小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命  第8巻

師弟の道

『新・人間革命』第9巻 新時代の章 P13~

大客殿落慶法要では、山本伸一は 日達法主から「日蓮正宗法華講総講頭に任ずる」と請書を手渡され、法華講総講頭として、全信徒をまとめ、広宣流布の指揮をとることになったのである。

午後6時から、戸田城聖の七回忌法要が営まれた。師との誓いを果たし抜いて、この日を迎えた伸一の胸には、弟子としての誇りと喜びがみなぎっていた。

彼は、戸田から受けた数々の黄金不滅の指導は、むしろ、師の没後のための指標であり、規範であるととらえてきた。そして、戸田の言葉に込められた真意をくみ取り、現実のものとしてきたのである。

たとえば、「世界の名材を集めて大客殿を建立せよ」との言葉を聞いた伸一は、戸田の念願は世界広宣流布にあると考え、自ら世界を回り、名材を購入することはもとより、実際に世界広布の開拓に着手した。

ただ、世界の名材を集めるだけなら、決して難しいことではなかった。彼は、形式のみに目を奪われるのではなく、戸田の精神に立ち返って、師の言葉に込められた甚深の意義を見極め、その実現のために
全魂を傾けてきた。ここに、まことの「師弟の道」がある。

副理事長の関が、「私は、山本先生の本当の弟子となって、先生につききってまいります。なぜなら、それが、戸田門下生のまことの生き方であり、戸田先生の示された師弟の道であるからです。」と語った。この関の決意は、すべての戸田門下生の思いであったにちがいない。

創価の団結とは、師という中心軸のもとに、広宣流布という至上の目的のために、ともに生涯をかける、“無私の勇者”の結合であるからだ。ゆえに、師弟を離れて、広宣流布はない。

伸一のあいさつとなった。「私ども戸田門下生は、本日をまた第一歩として、再び7年先を第二の目標として、広宣流布のために、平和社会の建設のために、勇敢に、力強く、大勝利の前進を開始してまいろうではありませんか!」

「戸田先生は、小説『人間革命』を書き残してくださいました。・・・その先生が、出獄後のことについては、何も書こうとはされなかった。そこには、“私の出獄後の『人間革命』の続編は、伸一、お前が必ず書け!私が死ぬまでの姿を、厳然と書き残していくのはお前である”との、深いお心があったことを、私は先生の言々句々から痛感いたしておりました。そして、その先生の意思を、胸深く受け止めてまいりました。」

ー山本先生が、いよいよ『人間革命』の続編を書かれるのだ!同志の顔に光が走った。

「先生は、“妙悟空”というペンネームを使われましたので、弟子の私は“法悟空”という名前にいたします。二人の名前の最初の文字を合わせれば、“妙法”となります。」

「これまで戸田先生から賜った指導を全部含め、先生の業績を書きつづってまいります。また、先生をいじめ、弾圧してきた人間たちのことも書き残します。さらに、学会への、評論家や学者、政治家などの誹謗や批判についても、それを、ことごとく打ち破る小説にしていく決意であります。」

翌日のあいさつで、伸一は、「本門の時代」の意義に言及していった。「『本門の時代』とは、個人に即していえば、一人ひとりが自己の人間革命の総仕上げをするとともに、地域、職場にあって、見事な実証を示し、信頼の大輪を咲かせゆく時代であります。」

「この七回忌法要は、法華経でいうならば、迹門の化城喩品であると思っていただきたい。一つの仮の目標であったにすぎません。今度は、それぞれが、己心の化城喩品を去って・・・、それぞれが、己心に本門を現し、一人も退転することなく、広宣流布の勇者として全身されんことをお願い申し上げます」

ここに、新しき「本門の時代」の扉は開かれたのである。

8月6日は 広島原爆忌
8月6日は、『新・人間革命』寄稿の日であり、脱稿の日でもある。


太字は 『新・人間革命』第9巻より

大客殿落成

『新・人間革命』第9巻 新時代の章 P7~

<新・人間革命 第9巻 「新時代の章」始まる>

生命は永遠である。
それゆえに、人間革命が必要である。
それは、何故か。
今世の修行が、因果の厳しき理法により、来世への、永遠の自己それ自体の生命となるからである。

1964年4月1日。戸田の七回忌法要に先立ち、大客殿落成慶讃大法要が執り行われた。
建物の高さは、30・87メートル、延べ床面積は1万455㎡の鉄筋コンクリート5階建てである。

各階には、蓮華の花弁をかたどった回廊が設けられていた。また、屋根は、シェル構造という、二枚の貝を重ね合わせたような形をしており、その大屋根と柱の接点は、480個の鋼球で支えられていた。

