小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命  第4巻

ベルリンの壁

『新・人間革命』第4巻 大光の章 P346~

いよいよベルリンの壁へ向かう 山本伸一一行に、同行してくれる壮年は、やめたほうがいいと忠告する。今は、危険な状況であるというのだ。

ベルリンの境界線では、毎日のように発砲事件が起き、東側から逃亡を企てた人が、東ドイツの兵士に射殺されているというのだ。警戒が厳重で、写真一つ撮るのも、警官の指示に従わないと大変なことになると話す。

しかし、伸一は 仏法者として、分断された悲惨なドイツの現実を、生命に焼きつけ、魂魄を留めて、東西ドイツの融合を、世界の東西冷戦の終結を祈り、それをもって、創価学会の平和への旅立ちとしたいと話す。

第二次世界大戦で敗れたドイツは、占領政策に基づき、4か国の管理下に置かれる。そして、ドイツの半分の東地域をソ連が管理し、さらに、ドイツの首都であったベルリンについては、同じく、4管理地域に分けられ、東半分をソ連が受けもつという複雑な管理体制だった。

西ベルリンは、自由主義の「ショーウインドー」として存在し、東ドイツを脱出して、西ドイツに亡命する人が後を絶たなかった。

1961年8月13日、夜明け前の闇の中、境界線に沿って、鉄条網などでバリケードがつくられ、東西を結ぶ地下鉄、高架線、道路を封鎖。東西ベルリンが完全に分断された。

一夜にして、家族が、愛し合う恋人たちが、完全に引き離されてしまったのである。

伸一は、車を降りて、ブランデンブルク門の真下に立ちたかったが、それは許されぬことであった。

同行のドライバーは、「同じドイツ人が一緒に暮らす権利があるはずだ。」と壁の向こうにいる高齢の伯母を思い涙ぐんだ。

眼前に立ちふさがる壁の高さは、わずか、3、4メートルにすぎない。だが、その壁が、自由を奪い、人間と人間を、同胞を、家族を引き裂いているのだ。何たる人間の悪業よ!人間は何のために生まれてきたのかと、山本伸一は、炎のような強い憤りを感じた。

ー人間がともに生き、心を分かち合うことを拒否し、罪悪とする。それは、人間に、人間であるなということだ。そんな権利など誰にもあるわけがない。

だが、壁はつくられた。まぎれもなく人間によって。東西の対立といっても、人間の心に巣食う権力の魔性がもたらしたものだ。

そして、このドイツに限らず、韓・朝鮮半島も、ベトナムも、分断の悲劇に襲われた。いや、それだけではない。ナチスによる、あのユダヤの人びとの大量殺戮も、あらゆる戦争も、核兵器も、皆、権力の魔性の産物にほかならない。

伸一の脳裏に、戸田城聖の第一の遺訓となった「原水爆禁止宣言」がまざまざと蘇った。
ーあの宣言の精神も、“人間の生命に潜む魔性の爪をもぎ取れ”ということであった。

魔性に打ち勝つ力はただ一つである。それは、人間の生命に内在する仏性の力だ。

仏性とは慈悲の生命であり、破壊から創造へ、分断から融合へと向かう、平和を創造する原動力である。人間の胸中に、この仏性の太陽を昇らせ、魔性の闇を払い、人と人とを結びゆく作業が、広宣流布といってよいだろう。


雨があがり、美しい夕焼け時が訪れていた。

伸一は、思った。
“太陽が昇れば、雲は晴れ、すべては黄金の光に包まれる。そして、人間の心に生命の太陽が輝くならば、必ずや、世界は平和の光に包まれ、人類の頭上には、絢爛たる友情の虹がかかる・・・”

彼は、ブランデンブルク門を仰ぎながら、同行の友に力強い口調で言った。
「三十年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう・・・」

伸一は、単に未来の予測を口にしたのではない。願望を語ったのでもない。それは、やがて、必ず、平和を希求する人間の良心と英知と勇気が勝利することを、彼が強く確信していたからである。

