『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P386~
山本伸一は、学園生の未来の大成のために、全魂を傾け続けた。夏休みには、教師、生徒の代表に、アメリカ旅行を体験させている。生徒の世界性を育む道を開こうとしていたのである。世界の識者を案内することもあった。
伸一は、固く心に決めていた。たとえ、学園生が人生につまずくことがあったとしても、自分は、生涯、励まし、見守り続けていこうと。
創価学園の30余年の歴史のなかには、問題を起こして、やむなく退学となった生徒もいた。ある年、中学三年生の寮生二人が、不祥事を起こし、退学処分となり、大阪へ帰るとの報告を聞いた。伸一は、二人と会い、全力を注ぐ思いで、話した。そして、「何があろうが、いつまでも、君たちの味方だよ」と言って、大阪に行った時、私を訪ねてくるようにと約束する。
2年ほどしたころ、関西文化会館に、家族に促されて、二人がやって来た。二人とも革のジャンパーを着て、一人は髪をリーゼントにしていた。伸一は、彼らが約束を守り、自分を訪ねて来たことが、嬉しかった。
二人をその後も約束を守り、伸一が大阪を訪問すると、彼に会いに来た。その後、二人は、地下鉄の運転手になり、職場に信頼の輪を広げるとともに、地域にあっては、学会のリーダーとして、活躍していくことになるのである。
伸一にとっては、退学することになった生徒も、すべてが学園生であった。伸一の学園生への激励は、在学中はもとより、卒業後も折に触れて続けられた。
下宿生の中心者となったあの矢吹は、その後、開学した創価大学の経済学部に進学し、第一期生として大学建設に全力で取り組んだ。そして、彼は、創価大学を卒業すると、アメリカのグスタフ・アドルフ大学に留学した。
ミネソタの冬は、寒く、真冬には、氷点下20度から30度になる日がある。自分だけが、取り残されたような気がしていた時、山本伸一から手紙が届いた。見覚えのある山本伸一の字であった。「君よ、我が弟子なれば、今日も、30年先のために、断じて戦い進め。君の後にも、多くのわが弟子たちの、陸続と進みゆくことを、忘れないでいてくれ給え。」涙で文字がかすんだ。
矢吹は、"先生のおっしゃる通り、何千人、何万人と続く、学園生、創大生のために、今、自分はここにいるんだ!負けるものか!"こう誓った。伸一はその後も矢吹を激励し、「将来は、アメリカに創価大学をつくるから、その時のために、しっかり勉強して、博士号を取るんだよ」と。矢吹は、9年間の留学生活の末に、ワシントン州立大学で、博士号を取得したのである。
山本伸一は、生徒の幸福と栄光の未来を考え、一人ひとりを大切にする心こそが、創価教育の原点であり、精神であると考えていた。国家のための教育でもない。企業のための教育でもない。教団のための教育でもない。本人自身の、そして、社会の、自他ともの幸福と、人類の平和のための教育こそ、創価教育の目的である。
その精神のもと、創価大学が開学したのをはじめ、創価中学・高校が開校。北海道には札幌創価幼稚園、小平市には、東京創価小学校、枚方市には、関西創価小学校、創価女子短期大学が開学した。
世界にも、香港、シンガポール、マレーシア、ブラジルに、創価幼稚園が開園。アメリカ創価大学が、開学。学長にはあの創価学園出身の、矢吹が就任した。
2001年、「創価学園21世紀大会」が開催。18期生までの、代表約3200人が、日本全国、さらに世界16カ国・地域から母校に帰ってきたのである。開校から33余年。青春の学舎から旅立った学園生たちは、「世界に輝く存在」となり、創価教育原点の地に立った。
卒業生からは、140人の医師、111人の博士、60人の弁護士や法曹関係者、60人の公認会計士、462人の教員が誕生し、会社社長、ジャーナリスト、政治家もいた。まさに、世界市民の同窓会となった。
伸一は『創価教育学体系』第一巻発刊より75周年の2005年の再会を約束した。
『新・人間革命』第12巻 終了
栄光の章は、2001年9月の「創価学園21世紀大会」で締めくくられていますが、その場面が聖教新聞に掲載されたのは、大会が行われた、わずか3か月後です。池田先生の思いが感じられます。
