小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

宿命転換

玉名の兄弟の宿命転換ドラマ

『新・人間革命』第25巻 人材城の章 332p~

伸一は、11月16日を「三角の日」と決めて頑張っているとの話から、学会の記念日の意義について、皆に語っていった。「大事なことは、その淵源に立ち返り、歴史と精神を子々孫々にまで伝え、毎年、新しい決意で出発していくことです。

学会の儀式は、広宣流布への決意を確認し合い、新しい出発を誓い合う、信心、精神の触発の場です。そのためにには、各記念日の淵源を、しっかり学ぶことも大事でしょう。これまでの歴史も、記念日も、すべて現在の力へと変えていってこそ、意味をもつんです。」

県北の玉名の本部長原谷永太は、父親が千五百万円を越える借金を残して夜逃げしたが、信心を根本に、工務店を営む二人の弟と協力して、全額、返済することができたと伸一に報告した。

信心に反対するだけでなく、仕事でも理不尽で身勝手な要求をしてきた父親に対して、怒りがこみ上げ、家族を裏切ったと許せない気持ちだった。

先輩幹部が「どんな父親であれ、親父さんがいたからこそ、君たちはこの世に生を受け、御本尊に巡り合うことができたんじゃないか。その恩を感じているのか!今、親父さんがどれだけ辛い思いをしているか、考えたことがあるのか。

この試練を、兄弟三人で乗り越えることができれば、君たちは、信心の面でも、人間的にも大成長できるよ」と指導を受け、父親によって信心の確信をつかむことができたので、今は、父親に心から感謝していると話した。

彼らは、「いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うげからず」との御聖訓を思い起こした。"学会に傷などをつけてたまるか!"と思った。

"広宣流布に生きよう!学会に傷をつけまい"という彼らの使命感、責任感が、勇気を奮い起こさせた。
人間は窮地に陥った時、根底にいかなる一念があるかによって、弱くもなれば、強くもなる。例えば、自分の身だけを守ろうとする心は、もろく弱いが、必死になって我が子を守ろうとする母の心は強い。利他の念が、人を強くするのである。

広宣流布は、最高善、最大利他の実践である。その広布のために、"絶対に学会に傷をつけまい"その一念こそ、人間の力を最大に開花させる原動力といえよう。


父に代わって借金を返済するために、ひたむきに仕事に取り組む兄弟に、周囲の人々は、関心の目を向け始めた。いつの間にか、彼らが、それぞれ営んでいた工務店への仕事の注文は、いずれも父親の失踪以前の三倍にもなっていた。当初、返済は10年の計画であったが、なんと、わずか、3年で完済できたのである。

失踪していた父は、中風で寝たきりになっていた。兄弟は父を連れて帰り、治療の末、回復し、父親も信心に励むようになったのである。長い、長い、試練の坂であった。しかし、原谷兄弟は見事に、"人生の田原坂"を越え、勝利したのだ。

県長の柳節夫が『五木の子守歌』で有名な人吉本部が伸一の激励をもらい頑張っているとの報告をした。五木村は、川辺川ダム建設計画によって、村の世帯の半数近くが、水中に没してしまうことになり、その村の学会員の活躍を紹介した聖教新聞の記事を読んだ伸一が、励ましの言葉と記念品を贈ったのである。

ダム建設や炭鉱の閉山などで、故郷や住み慣れた地を後にする人たちは少なくない。その地域を大切にし、深い愛着を感じていればいるほど、離れていかねばならない辛さ、苦しさは、想像を絶するものがあろう。伸一は、そうした同志の胸中を思うと、励まさずにはいられなかったのだ。

日蓮大聖人は、「我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし」と仰せのように、どこに行こうが、その場所が、最高の幸福を築く場所であり、広宣流布の使命の舞台となるのだ。

彼らが、伸一の五木へ思いを、最初に痛感したのは、1963年(昭和38年)8月、熊本県中南部を襲った集中豪雨の時であった。

太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋

「母」の曲に託す 母の心

『新・人間革命』第24巻 母の詩の章 49p

父は、信心はしなかったが、「伸一は、戸田先生に差し上げたもの」と言って、彼を温かく見守ってくれていた。伸一は、父が、最高峰の日蓮仏法に帰依することを、朝な夕な祈念し、機の熟するのを待っていた。