また、世界の平和の実現に、生涯を捧げ、殉じようとする、彼の決意の表明にほかならなかった。

一念は、大宇宙をも包む。それが仏法の原理である。


“戦おう。この壁をなくすために、平和のために。戦いとは触発だ。人間性を呼び覚ます対話だ。
そこに、わが生涯をかけよう”伸一は、一人、ブランデンブルク門に向かい、題目を三唱した。

「南無妙法蓮華経・・・」
深い祈りと誓いを込めた伸一の唱題の声が、ベルリンの夕焼けの空に響いた。


新・人間革命 4巻終了



太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋

ヒトラー 悪との戦い

『新・人間革命』第4巻 大光の章 P328~

ヒトラーは、彼の政治活動の初めから終わりまで、ユダヤ人への憎悪を燃やし続けていた。

山本伸一は、ヒトラーが独裁者となるまでの経緯を語った。

第一次世界大戦末期、ドイツでは革命が起き、皇帝はドイツを去り、ワイマール憲法のもとで民主政治の時代が始まる。

しかし、長らく封建的な体制に馴染み、近代市民国家としての伝統が浅かったドイツの、社会の実態は、いまだ家父長的な封建主義が根強かった。

しかも、ベルサイユ条約によって、莫大が賠償を課せられていたドイツは、大きな重荷を背負い、経済危機を招き、民衆の生活を破壊させた。

こうした、生活苦のなかで、保守勢力や大衆は、その不満のはけ口をユダヤ人に向け、彼らに非難が集中していった。そして、一部のユダヤ人に財界人がいたことなどから、根拠のない噂が流される。

その代表的なものが、「ユダヤ人がドイツを支配しようとしている」という噂であった。
悪意のデマも、「ウソも百回言えば本当になる」とばかりに、繰り返し喧伝されることで、巨大な力をもったのである。

ヒトラーは自分の気に入らないものは、すべてユダヤ人に結びつけた。
こうして作られた虚構の「ユダヤ人問題」を「最終解決」するために、ユダヤ人の「排除」を叫び、それは遂に、“アウシュビッツ”に代表される「ユダヤ人絶滅計画」にまで行き着いてしまうのである。

なんという狂気か。なんという惨劇か。

物理学者のアインシュタインは、「ユダヤ人についての憎悪感は民衆の啓蒙を忌み嫌うべき理由をもつ人々によるものなのです。」と、その迫害者の心理を鋭く分析している。

その指摘のように、権力の亡者は、民衆が賢くなり、自分たちの思い通りにならなくなることを、何よりも恐れる。それゆえに、民衆を目覚めさせ、自立させようとする宗教や運動を、権力は徹底的に排除しようとするのである。それは、いつの時代も変わらざる構図といえよう。

「忘れてならないのは、ヒトラーも、表向きは民主主義に従うふりをし、巧みに世論を扇動し、利用していったということだ。」

「民衆が、その悪の本質を見極めず、権力の魔性と化した独裁者の扇動に乗ってしまったことから、世界に誇るべき“民主憲法”も、まったく有名無実になってしまった。これは、歴史の大事な教訓です。」

と強い口調で語る山本伸一。

こんなひどいことが行われていたのに、ナチスに抵抗する動きはなかったのかとの質問に、
「抵抗した人たちもいる。しかし、本気になって抵抗しようとした時には、ナチスは、ドイツを意のままに操る、巨大な怪物に育ってしまっていた。結局、立ち上がるのが遅すぎた。」と語る。

キリスト教会の反ナチ闘争の中心的人物だった牧師マルティン・ニーメラーは回想する。
「ナチスが共産主義者を襲った時、不安になったが、自分は 共産主義者ではないので抵抗しなかった。社会主義者を攻撃した時も、同じだ。次いで、学校、新聞、ユダヤ人・・・と、ナチスは攻撃を加えたが、まだ何もしなかった。そして、ナチスは、遂に教会を攻撃した。」

「そこで、初めて抵抗した。しかし、その時には、もはや手遅れであったー」

こうした悲惨な時代を生きた人びとは、すべてが、起こってしまったあとに、その教訓として、次のような格言を、苦い思いで噛み締めたという。

すなわち、「発端に抵抗せよ」「終末を考慮せよ」と。
悪の芽は、気がついたら、直ちに摘み取ることだ。悪の“発端”を見過ごし、その拡大を放置すれば、やがて、取り返しのつかない“終末”をもたらすことになる。

