小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命  第5巻

無罪判決

『新・人間革命』第5巻 獅子の章 P336~

大阪事件の裁判の 判決公判が 1月25日開かれた。
もし、会長の山本伸一が有罪になれば、彼の人生の障害となるだけでなく、それによって、学会の広宣流布の前進にとって、大きな障害となることは明らかであった。

首脳幹部は じっとしていられなかったが、山本伸一だけは「絶対勝つから大丈夫。何も悪いことをしていない者が、有罪になる道理はない。」と心境をあかした。

「すべてのことは、大御本尊様がお見通しであると、私は信じています。戸田先生は、三類の強敵のなかにも、僣聖上慢が現れてきたと言われております。私も、さらに『大悪をこれば大善きたる』との、日蓮大聖人様の御金言を確信し、強盛な信心を奮い起こし、皆さまとともに、広宣流布に邁進する決心であります。最後は、信心しきったものが、大御本尊様を受持しきったものが、また、正しい仏法が、かならず勝つという信念でやろうではありませんか」との大勝利への伸一の宣言から既に、4年6か月が過ぎていた。

男子部幹部会では、
「私は、いかなる迫害も受けて立ちます。もし、有罪となり、再び投獄されたとしても、大聖人の大難を思えば、小さなことです。また、牧口先生、戸田先生の遺志を受け継ぐ私には、自分の命を惜しむ心などありません。」

「だが、善良なる市民を、真面目に人びとのために尽くしている民衆を苦しめるような権力とは、生涯、断固として戦い抜く決意であります。これは、私の宣言です。」

「仏法は勝負である。残酷な取り調べをした検事たちと、また、そうさせた権力と、私たちと、どちらが正しいか、永遠に見続けてまいりたいと思います。」と語った。

伸一は、この4年半の歳月を振り返っていた。あの不当逮捕から9か月後には、戸田先生は逝去された。
そして、その2年後に、自分は第3代会長に就任したが、それまで何度も、会長就任の要請を辞退せざるをえなかった最大の理由が、この裁判で被告人という立場にあることであった。

「山本伸一は無罪!」傍聴席にざわめきが起こり、皆の顔に歓喜の光が差した。審判は下った。
伸一の正義が証明された勝利の瞬間であった。

伸一が今、一番気がかりであったのが、罰金とはいえ有罪になった、これらの人たちのことであった。
彼は、そのメンバーと懇談の一時をもち、「罪は罪として償わなければならないが、人生の幸福は、最後まで信心をし抜いていけば、必ずつかむことができる。生涯、何があっても、一緒に広宣流布に生き抜こうよ」と激励した。

伸一は、大阪事件のもつ意味について語り始めた。
「この大阪事件の本質はなんであったか。」
「学会が飛躍的な発展を遂げているのを見て、権力は、このままでは、学会が自分たちの存在を脅かす一大民衆勢力になるであろうと、恐れをいだいた。そして、今のうちに学会を叩きつぶそうとしたのが、今回の事件です。」

「本来、権力というものは民衆を守るべきものであって、善良な民衆を苦しめるためのものでは断じてない。社会の主役、国家の主役は民衆です。その民衆を虐げ、苦しめ、人権を踏みにじる魔性の権力とは、断固戦わなければならない。それが学会の使命であると、私は宣言しておきます。」

「そして、学会が民衆の旗を掲げて戦う限り、権力や、それに迎合する勢力の弾圧は続くでしょう。この事件は迫害の終わりではない。むしろ、始まりです。」

「ある場合には、法解釈をねじ曲げ、学会を違法な団体に仕立て、断罪しようとするかもしれない。」
「さらには、学会とは関係のない犯罪や事件を、学会の仕業であると喧伝したり、ありとあらゆるスキャンダルを捏造し、流したりすることもあるでしょう。また、何者かを使って、学会に批判的な人たちに嫌がらせをし、それがあたかも学会の仕業であると思わせ、陥れようとする謀略もあるかもしれない。」

「ともかく、魔性の権力と、学会を憎むあらゆる勢力が手を組み、手段を選ばず、民衆と学会を、また、私と同志を離間させて、学会を壊滅に追い込もうとすることは間違いない」

「そうした弾圧というものは、競い起こる時には、一斉に、集中砲火のように起こるものです。しかし、私は何ものも恐れません。大聖人は大迫害のなか、『世間の失一分もなし』と断言なされたが、私も悪いことなど、何もしていないからです。だから権力は、謀略をめぐらし、無実の罪を着せようとする。」