戸田は、伸一に言った。「君が強情な信心に立つことだ。大きく、立派な傘ならば、一つに何人も入ることができる。同じように、家族で、まず誰か一人が頑張れば、みんなを守っていくことができる。君が必死になって頑張り抜いた功徳、福運は、お父さんにも回向されていくよ」

父は、戸田に絶対の信頼を寄せていたし、学会のことも深く理解していた。それでも、父が信心せずに一生を終え、最高の親孝行ができなかったことが、伸一は、やはり、心残りであった。その後、兄弟たちも、次々と信心を始めた。

母は子に、無尽蔵の愛を注いで育ててくれる。子どもは、大威張りで、母に甘える。母が老いたならば、今度は、子どもが親孝行し、恩返しをする番である。子どもに、その「報恩」の自覚がなくなってしまえば、最も大切な人道は失せてしまうことになる。

伸一は、自分にできる、せめてもの親孝行として、母を背負って、坂道を歩こうと思った。小柄な母は、年老いて、ますます小さく、軽くなっていた。親孝行とは、何も高価なものを贈ることではない。親への感謝の思い、真心を伝えることである。親と遠く離れて暮らし、なかなか会えない場合には、一枚の葉書、一本の電話でも、心は通い合う。

苦労に、苦労を重ねてきた母である。しかし、健気に信心に励み、最後に「日本一の幸せ者」と言い切れる母は、人生の勝利を満喫していたに違いない。伸一は、病床の母に、日寛上人の「臨終用心抄」を簡潔に、講義した。母は、病床に伏しながら「うん、うん」と、目を輝かせて頷き、伸一の話を聴いていた。

仏の使いとして生きた創価の母たちは、三世永遠に、勝利と幸福の太陽と共にあるのだ。海よりも広く、深い、母の愛は、正しき人生の軌道へと、人を導く力でもある。

母たちが人間革命し、さらに聡明になり、この母性の美質を、思想化していくなかに、確かなる平和の大道が開かれるというのが伸一の信念であったのである。彼は、この「母」の詩にメロディーをつけて、わが母を、婦人部員を、そして、世界のすべての母たちを讃えたかったのである。

この「母」の歌は、国境を越え、多くの人に愛されていくことになる。1992年(平成4年)2月、インドを訪問した伸一と峯子は、「母」と「人間革命の歌」の曲が入ったオルゴールを持参した。どうしても贈りたい人がいた。故ラジブ・ガンジー元首相の妻ソニア夫人である。

伸一は、ソニア夫人に、家族のためにも、インドの民衆のためにも、苦難に負けずに、強く、強く、生き抜いてほしかった。ソニア夫人は、伸一の贈り物のオルゴールを、気に入ってくれたようであった。

再開した折、ソニア夫人は言った。毎日、聴いていたため、遂にオルゴールは壊れてしまったというのである。"インドの母"の心は、「母」の歌と、共鳴の調べを奏で、あのオルゴールに愛着をいだいていてくれたのだ。

創価大学のロサンゼルスキャンパスで、創価女子短大生が、米国の人権運動の母ローザ・パークスと懇談する機会を得た。短大生が尋ねた。「模範とされるのは、どなたでしょうか」「母です。」懇談のあと、短大生たちは、感謝の気持ちを込めて「母」を合唱した。彼女は感動した面持ちで歌に聴き入っていた。その目が涙で潤んでいた。

1994年初めての来日を果たし、創価大学で講演した。この時、パークスは、あの時の女子学生たちと会うことを希望していた。「母」の合唱が忘れられなかったのであろう。

中華全国青年連合会のメンバーが「母」の歌を歌いましょうと提案した。彼らも、この歌が好きなのだという。さらに、フィリピン国立リサール・システム大学のデレオン学長は、創価世界女性会館で、「母」の歌の合唱を聴いた。学長は、感動を噛み締めて語った。「魂を揺さぶられました。『母』に歌われている心は世界共通です」


