小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命  第3巻

兄の思い出

『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P284~


ビルマで戦死した長兄の追善法要を行う山本伸一。


伸一は 長兄との忘れがたい いくつもの出来事を思い出していた。


長兄と分け合った1枚の鏡の破片は 母が父のもとに嫁いだ時に持参した鏡だった。
何かの拍子で割れてしまった、母の鏡。
手のひらほどの大きさの鏡の破片を拾って宝物にしていた。


兄は、その鏡の破片を持って出征していった。
伸一もまた、派遣を見ては兄をしのんだ。


最初、長兄は中国大陸に出兵していたが、一時帰国した時に、
憤懣やるかたない様子で、戦争の悲惨さを伸一に語った。
「伸一、戦争は、決して美談なんかじゃない。結局、人間が人間を殺す行為でしかない。
そんなことがゆるされるものか。皆、同じ人間じゃないか」
「戦地をみてきたからこそ、私はお前に言うのだ。」
その長兄の話が、いつまでも伸一の心に焼きついて離れなかった。


当時、国民学校に通う伸一は“兄さんが言うように、戦争は残酷かもしれない。
しかし、日本の戦争は東亜の平和を守る聖戦なんだ。”伸一は純粋にそう信じていた。
しかし、父も母も、彼が少年航空兵になることには、絶対に反対であった。


「うちは、上の三人とも兵隊に行った。間もなく4番目も行く。
そのうえ5番目までも持って行く気か。もうたくさんだ!」
「俺はどんなことがあっても、お前を兵隊にはさせんぞ!」常にない父の見幕であった。


終戦を迎え 二年近くが過ぎた頃、1通の戦死公報が届いた。
29歳になっていたのに、なぜか26歳で戦死したことになっていた。

年齢が違うことから間違いであって欲しいと願ったが、間もなく
遺骨も帰ってきた。


いつも 気丈な母であった。


戦争末期の頃、空襲の類焼を防ぐため、家が取り壊されることになり、
近くの親戚に移住することになった日、空襲にあってしまう。

かろうじて家から持ち出すことができたのは 長持ち1つだった。
ただ一つ残った長持ちに、家族は期待の目を向けた。



しかし、長持ちを開けると、皆、言葉を失ってしまった。
中から出てきたのは雛人形であった。その端に、申し訳なさそうに一本の
コウモリ傘が入っているだけであった。



伸一は全身の力が抜けていく思いがした。
家族の誰もが、恨めしそうな顔で、虚ろな視線を雛人形に注いだ。


その時、母が言った。
「このお雛様が飾れるような家に、また、きっと住めるようになるよ・・・」
母もがっかりしていたはずである。しかし、努めて明るく語る母の強さに励まれ、
家族の誰もが勇気をわくのを覚えた。


母の胸には“負けるものか!”という、強い闘志が燃えていたに違いない。


しかし、そんな母にも長兄の戦死の衝撃は大きかったようだ。
遺骨を抱きかかえ、いつまでも背中を震わせて、泣き濡れていた。
伸一は、その姿を忘れることができなかった。



太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

インパール作戦

『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P274~


インドのカルカッタを飛び立ち、ビルマの首都ラングーン(ヤンゴン)に到着した伸一一行。
ビルマでは、戦時中、多くの戦死者が出ていた。
山本伸一の長兄も、徴兵されここで命を落としたのである。


ビルマで 1944年(昭和19年)3月8日、太平洋戦争の中でも
「最も無謀」な作戦と言われたインパール作戦が実行された。


日本軍は、イギリスの植民地であるビルマに侵攻し、首都ラグーンを占領。
ほどなくビルマ全土を支配下に置き、軍政を施行した。
その時、日本軍とともに戦ったのが、ビルマ独立義勇軍だった。


