『新・人間革命』第10巻 桂冠の章 P320~
昭和35年山本伸一が初めて沖縄を訪問し、支部が結成された時には、川瀬は、勇んで地区部長の任命を受けた。“この沖縄を、世界一、平和で幸福な島にしていくのが、おれたちの使命だ!命をかけて戦うぞ!”
だが、彼は、視力をほとんど失うことになる。しかし、一途に信仰に励んできた川瀬には、不思議と、恐れも、狼狽もなかった。既に覚悟してきたことであったからだ。川瀬は心の眼を開くと決意し、以来、妻の澄が、彼の目となった。
だが、彼は、視力をほとんど失うことになる。しかし、一途に信仰に励んできた川瀬には、不思議と、恐れも、狼狽もなかった。既に覚悟してきたことであったからだ。川瀬は心の眼を開くと決意し、以来、妻の澄が、彼の目となった。
学会にはあの地、この地に、金色の輝きを放つ、尊き仏子がいる。民衆の大英雄がいる。伸一は、その一人ひとりを、心から称え、人間王者の桂冠を捧げたかった。
苦しんでいる人を、励ましたい。悲しみに沈んでいる人に、勇気を与えたい。努力の人には、称賛を送りたいーー山本伸一の心は、常にサーチライトのごとく、一人ひとりの同志に注がれていた。
“一人の友”を、どこまでも大切にし、同苦し、守らんとすることこそ、御本仏・日蓮大聖人の御精神であり、創価の心である。また、そこに、人間主義の原点がある。全幹部が、この一念に貫かれている限り、学会は、永遠に大発展を遂げ続けることは間違いない。
しかし、その一人ひとりを見失い、人間を「数」としか考えなかったり、「役職」や「立場」で人を見る時、社会の多くの組織がそうであるように、学会もまた、冷酷な官僚主義に陥ってしまうことになる。そして、「獅子身中の虫の獅子を食」との御聖訓のごとく、内部から、しかも、中枢から、学会を滅ぼしていくことになろう。
では、組織が官僚主義化していってしまう根本原因は、どこにあるのか。それは、幹部が、広宣流布と仏子である会員への「献身」という、本来の組織の目的を忘れて、「保身」に陥ってしまうことにある。つまり、幹部の、「広布中心」から、「自分中心」への、一念の揺らぎである。
当時、会員数の激増にともなって、本部職員の数は急速に増えつつあった。また、本部職員には、次代を担う、新しい人材を採用しているために、平均年齢も若かった。
若さには無限の可能性がある。しかし、磨き、鍛えなければ、いかに優れた原石も、光輝くことはない。何よりも伸一が心がけてきたのは、彼自身の行動を通して、すべての本部職員に、広宣流布に生き抜き、会員を守り、奉仕する精神を伝えることであった。それこそが、官僚主義、組織主義の対極にあるものだからだ。
ある日、伸一は、本部のロビーで立っている婦人を見つけ、理由を尋ねると、職員である幹部に指導を受ける約束をしているという。しかし、いつまでたっても、職員は 現れず、伸一が代わって相談にのり、指導した。
約束をした職員は、1時間近く遅れてきた。ささいな問題であるかもしれない。しかし、そこに、官僚主義の萌芽があるがゆえに、伸一は見逃すわけにはいかなかった。むしろ、小さな芽のうちに、摘んでおかなければならないと思った。
「君の心のどこかに”相手は学会員なんだから、遅れてもいいだろう”という安易な考えがあるということではないか。また、裏返せば“自分は幹部なんだから、遅れても許される”という、傲慢さがあるということだ。それ自体、民衆を睥睨する姿であり、既に官僚主義に毒されている証拠ではないか。」
「幹部は、なかでも本部職員は、会員を守り、奉仕するためにいる。それなのに、学会の幹部ということで、同志が信頼し、尊敬してくれるのをいいことに、自分が偉くなったように錯覚し、傲慢になってしまう。こんなに恐ろしいことはありません。」
「一つ一つは、小さなことだが、その積み重ねが、学会という堅固な信頼の城を崩していくことになる。だから、小事が大事なんです。大問題、大事故も、みんな小さなことから始まっている。」
太字は 『新・人間革命』第10巻より 抜粋
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