太字は 『新・人間革命』第24巻より 抜粋

民衆文化の優先こそが人類の行き詰まりを打開する

『新・人間革命』第24巻 母の詩の章 38p

山本伸一は、側にいた男子部の幹部に言った。「やったね!壮挙だね!みんな負けなかった。それが、すごいことなんだ。負けないことが、勝つということなんだ!」

そして、彼は、メンバーに、こう伝言を託したのである。「倒れても、倒れてもまた立ち上がれーーこれが、学会精神です。獅子の心です。ここにこそ、人生の勝利があります。心から『おめでとう!』『万歳!』と申し上げます」

文化祭終了後、メンバーは、この伸一の伝言を涙で聞いた。そして、互いに抱き合い、「不倒の人生」を固く誓い合うのであった。

人間革命の大合唱が始まった。勝利と感動と歓喜の大合唱となった。皆が、人間革命をめざしての文化祭であった。自己自身への挑戦の文化祭であった。そして、それぞれが、"自分に勝った!"との実感と、その感動を噛み締めながらのフィナーレとなった。

伸一が、御礼のあいさつをした。「今日、人類は、あらゆる面で、行き詰まりの様相を呈しております。・・・今日の人間疎外をはじめ、現代の行き詰まりは、人類が政治優先、経済優先に陥り、人間を失ってしまった帰結であると、私は、申し上げたいのであります。

今こそ、人類は、『人間』という原点に返り、政治優先主義、経済優先主義から人間性の発露である、文化の復興を優先しなければなりません。全人類は、人間文化の復興を希求しています。戦争という武力の対極に立つのが文化であり、文化、芸術は生命の歓喜の発露であると、私は考えております」

伸一は、その人間文化の一つの結実が、この文化祭であると語った。「こうした民衆文化の運動が、日本のみならず、全世界に広がっていくならば、人と人の心は結ばれ、新たなルネサンスの夜明けが訪れると、確信いたします。この文化祭に象徴される大文化運動が、広宣流布という人間復興の運動なのであります」

母の容体が急変したとの連絡が入った。今日一日の彼の戦いを、母が見守っていてくれたような気がした。伸一は、平凡ではあるが、人間として最も大切なことを、母から教わったと、深く感謝している。

終戦の年となる1945年(昭和20年)春、空襲による類焼を防ぐため、家の取り壊しが決まり、近くの親戚の敷地に一棟を建て、越すことにし、家具も運び、皆で暮らそうとした時、空襲でその家が全焼してしまい、長持ち一つを運び出すのがやっとだったが、そこに入っていたのは、雛人形と一本のコウモリ傘だった。

その時母は、快活に言った。「このお雛様が飾れるような家に、また、きっと住めるようになるよ」この言葉に、皆、どれだけ元気づけられたことか。


空襲を受けた時、撃墜されたB29から脱出した米兵が落下傘で降りてきた。自分とそれほど年齢も違わない20歳ぐらいの色白の少年の面影が残る若い米兵だった。その話を母に伝えると、「かわいそうに!怪我をしていなければいいけど。その人のお母さんは、どんなに心配していることだろう」母の口から、真っ先に出たのは、若い米兵の身を案ずる言葉であった。

米英への憎悪を煽り立てられ、婦人たちも竹槍訓練に明け暮れていた時代である。しかし、4人の息子の生還を願い、心を痛めていた母は、米兵の母親に、自分を重ね合わせていたのであろう。わが子を愛し、慈しむ母の心には、敵も味方もない。それは、人間愛と平和の原点である。

その母の心に立ち返る時、どんなに複雑な背景をもち、もつれた国家間の戦争の糸も、必ず解きほぐす手がかりが生まれよう。伸一は、母から、気づかぬうちに、人間そのものに眼を向けて、平和を考える視点を教えられていたのかもしれない。

明るく、忍耐強かった母。どんな時も、笑顔を失わなかった母。伸一は、その母が、声を押し殺し、背中を震わせて、すすり泣く後ろ姿を目にしたことがあった。長兄・喜久夫が、ビルマで戦死したとの公報が届いた時である。

悲嘆にくれる母の姿に、伸一は、残酷な戦争への激しい憤怒が込み上げてきた。とともに、子を思う母の愛の深さを、まざまざと感じ、兄の分まで自分が母孝行しなくてはと、固く心に誓った。