山本伸一は、学園生の未来の大成のために、全魂を傾け続けた。夏休みには、教師、生徒の代表に、アメリカ旅行を体験させている。生徒の世界性を育む道を開こうとしていたのである。世界の識者を案内することもあった。
伸一は、固く心に決めていた。たとえ、学園生が人生につまずくことがあったとしても、自分は、生涯、励まし、見守り続けていこうと。
創価学園の30余年の歴史のなかには、問題を起こして、やむなく退学となった生徒もいた。ある年、中学三年生の寮生二人が、不祥事を起こし、退学処分となり、大阪へ帰るとの報告を聞いた。伸一は、二人と会い、全力を注ぐ思いで、話した。そして、「何があろうが、いつまでも、君たちの味方だよ」と言って、大阪に行った時、私を訪ねてくるようにと約束する。
2年ほどしたころ、関西文化会館に、家族に促されて、二人がやって来た。二人とも革のジャンパーを着て、一人は髪をリーゼントにしていた。伸一は、彼らが約束を守り、自分を訪ねて来たことが、嬉しかった。
二人をその後も約束を守り、伸一が大阪を訪問すると、彼に会いに来た。その後、二人は、地下鉄の運転手になり、職場に信頼の輪を広げるとともに、地域にあっては、学会のリーダーとして、活躍していくことになるのである。
伸一にとっては、退学することになった生徒も、すべてが学園生であった。伸一の学園生への激励は、在学中はもとより、卒業後も折に触れて続けられた。
下宿生の中心者となったあの矢吹は、その後、開学した創価大学の経済学部に進学し、第一期生として大学建設に全力で取り組んだ。そして、彼は、創価大学を卒業すると、アメリカのグスタフ・アドルフ大学に留学した。
ミネソタの冬は、寒く、真冬には、氷点下20度から30度になる日がある。自分だけが、取り残されたような気がしていた時、山本伸一から手紙が届いた。見覚えのある山本伸一の字であった。「君よ、我が弟子なれば、今日も、30年先のために、断じて戦い進め。君の後にも、多くのわが弟子たちの、陸続と進みゆくことを、忘れないでいてくれ給え。」涙で文字がかすんだ。
矢吹は、"先生のおっしゃる通り、何千人、何万人と続く、学園生、創大生のために、今、自分はここにいるんだ!負けるものか!"こう誓った。伸一はその後も矢吹を激励し、「将来は、アメリカに創価大学をつくるから、その時のために、しっかり勉強して、博士号を取るんだよ」と。矢吹は、9年間の留学生活の末に、ワシントン州立大学で、博士号を取得したのである。
山本伸一は、生徒の幸福と栄光の未来を考え、一人ひとりを大切にする心こそが、創価教育の原点であり、精神であると考えていた。国家のための教育でもない。企業のための教育でもない。教団のための教育でもない。本人自身の、そして、社会の、自他ともの幸福と、人類の平和のための教育こそ、創価教育の目的である。
その精神のもと、創価大学が開学したのをはじめ、創価中学・高校が開校。北海道には札幌創価幼稚園、小平市には、東京創価小学校、枚方市には、関西創価小学校、創価女子短期大学が開学した。
世界にも、香港、シンガポール、マレーシア、ブラジルに、創価幼稚園が開園。アメリカ創価大学が、開学。学長にはあの創価学園出身の、矢吹が就任した。
2001年、「創価学園21世紀大会」が開催。18期生までの、代表約3200人が、日本全国、さらに世界16カ国・地域から母校に帰ってきたのである。開校から33余年。青春の学舎から旅立った学園生たちは、「世界に輝く存在」となり、創価教育原点の地に立った。
卒業生からは、140人の医師、111人の博士、60人の弁護士や法曹関係者、60人の公認会計士、462人の教員が誕生し、会社社長、ジャーナリスト、政治家もいた。まさに、世界市民の同窓会となった。
伸一は『創価教育学体系』第一巻発刊より75周年の2005年の再会を約束した。
『新・人間革命』第12巻 終了
栄光の章は、2001年9月の「創価学園21世紀大会」で締めくくられていますが、その場面が聖教新聞に掲載されたのは、大会が行われた、わずか3か月後です。池田先生の思いが感じられます。
太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