小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命  第9巻

人間革命 黎明の章 執筆開始

『新・人間革命』第9巻 衆望の章 P386~

伸一は、その最初の原稿を、どこで書き始めようかと考えた。ーー『人間革命』は、戸田を中心とした、創価学会の広宣流布の歩みをつづる小説となるが、それは最も根源的な、人類の幸福と平和を建設しゆく物語である。そして、そのテーマは、一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にするーーことである。

ならば、最も戦争の辛酸をなめ、人びとが苦悩してきた天地で、その『人間革命』の最初の原稿を書こうと決め、伸一は、沖縄の地を選んだのである。

沖縄は、あの大戦では、日本本土の「捨て石」とされ、日本で唯一、地上戦が行われ、住民の約4分の1が死んだ悲劇の島である。さらに、戦後も、アメリカの施政権下に置かれ、基地の島となってきた。

その沖縄から、幸福と平和の波を広げようと、伸一は、『人間革命』の執筆を開始したのである。彼は、万年筆を手にすると、「人間革命」と書き、それから「第1章 黎明1」と記した。伸一の頭のなかでは、既に構想は、緻密に練り上げられていた。

ーー物語は、1945年(昭和20年)の7月3日の、戸田城聖の出獄から書き起こすことにしていた。広宣流布の大指導者である戸田の出獄は、人類の平和の朝を告げる「黎明」にほかならないことから、彼はそれを第1巻の第1章の章名としたのである。

しかし、章名を記したところで、彼のペンは止まっていた。冒頭の言葉が決まらないのである。

“先生は、焼け野原となった無残な街の姿を目のあたりにされ、何よりも、戦火にあえぐ民衆に、胸を痛められたに違いない。そして、戦争という、最も卑劣な愚行を、憎まれたはずである。国民を戦争に駆り立ててきた指導者への怒りに、胸を焦がされていたはずである”

彼は、戸田の心に思いを馳せた時、脳裏に、ある言葉が浮かんだ。
「戦争ほど、残酷なものはない。
 戦争ほど、悲惨なものはない。
 だが、その戦争はまだ、つづいていた・・・」
冒頭が決まると、ペンは滑らかに走り始めた。

“それにしても、大変な道に足を踏み込んでしまったものだな”彼は、机の上の原稿に目を向けながら、しみじみと思った。ひとたび連載小説の執筆を開始したならば、一つの区切りを迎えるまでは、途中で休むわけにはいかないからだ。しかも、戸田城聖の出獄から逝去までをつづるとなれば、どう考えても、10巻を超える大作にならざるをえない。

『人間革命の』執筆を発表した時から、覚悟してきたことではあったが、この連載が、相当、自分を苦しめるであろうことは、目に見えていた。しかし、伸一の心は燃えていた。それによって、どんなに苦しむことになったとしても、偉大なる師の思想と真実を、自分が書き残していく以外にないという使命と喜びが、彼の胸にたぎっていたのである。

12月27日、伸一は北海道の雪の大地に立った。北海道本部の落成式に出席するためである。この完成をもって学会の会館は108になったのである。

学会は、今年、遂に「本門の時代」の幕を開いた。それは、幸福の春、平和の春の夜明けだ。時は瞬く間に過ぎ去ってしまう。一日一日が勝負だ。一瞬一瞬が勝負だ。今しかない!走れ、走り抜くんだ!

明、1965年のテーマは「勝利の年」であった。伸一は、その勝利への助走を、北海道の吹雪の大地で、さっそうと開始した。勝敗の鍵は、助走にこそある。新しき年の夜明けに向かい、伸一は、まず自らが、あらん限りの力を振り絞って、全速力で走り始めたのである。


<第9巻 終了>


太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋

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人間革命執筆開始の決意

『新・人間革命』第9巻 衆望の章 P376~

公明党のめざす政治がいかなるものかを、人びとに正しく理解してもらうのは、決して、容易ではないはずである。たとえば、結党宣言や綱領にうたっている、「王仏冥合」や「仏法民主主義」という言葉にしても、人びとの理解を得るには、長い歳月を必要とするに違いない。

「王仏冥合」とは、一切衆生の幸福を願う仏法の慈悲や、生命の尊厳の哲理を根底にした政治であり、宗教が直接、政治権力に関与していうことでは、決してない。しかし、「王仏冥合」といっても、「祭政一致」「政教一致」と同じように考え、古代の女王卑弥呼や戦前の国家神道と軍部政府の関係を連想する人がほとんであった。