太字は 『新・人間革命』第24巻より 抜粋

不可能への挑戦 五段円搭

『新・人間革命』第24巻 母の詩の章 20p

9月5日、山本伸一は、東京・八王子市にある創価大学の中央体育館にいた。’76東京文化祭に出席していたのである。「創価桜」と題した第一景で、伸一が作った詩「母」に曲をつけた、「母」の歌が流れた。ピアノとマリンバを演奏しているのは、「母」の作曲者の植村真澄美と松山真喜子である。

彼は、胸に込み上げる熱いものを感じながら、日本中、そして、世界中の尊き母たちへ感謝の祈りを捧げた。とともに、彼の母である幸を思い、心で題目を唱えた。実は、この日、老衰のために床に就いていた母の容体があまり思わしくないとの連絡があったのである。

2か月余り前、母は、一度、危篤状態に陥った。しかし、奇跡的に一命を取り留めた。母は、伸一にきっぱりと、「私は、大丈夫。皆さんが待っておられるんだろう。私のことはいいから、心配しないで行きなさい」

東京文化祭は、男子部による組体操「青年の譜」が始まった。組体操の圧巻ともいうべき、5段円搭への挑戦が始まった。5段目の一人が立ち上がりかけた。その時、円筒は、崩れ落ちた。
5段円搭の演技指導責任者石上雅雄は、頭が真っ白になった。

学会の文化祭で、5段円搭は何度かつくられていたが、準備に約1か月は要してきた。しかし、今回は、わずか5日しかない。まさに、不可能への挑戦であった。

石上は、在日二世として、東京で生まれ育った。物心ついたころから、何度となく、理不尽な差別を受けてきた。小学生時代に入った少年野球チームの監督が学会の男子部員であった。監督だけは差別したりすることはなく、石上は監督の後について学会の会合にもついていった。彼は学会が好きになり、家族全員が学会員となった。

高校時代親善試合で韓国を訪れた時、在日である自分は、日本人でも韓国人でもないと、自分の存在への疑問が芽生えた。大学3年の時、伸一に会って、その悩みを打ち明けると「君は地球人として生きなさい。広々とした心で生きるんだ。」と言われ、自分の小さな境涯が打ち破られる思いがした。

その時、"先生と共に、世界の平和と人類の幸福のために生きよう"と誓った。山本伸一が出席した文化祭の舞台で、5段円搭は完成直前に崩れたのだ。次の瞬間、"このまま、終わらせてなるものか!"皆がそう思った。石上雅雄を中心軸に、下段の20人が、スクラムを組み、再挑戦への体制がつくられていった。

4段目の3人が立ち始めた時、一人が片足を肩から滑らせた。それを手で受けとめ3段目で懸命に支えたのが森川武志であった。"立ってくれ!"と、心で叫び、唱題しながら、自分の限界に挑み続けた。"自分に挑み、自分に勝つ"それが、彼の信条であった。

彼は、何事にも自信がなかった。母親がいない。中学しか行けなかった。家が貧しかったことなどが、劣等感を募らせ、"どうせ、俺なんかだめなんだ"という思いが、いつも心のどこかにあった。

男子部の先輩が「どうして君は、人と比べて、自分はだめだとか、不幸だとか、考えるんだ!結局、それは、見栄があるからだよ。君は、なんのために信心しているんだ。誰も、君の代わりはできない。この世の中に、たった一人しかいない、かけがえのない存在なんだ!

要は、自分の大生命を開けばいいんだ。挑戦すべきは、人に対してではない。自分自身に対してだ。自分に勝っていくんだよ。君自身の使命に生き抜いていくんだ!」森川は"その通りだ"と思った。以来、彼は、自分に挑み、自分に勝つことを目標に、すべてに挑戦してきた。そして、自分をさらに、磨き、鍛えようと、東京文化祭に勇んで出演したのである。

円搭の頂で、青年は、体を伸ばした。胸を張った。そして、大きく両手を広げた。立った!奇跡は起こった!二度目の挑戦という、著しく体力を消耗し、疲弊しきった体で、見事に、5段円搭を組み上げたのだ。