「創価学会の歩みは、常に権力の魔性との闘争であり、それが初代会長牧口常三郎以来、学会を貫く大精神である。」

「それゆえ、学会には、常に弾圧の嵐が吹き荒れた。しかし、そこにこそ、人間のための真実の宗教の、創価学会の進むべき誉の大道がある。」


広宣流布とは 『獅子の道』である。何ものをも恐れぬ、「勇気の人」「正義の人」「信念の人」でなければ、広布の峰を登攀することはできない。そして、『獅子の道』はまた、師の心をわが心とする、弟子のみが走破し得る『師子の道』でもある。

<第5巻終了 獅子の章終了>

太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋

王法と仏法

『新・人間革命』第5巻 獅子の章 P325~

宗門が、戒壇を「国立」とする根拠と考えていたのが、「三大秘法抄」の「勅宣並びに御教書を申し下して」の御文であった。

現代では、天皇は象徴となり、将軍も執権もいない。主権在民の時代であり、民衆こそが社会の主役である。

戸田は、「国立戒壇」を現代の社会で実現するならば、その御文をどうとらえればよいかに苦慮していた。

「国立」であるかどうかはともあれ、戒壇の建立は、広宣流布を象徴する一つの形式であり、遠い未来の問題である。

戸田は、戒壇建立の作業は、後に続く弟子たちに委ねようとしていた。その前に、「王仏冥合」をどのようにとらえ、いかに実現していくかを課題にし、全精力を注いでいった。

伸一に、「王仏冥合」をどう考えるかということが、これからの大事な課題になると話し、
「『王法』とは、政治だけに限定するわけにはいかず、むしろ、王の定めた法の及ぶ範囲、すなわち、世間法ととらえるべきだろう。政治だけでなく、経済も、教育も、学術も含め、社会の文化的な営みのすべてを『王法』と解釈すべきだ。
『王法』と『仏法』の『冥合』とは、いかなる姿を言うのかが、極めて重要になってくる」と語る。

「『王仏冥合』は、政治と仏法が制度的に、直接、一体化することでは決してない。」

「『王法』と『仏法』が、奥深くで合致することであり、人間の営みである、あらゆる文化の根底に、仏法の哲理、精神が、しっかりと定着するということだ。」

「『仏法王法に合して』とは、仏法の哲理、精神が、一人ひとりの生き方、行動を通して表れ、世間の法が、社会そのものが、仏法の在り方と合致していく姿だ。」

「仏法を一人ひとりの心に打ち立て、人格を陶冶していくことが、大聖人の示された社会建設の基本原理であり、その帰結が『王仏冥合』ということだ」

「要するに『王仏冥合』といっても、あるいは、『立正安国』といっても、具体的な一個の人間を離れてはありえない。それは、どこまでも、人間一人ひとりの一念を変え、生命を変革していく人間革命ということが、最大のポイントになるのだよ」


政治や教育が正しく人間の幸福のために寄与してこなかったし、科学の発展は、人類を滅ぼしかねない原水爆が生まれたことなどを述べ、
「問題は、ここなんだよ。それは、結局、人間が進むべき正しき道を教え政治、経済、科学、教育などをリードする、生命の哲学が確立されていないからだ。その不幸を転換するために大聖人がしめされた原理が『王仏冥合』なのだよ。」

「『王仏冥合』の姿とは、世界のすべての国が栄え、それぞれの国の社会の繁栄と個人の幸福とが一致することであると思っている。」

「そこに、これからの創価学会が果たしていかねばならぬ使命があり、仏法の社会的行動がある。」

「そして、この課題に本格的に取り組むことが、君の生涯の仕事となっていかざるをえないだろう。」


山本伸一も、この戸田の精神を継承し、民衆の幸福のための政治の実現をめざし、戸田亡きあとも、同志を政界に送り出すことに力を注いできた。

本門の戒壇をどうするかは、師の戸田から広宣流布の後事のいっさいを託された伸一の、避けることのできないテーマであった。


伸一は、総本山の日達法主に「国立戒壇」は、本来の大聖人の御精神とは異なることを様々な機会に語っていった。日達も伸一の意見に全面的に同意してくれた。

後年、正式に「国立戒壇」という名称は世間の疑惑を招くし、かえって布教の邪魔にもなるため、「今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。」と本部総会の特別講演で述べている。

