小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命 第12巻

牧口常三郎の創価教育学体系

『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P303~

「牧口先生の残された創価教育は、人類の偉大なる精神遺産だ。日本だけでなく、世界の人びとのためのものです。いつになるかわからないが、私は、アメリカにも必ず、創価大学を建設する決意なんです。その大学で、世界平和のために、人間主義の大指導者を、本格的に育成していきます。いずれにしても、教育は、私の最後の事業であると思っています。」伸一の構想は、限りなく広大であった。

創価高校に中学校を併設することが決定し、初代会長牧口常三郎の祥月命日であり、後に学会創立記念日になった11月18日に、起工式が、晴れやかに行われたのだ。

伸一は、戦後、機会均等を基本原理とする戦後の民主主義教育の実施は、国民共通の基礎教養を高め、高校への進学率もあがり、1965年(昭和40年)には、全国平均で7割を超えるに至っていた。しかし、残念なことには、その教育の普及が、「人間をつくる」という教育本来の目的に、つながっていないのが実情であった。

教育の普及は、一方で、学歴偏重主義を招き、受験競争は異様なまでに過熱化し、友達を敵と考える高校生も少ないという事態を、もたらしていたのである。

伸一は、もし、このまま、確固たる教育理念もなく、青少年の心の荒廃が続けば、どうなるのかと考えると、暗澹たる思いにかられた。そのたびに、人生の根本目的を教え、強く豊かな心を、人間性を培う教育が行わなわれなければならないと、痛感してきた。

そして、"牧口先師の創価教育学を実践する学校を、一日も早く建設しよう"と、心に誓ってきたのである。牧口常三郎の創価教育学とは、一言でいえば、「人生の目的たる価値を創造し得る人材を養成する」知識体系といえる。

牧口は、教育の目的は子ども自身の幸福にあると主張し、社会人として幸福生活を営めるようにしていくことに、教育の役割があるとしている。そして、真の幸福生活を実現するには、自他ともの幸福を築くことが不可欠であり、いわば、個人の幸福と社会の繁栄が一致する社会の在り方をめざすものが、教育であるとしている。

牧口は、「半日学校制度」など、教育制度や教育方法の具体的な改革案を打ち出していった。創価教育学は、彼の30余年にわたる学校教育の実践のなかで培われ、実証に裏付けられた教育法であった。つまり、それまでの、観念的哲学理論で構成され、実証性に乏しい教育学とは一線を画した、独創的な教育学説であった。

『創価教育学体系』の第1巻には、当時の日本を代表する3人の学識者が序文を寄せている。新渡戸稲造、民族学者の柳田国男も称賛し、フランス社会学の研究家田辺寿利は、「現代の日本が最も要求するところの教育学である」とし、フランスの昆虫学者ファブルを フランスの誇りとし、文部大臣として、フランスの名において懇篤なる感謝の意を表したと述べ、「文化の国日本は、如何なる方法によって国の誇りなるこの偉大なる教育者を遇せんとするか」と記している。

ところが、日本は、"国賊"とし、獄死をもって遇したのだ。それは、未来永劫に消えぬ、日本国家の汚点であろう。

創価学園の建設は、山本伸一にとって、先師・牧口常三郎の教育思想と正義を宣揚する、第三代会長としての戦いであった。

1967年に、学校法人創価学園の設立、創価中学・創価高校の設置を東京都に申請し、学校設立への動きはいよいよ本格化していったのである。

校章は、中央にペンがあり、その左右に鳳雛の羽が図案化されていた。スクールカラーについても、「英知」「栄光」「情熱」を表す、「青」「黄」「赤」の三色に決まった。

学校法人の認可も下り、開校への歩みは、大きく加速された。


太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

創価教育の学校建設

『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P303~

伸一は、あえて辞退し、森川に言った。「創立者というのは針です。理事長や校長は、後に残る糸です。ひとたび着物が縫い上がれば、着物を維持していくのは、糸の役目です。」

「生徒たちは、名門校や一流校といわれる学校が数あるなかで、私の創立した、まだ、無名に等しい、この創価学園を選んでくださった。また、家族の方々は、それを全力で応援してくださろうとしている。経済的に大変なご家庭もあるはずです。特に地方から子どもを送りだすのは、大きな家計の負担になるでしょう。しかし、私とともに、牧口先生、戸田先生の理想を実現しようとしてくださっている。涙が出るほどありがたい話ではないですか」

「学園生は、かけがえのない、私の宝です。私の命です。大切な、大切な、私の子どもです。どんなことをしても、生徒を守ります。生徒のために戦い抜きます。それが私の決意です。」

