小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命  第4巻

医学博士の入会

『新・人間革命』第4巻 大光の章 P295~

<大光の章 始まる>

大仏法とともに生きゆく創価学会は、世界の太陽である。

悲哀と絶望の谷間にも、希望の光を降らせ、苦しみの渦巻く人間の大地を、歓喜の花園に変える。

この太陽をさえぎることは誰にもできない。黒き妬みの雲を見下ろし、彼は、堂々、と我が軌道を進む。


山本伸一は、ヨーロッパに向かい、1961年(昭和36年)羽田を飛び立った。

“太陽が一つ輝けば、全世界が照らし出されていく。それは、広宣流布も同じである。
一人が立ち上がれば、すべての友を守ることができる。そして、社会の闇を破り、正義の夜明けを告げることもできる。大切なのは、真剣な一人だ。必死の一人だ”

“また、太陽は、万人の胸中にある。仏法を保った同志は、皆、太陽となって、友の広布の道を照らす人達である。このヨーロッパ訪問で、太陽となりゆく人材を、何人見つけ、育てることができるかが勝負だ・・・”


コペンハーゲンで伸一を待っていたのは、蝶ネクタイをした一人の男性だった。
彼は、学会員で、フランスが誇る研究・教育機関である、パリのコレージュ・ド・フランスの研究員をしている医学博士の川崎栄治だ。

彼は、新潟医科大学を卒業し、学位を取得後、甲状腺ホルモンの研究を始め、アメリカ、ハーバード大学付属病院で、研究に励む。

帰国して、東大附属病院に勤務したあと、甲状腺治療で有名な大分県別府の病院に副院長として迎えられた。そのころ、創価学会員の妹に紹介された女子部員と結婚。
結婚前に創価学会に入会したが、特に信心に励もうという気はなかった。

結婚後しばらくして、彼は腹痛に見舞われる。虫垂炎と診断され、手術するも、激痛は治まらず、モルヒネを打って痛みを抑えたが、薬が切れると、七転八倒の苦しみが彼を襲った。

彼は、苦痛から逃れるため、自分でモルヒネを打つようになり、モルヒネなしでは、片時も我慢ができないようになった。

彼は、近くロンドンで開かれる甲状腺学会で研究発表することになっていた。
それは、医学者として、自分の研究成果を世界に問う、大事な檜舞台でもあった。

気が焦るばかりで、容体はいっこうによくならず、日ごとに痩せていく夫を見て、妻の良枝は もう信心しか、方法はない。祈りとして叶わざるはなしの御本尊に本気になって信心しようと訴えた。

川崎は、自分が医師であることから、信仰で病気が治るなんて迷信だと否定するが、妻は 彼のベッド横で、真剣に唱題し始めた。

すると、不思議なことに 痛みは治まり、よく眠ることができた。彼は、妻に題目を唱えてくれと頼むが、妻は自分で唱題すれば、もっと、よく眠れると言う。

その夜から、二人で唱題するようになった。

翌日、彼の顔に黄疸が出て、胆石症の疑いをいだき、レントゲンを撮ると、大きな石があり、すぐ手術する必要があると言われる。

しかし、そうなれば、さらに長い入院生活を 余儀なくされ、間近に迫ったロンドンの学会に参加できなくなってしまう。

彼は、藁をも掴む心境になっていた。妻の説得もあり、この際、本気になって信心をしてみようと思った。毎日、真剣に唱題に励んだ。

最初、コーヒーのような色をした尿が出たが、それが、やがて、薄くなっていった。

ロンドンへ出発する直前に、レントゲンを撮ると、なんと、石はすっかり消えていた。

“これが、信心の力なのか!”彼は、喜び勇んで、ロンドンに向かった。

甲状腺学会での研究発表は、大成功に終わり、その後、世界の著名な大学や研究所から招請の話がきた。研究生活に入ることは、川崎が念願していたことでもあった。


川崎は、伸一に、海外で研究に取り組む考えを語る。それを聞いてわがことのように喜ぶ山本会長に、川崎は心温まる思いがした。

彼は、伸一に指導を受け、パリのコレージュ・ド・フランスに行くことにした。伸一は、ヨーロッパ訪問の際は、一緒に各地を回ろうと話す。

川崎は、山本会長がヨーロッパ訪問の時には、自分にできることは、何でもやらせてもらおうと心に決めた。


太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋

ヒューマニズムの哲学

『新・人間革命』第4巻 立正安国の章 P281~

日蓮は、「立正安国論」で「国」を表現する際に「国構え」に「民」と書く「くに」を用いた。
そこには、「民」に、より重きを置く考え方が、象徴されているといえよう。

山本伸一は 「立正安国論」を拝しながら、深い感動を覚えた。

夏期講習会が行われた1961年(昭和36年)という年も、自然災害や疫病が猛威を振るっていた。
5月末には、台風4号の影響によるフェーン現象のため、東北・北海道で火災が頻発した。
さらに、梅雨期に入ると、6月24日から1週間以上にわたって、豪雨に見舞われた。

