆が決意を新たにした。皆が猛然と奮い立ったのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋


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