この義勇軍の中心的人物が、後に「ビルマ独立の父」といわれた
アウン・サンである。
1991年にノーベル平和賞を受賞したアウンサン・スー・チーは彼の娘である。


当初、アウン・サンはイギリスからビルマの独立を勝ち取るために、
日本軍に協力し、同志とともに、日本軍に軍事訓練を受けていた。

初め、日本軍は ビルマを占領したあとは、独立させることを約束していたが、
占領後は それを延期しつづけていた。日本軍に対する批判が渦巻き始めた。


ビルマから撤退したイギリス軍は、インドのインパールに拠点を置き、
ビルマ奪回をを計画していた。


日本軍は、防御を固めるより、一気にインパールを攻略する計画をたてていた。
それが、インパール作戦である。


計画の発案者である司令官は 自負心が強く、イギリス軍を撃退した慢心と
油断で 計画は無謀だという反対意見を唱える参謀長を 更迭する。


日本大本営は イギリスを混乱させるねらいから、ビルマの独立を表面上認める。
そして、インパール作戦は 客観的条件を無視し、物資などの補給もされず、
逆に2割削減されたうえ、作戦が決行されることが決まった。


インパール作戦の失敗は 明らかになるも、誰も中止をいいだすことなく、
ずるずると放置され、兵士たちは 戦闘だけでなく、飢えや病で死んでいった。
自ら命を絶つ者も続出し、作戦が中止された、撤退も凄惨を極める。


インパールからビルマに至る道には無数の屍が横たわり、「白骨街道」と呼ばれた。
山本伸一の長兄は、前線への軍需品の輸送にあたっていた。
そして、1945年(昭和20年)1月11日 イラワジ川の輸送任務中に、
イギリス軍の戦闘機の攻撃を受け、戦死した。29歳であった。


組織とは

『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P264~

山本伸一の宿泊するカルカッタのホテルに 戸田が懇意にしていた実業家が訪ねてきた。
戸田の思いで話をする彼は、戸田が創価学会を組織化したことをほめる。

これからは 組織の時代であるから、学会を組織化したことで学会は 発展したと話す。


伸一は、
「一面では確かにその通りかもしれませんが、それだけではないと思います。」と話す。


「組織ならどこにでもあります。会社も、組合も、すべて組織です。そして、
組織化すれば、すべてうまくいくかといえば、逆の面もあります。
組織は整えば整うほど硬直化しますし、官僚化していくものです。」


「組織というのは 人間の体にたとえれば、骨格のようなものではないでしょうか。
必要不可欠なものですが、それだけでは血は通いません。」


「戸田先生の偉大さは、その組織を常に活性化させ、
 人間の温かい血を通わせ続けたことだと思います。
 具体的にいえば、会員一人ひとりへの励ましであり、指導です。」


「苦悩をかかえて、死をも考えているような時に、激励され、
 信心によって立ち上がることができたという事実ーこれこそが学会の発展の源泉です。」


「同志が戸田先生を敬愛したのは、先生が会長であったからではありません。
 先生によって、人生を切り開くことができた、幸福になれたという体験と実感が、
 皆に深い尊敬の念をいだかせていたんです。」


「ゆえに、それぞれが、戸田先生を自身の師匠と決めて、
 喜々として広宣流布の活動に励んできたんです。」


「ですから、もしも、戸田先生が会長をお辞めになっていても、先生は常に皆の先生であり、
 仏法の指導者であり、人生の師であったはずです。」


実業家は、驚いたように伸一の顔をまじまじと見つめた。そして、静かな声で言った。
「確かにそうかもしれない。私も、学会のことはよくわかっているつもりでいたが、
 そこまではわからなかった。」
「正直なところ、私だって嫉妬したいくらいだ。今の世の中、金の力で動かせぬもはない。
 しかし、学会は、金の力なんかではびくともしない。
 偉大な精神の世界をつくってしまったんだから・・・」