これは、地震などの揺れに備えた耐震設計で、安全性の確保に、この大客殿の一つの特徴があった。イタリア産の大理石の手すりが光る正面の中央階段を上ると、鮮やかな赤と白と黒の陶板を張った鳳凰の壁画が、偉観を呈していた。雄々しく翼を広げた鳳雛の姿は、世界の大空に飛翔する日蓮仏法を象徴しているかのようであった。

下絵は、後に日本芸術大賞を受賞し、現代日本画の巨匠といわれる加山又造が制作し、陶板は、陶芸界の名匠の誉れ高い加藤唐九郎が焼いたものであった。まさに、現代日本を代表する芸術家による、世界に誇る最高の壁画である。

三階がこの建物の中心となる大広間で、吹き抜けになった天井には、台湾産の檜の梁が、美しい幾何学模様をつくり出していた。この大広間は、内陣外陣、広縁を合わせると、最高5千人まで収容することができた。

須弥壇の床には、スウェーデン産の黒御影石が使われ、その真下にあるコンクリートの礎石には、伸一が世界を回って集めた石など、46ヵ国の石が打ちこまれていた。

そして、大広間の天井には、ヨーロッパ製のシャンデリアが燦然と輝きを放っている。また、広縁の天井に使われているのは、カナダの杉の柾目板である。

戸田城聖が、大講堂を建立した直後 山本伸一に遺言し、世界の名材を集めて、大客殿を建立するように、指示したのである。その言葉通りに、伸一が世界各地を回り、入手した貴重な名材をもって、大客殿が荘厳されたのである。

設計は、寺院建築の近代化を開いた旗手として注目されていた建築家であった。彼は、この建物は後世永遠に残る大建築にしなければならないとの思いで、研究、工夫、実験を重ねてきたのである。

基礎工事では間口約60m、奥行き約50mにわたって、7mの深さまで掘り下げられ、コンクリートが打たれた。建物がいつまでも崩れることのないよう、土台づくりには、ことのほか力が注がれたのである。

大客殿の設計者も、施工者も、千年、二千年と残る、日本を代表する宗教建築をつくり上げようとの、決意に燃えていた。また、建築の槌音とともに、同志の広宣流布への意気は高まっていった。

慶讃法要では、日達法主が「これよりは修理を加え、勤行を致し、謗法の魔縁を退けて広宣流布を迎えんことを誓ふ」と述べた。

しかし、この落慶からわずか30余年、総本山大石寺は、「謗法の魔山」そのものとなった。そして、67世の法主となった日顕によって、この華麗な大客殿は、なんら修理もされぬまま、無残に取り壊されてしまうことになる。

日顕にとって、日達法主は先師である。師匠である。だが、嫉妬に狂った彼は、師の業績の証となる建物を ことごとく破壊していったのである。

それは、大客殿という建物にとどまらず、浄財を供養した 140万世帯の会員の赤誠の破壊であった。いや、甚深なる日蓮仏法の大法理そのものを、日顕は破壊したといってよい。


太字は 『新・人間革命』第9巻より

韓国SGIへの表彰

『新・人間革命』第8巻 激流の章 P368~

1979年(昭和59年)12月、食糧増産と農作物災害克服への尽力が高く評価され、メンバーは農水産部長官から表彰された。それは韓国社会からの最初の顕彰であった。そして、84年1月には「農村助け合い運動」による、農漁村所得の増大への貢献に対して、当時の全斗煥大統領から、表彰状が贈られている。96年6月には、環境保全への献身的な努力が称えられ、環境部長官から表彰を受けた。さらに、各地の行政機関等からの顕彰も相次いでいる。

まさに、“仏教会”が韓国社会になくてはならぬ“希望の存在”となった証左といってよい。メンバーの粘り強い努力が、厚い誤解の壁を打ち破っていったのである。

一方、山本伸一も、韓国の敬愛する同志の、幸福と活躍を念じ、「功徳の雨よ降れ!」と、日々題目を送り続けてきた。さらに、日本と韓国の間に、信義と友情の、永遠の「宝の橋」を架けようと、文化・教育の交流に、力を注いでいったのである。

そうした努力が実り、1990年秋、東京富士美術館所蔵「西洋絵画名品展」が、ソウルで開催されることになった。そのオープニングの式典に出席するため、彼は東京富士美術館の創立者として、この時、初めて、念願の韓国を訪問したのである。

そして、97年5月、伸一は、創価大学の創立者として、名門、慶熙大学から招かれ、「名誉哲学博士号」を贈られたのである。伸一の「世界平和への献身的努力」と、「韓国の文化と歴史への深い洞察を通し、韓日の友好に大きく寄与した」ことを称えての授与であった。

