小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命  第3巻

二月闘争

『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P323~


タイでの視察を終えた山本伸一の一行は、2月11日カンボジアに向かった。

この日は 戸田城聖の誕生日であった。
彼は、戸田が58歳で世を去ったことを思うと、深い感慨が込み上げてきた。

戸田の死は、伸一にはあまりにも早く感じられ、また、
30歳までも生きられないと言われていた自分が、
元気に アジアの国々を巡っていることを考えると、
戸田が寿命を分けてくれたように思えるのであった。

1952年 蒲田支部の支部幹事として、指揮をとった伸一。

報恩感謝の思いで、大聖人生誕の2月、戸田先生誕生の2月を戦いきり、
勝利の結果をもって先生にお応えし、お祝いしたかった。

師を求め、師とともに戦おうとする時、広宣流布に生きる、師の生命の
脈動が流れ通うといってよい。

蒲田の友は寒風に胸を張り、喜び勇んで、活動を開始した。
そして、この月、蒲田支部は、201世帯という未曽有の折伏を成し遂げたのである。



“やればできる!”誰もが大歓喜のなかに、そう実感した。
蒲田支部の壮挙は、触発の波動となって全国に広がり、
これが75万世帯達成への突破口となった。

この蒲田での伸一の戦いが、折伏の飛躍を遂げる
「伝統の2月」の淵源となっていったのである。


アンコールワットの遺跡を見学する伸一一行。
いにしえの アンコールワット王朝の栄華は 今は廃墟と化していた。

「結局、それを受け継いでいく『人』がいなければ、すべて、
 時とともに滅び去って行くことになる。学会も同じです。
 その精神を正しく伝える『人』がいなければ、腐敗し、堕落し、朽ち果ててしまう。」


「すべては『人』です。伝持の人、後継の人です。
 仏法を永遠ならしめていくために、戸田先生の精神の炎を、絶対に消してはならない。」


それは、戸田城聖の誕生日の、弟子としての伸一の誓いでもあった。 



東南アジアの総支部長に任命された森川に 30年後の 広宣流布の構想を尋ねる伸一。
一人を育て強くするには 何が必要かを考え、
具体的に 指導の手を入れることを 提案する。

帰国の日 当面の目標として 香港に100世帯をめざすよう提案する伸一。

「こう言うと大変なことになったと思うかもしれないが、たいした努力ををしなくても
 達成できるような目標では、皆さんの成長がなくなってしまう。

 困難で大きな目標を達成しようと思えば、御本尊に真剣に祈りきるしかない。
 そうすれば功徳があるし、目標を成就すれば、
 大歓喜がわき、信心の絶対の確信がつかめます。