かつて、創価学会が「国立戒壇」という名称をしようしたのも 本宗の信徒であったためで、それを学会が使っていたことについて非難するにはあたらないと講演した。

伸一は今、「公明政治連盟」が発足したことによって、個人の幸福と社会の繁栄の一致という「王仏冥合」の実現に向かい、内海から大海に乗り出したことを実感していた。

彼は、未来に競い起こるであろう怒涛を予感していた。しかし、政治を民衆の手に取り戻し、人びとの幸福に真に寄与するものにするためには、あえて、その怒涛に向かって、突き進んでいくしかない。

それが、人間の凱歌の時代を開く、創価の誉れの使命であり、民衆を守りゆく獅子の道であるからだ。




太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋

国立戒壇

『新・人間革命』第5巻 獅子の章 P316~

「公明政治連盟」の基本要綱、基本政策を発表した後、記者団からの質問に答える関。


記者は「憲法のすべての条文を擁護するならば、『信教の自由』も 守り続けるのか。日蓮は他宗派を認めず、折伏を行ってきた。それは、憲法と矛盾するのではないか」と質問した。

「折伏とは自らの宗教的信念を語ることであり、対話による布教です。それは、一人ひとりの納得と共感のうえに成り立つものです。つまり、『信教の自由』『言論の自由』を大前提として、私たちは布教を行っているのです。」

「自分たちの信ずる宗教が最高であると言いきれないとするなら、それを布教することほど無責任なものはありません。キリスト教にしても、あるいはイスラム教にせよ、皆、自分たちの教えが最高であると主張しています。その確信こそ宗教の生命であり、そこに宗教者の誇りと良心があるんです。」

記者たちの質問には、宗教への誤解と偏見が潜んでいた。


ある記者が尋ねた。
「学会は『公明政治連盟』の力で、やがては日蓮正宗を国教にするという考えはあるのですか」

関久男は言下に答えた。「ありません」

本来、信仰とは、人間の最も内発的な営みである。政治権力など、他からの外圧的な力で、強制し、本当の信仰心を育てることなど絶対にできない。

もし、国教になどなれば、かえって信仰の堕落を招き、大聖人の仏法の精神は滅び、形骸化していくだけである。


別の記者が、皮肉な笑いを浮かべながら質問した。
「『公明選挙』をうたっていますが、折伏などといって、無理やり投票させるようなことが、公明選挙になるんでしょうかね」

関は憮然として言った。「君、創価学会がいつ、選挙を折伏だなどといって、無理やり投票させたことがありましたか!」  
「・・・・」
「調べもせずに、偏見と憶測で、ものを言うことは慎んでもらいたい」
学会への無認識をさらけ出す問いであった。


記者会見は間もなく終わったが、「公明政治連盟」の結成を取り上げた新聞はいたって少なかった。
1、2の新聞が 一段ほどで、報道しただけであった。

多くの記者たちは、創価学会は政治を支配し、日蓮正宗を国教にするために、個人の意思とは無関係に、会員を選挙に駆り立てていると、勝手に憶測しているようであった。


彼らが、その憶測の根拠としていたのが、かつて、戸田城聖が広宣流布の姿として、「国立戒壇」の建立という表現を、何度か使っていたことであった。

日蓮大聖人は、法華経の本門文底の教えである三大秘宝の戒壇の建立を、後世の弟子たちに託された。
「三大秘宝抄」に「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一堂に本門の三秘密の法を持ちて・・・」と仰せである。

この「三大秘宝抄」の戒壇を、「国立戒壇」と言い出したのは、明治期に日蓮宗(身延派)から出て、立正安国会(のちの国柱会)をつくった田中智学であった。

彼の発想は、極めて国粋主義的、国家主義的であった。彼は大聖人の御書を、自らの“国体至上主義”を鼓吹するための道具とした。

"国体思想”に沿って、この御文を解釈していった。そのため、「王法」は即、"神国日本"という国家に直結し、すべては、そこに組み込まれていった。

彼は、法華経は世界を統一すべき教えであり、日本は世界を統一すべき国であると主張し、日本が世界を統一するためには、武力侵略をも、積極的にこうていしていったのである。

彼は、建立すべき地を、富士山とし、この"富士戒壇論"をめぐり、日蓮系各派で論議が わき起こり、その中で、本門の戒壇に安置すべき御本尊にも議論が及び、大石寺の大御本尊への批判があったことから、日蓮正宗も反論するに至った。