「一般のドイツ人にしてみれば、ナチスの暴虐も、自分たちに火の粉が降りかかるまでは、対岸の火事でしかなかった。その意識、感覚が、『悪』を放置してしまったんです。」


人間は、他の人が迫害にさらされていても、それが自分にも起こりうることだとは、なかなか感じられない。

民衆の側に、国家権力の横暴に対して、共通した危機意識がなかったことが、独裁権力を容認した理由の一つといえるだろう。

学会がなそうとしていることは、民衆の心と心の、強固なスクラムをつくることでもある。

「日本にもすばらしい憲法があっても、それが踏みにじられることにもなりかねない。
 小さな穴から堤防が破られ、濁流に流されていくように。」

「こうした事態が、これから先も起こりかねない。しかも、『悪』は最初は残忍な本性は隠し、『善』や『正義』の仮面を被っているものだ。だからこそ、『悪』に気づいたら、断固、立ち上がるべきだよ。それを、私たち日本人も、決して忘れてはならない」
と語る伸一。


太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋

真実の隠ぺいの構図

『新・人間革命』第4巻 大光の章 P320~


翌日、西ドイツ(当時)のデュッセルドルフへ向かった山本伸一。
空港には数人の人が出迎えてくれた。

戸田城聖の友人であった弁護士の娘夫婦、また、入会して3か月の日系婦人とその夫、出張でやってきた壮年であった。

伸一は、特にドイツの一粒種となるこの婦人には、記念の袱紗を贈り、話に耳を傾け、一期一会の思いで全魂を注いで励ましていった。

周囲に、学会員は誰もいないし、寂しく、心細い状況を知ったうえで、
「ひとたび、信心をしたならば、広宣流布をしていくことが、自分の使命なのだと決めて、ともかく、一人でも、二人でも、着実に同志を増やしていくことです・・・」

伸一は、真心を込めて、指導を続けた。たとえ、入会して日は浅くとも、この一人が立ち上がれば、そこから未来は開けるからだ。

もちろん、全力で激励したからといって必ず、その人が立ち上がるとは限らない。むしろ、期待通りに発心し、育ってくれることは希といえよう。

しかし、それでもなお、「皆、地涌の菩薩」「皆、人材」と確信して、命を削る思いで励ましていくことが、幹部の責任である。その積み重ねのなかから、まことの人材が育っていくのである。

市内を巡った伸一は、マルクト広場のウィルヘルムの銅像の 逸話を聞く。

この、銅像を制作したのは、当時の有名な彫刻家グルペッロであった。

銅像が、鋳造される時、銅が少し足りなくなった。それを聞いた町の人びとが家から銅器などを持ってきて差し出した。皆、優れた政治を行った領主ウィルヘルムを誇りに思い、慕っていたからだ。

銅像が出来上がると、人びとは称賛して大喜びした。しかし、この銅像の制作を依頼されず、グルペッロを嫉妬していた者たちが、銅像に、難癖をつける。人々は、その非難が妥当なものかどうかは、よくわからなかったが、あまりに、非難が激しいので、銅像を褒めることをやめてしまった。

グルペッロは 銅像の回りに板塀を巡らし、その中で、作業を始めた。なかから、槌を打つ音や何かを削るような音が聞こえた。三週間過ぎたころ板塀が取り除かれた。

すると、盛んに悪口を言っていた者も、難癖はつけなくなった。人びとは再び絶賛し、彼らも、皆と一緒になって、褒め始めた。

ウィルヘルムは『どこを直したのか』とグルペッロに尋ねた。
『銅像は直すことはできません。もとのままです。これで、悪口を言った者たちの考えは、おわかりいただけると思います』と答えた。


伸一はその逸話を聞いて言った。
「周囲の評価には、しばしば、そうしたことがあります。」

「創価学会もこれまで、根拠のない、理不尽な非難や中傷に、幾度となくさらされてきました。結局、それらは、学会の前進を恐れ、嫉妬する人たちが、故意に流したものでした。」