「こんなことは、誰もできやしないだろう。だから、ほかの勢力にしても、
 また、為政者にしても、悔しいし、怖いようにも感じるのだろうね。」


「もう一つ、戸田さんのすごさは、あなたという後継者を育てたことではないかと思う。」
「あなたのような後継者をもった戸田さんがうらやましい。いや実にうらやましい・・・。」
この実業家は伸一と二時間ほど懇談すると、「勉強になった。ありがとう」と言い残して、
ホテルの自分の部屋に帰って行った。


太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

ラビンドラナート・タゴール

『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P252~

大菩提寺に 東洋広布の道標を打ち立て
新しき歴史の1ページを開いた 1961年(昭和36年)2月4日を忘れない。



ブッダガヤをあとにした山本伸一一行は霊鷲山に寄る。
霊鷲山の近くに温泉が湧いていることを聞くと、
総本山の 湧き水のことを思い出す伸一。


5年前、戸田城聖が 今後の登山会のために、豊かな飲料水の確保を目的に
ボーリングを提案した。


地質調査の結果水脈はないといわれていたが、戸田が真剣に祈り
別の場所を掘ったところ、水源にぶつかった。
戸田は、広宣流布が近い瑞相だと喜んだ。


正法の興隆あるところ、涌出泉水があると実感した伸一。

次の訪問地カルカッタに到着した一行。
カルカッタには 特別な思いがあった伸一。

彼の敬愛する詩聖タゴールが生まれ、育ち、没した地だったからである。
彼は詩人というだけでなく、小説家、劇作家、音楽家、画家でもあり、
さらに、偉大な教育者、哲学者としても知られている。


彼は、現実から離れ、文学の世界にこもることをよしとはしなかった。
社会の改革のために、民衆の自由のために戦う詩人であった。



イギリスの植民地政策に反対したタゴールは 人びとに決起を呼びかけ、
抗議のデモの先頭にもたったが、彼が勝ち取ろうとしたのは、
植民地支配からの自由だけでなく、まことの人間の自由であった。

暴力でインドは救えないと訴え続けるが、運動は過激なものとなり、
タゴールの非暴力の信念と相いれないものとなり、結局、
運動から離れざるをなくなった彼は、激しい非難にさらされる。


タゴールは、どこまでも人間愛を志向して、運動を展開しようとしていた。
その信念の礎には、ウパニシャッドの哲学に通ずる深い哲理があった。


ウパニシャッドでは 個人の自我を意味するアートマン(我)と宇宙の根本原理である
プラフマン(梵)の一致を理想とする梵我一致を説く。


タゴールは、その原理の具体的な実践を仏教に見いだしていた。
人生の苦難を乗り越え、妻や子供を失くすなどの悲哀を超えて書き上げた詩集
『ギタンジャリ』は1913年 東洋人として初のノーベル文学賞を受賞する。


イギリス政府は 手のひらを返したように「ナイト」の爵位をあたえるが、
イギリス軍による、民衆の虐殺事件が起きるとその「ナイト」の爵位を突き返した。


タゴールと マハトマ・ガンジーは 意見の違いはあったが、深き友情で結ばれていた。


タゴールの最も大きな怒りは人間が人間を支配することであり、国家が国家を脅かすことであった。


日本が中国への侵略を開始すると、軍国主義の怒りを詩につづり、たびたび訪日もしていたが、
極東だけでなく、ヨーロッパでも ドイツが侵略を開始し、戦火が世界に拡大すると、
タゴールの心痛は ますますひどくなり、やがて病床についてしまう。


しかし、体力がなくなっても 最後の最後まで、戦争という人間の愚行を糾弾する詩を
、生命を称える詩を口述で作り続け1941年 インドの独立を見ることなく 80歳で亡くなった。


