『新・人間革命』第25巻 人材城の章 332p~
伸一は、11月16日を「三角の日」と決めて頑張っているとの話から、学会の記念日の意義について、皆に語っていった。「大事なことは、その淵源に立ち返り、歴史と精神を子々孫々にまで伝え、毎年、新しい決意で出発していくことです。
学会の儀式は、広宣流布への決意を確認し合い、新しい出発を誓い合う、信心、精神の触発の場です。そのためにには、各記念日の淵源を、しっかり学ぶことも大事でしょう。これまでの歴史も、記念日も、すべて現在の力へと変えていってこそ、意味をもつんです。」
県長の柳節夫が『五木の子守歌』で有名な人吉本部が伸一の激励をもらい頑張っているとの報告をした。五木村は、川辺川ダム建設計画によって、村の世帯の半数近くが、水中に没してしまうことになり、その村の学会員の活躍を紹介した聖教新聞の記事を読んだ伸一が、励ましの言葉と記念品を贈ったのである。
ダム建設や炭鉱の閉山などで、故郷や住み慣れた地を後にする人たちは少なくない。その地域を大切にし、深い愛着を感じていればいるほど、離れていかねばならない辛さ、苦しさは、想像を絶するものがあろう。伸一は、そうした同志の胸中を思うと、励まさずにはいられなかったのだ。
日蓮大聖人は、「我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし」と仰せのように、どこに行こうが、その場所が、最高の幸福を築く場所であり、広宣流布の使命の舞台となるのだ。
彼らが、伸一の五木へ思いを、最初に痛感したのは、1963年(昭和38年)8月、熊本県中南部を襲った集中豪雨の時であった。
太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋
伸一は、11月16日を「三角の日」と決めて頑張っているとの話から、学会の記念日の意義について、皆に語っていった。「大事なことは、その淵源に立ち返り、歴史と精神を子々孫々にまで伝え、毎年、新しい決意で出発していくことです。
学会の儀式は、広宣流布への決意を確認し合い、新しい出発を誓い合う、信心、精神の触発の場です。そのためにには、各記念日の淵源を、しっかり学ぶことも大事でしょう。これまでの歴史も、記念日も、すべて現在の力へと変えていってこそ、意味をもつんです。」
県北の玉名の本部長原谷永太は、父親が千五百万円を越える借金を残して夜逃げしたが、信心を根本に、工務店を営む二人の弟と協力して、全額、返済することができたと伸一に報告した。
信心に反対するだけでなく、仕事でも理不尽で身勝手な要求をしてきた父親に対して、怒りがこみ上げ、家族を裏切ったと許せない気持ちだった。
先輩幹部が「どんな父親であれ、親父さんがいたからこそ、君たちはこの世に生を受け、御本尊に巡り合うことができたんじゃないか。その恩を感じているのか!今、親父さんがどれだけ辛い思いをしているか、考えたことがあるのか。
この試練を、兄弟三人で乗り越えることができれば、君たちは、信心の面でも、人間的にも大成長できるよ」と指導を受け、父親によって信心の確信をつかむことができたので、今は、父親に心から感謝していると話した。
先輩幹部が「どんな父親であれ、親父さんがいたからこそ、君たちはこの世に生を受け、御本尊に巡り合うことができたんじゃないか。その恩を感じているのか!今、親父さんがどれだけ辛い思いをしているか、考えたことがあるのか。
この試練を、兄弟三人で乗り越えることができれば、君たちは、信心の面でも、人間的にも大成長できるよ」と指導を受け、父親によって信心の確信をつかむことができたので、今は、父親に心から感謝していると話した。
彼らは、「いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うげからず」との御聖訓を思い起こした。"学会に傷などをつけてたまるか!"と思った。
"広宣流布に生きよう!学会に傷をつけまい"という彼らの使命感、責任感が、勇気を奮い起こさせた。
人間は窮地に陥った時、根底にいかなる一念があるかによって、弱くもなれば、強くもなる。例えば、自分の身だけを守ろうとする心は、もろく弱いが、必死になって我が子を守ろうとする母の心は強い。利他の念が、人を強くするのである。
広宣流布は、最高善、最大利他の実践である。その広布のために、"絶対に学会に傷をつけまい"その一念こそ、人間の力を最大に開花させる原動力といえよう。
父に代わって借金を返済するために、ひたむきに仕事に取り組む兄弟に、周囲の人々は、関心の目を向け始めた。いつの間にか、彼らが、それぞれ営んでいた工務店への仕事の注文は、いずれも父親の失踪以前の三倍にもなっていた。当初、返済は10年の計画であったが、なんと、わずか、3年で完済できたのである。
失踪していた父は、中風で寝たきりになっていた。兄弟は父を連れて帰り、治療の末、回復し、父親も信心に励むようになったのである。長い、長い、試練の坂であった。しかし、原谷兄弟は見事に、"人生の田原坂"を越え、勝利したのだ。
県長の柳節夫が『五木の子守歌』で有名な人吉本部が伸一の激励をもらい頑張っているとの報告をした。五木村は、川辺川ダム建設計画によって、村の世帯の半数近くが、水中に没してしまうことになり、その村の学会員の活躍を紹介した聖教新聞の記事を読んだ伸一が、励ましの言葉と記念品を贈ったのである。
ダム建設や炭鉱の閉山などで、故郷や住み慣れた地を後にする人たちは少なくない。その地域を大切にし、深い愛着を感じていればいるほど、離れていかねばならない辛さ、苦しさは、想像を絶するものがあろう。伸一は、そうした同志の胸中を思うと、励まさずにはいられなかったのだ。
日蓮大聖人は、「我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし」と仰せのように、どこに行こうが、その場所が、最高の幸福を築く場所であり、広宣流布の使命の舞台となるのだ。
彼らが、伸一の五木へ思いを、最初に痛感したのは、1963年(昭和38年)8月、熊本県中南部を襲った集中豪雨の時であった。
太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