『新・人間革命』第7巻 操舵の章 P378~
4月17日から 統一地方選が始まった。都道府県議会・市議会・東京特別区区議選・全国町村議会議員の選挙で公政連の候補者の当選率は97・8%。東京の区議会議員選挙では136人が全員当選し、社会党を上回り、第2党となり、地方議員は 現職議員を合わせると 1079人となった。
地域に密着し、人びとの生活に直結した地方政治には、政治の原点がある。しかし、現実は、「町のボス」たちによって、議会が牛耳られ、民衆不在の地方政治が行われていることが少なくなかった。
山本伸一は、千人を超す公政連の地方議員が誕生したことはに大きな喜びを覚えた。地元民の幸福を願い、献身しようとする、これだけの議員がいれば、地方政治の新たな夜明けをもたらすにちがいないからだ。
4月9日 創価学会台北支部に「非常時期人民団体組織法」に基づき解散が命じられた。「信教の自由」も「集会、結社の自由」も認められていたが、戒厳令下の台湾では、組織活動を行うためには、人民団体として申請し、許可を受ける必要があった。申請はしてきたが、台湾の創価学会に許可は出なかったのだ。
伸一はその報告を聞き、「法律は法律として、従わなくてはならないから、組織は解散するにしても、絶対に、信心までも失ってはならない。」「大聖人は 『王地に生まれたれば、身をばしたがえられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず』と言われている」「台湾の同志も、この心意気でいくんだ。」
「勝負は70代80代だよ。」「朝の来ない夜はない。春の来ない冬はない」と台湾の責任者 朱千尋に伝えられた。
朱は、2か月前、空港で会長が語った言葉が 鮮やかによみがえった。「なにがあっても、どんなに辛くとも、台湾の人びとの幸福のため、絶対に仏法の火を消してはならない。本当の勝負は、30年40年後です。最後は必ず勝ちます。」その言葉が、今、電撃のごとく朱の胸を貫いた。
各地区で会合がもたれ、解散が徹底された。主だった幹部たちは、今後いっさい、信仰活動は行わない旨の念書を書かされた。だが、これで嵐は過ぎ去ったわけではなかった。むしろ始まりであった。
突然、家に踏み込まれ、御本尊を持っていかれた人もいた。牢にぶち込むと脅された人もいた。会社では、昇進することはなかったし、左遷されたり、解雇されることさえあった。
この試練は、それぞれの信仰が、ホンモノなのか、ニセモノなのかを明らかにしていった。
朱は 大手会社の課長であったが、信心をやめるよう言われ、役職を外され閑職に追いやられたが、空いた時間を利用し、御書の中国語への翻訳を開始した。
さらに、文化・芸術が宗教と密接不可分の関係にあるならば、文化活動を通して、仏法の人間主義の精神を次の世代に伝えていくことも可能なはずだと考え、青少年のためのハーモニカ隊を結成した。
いかなる状況下でも信心はできる。広宣流布に生きることはできる。ーそれが、朱の信念であり、決意でもあった。
朱は、時間を見つけては個人的に同志を励ました。彼から激励された人びとは、懸命に唱題に励み、多くの功徳の体験をつかみ、その喜びを人に語らずにはいられなかった。それを聞いた人たちのなかから、自ら題目を唱える人が出始め、この”冬の時代”にあっても、正法は、自然のうちに、深く社会に根差していったのである。
山本伸一は、台湾の組織が解散させられた報告を聞くと、いよいよ激動の時代に入ったことを深く自覚せざるをえなかった。
しかし、いかに波浪は激しく、嵐は猛とも、人間の勝利の旗を打ち立てるために、伸一は新世紀の大陸に向かって、必死になって舵を操るしかなかった。
35歳の青年会長の操舵に、広宣流布のすべてはかかっていたのである。
目前には、会長就任三周年となる5月3日が迫っていた。
<操舵の章終了>
<『新・人間革命』第七巻 終了>