このやり取りの中で、相手が用いた「国立戒壇」という言葉を日蓮正宗側も使ったために、日蓮正宗も、戒壇は「国立」を前提としているかのような論の展開になっていった。

そして、軍国主義の流れのなかで、次第に宗門も国家主義的な考え方に傾斜していき、「国立戒壇」は当然であるかのような風潮がつくられていった。

さらに、戦後も、宗門では本門を、「国立戒壇」といっていたのである。

このため、信徒である戸田城聖も、本門の戒壇について語る際に「国立戒壇」という言葉を使用したことがあった。

しかし、戸田が念願としていたのは、単に、戒壇という建物を建立し、それを「国立」にするなどと言ったことではなかった。

彼は、日蓮大聖人の大願は民衆の幸福にあり、戒壇の建立といっても、そのための広宣流布の象徴であると考えていた。


戸田は会合で彼の考えを明確に語っている。
「ある僧侶が、『広宣流布の暁には、天皇陛下がお寺を建ててくださって、りっぱになるのだ』と話すのを聞いて 唖然とした。」

「仮に 広宣流布が現実に行われて、勅宣・御教書をたまわったとして、大御本尊のありがたさを、日本国じゅうの人に伝えるでしょう。すると、信心なき者がたくさん参詣にくる。そうして、この信心なき人々が、どれほど御本尊を粗末にすることでしょうか」

この言葉にも明らかなように、戸田は、仮に「国立戒壇」ができたとしても、人びとの信仰の確立がなければ、民衆の幸福も一国の繁栄もありえないことを痛感していた。むしろ、それによって、人びとの信仰が失われ、形骸化を招くことを恐れていたのである。



太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋

公明政治連盟発足

『新・人間革命』第5巻 獅子の章 P300~

1月17日、通常国会の開会式終了後、創価学会の参議院議員が記者会見を行い、
『公明政治連盟』という支持団体を発足したことを発表した。

山本伸一が、「公明政治連盟」という政治団体結成に踏み切った最大の理由は、創価学会は、どこまでも宗教団体であり、その宗教団体が、直接、政治そのものに関与することは、将来的に見て、避けた方がよいという判断からであった。いわば、学会として自主的に組織のうえで宗教と政治の分離を図っていこうとしていたのである。

本来、宗教団体が候補者を立てることも、政治に関与することも、憲法で保障された自由であり、権利である。

したがって、創価学会が政界に同志を送り出すことも、学会自体が政治活動を行うことも自由である。

戸田城聖は、それぞれ好きな政党に所属し、活動すればよいとしていた。しかし、議員たちは、実際に議員活動を開始してみると、どの政党の在り方にも、心から賛同することはできなかった。

寄り合い所帯の無所属クラブでは、それぞれの考え方も異なり、具体的な見解を発表する段になると、意見の調整は、しばしば難航せざるをえなかった。

やはり、政治の世界にあっては、政治団体等いう立脚点が必要であると、学会員の参議院議員たちは痛感していった。

伸一も 新たに政治団体をつくるということについては、賛成だったが、議員たちに厳しい口調で言った。「勘違いしてもらっては困るのは、この政治団体は、学会のためのものではない。私は、そんな小さな考えではなく、広く国民の幸福を願い、民衆に奉仕していく、慈悲の精神に貫かれた新たな政治団体をつくろうとしているんです。」

「私の願いは、政治団体がスタートしたならば、一日も早く自立し、民衆の大きな信頼と支持を得るものにしていってほしいということです。」


衆議院への出馬や、政党をつくることに関しては、まだ早いといって
「当面は、まず、参議院の問題から取り組んでいこう。」

「参議院は、衆議院の行き過ぎを是正し、補うべきは補うという機能が働かなくなってしまった。議員が自分の所属している党の党利党略によって動いているからだ。」 

「参議院を、本来の、“良識の府”にしていくことが、政治を国民の手に取り戻すうえで、差し迫った課題ではないかと思う。」と意見を述べた。

「立正安国」の精神の反映ということでは、日本の政治の現状から見て、避けて通ることのできない課題であるかもしれない。

しかし、政党をつくり、衆議院にも人を送ることになれば、少なくとも支援団体としての学会の負担は大きくなる。また、それによって、学会までも政争に巻き込まれ、既存の政党から、さらに激しい攻撃にさらされるであろうことは目に見えていた。