この韓国訪問中の5月18日、伸一は、ソウルにある、SGI韓国仏教会本部を初訪問したのである。
同志は、待っていた。あの試練の嵐が吹き荒れて以来34年、メンバーは、この日が来ることを夢に見、祈り、待ちわびてきたのである。それは、伸一も同じであった。

彼は、韓国の“信心の大英雄”たちに、万感の思いを込めて呼びかけた。「皆さまは勝ちました。社会に奉仕し、人間性を広げていく。21世紀の仏法ルネサンスは、韓国から始まっています。私は嬉しい。全世界が皆様を 賛嘆しています!」一言一言に、全生命を注ぐ思いで、伸一は語った。

誰もが泣いていた。誰もが大歓喜に包まれていた。そして、誰もが新たな旅立の誓いに燃えていた。



元駐日韓国大使の権哲賢氏は 聖教新聞紙上の「私の読後感」で語っている。
「韓国と日本の間には、過去に不幸な歴史がありました。いまだに韓日の友好を築くには、幾つもの困難があります。しかし、だからこそ、『真の韓日友好』を願われる池田先生の心と言葉が、多くの人びとに伝わり、韓日関係の改善の力となることを心から望んでいます。」

「現代社会のさまざまな問題を克服するためには、『人間の変革』を避けては通れません。その人間に対する不信や失望が今、世界に渦巻いています。しかし、先生は決して、人間に対する信頼を手放すことはありません。これが、先生の真骨頂でありましょう。一人の人間革命から人類の宿命転換が始まる、との小説のテーマは、先生の信念そのものと感じます」

「創価学会は、日本で発展した宗教団体として、韓国国内では、多くの人が批判的に見ていました。そのような状況の中で、韓国SGIの方々は誠実に、社会に貢献してきました。韓国SGIの方々は誠実に、社会に貢献してきました。韓国SGIが今日、ここまで発展していることは、まさに『不可能を可能にした』といえましょう」

「その発展の原動力こそ、池田先生にほかなりません。先生には韓国国内から数多くの顕彰が贈られています。しかし、それでもなお、先生がなされた韓日友好の業績をたたえるには 足りないと感じています。」
と。

新・人間革命 8巻終了 


太字は 『新・人間革命』第8巻より

正義の証明

『新・人間革命』第8巻 激流の章 P360~

他の同志も、こうした信仰ゆえの迫害を、さまざまなかたちで味わった。メンバーを見る社会の目は、一段と冷たくなっていった。付き合いを断たれた人もいた。職場を追われた同志もいた。

しかし、メンバーは、“いよいよ本当の信心を奮い起こすんだ”と、学会と仏法の正義を叫び、必死に、嵐に耐えた。皆、懸命に唱題に励んだ。韓国の同志の“信心の火”は、激しい嵐にも決して消えることはなかった。

1966年10月 韓国の大法院の判決がおり、「回答書」は、創価学会に対する認識を知らせるためだけの内容にすぎず信教に対する行政処分としての性格のものではないというのである。

メンバーは 釈然としないものを感じたが、「回答書」は、信教を法的に規制するものではないとしたこの判決によって、憲法上、宗教の自由は保障されているとの確認がなされたことは大きな意味を持っていた。

とはいえ、創価学会への認識に変わりはなかったし、学会本部から幹部を派遣できないなどの宗教活動に対する方針も変わらなかった。そのなかで、韓国の同志は、皆で力を合わせ、自分たちの手で、信心の松明を守っていくしかなかった。まだ、「冬」の季節は続いていたのだ。

メンバーは、以前に入手していた学会の出版物を、皆で貪るように読み、信心を学んでいった。
「根深き木は日照りを寄せつけぬ」と、韓国のことわざにある。同胞を幸福にしたいという、メンバーの熱き思いは逆境をもはねのけ、祖国の大地に根を張り、着実に、同信の友の輪を広げていったのである。なんと1969年には、メンバーは3万世帯へと大発展し、功徳と喜びの花が各地に開いていった。

そうしたなか、1970年代の半ばごろになると、韓国政府は、違法行為がない限り、学会の活動を静観するという方針をとるようになっていった。

その間も、韓国のメンバーは増えていたが、組織として全体がまとまることはなかった。あるグループでは、幹部の野心によって、メンバーの純粋な信心を利用する動きが現れ、中心者が自分のために供養も集めるようになっていた。

1975年グアムでSGI(創価学会インターナショナル)が発足したが、韓国の幹部は 代表を出せる状態ではなかった。一部の幹部が、我流の信心に陥って、「自分中心」になってしまった結果であった。そこに、確固たる指導原理が、法を中心とした厳正なる広宣流布の師の存在が不可欠なゆえんがある。