4月17日から 統一地方選が始まった。都道府県議会・市議会・東京特別区区議選・全国町村議会議員の選挙で公政連の候補者の当選率は97・8%。東京の区議会議員選挙では136人が全員当選し、社会党を上回り、第2党となり、地方議員は 現職議員を合わせると 1079人となった。
地域に密着し、人びとの生活に直結した地方政治には、政治の原点がある。しかし、現実は、「町のボス」たちによって、議会が牛耳られ、民衆不在の地方政治が行われていることが少なくなかった。
山本伸一は、千人を超す公政連の地方議員が誕生したことはに大きな喜びを覚えた。地元民の幸福を願い、献身しようとする、これだけの議員がいれば、地方政治の新たな夜明けをもたらすにちがいないからだ。
4月9日 創価学会台北支部に「非常時期人民団体組織法」に基づき解散が命じられた。「信教の自由」も「集会、結社の自由」も認められていたが、戒厳令下の台湾では、組織活動を行うためには、人民団体として申請し、許可を受ける必要があった。申請はしてきたが、台湾の創価学会に許可は出なかったのだ。
伸一はその報告を聞き、「法律は法律として、従わなくてはならないから、組織は解散するにしても、絶対に、信心までも失ってはならない。」「大聖人は 『王地に生まれたれば、身をばしたがえられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず』と言われている」「台湾の同志も、この心意気でいくんだ。」
「勝負は70代80代だよ。」「朝の来ない夜はない。春の来ない冬はない」と台湾の責任者 朱千尋に伝えられた。
朱は、2か月前、空港で会長が語った言葉が 鮮やかによみがえった。「なにがあっても、どんなに辛くとも、台湾の人びとの幸福のため、絶対に仏法の火を消してはならない。本当の勝負は、30年40年後です。最後は必ず勝ちます。」その言葉が、今、電撃のごとく朱の胸を貫いた。
各地区で会合がもたれ、解散が徹底された。主だった幹部たちは、今後いっさい、信仰活動は行わない旨の念書を書かされた。だが、これで嵐は過ぎ去ったわけではなかった。むしろ始まりであった。
突然、家に踏み込まれ、御本尊を持っていかれた人もいた。牢にぶち込むと脅された人もいた。会社では、昇進することはなかったし、左遷されたり、解雇されることさえあった。
この試練は、それぞれの信仰が、ホンモノなのか、ニセモノなのかを明らかにしていった。
朱は 大手会社の課長であったが、信心をやめるよう言われ、役職を外され閑職に追いやられたが、空いた時間を利用し、御書の中国語への翻訳を開始した。
さらに、文化・芸術が宗教と密接不可分の関係にあるならば、文化活動を通して、仏法の人間主義の精神を次の世代に伝えていくことも可能なはずだと考え、青少年のためのハーモニカ隊を結成した。
いかなる状況下でも信心はできる。広宣流布に生きることはできる。ーそれが、朱の信念であり、決意でもあった。
朱は、時間を見つけては個人的に同志を励ました。彼から激励された人びとは、懸命に唱題に励み、多くの功徳の体験をつかみ、その喜びを人に語らずにはいられなかった。それを聞いた人たちのなかから、自ら題目を唱える人が出始め、この”冬の時代”にあっても、正法は、自然のうちに、深く社会に根差していったのである。
山本伸一は、台湾の組織が解散させられた報告を聞くと、いよいよ激動の時代に入ったことを深く自覚せざるをえなかった。
しかし、いかに波浪は激しく、嵐は猛とも、人間の勝利の旗を打ち立てるために、伸一は新世紀の大陸に向かって、必死になって舵を操るしかなかった。
35歳の青年会長の操舵に、広宣流布のすべてはかかっていたのである。
目前には、会長就任三周年となる5月3日が迫っていた。
<操舵の章終了>
<『新・人間革命』第七巻 終了>
太字は 『新・人間革命』第7巻より