特に、長野県の伊那方面をはじめ、本州、四国で大きな被害が出て、死者・行方不明者は、全国で350人を超えた。

また、当時、ポリオ(小児マヒ)が大流行し、幼い子を持つ親たちを、恐怖に陥れていた。

ソ連などには、ポリオに効く生ワクチンがあり、既に、前年、ソ連から日本に10万人分の寄贈の話が進んでいた。ところが、日本政府は、それにストップをかけたのである。

そこには、反ソ的な政治勢力の意向や、法律(薬事法)をタテにした硬直した役所の姿勢、自社の薬が売れなくなることを恐れた一部の製薬会社の反対などもあったようだ。

国民の生命よりも、国家の立場や権威、企業の利益が優先されていたのだ。

一方、国際情勢を見ても、東西冷戦の暗雲が影を落とし、世界のあちこちで、対立と分断のキナ臭い硝煙が漂っていた。

4月にはキューバ侵攻事件が起きている。

山本伸一は、混迷する世界の動向に、切実な思いをいだいていた。
立正安国の「国」とは、単に一国に限ったものではない。
一閻浮提であり、現代でいえば、広く世界をさすものといえる。

その世界に、恒久平和の楽園を築き上げるために、人間主義の哲学をもって、人びとの生命の大地を耕していくことが、立正安国の実現であり、そこに創価学会の使命がある。

彼は、それを、この夏期講習会で、訴え抜くことを決意する。

「日蓮大聖人の御一代の弘法は、『立正安国論に始まり、立正安国に終わる』と言われております。」

そして、三災七難の原因について論じた。

「鬼神というのは、目に見えない超自然的な働きを持つものですが、現代的にいえば、思想も、その一つといえます。つまり、国土、社会が乱れる時には、まず、思想の乱れが生じていきます。

そして、この思想の混乱が、人びとの生命を蝕み、意識や思考を歪め、それが社会の混乱をもたらす原因となっていくのです。

社会の混乱や悲惨な現実をもたらす原因は、人間という原点を忘れた考え方に皆が心を奪われていくことにあります。

ヒューマニズムに帰れーこれが、現代的にいえば日蓮大聖人の主張です。」

さらに、仏法者の社会的使命について論じていった。

自分の安らぎのみを願って、自己の世界にこもるのではなく、人びとの苦悩を解決し、社会の繁栄と平和を築くことを祈っていってこそ、人間の道であり、真の宗教者といえます。

社会を離れて、仏法はない。宗教が社会から遊離して、ただ来世の安穏だけを願うなら、それは、既に死せる宗教です。

「世の中の繁栄と平和を築いていく要諦は、ここに示されているように、社会の安穏を祈る人間の心であり、一人ひとりの生命の変革による“個”の確立にあります。

社会の安穏を願い、周囲の人びとを思いやる心は、必然的に社会建設への自覚を促し、行動となっていかざるをえない。

そこで、大事になってくるのが、そのために、現実に何をするかである。実践がなければ、すべては夢物語であり、観念です。

具体的な実践にあたっては、各人がそれぞれの立場で、考え、行動していくことが原則ですが、ある場合には、学会が母体となって、文化や平和の交流機関などをつくることも必要でしょう。

また、たとえば、人間のための政治を実現するためには、人格高潔な人物を政界に送るとともに、一人ひとりが政治を監視していくことも必要です。

しかし、その場合も、学会の役割は、誕生のための母体であって、それぞれの機関などが、主体的に活動を展開していかなくてはならない。

その目的は教団のためといった偏狭なものではなく、民衆の幸福と世界の平和の実現です。 

そうした社会的な問題については、さまざまな意見があって当然です。試行錯誤もあるでしょう。
しかし、根本は『四表の静謐』を祈る心であり、人間が人間らしく、楽しく幸福に生きゆくために、人間を第一義とする思想を確立することです。