彼の胸には、戸田城聖から学園の建設を託されて以来の思い出が、次々と去来してきた。戸田は、創価教育を実践する、小学校から大学までの学校の建設を悲願としていた牧口が、その実現を自分に託したことを明かし、伸一に、こう語るのであった。

「私の健在なうちにできればいいんだが、だめかもしれない。伸一、その時は頼むよ・・・」この時、伸一は、弟子として、何があろうが、必ず自分の手で創価教育の学校を建設しようと、固く、固く、心に誓ったのである。

戸田亡きあと、伸一は学校建設のための土地を探し始めた。武蔵野の大地にあり、富士が見え、近くに清らかな水の流れがあり、都心から車で、1時間ほどの距離であるという4つの条件を兼ね備えた希望の通りの土地が見つかり、視察したのは、会長就任1か月前であった。

妻の峯子とともに、視察に訪れた伸一は、すべての条件を満たした、最高の教育環境であると思った。峯子は、「学校設立には相当、お金がかかるし、学会にそんなお金はないのでは」と心配すると、伸一は、「僕が働くよ。これから本を書いて、書いて、書き続けて、その印税で、世界的な学園を必ずつくってみせるよ」と言った。

会長に就任した後も、激務の合間を縫って、学校の開校に向けて、小平の土地を買い足し、さらに、八王子にも小学校から、大学までの一貫教育の学校をつくる準備を始めた。

創価大学の設立審議会が発足し、建設への歯車が、本格的に回り始めた。建設用地を視察した時、雑木林の土地がきれいに保たれていると気づいた伸一は、地元の同志が清掃してくれているに違いないと指摘。また、寄付をしたいと言ってくれる大勢の同志がいることも話し、

無名の庶民である会員の皆様が、創価教育の城を築き、守ろうとしてくださっている。学園の建設は、民衆の真心に支えられてきたという、この偉大な事実を、生徒にも、教師にも、永遠に伝えて抜いていかなくてはならない」と話した。

起工式を1か月後に控えた10月、委員から、男子校ではなく、中・高一貫校として、創価高校にも、中学を併設したらどうかと提案がなされた。この段階で、併設に切り替えればさまざまな面で修正や変更が必要になる。しかし、山本伸一は、中学を併設したいという意見を支持した。

中学生には、高校受験という問題が重くのしかかり、それが伸び伸びと学業やスポーツに打ち込む障害となっていることを、彼も憂慮していたからである。

伸一は、委員たちに言った。「私たちがめざしているのは一貫教育です。高校の一期生が卒業する時には、大学を開学させたいと思っています。さらに、小学校も幼稚園もつくっていきます。東京以外にも学校を建てるつもりです。」





太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

詩心の復権

『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P2の章 P290~

<栄光の章 開始>


1968年(昭和43年)「栄光の年」は、山本伸一の詩「栄光への門出に」からスタートした。

伸一は、この「栄光の年」が、今後の広宣流布の流れを決するうえで、いかに重要であるかを痛感していた。学会は、待望の正本堂が完成する72年に、いっさいの活動の焦点を合わせて進んでいた。その正本堂の建設が始まるこの年こそ、向こう5年間の大勝利の軌道をつくり上げねばならぬ、最も重要な年であり、決して敗北の許されない1年であった。

詩の冒頭、彼は来るべき21世紀を「生命の世紀」と謳った。戦争と殺戮の20世紀から、平和と生命の尊厳の21世紀へと転換しゆくことこそ、学会が成し遂げようとする、広宣流布の目的である。彼は、それこそが、自身の人生の使命であると決めていた。皆、この詩を聖教新聞で読み、自らの使命の深さを、あらためて確信し、弾む心で「栄光の年」の新しき出発を開始したのだ。

山本伸一は、少年の頃から、詩が大好きであった。年齢を重ね、人の心が殺伐としていく世相を目にするにつれ、この"詩心"ともいうべき豊かな精神の世界を、人間は取り戻さなければならないと、思うようになっていった。

人びとの胸に、豊かなる精神の世界を築き上げる「詩心の復権」は、彼にとって、年ごとに、切実な課題となっていたのである。伸一は、「宇宙即我」「我即宇宙」と教え、一念三千という人間生命の大法則を説く、仏法こそ、汲めども尽きぬ、深く広大な精神の泉であり、詩心の源泉であると確信していた。そして、その仏法を弘める広宣流布の運動は、詩心を復権させる、人間精神の開拓作業であるというのが、彼の一つの結論であった。

ゆえに、彼は、人間性の勝利のために戦う詩人として、詩「栄光への門出に」の筆をとったのである。ここから、伸一の生涯にわたる怒涛のごとき詩作の戦いが、本格的に開始されたのだ。
まさに、詩作は、「生命の世紀」の創造のための、彼の言論戦となるのである。