「しかし、それを一部のマスコミが書き立てると、自分で真実を確かめようとはせずに、皆、同じことを言うようになる。また、学会に接して、すばらしいと思っていた人も、自分の評価を口にしなくなってしまう場合がある。風向き一つで変わってしまう。そんな煙のような批判に一喜一憂していたら、本当の仕事はできません。」

「私は、学会の真価は、百年後、二百年後にわかると思っています。すべては、後世の歴史が証明するでしょう。」


ライン川の河畔にたたずむ一行は『ローレライ』の歌を思い出す。
伸一は、『ローレライ』の歌は、ヒットラーの時代には、“詠み人知らず”にされていたと話す。

それは、ハイネがユダヤ人だったから。ナチスは、過去の文学や芸術に至るまで、ユダヤ人の影響が認められるものは、徹底的に排除した。『ローレライ』の歌は、有名すぎて、作品まで抹殺できないので、作者のハイネの名前を消して、永遠にその功績を葬ろうとしたという。

『ローレライ』の歌の作者の名を消したのは、ナチスのユダヤ人迫害の、ほんの一端にすぎない。
ヒトラーの戦争は一面、『ユダヤ人への戦争』だった。
と思いがけず、ナチスのユダヤ人迫害の話になった。


太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋

真心の励まし

『新・人間革命』第4巻 大光の章 P313~

山本伸一は、日本を出発してから、ほとんど休んでいなかった。
川崎は、医師として、伸一の体を心配していた。そんな川崎に伸一は言った。

「同志のため、広宣流布のために生きるのが、私の使命なんです。そして、使命を果たすとは、命を使うと言うことだ。その決意がなければ、学会のリーダーにはなれません。」

その言葉は、川崎にとっては、少なからず衝撃的であった。

彼は、伸一を学会の会長として尊敬はしていたが、信仰歴も浅く、学会の精神もよくわからなかったし、同志を思う伸一の深い心も知らなかった。

川崎は、医師として人のために献身することの意味や喜びは知っていた。しかし、本当に、人びとのことを考えて、医学に取り組んできたかというと、むしろ、自分の学問的な興味の方が優先していたように思えるのである。

彼は、伸一の姿を目にして、自分が恥ずかしく感じられてならなかった。

仕事が多忙で会合に参加できないと話す壮年部に伸一は、激励する。
「いいんだよ。仕事が大変なことはわかっている。ただ、心は、一歩たりとも信心から離れないことだ。また、こうして、少しでも時間があれば、私にぶつかって来る。あるいは、先輩にぶつかっていくということが大事なんだよ」

「私も、なすべき課題は山ほどあるが、時間が限られている。そこで、心がけていることは、一瞬たりとも時間を無駄にしないということだ」

「人生は長いようで短い。ましてや、青年時代は、あっという間に過ぎていってしまう。」
「時は『今』だよ。50年後になって、さあ戦うぞといっても、たいした働きはできないではないか。
大聖人も『一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ』と仰せになっている。」

「君らしく、すべてを工夫しながら、君でなければできない戦いを開始していくことだよ。その中で自分自身も鍛えられ、人間として大成していくことができるし、永遠の福運を積んでいくことにもなる」
と発心を促した。

伸一は、九州の婦人部幹部で 亡くなられた柴山美代子さんが、生前に『私の夢は、ヨーロッパに仏法を広めに行くことです』と語っていたことを忘れず、残された子どもさんたちにお母さんが行きたがっていたヨーロッパのお土産を 渡してあげたいと 絵皿を買い求めた。

「皆、ともすれば、亡くなった人のことは忘れてしまう。しかし、私は一緒に戦い、苦労を分かち合ってくれた同志のことを、決して忘れるわけにはいかないんだ。」

「私は、そうした家族を生涯、見守っていきたいと思っている。いつも、いつも、幸せを祈っている。本当の真心の世界、人間の世界が学会だもの・・・」

「尊い、大切な同志だもの・・・。広宣流布に生きる私たちは、三世まで、一緒です。生死を超えた、永遠の同志であり、また、妙法で結ばれた、永遠の家族です。学会の団結は、その心のうえに成り立っているからこそ強いんです。現代の社会で、本当に人間と人間の心を結びつけていけるのは、学会だけでしょう。」と話した。