平和の光の章 始まり

太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

オウム真理教と宗教法人法改正

『新・人間革命』第3巻 仏陀の章 P223~


釈尊は居並ぶ弟子たちに視線を注ぐと、舎利佛に言った。
「舎利佛よ!長老であるあなたが、王舎城で提婆達多を糾弾してくるのだ」


舎利佛は困惑した。
「世尊、私には、それはできません。私は、かつて王舎城で、提婆達多は偉大な力があると、
称賛してきました。その私がそうしたことを言うのは・・・」

「だからこそ、戦ってくるのだ!あなたが出向いて、提婆達多の本性を暴き、
仏陀に違背したものであると宣言してくるのだ」


悪と徹底抗戦する心が定まらなければ、悪員に付け入る隙を与え、
正義も破られてしまう。釈尊は、それを弟子たちに教えようとしていたのである。


提婆達多は頭を抱え込んだ。企てた釈尊殺害の計画が皆、失敗に終わってしまったのだ。
彼は作戦の変更を余儀なくされた。殺害計画はやめて、教団を分裂させることを考えたのである。
そこで、目をつけたのが、戒律であった。


戒律は修行のための手段であって、それ自体が目的ではない。
しかし、その戒律が目的となり、人間を縛るようになれば、まさに本末転倒という以外にない。


釈尊の教えの根本は、何ものにも紛動されない自分を作ることであり、
戒律はあくまでも、それを助けるものにすぎない。
釈尊には、厳格な戒律で人を縛るという発想はなかった。


提婆達多それを悪用し、釈尊は厳しき修行を厭い、贅沢が身についたと
新参の修行者に訴え、釈尊の教団を分裂させ、出ていってしまった。


しかし、舎利佛と 目連に促され、自分に分別がなかったために、
提婆達多に騙されたと気づいた比丘たちは 釈尊の元に戻る。


提婆達多は、憤怒に震え、その場で熱血を吐いて死んでいったと、ある仏典は伝えている。



その後、最愛の弟子、舎利佛や 目連のし、追い打ちをかけるように
釈迦族の滅亡という事件に遭遇する釈尊。


しかし、釈尊は負けなかった。無常なるがゆえに永遠の法に生き、
それを伝え抜こうとしたのである。


「さあ、行こう!」彼は弘教の旅に出ることを、呼びかけたのだ。
いかなる人も苦しみを避けることはできない。仏陀にも苦しみはある。
その苦しみの淵から立ち上がり、使命に生き抜く力が信仰である。
そこに仏陀の道、聖者の道、まことの人間の道がある。


彼は命尽きるまで、各地を巡り、法を語り説いて、生涯を終えることを決意したのである。



山本伸一は、釈尊の生涯に思いを馳せると、新たな勇気がわいてきた。
その生涯は、日蓮大聖人には及ばぬまでも、法難に次ぐ法難であった。


伸一は思った。
“自分は、凡夫の身にして悪世末法に、仏法の精髄の法を世界に弘めんとしている。
経文に照らし、御書に照らして、弾圧の嵐もあるだろう。
攪乱の謀略も、非難中傷もあって当然である。私も自分らしく、どこまでも法のままに、我が使命の旅路をゆく。命の燃え尽きる時まで、人間の栄光の旗を掲げて・・・”

仏陀の章 終わり

太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

この「仏陀」の章の連載が聖教新聞で始まったのは、1995年4月から。
直前の1995年3月 オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きている。

この事件をきっかけに、宗教に対する統制を強めようとする社会的な動きが出てきた。
それは後に、宗教法人法改正へとつながっていく。

当時の自民党は 新進党に参加した公明つぶしのため、創価学会に圧力をかけようと
宗教法人法改正の際に 創価学会 池田名誉会長を国会に 証人喚問し
さらしものに しようとしたのだ。

「仏陀」の章は 当時、卑劣なデマ・中傷にさらされていた、
学会員への励ましであったと同時に、
迫害の構図を 後世にとどめようとしたものであると思えてならない。

提婆達多の捏造や 策略は 今も 池田先生や 創価学会へ対する
迫害の構図と同じだ。 
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