学会と公明党の関係を、いかに訴えても、マスコミ関係者の多くは、どうしても自分たちの先入観から、脱却できなかったようだ。たとえば、「朝日新聞」には、「公明党の発足に望む」と題する社説では、「『王仏冥合』が結局は特定の信仰の政治的強制につながりはしまいか、などの疑問が起こる」としている。

何を根拠に、「王仏冥合」が「特定の信仰の政治的強制」につながるというのか、それこそ疑問だが、これが当時の社会の認識であったのである。理念なき、哲学なき世辞が、「常識」となってしまった日本にあっては、政治の根底に指導理念が必要であるという「常識」さえ、通じなかったのである。

1946年12月山本伸一は沖縄訪問をする。今回の訪問では、伸一は密かに心に決めていた仕事があった。
12月2日朝から、沖縄本部の二階の和室で、机に向かう伸一。彼は、この日、この朝、小説『人間革命』の筆を起こそうと心に決め、この沖縄にやって来たのである。

思えば、伸一が、戸田の生涯を書き残そうとの発想をもったのは、19歳の時であり、入会して3か月過ぎたころであった。軍部政府の弾圧と戦い、投獄されても、なお信念を貫き、人民の救済に立ち上がった戸田城聖という、傑出した指導者を知った伸一の感動は、あまりにも大きかった。

伸一は、“わが生涯の師と定めた戸田先生のことを、広く社会に、後世に、伝え抜いていかなくてはならない”と、深く深く決意していた。その時の、炎のごとき思いは、生命の限りを尽くして、師弟の尊き共戦の歴史を織り成していくなかで、不動の誓いとなっていくのである。

彼は、戸田が妙悟空のペンネームで、聖教新聞に連載することになった、小説『人間革命』の原稿を見せられた時、“いつの日か、この続編ともいうべき戸田先生の伝記を、私が書かねばならない”と直感したのであった。

さらに、戸田と一緒に、師の故郷の北海道・厚田村を訪ねた折、「厚田村」と題する詩をつくった。その時、自分が“戸田先生の伝記を、必ず書き残すのだ”と改めて、心に誓ったのである。それから、3年後、師の逝去の8か月前、軽井沢で、戸田の小説『人間革命』が話題になった。

戸田は、照れたように笑いを浮かべて言った。「牧口先生のことは書けても、自分のことを一から十まで書き表すことなど、恥ずかしさが先にたってできないということだよ」その師の言葉は、深く、強く、伸一の胸に突き刺さった。

伸一は、この軽井沢での語らいのなかで、広宣流布に一人立った、その後の戸田の歩みを、続『人間革命』として書きつづることこそ、師の期待であると確信したのである。そして、1964年(昭和39年)4月の戸田の七回忌法要の席で、いよいよ小説『人間革命』の執筆を開始することを、深い決意をもって発表したのである。

法悟空のペンネームで、伸一がつづる、この『人間革命』は、聖教新聞からの強い要請もあって、明65年の元日付から、聖教紙上に連載されることになった。


太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋

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公明党の原点

『新・人間革命』第9巻 衆望の章 P363~

11月17日の公明党結成大会の準備は、着々と進められていた。スローガンも、「日本の柱 公明党」「大衆福祉の公明党」に決まった。

"大衆福祉"というスローガンには、党の精神が端的に表れていた。社会保障の不備、重い税負担、低い賃金・・・。病気になっても、病院に行けない人もいた。そうした人びとに接するたびに、議員たちは胸を痛めた。そして、福祉の大切さを痛感し、その充実を図るために、全力を尽くしてきたのである。

伸一が、政策について提案したことは、ただの一つであった。それは、党の外交の骨格をつくるにあたり、中華人民共和国を正式承認し、日本は中国との国交回復に努めるべきである、ということであった。

会員たちは、そんな公政連の議員たちを、誇りに思い、必死になって支援してきたが、なかには、ほんの一部ではあるが、皆が、頭を抱え込むような、傲慢でわがままな議員も出始めていたのである。

“今、激しく警鐘をならしておかなければ、公明党の将来が心配だ!”伸一は、あいさつにきた何人かの議員に語り始めた。

「真実の政治家とは、民衆を支配するためにいるのではない。民衆に奉仕し、民衆のために、命をかけて働く人です。そして、民衆のための政治を実現することが、公明党の原点ではないですか」

その精神を忘れ、傲慢になり、民衆を見下げるような態度をとる議員が出始めていることを知りながら、指摘もせず、原山委員長が 放置しておいたことに厳しく指摘をする伸一。

悪の芽に気づいたら、すぐに断ち切らなければ、手遅れになる。しかし、それができない、公明党の委員長の弱さが伸一は心配でならなかった。

さらに、結党大会の会場を 日大講堂にしたことにも、虚栄と驕りが、端的に表れていると指摘。歴史のある大政党でさえ、そんな大きな会場を使わないのに、なんの実績もない、小政党の公明党が使う都いうこと自体誤りだと指摘。