さらに、その心を、思想を深く社会に浸透させ、人間の凱歌の時代を創ることが、私どもの願いであり、立正安国の精神なのです。」

伸一の講義を通し、各地から集った講習会の参加者は、仏法者の社会的使命に目覚めていった。
それは、社会の平和建設への自覚を促し、新たな前進の活力をもたらしていったのである。

海外指導の派遣メンバーにも 山本会長の「立正安国論」講義は、最大のエネルギー源となった。
世界平和の礎を築くための派遣だという思いが、彼らの闘志を燃え上がらせた。

幸福と平和の波は、少しずつではあるが、着実に、世界の隅々にまで、広がろうとしていたのである。

8月13日未明、東ドイツは、突然、東西ベルリンの境界線に、40数キロメートルにわたって、鉄条網の「壁」を設置した。

それは東西冷戦の縮図でもあった。
イデオロギーが人間を縛り、人間を分断させたのである。

伸一は、10月4日からのヨーロッパ訪問を前に、一人誓う。

“今こそ、人間と人間を結ぶヒューマニズムの哲学を、広く人びとの心に、浸透させていかなくてはならない。世界の立正安国の道を開くのだ・・・”

彼は21世紀の大空に向かい、大きく平和の翼を広げようとしていた。



<立正安国の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋

立正安国論

『新・人間革命』第4巻 立正安国の章 P264~

山本伸一は 夏期講習会で「立正安国論」を講義することになっていた。
新たな気持ちで 講義の前に研鑽に励む。


立正安国論が書かれた背景に、正嘉の大地震がある。
大聖人が この地震に遭遇したのは、36歳の時、鎌倉の松葉ケ谷の草庵にいたころである。

このころ、毎年のように飢饉が続き、疫病が蔓延していた。
正嘉の大地震のあとも、余震は長く続き、大地震が 再び起こる。
翌年には、真冬のような冷え込みが続き、8月には大風、京都には暴風雨が遅い、穀類に大被害が出る。
そして、10月になると、鎌倉は大雨による洪水で民家が流失し、多数の犠牲者を出した。
さらに、疫病が流行し、諸国に大飢饉が広がっていった。

幕府は、事態の打開のために、真言の僧による加持祈祷などを命じていたが、なんの効果もなかった。
“なぜ、これほどくるしまなければならないのか?”それが人々の共通の思いであった。
しかし、それに答えられる人は、誰もいなかったのである。

日蓮は岩本実相寺を尋ね、一切経をひもとき、根本原因を経文のうえからも、また、道理のうえからも
あきらかにしようとした。

それらの経々から、彼は国中を覆っている不幸の原因は、世をあげて、正法である法華経に背いているがゆえであると、明確に確信することができた。

人間は、何を信じるかによって、大きな影響を受ける。友人でも、悪友を善友と信じて、ともに行動していれば、いつしか悪の道に入ってしまう。

ましてや、宗教は人間の考え方、生き方の根本の規範である。したがって、誤った宗教を信じれば、人間の心は濁り、欲望に翻弄され、あるいは、生命の活力も奪われてしまう。

さらに、人心、社会の乱れは、依正は不二であり、一念三千であるがゆえに、大自然にも必ず波及していく。本来、宇宙は、それ自体が一つの生命体であり、主体である人間と、自然を含めた環境世界とは、互いに関連しあっていると教えているのが仏法である。