4月8日、東京・小平市の創価学園(中学校・高等学校)で、第1回入学式が、晴れやかに行われたのである。生徒は、沖縄、から北海道まで、全国から集まっていた。

副校長の諸谷文孝が、「開会のことば」を述べ、校長の小山田隆があいさつに立った。中学生217名、高校生321名の新入生を迎えての開校である。校長は、創立者の山本伸一から頂いた、5つの指針を述べ、指針を胸に有意義な学園生活を送っていただきたいと話した。

山本伸一は、聖教新聞に掲載された談話のなかで、創価学園の開校の目的について、語った。「創価学園は、創価学会のために設立したのではない。創価学園においては、宗教教育は行わないし、生徒のなかには、学会員以外の子弟が多数含まれている。創価学園は、あくまでも、日本の未来を担い、世界の文化に貢献する、有為の人材を輩出することを理想とするものであり、それ以外になにものもないことを断言しておきたい。」

創価学園は、教師も、生徒も、生徒の父母も一体となって、理想の教育の実現に地道な努力を続け、教育界の道標となりゆくことを期待し、次の言葉で話を結んでいる。「この学窓より、凛々しい幾多の新世紀建設の英才を輩出して、日本、世界の繁栄と平和のために寄与することができるならば、これにすぎる喜びはない」

伸一は、学園の運営は校長、理事長が中心で行うべきものであるとの原則を明らかにするためにも、入学式にも、開校祝賀会にも出席を見合わせ、終了後に学園を訪問して、教職員を励ましたのであった。


太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

クーデンホーフ・カレルギー伯爵との対談

『新・人間革命』第12巻 天舞の章 P276~

会見は、伯爵に同行してきた、招待団体であるNHKの関係者らも同席し、英語の通訳を介して行われた。最初に話題になったのは、世界平和に果たすべき日本の使命であった。

伯爵は言った。「私が一番大事だと思っているのは、日本が先頭に立って、平和への理想を実現していくべきだということです。」伸一は、伯爵の意見に、全面的に賛同することができた。彼も、「平和憲法」を持つ日本の使命の重さを痛感していたからである。

彼は、この憲法こそ、日本国民の最高の宝であると考えていた。また、第9条に込められた、戦争の根絶という人類の悲願の実現に、彼は生涯を捧げゆくことを決意していた。そして、日本国憲法に掲げられた平和の理念と精神を、全世界に広げゆくことこそ、21世紀に向かって日本が歩むべき方向性であると、伸一もまた、結論していたのである。

伯爵は、最初、伸一の問いに答えていたが、やがて「私にも質問させてください」と言って尋ね始めた。「創価学会に対して、民族主義的であるとか、国家主義的であるといった批判を、よく耳にするんです・・・」伸一の話を聞くと、伯爵は頷いた。

「私は創価学会の運動が、日本という一国家の民族主義的な運動ではないことが確認でき、大変にうれしく思います。学会は、世界に大きく貢献できるでしょう」伯爵は、さらに矢継ぎ早に、質問を発していった。

伸一をじっと見つめながら、感慨のこもった声で言った。「あなたは、常に批判中傷されながら、日本中の、いや世界の、実に多くの敵と戦っていることを、私は知っています。しかし、偉大な人というのは、皆、そうです。ただ、あなたの場合は、その敵でさえも、あなたが、天才的なリーダーであることを認めざるをえません」

ナチス・ドイツに戦いを挑んで迫害を受け、亡命せざるをえなかったクーデンホーフ・カレルギー伯爵は、正義の旗を掲げ立った者の宿命を、知悉していたのだ。

伸一は、毅然として語った。「イデオロギーや宗教が異なっているからといって、私にとっては、本来、敵ではありません。」「人間の幸福、救済をめざす思想、宗教には、本来、人間を尊重するという共通項があります。それがある限り、必ず通じ合い、共感し合うはずであり、相互理解は可能であると思います。」

「人類の共通項に目を向けていくならば、分断から融合へと発想を切り替える、回転軸となっていくと確信しています。また、宗教の違いによって生じた文化的な差異は、違いを認めるというだけでなく、むしろ尊重すべきです」伯爵は、両手を広げて、賛同の意を表した。

1時間の語らいは、あっという間に終わってしまった。会見の後、訪日の思い出を綴った書簡を発刊した伯爵は、そのなかで、山本伸一に「強く感銘した」と述べている。伸一と伯爵の交流は続き、東西の文明論をテーマにした対談集を出版する話が持ち上がり、次回の来日に対談することが決まった。