学会の会合で使い慣れているという原山に、「学会と党は別です。勘違いしてもらっては困る。学会には、誰が見ても、大会場を使うにふさわしい実績がある。しかし、明日、スタートする公明党には、党としての実績は何もない。それでいて、恰好ばかり考え、大きな会場に派手に人を集め、華々しく、結成大会をやろうとする。それ自体、虚栄ではないですか。」

「私はその心を打ち破ってほしいから、全民衆に信頼される公明党になってほしいから、あえて言っているんです。」原山は、言われて初めて、自分たちの一念の狂いに気がついた。

「学会の大発展も、一朝一夕に作られたものではありません。公明党も、その決意で、堅実に、懸命に、民衆のために働き、ねばり強く、信頼を積み上げていくんです」議員たちが頷いた。

「普通は命がけで働き、輝かしい実績をつくり上げた人でなければ、誰も、懸命な応援なんかしてくれません。学会員だから、応援してくれるんです。ですから議員は、皆の期待に応え、“さすが公明党の議員だ”と言われる働きをすることです。民衆に尽し抜き、民衆のために死んでいける、本物の政治家になることです」

伸一は、いよいよ船出する公明党の未来のために、議員の心に兆し始めた、油断と驕りの目を摘んでおきたかったのである。

いよいよ、公明党の結成大会の日を迎えた。“いよいよ、慈悲の哲理をもって、衆議院に打って出るのだ!本当の政治改革の時代を迎えたのだ!”こう思うと、皆の胸は躍った。原山は、党員の在り方として、“大衆との直結”を強調していった。

「そして、もしも、将来、その心を忘れて、名聞名利などにとらわれるような者が出たならば、直ちに、公明党から追放しようではありませんか!」結成大会の最後は、全参加者の勝鬨によって締めくくられた。


太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋

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公明党結成

『新・人間革命』第9巻 衆望の章 P353~

教科書の無償配布についても、公政連の参議院議員がその推進に、懸命に力を注いできたのである。
だが、その道程は、限りなく険しかった。それは、国家の認識を、根底から覆す作業でもあったからだ。当時、義務教育の無償といっても、それは授業料に限られるというのが、政府をはじめ、大多数の人びとの認識であった。

しかし、清原も、関も、かつては教員をしていた経験のうえから、また、議員として、対話するなかで、教科書などの教育費の捻出に苦しむ声を耳にしてきた。教科書無償化を求める世論が起こり、法案は通過したが、予算の確保が不十分であり、実施は遅々として進まなかった。

文部省は、教科書代として70億円の予算を要求していたが、計上されたのは、27億円だった。清原は、昭和40年以降の無償配布計画を明らかにするよう総理に見解をもとめた。それに突き動かされるよう、政府の公式見解として、教科書無償配布の完全実施への計画が示された。

さらに、公政連では、教育費の実態調査を行った。調査なくして発言なしーーそれが、公政連の合言葉であった。公政連が積み上げてきた、さまざまな実績に対して、国民の評価は、年ごとに高まっていった。そして、学会員をはじめ、多くの支持者たちからは、一日も早く政党を結成し、衆議院にも進出してほしいという、強い要望がよせられるようになっていたのである。

公政連が政党となり、衆議院にも進出していくならば、「民衆不在」の日本の政治を、変えることができると確信していた。いや、"断じて、そうしなければならない"という、使命感に燃えていたのである。

男子部幹部会の席上、公政連は、公明党結成の時来ることを、内外に表明するとともに、秋の党結成に向けて本格的に走り出したのである。

山本伸一も、この決断を下すまでには、長い、長い呻吟があった。党を結成し、衆議院に進出するということは、政権をめざし、一国の政治を担っていくことにつながるからだ。また、もし、公明党に何か問題が生じれば、党を誕生させた母体である創価学会が、批判の矢面にさらされることも、覚悟せねばならなかったからである。

さらに、公明党が力を増せば増すほど、権力や既成政党は、学会に恐れをいだき、警戒の目を向けるに違いない。そして、さまざまな圧力をかけてくることも予測された。しかし、仏法者として、立正安国という民衆の幸福と平和を実現していくためには、日本の政治の改革を避けて通るわけにはいかなかった。日本の政治家には、何よりも、まず指導理念が欠落していた。

それゆえに、仏法の大哲理に基づく、「地球民族主義」という理念を掲げた政党の必要性を、伸一は、痛切に感じていたのである。「地球民族主義」はかつて、戸田城聖が提唱したものである。
ーー人類は、運命去同体であり、民衆や国家、あるいはイデオロギーなどの違いを超えて、地球民族として結ばれるべきであるとする考え方である。