人びとが塗炭の苦しみを脱するには、誤った宗教を捨て、正しい教えを根本とする以外にないー
それが日蓮の結論であった。

当時、天台宗をはじめ、真言、華厳、律等の既成宗派は、鎮護国家の仏教に安住し、念仏や禅の新興の宗派も、幕府の要人に取り入ることに腐心していた。

そして、各宗派は法論を避け、教えの正邪を論議することもなく、お互い馴れ合い、権力に寄生し、庇護という美酒に酔っていた。

また、幕府は、宗教の庇護と引き換えに、政策への協力を要請するなど、政治権力と宗教とが、完全に癒着していたのである。

日蓮は、救世のために、諫暁の書「立正安国論」を認めた。
そして、事実上の最高権力者である北条時頼に、この書を上程した。文応元年7月16日のことである。

日蓮は、時頼こそ、国主として諫暁するに足る人物と見たのであろう。

「立正安国論」は、社会の惨状と民衆の苦悩から書き起こされている。

この民衆の苦しみという現実こそが、仏法の出発点であり、苦悩からの解放こそが、仏法の目的である。

「立正安国論」で、日蓮は、客と主人との問答形式を用いた。

それは、正法流布といっても、権威や権力による強制ではなく、どこまでも人間対人間の条理を尽くした対話による、触発と合意に基づくものであることを表している。


日蓮が、北条時頼を諫暁したのも、為政者の立場にあって、悩み苦しむ、一人の人間としての時頼に、真実の仏法を教えるためであった。

さらに、それによって時頼が、まことの人間の道に目覚め、“民のための政治”を行っていくことを願ってのことであった。


何よりも、これ以上、不幸な事態を、絶対に引き起こしてはならないという、大慈大悲ゆえの警鐘でもあった。

「立正安国論」で、日蓮は、こう結論する。
「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ」

不幸と苦悩に覆われた社会を変革し、「国を安んずる」直道は何か、日蓮は、それは、一人の人間の心のなかに「正を立てる」ことから始まるのだと呼びかけている。

つまり、時代、社会の創造の主体である、一人ひとりの人間の内発性の勝利を打ち立て、社会の繁栄と平和を創造していこうとするのが日蓮仏法である。

そして、その原理を解き明かしたのが、この「立正安国論」であった。


「実乗の一善に帰せよ」とは、「偏頗な生命観、人間観を排して、生命の尊厳に立ち返れ」「エゴを破り、慈悲を生き方の規範にせよ」「真実の人間主義に立脚せよ」との指南といってよい。

ここに、人類の繁栄と世界の平和のための、普遍の哲理がある。


時頼は日蓮の主張に真摯に耳を傾けることはなかった。しかも、側近たちによって、その内容は歪曲され、誹謗されて、念仏をはじめとする、他宗の僧らに伝えられたのである。

鎌倉の地にあって、日蓮が他宗派の誤りを正してきたことを、諸宗の僧は、いまいましく思っていた。
そのうえ、時頼にまで諫暁の書を送り、自分たちを批判したと思うと、彼らの怒りは頂点に達した。

日蓮の身に危険が迫りつつあった。

この「立正安国論」の上程から40日が過ぎた、8月27日の夜、鎌倉の松葉ケ谷にあった日蓮の草庵が、念仏者たちによって襲われるという事件が起こった。松葉ケ谷の法難である。

日蓮の予想は現実となった。それは、彼の本格的な迫害に次ぐ迫害の人生の始まりであった



太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋

青年を育てる側の姿勢

『新・人間革命』第4巻 立正安国の章 P242~

青年を育成する側の姿勢について

青年を触発する何かを与え続けることほど、難しいことはない。
伸一は、それを可能にするには、自分が、自身の原点であり、規範である師の戸田を、永遠に見失わないことだと思った。源を離れて大河はないからだ。

また、求道と挑戦の心を忘れることなく、自己教育に徹し、常に自分を磨き、高め、成長させていく以外にないと感じていた。

そして、私心を捨て、人類の幸福のために生き抜く自らの姿を通して、青年の魂を触発していこうと、伸一は誓うのであった。

長野県の霧ケ峰高原での「水滸会」の野外研修に参加する伸一。
青年たちの質問に答える伸一。

「さて、帰命という問題ですが、現代の状況のなかでは、自分の人生の根本の目的は広宣流布であると決めて、生きて、生きて、生き抜くことが仏法に身命を奉ることになるといえるでしょう。

広宣流布を自分の人生の根本目的とするならば、学会員として、職場にあっても第一人者にならざるをえない。自分が職場の敗北者となってしまえば、仏法のすばらしさなど証明できないし、誰も信心など、するわけがないからです。」

「また、家庭にしても、和楽の家庭をつくらなければならないし、健康にも留意することになる。
 ゆえに、広宣流布を根本にした人生を歩むということは、社会の勝利者となって幸福になっていくということなんです。したがって、それは、決して、悲壮感が漂うような生き方とはなりません。」

「見方を変えて語るならば、たとえば、広宣流布のために活動する時間をどれだけもつか、ということにもなってきます。 これは極めて計量的な言い方だが、仮に一日2時間の学会活動を、60年間にわたってすれば、計算上は5年間の命を仏法に捧げたことになる。」

「ともあれ、広宣流布こそわが生涯と決めて、自らの使命を果たそうとしていく生き方自体が、仏法に帰命していることに等しいといえます」


女子部の「華陽会」の野外研修でも語る伸一。

「大聖人は、流罪という大苦難のなかでも、大歓喜を感じておられた。
 どんな環境にあっても、人生を楽しみきっていけるのが信心です。
 戸田先生は、成仏というのは、生きていること自体が、楽しくて、楽しくてしょうがないという境涯であると、よく語っておられた。」