その後も韓国の同志は、さまざまな風雪にさらされた。だが、そのたびに、むしろ、信仰の純度は高まっていった。

韓国の同志は、この日蓮仏法の、また、創価学会の「真実」と「正義」を、なんとしても証明していかなければならないと思った。誤解が誤解のままであれば、「真実」は 葬り去られてしまう。誤解を放置しておくことは「正義」の死を意味する。

“私たちが実際に何をなし、どれだけ社会に貢献できるかだ。その行動のなかに、学会の正しさを証明する道がある”こう考えたメンバーは、各地域で、自主的に、また、地道に、社会貢献の歩みを開始していったのである。

1970年代から、韓国では「セマウル(新しい村)運動」という農村の近代化政策が推進された。メンバーは、その社会奉仕の諸活動に勇んで参画し、田植えや刈り入れを手伝う「農村助け合い運動」や、自然保護運動に取り組んでいった。さらに、1990年代に入ると、メンバーは、大規模な「国土大清掃運動」を展開していったのである。


太字は 『新・人間革命』第8巻より

韓国創価学会 冬の時代

『新・人間革命』第8巻 激流の章 P353~

慶尚北道大邸に、染物業を営む、崔正烈という30代半ばの男性がいた。彼は、二年ほど前に信心を始め、大邸のメンバーの中心的存在として、活動に励んできた。彼は、学会への政府の対応を新聞の報道などで知ると、これを放置してはならないと思った。

政府に学会を正しく理解してもらいたいとの一心で、学会がいかなる宗教団体かを記した文書を内務部に送ったが、回答書は、最初から、学会を危険な団体と決めつけていた。

この回答書では、学会は、反国家的、反民族的な団体であり、その布教のための会合や連絡、宣伝につながることになる、学会の出版物の搬入、配布も、取得も、国是に反すると明言されていた。

崔は、韓国の憲法では、「宗教の自由」は保障されているとし、今回の問題は、韓国政府の、学会への誤った認識から生じている。これは、御書に照らせば、信心を妨げる三障四魔の働きであり、私たちの
信仰が試されていると言って、社会的な配慮は大切だが、一歩たりとも退くことなく、今こそ、堂々と、仏法と学会の正義を訴え抜いていこうではないかと皆に語りかけた。

「もし、私たちが、こんなことに負けて、信心の火を消してしまったらどうなるのか。宿命に泣いてきた、わが韓国の同胞を幸福にすることは、永遠にできなくなってしまうではないですか。私たちは立ち上がります。何があっても、信心を貫いていきます。そして、一人たりとも、絶対に退転させまいと言う決意で、同志を励まし、勇気の光を送っていこうではありませんか」

皆、信心を始めて、日も浅い人たちであったが、崔の懸命な訴えに集ったメンバーの瞳は、次第に輝きを増していった。

一方、ソウルにも、激しい嵐が吹き荒れていた。韓国に里帰りしていた大井純江は、何度も取り調べを受けた。彼女は当局の誤解を解こうと、懸命に学会の歴史と真実を語り説明に努めた。だが、事態は日一日と厳しさを増していった。「魔競わずは正法と知るベからず」との御聖訓の通りであることを実感していった。

“みんなにも、何があっても負けないように、訴えなければ・・・”監視の目が光るなか市内の中華料理店にソウルのメンバーが 集った。個人の家に集うことは危険であったからだ。大井は「御書に『法華経を信ずる人は冬のごとし』とありますが、今がそうです。でも、さらに『冬は必ず春となる』と仰せです。信心を貫く限り、必ず春は来る。希望の季節は来ます。どうか皆さん、互いに助け合い、団結して進んでください。たのみます。」彼女は祈るような思いで訴えていった。

皆、大地にしがみつくかのように、必死になって信仰の根を張ろうとしていったのである。

崔は、この状況を打破する方法はないかと、思索を重ねていた。そこで、基本的人権である「宗教の自由」を 奪う行為だと内務部長官を相手取り、行政処分取消請求訴訟を起こす。ソウル高等法院は、崔の勝訴の判決を下すが、内務部は これを不服として、大法院に上告した。

それから、半年過ぎたころ、崔は、ソウル近郊の農場で働いていたが、突然、外国為替管理法違反で、突然逮捕される。学会本部では、資金援助しているわけでもないし、また、韓国で供養を募り、それを日本に運び込んだこともない。したがって、外国為替管理法に違反するはずがなかった。しかも、崔は、この取り調べのなかで、担当官から学会の批判を聞かされ、学会をやめれば釈放すると、脱会を勧められたのである。

だが、彼は、厳として、いささかも揺らぐことはなかった。崔は29日後、結局、起訴されることなく釈放されたのである。


太字は 『新・人間革命』第8巻より
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新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


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