その底流には、いかにして世界平和を実現するかという、明確な問題意識があった。伯爵は、力を込めて、伸一に訴えた。「大事なことは、偉大な思想を(日本が)外国に向かって、世界に向けて紹介することです。その偉大な思想とは、・・・平和的な、生命尊重の仏教の思想です」それは、伯爵の熱願であったにちがいない。伸一には、その言葉が遺言のように感じられてならなかった。

この対談は、翌1971年(昭和46年)の2月からサンケイ新聞に、「文明・西と東」のタイトルで、半年間にわたって連載された。さらに、72年には、対談集『文明・西と東』として、サンケイ新聞社出版局から発刊されたのである。

この書を手にした人びとは、世界的な知性が創価学会を渇仰していることに驚愕した。

<天舞の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

青春錬磨の舞台文化祭

『新・人間革命』第12巻 天舞の章 P266~

この文化祭を通して、創価学会への深い理解と共感を持つに至った来賓も多かった。実業家の松下幸之助は、「・・・躍動の芸術とでもいうか、筆舌し難い美の極致という感に打たれた。これも信仰から自然にわき出る信念により、観覧者をして陶酔境に浸らしめ、自分としても得るところ大なるものがあり、感銘を深くした。」と後日の取材に答えている。

あるジャーナリストは、「あの偉業を成し遂げたものこそ、創価学会の本質であるに違いない。それは一口にいえば、多数の人間が、共通の目的に向かって自発的に共通の行動に参加することであろう」と、鋭く洞察している。

ある財界人は、文化祭の陰の力として活躍した役員の姿を讃え、「そこまで、周囲に配慮し、実行することは、深い信仰なくしてはできるものではありません」と。

毎日新聞のコラム「余禄」では、会場内外の秩序はみごとだったとの記事があった。

山本伸一が最も心にかけていたのも、陰で文化祭を支えてくれた、整理や清掃、設営などの役員の青年たちのことであった。彼は、文化祭が終了し、来賓と丁重にあいさつを交わすと、外で黙々と整理や清掃に取り組んできた青年たちのもとに足を運んだ。陰の力に徹した彼ら、彼女たちこそが、この東京文化祭を成功に導いた、偉大なる功労者であると考えていたから。

御聖訓には、「陰徳あれば、陽報あり」と仰せである。それを確信できるかどうかに、信心は表れ、また、それが、一生成仏を決するといってよい。

いっさいの後片付けを終えた青年部の幹部が、山本伸一のもとに意気揚々と終了の報告にやってきた。
伸一は、青年部の首脳たちが、文化祭の成功に酔い、本人たちも気づかぬうちに、心に、うぬぼれと油断が兆しているのを感じた。伸一の厳しい声が響き渡った。

「君たちが文化祭の成功に酔っている間に、私は懸命に作業に励んでくれた場外の役員を全力で激励してきたよ。陰の力として働いてくれた人がいたから、成功したんだ。また、東京文化祭というのは、既に、もう過去のことなんだ。過去の栄光に陶酔していれば、待っているのは敗北だ。勝って兜の緒を締め、間断なく前へ、前へと進むことだ。その心を忘れてしまえば、慢心と油断が生じ、そこから崩れていくことになる」"青春錬磨"の舞台ともいうべき文化祭の、最後の最後まで、伸一は、青年の育成に全魂を傾けていたのである。

1967年(昭和42年)10月30日、伸一は、「ヨーロッパ統合の父」クーデンホーフ・カレルギー伯爵と会見した。

伯爵が、来日にあたり、招待した団体に、山本伸一との会見を、強く希望したのである。
来日前、フランスで「東京新聞」のインタビューに応じた伯爵は、語っている。「仏教の世界でも長い眠りから覚めて新しいルネサンスが芽生えている。(中略)日本でも創価学会の運動が伝えられているが、これは世界最初の友愛運動である仏教のよみがえりを意味している」と

ともあれ、伯爵は、学会のなかに、仏教の真実の精神と実践があることを、鋭く見抜いていたのである。また、そのリーダーである山本伸一にも、強い関心を持つようになっていったようだ。

日本訪問にあたって、伯爵が会見を希望したのは、天皇陛下、皇太子殿下、佐藤栄作首相、三木武夫外相ら、伸一を含めて7人であった。伸一は、会見の要請を受けると、快諾した。

伯爵は伸一が、深く敬意を抱いてきた人物の一人であった。伸一は、ヨーロッパ統合の先駆者として行動してきた伯爵から、その信念、哲学、経験を、謙虚に学びたかった。創価学会文化会館の玄関前で、伸一は、伯爵の一行を出迎えた。

太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

カテゴリー


新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


→メルマガで届く 『小説 新・人間革命』に学ぶ
ブログでは 言えないこと

メルマガ『勝利の哲学 日蓮大聖人の御書に学ぶ』