太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋

グルントウィとコルのフォルケホイスコーレ

『新・人間革命』第4巻 大光の章 P305~

10月5日、ヨーロッパ訪問の最初の地 デンマークのコペンハーゲンに到着した山本伸一。


伸一は、デンマークの色とりどりの家並みを見て、デンマークのユニークな教育の一環を垣間見た思いがした。

彼は、牧口常三郎の「創価教育学体系」の「緒言」に書かれた、デンマークの復興の父グルントウィと、その若き後継者コルのことを思い出した。

この二人の教育者については、かつて、戸田城聖が何度となく、伸一に語ってくれた。

グルントウィは、デンマークが世界に誇る大教育者であり、「フォルケホイスコーレ(国民高等学校)」の創設者として知られている。


激動の時代に成長したグルントウィは、本の知識を、ただ丸暗記するだけの、暗記中心の詰込み主義の学校教育に大きな疑問をいだいた。後に、彼は、自分の教育理念をつづった著作「生のための学校」のなかで、そうした学校教育を、“死の学校”だと批判している。

グルントウィは、大地に根を張った民衆を蔑視し、民族の文化を軽く見る大学出の都会のエリートたちに強く反発した。

グルントウィの人生は、迫害の連続であった。しかし、彼は、信念を曲げなかった。

“民衆自身が目覚めて、政治を監視し、自由に発言できる力をもってこそ、真の民主であり、真の祖国の復興になるはずだ。民衆を聡明にしよう!民衆を勇敢にしよう!民衆を雄弁にしよう!”

そのために、彼が構想したのが、「フォルケホイスコーレ」であった。

最初の「フォルケホイスコーレ」がオープンしたのは、1884年のことであった。

そして、この「フォルケホイスコーレ」が、デンマーク社会に深く根を張り、大発展していく原動力となったのが、後継者のクリステン・コルである。

コルは、グルントウィよりも30歳以上も若い、少壮気鋭の教育者であった。
コルも、若くして教育者となったが、やはり、詰め込み教育になじめず、精神的にも落ち込んでしまった。そんな時、偶然、グルントウィの思想を知るのである。

その後コルは、グルントウィの「フォルケホイスコーレ」の構想に共鳴し、それを実践しようと、学校の設立に奔走する。しかし、決して裕福ではない彼は、資金的に行き詰まり、グルントウィに援助を求めた。

一面識もない青年の依頼ではあったが、グルントウィは、並々ならぬ情熱を感じたのであろう。
コルに対する援助を快諾するのである。

こうして、コルの「フォルケホイスコーレ」が開校する。1851年のことであった。

グルントウィの共鳴者はたくさんいた。しかし、グルントウィを師と定め、彼の「生きた言葉」を、師の心を教育の現場で、そのまま実践していったのは、コルをおいてなかったといわれている。

コルは、生涯、質素な作業着で、青年との対話、庶民との対話を続けた。その姿から、「野良着のソクラテス」と呼ばれ、人びとに慕われたのである。

この時、デンマークは、「外で失ったものを内で取り戻そう」と、祖国復興を目指して、未開拓の荒れ地の多かったユトランド半島で、植林運動を開始している。

そして、「フォルケホイスコーレ」という、グルントウィが種を植えた、“教育の森”も、デンマークの各地に広がり、祖国復興を担う人間の大樹を育てる力となったのである。

牧口常三郎は「創価教育学体系」の「緒言」で、この書の発刊は、愛弟子・戸田城聖の奮闘なくしてはありえなかったと述べ、その感謝の心情をグルントウィとコルの師弟の姿に重ね合わせている。

牧口、戸田の教育観、学校観も、「人間をつくる」「民衆を聡明にする」という点など、グルントウィに近いものがあった。

山本伸一は、コペンハーゲンの街を車窓からながめながら、自分もコルのように、先師牧口常三郎、恩師戸田城聖の教育の理想を受け継ぎ、一刻も早く、創価教育を実現する学校を、設立しなければならないと思った。



太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋
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新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


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