公政連の「国連中心主義」の主張も、「地球民族主義」から導き出されたものであった。また、日本には、真実の大衆政党がなかった。民衆の手に政治を取り戻すためには、組織労働者だけでなく、さまざまな大衆を基盤とした、新たな政党の誕生が不可欠である。

多様な大衆に深く根を下ろし、大衆の味方となり、仏法の慈悲の精神を政治に反映させゆく政党が、今こそ躍り出るべきであろう。それが衆望ではないかーー山本伸一は、こう結論したのである。彼は、日本の政治の現状を検証していくなかで、公明党の結成の意思を固め、あえて嵐に向かって船出しようとしていたのである。

また、公明党の議員については、誰よりも厳しく、自らを磨き鍛えて、成長し続けていくことを念願としていた。政治の改革とは、政治家自身の人間革命を離れてはありえないからである。


太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋

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公明会の議員

『新・人間革命』第9巻 衆望の章 P342~

民衆の苦悩の声が聞こえない政治家は、あまりにも無神経である。その声を聞こうとしない政治家は、傲慢である。

政治家とは、交通事故一つとっても、不運な事故であったなどと、局外者のようにとらえるのではなく、自分の問題として受けとめ、事故の絶滅のために、当事者の苦悩の解決のために、ありとあらゆる対策を講じていく人である。

だが、それは議員としての華々しい事績とはなりにくかった。そのためか、多くの議員は、こうした地道な努力を怠ってきたといってよい。

そのなかで、公政連の議員たちは、この交通事故の問題にも、懸命に取り組んできた。市民生活の安全を守ることは、政治家の第一の責務であるーーというのが、公政連の議員たちを貫く信念であった。

なかでも、東京都議会の公明会の活躍は、一つの模範となっていた。学会が東京都議会に初めて同志を送ったのは、1955年(昭和30年)のことであった。都議会にも、会派として公明会が結成されると、都議会議員の活動に一段と力がこもった。

そして、「伏魔殿」といわれた東京都政に、鋭いメスを入れ、"宴会政治"の追放を叫び、断固として、都政の浄化を進めたのである。それに対して、「重箱の隅をつつくようなことはするな」という転倒した批判や、「大人気ない」という揶揄もあった。

しかし、慣れあい政治や業界との癒着を一掃し、クリーンな都政を実現していく第一歩として、この"宴会政治"の追放は、大きな意味をもっていた。


し尿処理事件もあった。大量の"し尿"が、消毒もされぬまま、隅田川に不法投棄されているという事実を公明会の澤田良一が都議会でとりあげたのだ。業者が運搬料金の水増し請求をするため、船底の放流口を開け、"し尿"をそのまま隅田川に流していたというのである。

都知事も、清掃局長も、初めて耳にする話であったようだ。この問題は、一人の公政連の区議が、住民と語り合う中でキャッチした情報であった。民衆の声には、真実がある。

実態調査が行われた。公明会の議員は、糞尿僧のなかにハシゴを掛け、なかを調査した。"し尿"を抜いて、洗ってあるとはいえ、なかには、強烈な臭気が充満していた。残っているメタンガスのせいか、一瞬、頭がクラクラした。そのなかで、彼らは、鋭く業者の隠ぺい工作を見抜いていった。

開閉口のフタを閉ざすために打たれている釘が、新しく光っていることを見逃さなかった。深夜、議員の家には、脅迫電話がかかってきたが、公明会の議員は、いささかも怯まなかった。"し尿"が消毒もされぬまま、大量に川に放流されるような事態が続けば、赤痢などの病気が発生しないとも限らない。

そう思うと、彼らは、断じて、退くわけにはいかなかった。大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆のなかに死んでいくーーそれが公政連の議員たちの偉大なる精神であったからだ。この精神を訴えたのは、山本伸一であった。

「偉くなったからといって、大衆から遊離して、孤立したり、また、組織の上にあぐらをかいたりするような政治家には、絶対に、なっていただきたくないのであります。どうか、公政連の同志の皆さん方だけは、全民衆のために、大衆のなかの政治家として、一生を貫き通していただきたいと、切望するものであります」以来、公政連のメンバーは、この言葉を胸に深く刻み、民衆を守り抜く決意を固めてきたのである。

民衆を守り、幸福に寄与する政治の実現ーーそれが、公政連の政治家たちの誓いであった。そして、人びとの生活を直視し、「大衆福祉」の実現に全魂を傾けていった。


太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋

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新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


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