「人間の人生には、苦労はつきものです。学生のうちは、勉強しなければならないし、会社に入れば、働かなければならない。では、結婚すれば、楽になるかといえば、家事や子育てに追われ、まるで戦争のような生活になる。」

「しかし、そのなかに、意義を見いだし、生きがいをつくり、目標を定め、はつらつと挑戦し、苦労をも楽しみながら、瞬間、瞬間を最高に有意義に、楽しみきって生きていける人が人生の達人なのです。結局、幸福とは、外にあるのではない。私たちの心のなかにある。それを教えているのが仏法です。」

裏方に徹し、黙々と陰で頑張る女子部員を見て、
「リーダーとして、誰が陰で頑張っているのか、誰が最も苦労しているのかを、常に見抜いていかなくてはならない。華やかな表舞台にばかり、目がいき、表面だけしか見ないリーダーでは、後輩がかわいそうです。そうなれば、やがて、皆が見せかけだけを考え、要領よく立ち回るように、なってしまう。」

「結局、見事な組織をつくっていくといっても、人間としての思いやりであり、心遣いがすべてだ。そこに人は心を打たれ、頑張ろうという気持ちにもなる。役職の権威でもなければ、理屈でもありません。 生きた教育とは、人と人との、自然な触れ合いのなかにあるものだ。」

「女子部は学会の花なんだから、いつも、このように楽しく、そして、常識豊かに、活動を進めていくことです。誰が見ても、明るく、さわやかでいいなと思えることが、信心のすばらしさの証明になるからだよ」

人生を開花させるための信仰である。一輪の可憐な花が、周囲を明るくし、人びとの心を和ませるように、信心に励めば励むほど、思いやりにあふれ、明朗で快活になっていってこそ、本当の信仰といえる。


太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋

政治権力と宗教

『新・人間革命』第4巻 立正安国の章 P233~

<立正安国の章始まる>

7月3日ーそれは、学会の新生の日であり、広宣流布の獅子王が、
軍部政府という権力の鉄鎖から、野に放たれた日である。
伸一は、広宣流布とは、権力の魔性との戦いであることを痛感していた。

古来、仏教をはじめ、日本の宗教は、国家権力に取り込まれ、
むしろ、積極的に与することによって、擁護されてきた。

福沢諭吉は『文明論之概略』のなかで、次のように述べている。
「宗教は人心の内部に働くものにて、最も自由、最も独立して、豪も他の制御を受けず、
 豪も他の力に依頼せずして、世に存すべきはずなるに、わが日本に於いては則ち然らず」


そして、宗教が政治権力に迎合してきたことに触れて、こう指摘している。
「その威力の源を尋ねれば、宗教の威力にあらず、ただ政府の威力を借用したものにして、
 結局俗権中の一部分たるに過ぎず。仏教盛んなリといえども、
 その教は悉皆政権の中に摂取せられて、十方世界に遍く照らすものは、仏教の光明にあらずして、
 政権の威光なるが如し」


仏教各派にとっても、政権に摂取されることが、権力の弾圧を回避し、
自宗の延命と繁栄を図る術であったといえよう。

学会も、権力の意向に従い、現実の社会の不幸に目をつぶり、
単に来世の安穏や心の平安を説くだけの、“死せる宗教”であれば、何も摩擦は生じなかったであろう。

しかし、それでは、民衆の幸福と社会の平和を実現するという、宗教の本来の目的を果たすことはできない。そして、宗教が民衆のための社会の建設に突き進んでいくならば、民衆を支配しようとする魔性の権力の迫害を、覚悟せざるをえない。

また、彼が決して忘れることができないのは、弟子を思う熱い、熱い、師の心であった。

大阪府警に出頭するため、関西に向かう伸一に、戸田はこう語った。
「・・・もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」

当時、戸田の体はいたく憔悴していた。同行の幹部に支えられ、喘ぐように肩で息をし、よろめきながら、検察の階段を上がっていった。

戸田は、可能ならば、伸一に代わって、自分が牢獄に入ることも辞さない覚悟だった。
弟子のためには、命を投げ出すことさえ恐れぬ師であった。

今、戸田の墓前に立つ伸一の胸には、「権力の魔性と戦え!民衆を守れ!」との、師の言葉がこだましていた。



太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋
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