衆議院への進出は、伸一の一存で決まる問題ではないが、その選択をしなければならぬ時が、次第に迫りつつあることを、彼は痛感せざるをえなかった。

政治団体の名称については、戸田城聖が、将来会派をつくる時には“公明会”にしようと言っていたと話す関久男。その理由として、「学会の選挙運動は金もかけず、買収などとは無縁の公明選挙であるし、宴会政治のような腐敗した政界を正すのが君たちの使命であるからだ」と話していたと語る。


「政治の善し悪しは、ただ政治家だけによって決まるものではない。政治家を支援し、投票する人びとの意識、要望が、政治家を動かし、政治を決定づける大きな要因となっていくものである。ゆえに、政治の本当の改革は、民衆の良識と意識の向上を抜きにしてはありえない。学会は、その民衆を目覚めさせ、聡明にし、社会の行く手を見すえる眼を開かせてきたのである。」

「議員というのは、住民のためにあそこまで泥まみれになって働いてくれるのかと、誰からも称賛されるような、模範を示していってほしいのです。民衆を守る獅子となれー それが私の願いであり、期待です。また、皆さんを支援してきた同志も同じ思いでいるでしょう。」
と伸一は、心情を語った。



太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋

生死の理

『新・人間革命』第5巻 獅子の章 P289~

山本伸一は、1月13日 雪の北海道へ飛んだ。
夕刻から 北海道女子部の部長であった嵐山春子の北海道女子部葬に出席する。

いかに深き宿命とはいえ、若くして、広宣流布の途上に散った嵐山のことを考えると胸が張り裂けそうな思いであった。

結核を治すために、療養に専念するよう指導していたが、彼女はいつまでも病床に付していることに、耐えられなかったようだ。

伸一の激励に、入院し、治療に専念すると 医師が「結核は治っている」と告げられた。体力が回復すれば、1か月ほどで退院できるといわれていたが、それから間もなく心不全で亡くなった。

しかし、それから間もない12月14日 嵐山は臨終の時を迎えた。
結核という病を乗り越え、宿業を転換し、今世の使命を終えた証明とも見える。

北海道女子部葬は、幹部や千人の女子部員が参列して、厳粛に営まれた。

この一女性の活躍によって、どれほど多くの女子部員が立ち上がり、北海道の広布の流れが広がっていったか計り知れない。友の幸福のために一身を捧げて、広宣流布に生き抜いた彼女は、さながら“妙法のジャンヌ・ダルク”であった。

伸一は、嵐山春子の死の意味について、思いをめぐらしていた。
26年という彼女の人生は、あまりにも短かった。だが、それは、自身の生涯の使命を全うしての死であったと、私には思えてならない。

彼女は、純白の雪のように清らかな信心の模範を、後世に残してくれた。その炎のごとき求道の姿勢と、友を思う心は、永遠に色あせることはない。いや、それは、時とともに、益々黄金の輝きを放ち、彼女の志を受け継ぐ幾千幾万の嵐山春子が誕生していくにちがいない。

また、地涌の使命に生きる同志の絆は永遠である。

伸一は「総勘文抄」の御文を思い起こした。
「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顚倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死すべき終わりも無し」(生と死という二つの理は生死の夢の理であり、妄想であり、顚倒した見方である。本覚の寤の悟りをもって自身の心性をただしてみれば、生ずるという始めもないので、死ぬという終わりもないのである)

仏法の眼から見るならば、彼女の生命は滅することなく、大宇宙とともに、永遠に生き続けているのだ。彼は、この御文を噛み締めると、やがて、また彼女が、同志として自分の身近なところに生まれ、
広宣流布の大舞台をさっそうと駆け巡る日が来ることを、強く確信できた。

嵐山によって結成された北海道鼓笛隊が、北海道女子部の愛唱歌を演奏した。
しかし、ファイフの音もかすれ、調べはしばしばとぎれそうになった。皆、涙がこみあげてきて、演奏することができないのである。演奏に耳を傾ける友の顔も、涙に濡れていた。その姿は、嵐山の志を受け継ごうとする北海道女子部の、珠玉の誓いの輝きでもあった。


伸一は、嵐山の遺徳を称え、春になったら、桜の木を植えようと提案する。嵐山を顕彰するのはもちろん、悲しみに沈む彼女たちの心に、未来への希望の明かりを灯したかったからであった。

翌日開催された北海道総支部幹部会では、伸一は、北海道に来るたびに、同志の身なりも立派になり、生気にあふれた姿になってきていること自体、仏法の偉大なる功力の実証であると述べ、皆の成長を称え、いよいよ広宣流布の時が来ていることを訴えていった。



太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋
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