皆が、自分に挑んだ。あきらめの心に、無理だという心の弱さに、懸命に挑戦した。そして、それぞれが、自身の心の壁を破って、五段円搭は打ち立てられたのだ。



太字は 『新・人間革命』第24巻より 抜粋

人間賛歌の文化祭

『新・人間革命』第24巻 母の詩の章 7p

<新・人間革命第24巻 開始>
<母の詩の章 開始>

1976年(昭和51年)8月末、山本伸一とアンドレ・マルローとの対談集『人間革命と人間の条件が、発刊された。この本には、フランス文学者で著名な評論家でもある桑原武夫が序文を掲載している。
「これは二人の大実践者の対話である」と彼は、伸一を「平和精神の普及と、それによる人類の地球的結合とを説いて全世界に行脚を続ける大実践者「と評している。

マルローが、なぜ、創価学会へ強い関心をいだいているのか 桑原は「西欧の知識人は、創価学会にたいして、日本の知識人とは比較にならぬほど強い興味をもっている。トインビーもその一人である」

対談でマルローは、学会という「ひじょうに有力な組織」が、環境汚染などと戦うことを希望するとともに、伸一が世界のさまざまな危機への問題提起を、重要な国々に行い、そのイニシアチブをとるように勧めている。

伸一は、そうした行動の必要性も、十分に認識したうえで、人類の平和と繁栄を創造するための土台作りとして、人間生命のなかに潜むエゴの克服こそ、必要不可欠であると主張した。

伸一は、未来を考えるにあたっての、自分の態度を語った。「私は未来予測という作業は、未来はどうなるかではなく、未来をどうするかーーということに真の意義があると思います。一人ひとりの人間の生きることへの意志が人生の全体に反映され、その時代を彩り、やがて歴史へと投影されていく。新しい道は、こうして開かれていくと信じています。

したがって未来は、現在を生きる一人ひとりの胸中にある、さらに日々を生きゆく日常性のなかにあるとみたい」未来は、自己自身の胸中の一念にこそある。

伸一は人間革命の必要性を訴え抜いた。「たとえば、一地域や一国の問題が、そのまま全地球的問題としてかかわってくる時代にあっては、自分だけというエゴは通用しません」

人類の未来に光を注ぐために、伸一は、対話に生命を注ごうとしていた。人間革命ーー世界の知性は、それを可能にする哲理を渇望していた。その確かなる方途を求めていた。創価学会は、人間革命の宗教である。広宣流布とは、人間革命運動の広がりである。

この年の8月半ばから10月上旬にかけて開催された、県・方面の文化祭は人間賛歌の絵巻を繰り広げた。

地区婦人部長の橋塚由美子の夫は事業が行き詰まり、橋塚が文化祭の練習会場に通う交通費を工面することさえ、容易ではなかった。彼女は、低血圧症で、目まい倦怠感に悩んでいたが、聖教新聞を配達し、主婦業、地区婦人部長、合唱団の練習と励んでいた。

夫は、仕事がないため、酒を飲んで荒れ、茶碗を投げつけることもあった。彼女は疲れ果て、文化祭の出場もやめようと思ったが、関西文化祭のテーマ「人間革命光あれ」であった。彼女は"この文化祭のテーマは、私自身のテーマなのだ。なんとしても人間革命してみせる!"寸暇を惜しんで、彼女の懸命な唱題が始まった。

体は疲れているが、心は軽やかであった。いつの間にか、低血圧症に悩まされることもなくなっていた。また、次第に、夫の仕事の状況が好転していったのである。

神奈川文化祭では、松葉杖の青年の奮闘があった。彼は、1歳の時にポリオにかかり、足が不自由であることから、消極的な性格になっていった。しかし、信心に励み、やがて学生部員になった彼は、文化祭への出演を決意する。"足が不自由だから"と挑戦をあきらめたり、自分の不幸や敗北の原因を、そこに求める"弱さ"と決別したかった。また、肉体的なハンディも、信心を根本に、懸命に頑張ることで、必ず乗り越えられるという実証を示したかったのである。

人間革命によって、変わらぬ世界はない。

太字は 『新・人間革命』第24巻より 抜粋

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