 だから、目標というのは、大きな方がいいんです。」 



帰国した伸一は、迎えにきた代表幹部たちに
「私は、日本の指導にまいりました。
 さあ、今度は広布の大舞台・日本です!」と獅子吼した。

<第3巻終了>


太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

広宣流布の方程式

『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P311~

バンコクのレストランで女性従業員が 声をかけてきた。
学会員であった。

今回の訪問地には、まったく学会員のいない国もあると思っていたが、
これまでのところどの国にもメンバーがいたことになる。

アメリカやブラジルと比べれば、タイには広宣流布の小さな種が
蒔かれたにすぎなかった。それは、わずかな雨風にも流され、
吹き飛ばされかねなかった。

しかし、その一つ一つの種子を大切に育み、社会に根づかせていってこそ、
広宣流布の花園が開かれる。


学会の広宣流布は、国力をバックにしての布教でもなければ、
宣教師を送り込んでの布教でもない。

その地に生きる人が信仰に目覚め、使命を自覚するところから始まる、
民衆の内発性に基づいている。


ゆえに、一人ひとりが使命に奮い立つことに、伸一は全力を注いだのである。


アジアを歩けば、いずこの地にも、日本軍による戦争の傷跡がある。

日本人は、二度とこんな愚行を繰り返さぬために、
決して、この歴史の事実を忘れてはならない。
謙虚にならなくてはならない・・・。


そして、伸一は、一人の日本人として、アジアの人びとと同苦しながら、
今度は「幸福の道」「平和の道」を開いていこうと、決意するのであった。



太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

王仏冥合

『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P306~

山本伸一は考えた。

あの戦争は終わり、はや15年余の歳月が流れようとしているが、いまだ、
世界の民衆は戦火にあえいでいる。

戦後の世界は、イデオロギーによって分断され、冷戦構造がつくられていった。

「国家中心」から「人間中心」へ、そして、「世界は一つ」と考えていくべき時が
既に来ているはずだ。

そのために必要なのは、人間の多様性を尊重し、調和と融合を図り、
人類を結び合う生命の哲学だ。

一人ひとりがエゴイズムの殻を破り、蔑視や偏見を克服して人間性の
尊き輝きを放つことだ。

つまり、人間が自己完成へと向かいゆく、人間革命が不可欠である。



山本伸一は、ビルマで戦死した長兄のことを考えるたびに
小説『ビルマの竪琴』を 思い浮かべた。

終戦を迎えながら、それを知らずに敗走する日本兵達が イギリス軍に包囲される。
日本兵は 「埴生の宿」などをうたいながら包囲を突破しようとした。

合唱が終わると 今度は 周囲から「埴生の宿」が聞こえる。
イギリス兵が 歌っていたのだ。歌は英語だが、曲は同じだ。

つぎには「庭の千草」が聞こえる。それらの曲は、
イギリスで古くから愛唱されていた歌に 日本語の歌詞をつけたものだった。

敵も味方もなく 両軍の兵士が声を合わせて歌う。
戦争は始まらなかった。

歌が人間の心と心をつなぎ、無駄な血を流さずにすんだのである。

音楽や芸術には、国家の壁はない。それは民族の固有性をもちながらも、
普遍的な共感の広がりをもっている。



「『認識しないで評価してはいけない』と牧口先生は言われた。
アジアの宗教、文化、民族について研究し、正しく認識っしていくことが、
アジアを理解していくうえでも 大切だ。」と考えた山本伸一。

さらに、法華経を中心に研究を重ね、仏法の人間主義、平和主義を
世界に展開していける人材を育む必要がある。
それらをふまえ、東洋の哲学、文化、民族の研究機関を設立していこうと
構想を話す。

もう一つの構想は、人間と人間の交流による相互理解のために、
芸術、文化の交流が必要であり、音楽など、芸術の交流推進運動である。

世界中の音楽や舞踏を、クラシックから現代のものまで紹介していく。
民衆が古今東西の音楽、芸術に触れるとともに、人間の心を結ぶ運動を
起こしていこうと考えていた。

p318より
『王仏冥合』と言いますが、この平和と文化への貢献が『王法』です。
したがって『王法』には、芸術、教育、政治、経済などあらゆる社会の営みが含まれます。
その文化創造の大地となる、民衆の声明を耕していくのが『仏法』なんです。

『冥合』というのは、根底とする、奥深く合一しているということであり、
決して制度的に一体化することではない。

結論すれば、本来、仏法者の宗教的使命は、人間としての社会的使命を
成し遂げていくことで完結される。それができてこそ、生きた宗教です。




太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

戦争への道程

『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P298~

1926年激動の「昭和」の幕が開いた。
第一次世界大戦後の 不況と関東大震災による大打撃から
まだ、立ち直れていないところに29年の 世界大恐慌が起き、
深刻な社会不安を背景に軍部の圧力が高まっていく。

その激動のさなか1930年11月18日創価教育学会が誕生する。

翌年9月には「満州事変」が勃発し、日本は15年に及ぶ日中戦争に突入していく。

国民の多くは、この戦争を支持した。
それには、マスコミによる軍部寄りの 偽情報によることが大きい。

「満州事変」の契機となった「満鉄爆破事件」にしても、
軍部のでっちあげ情報のみを伝え、侵攻に異を唱えなかった新聞・ラジオ。

当時の 東京朝日新聞には「支那兵が満鉄線を爆破し我が守備兵を襲撃した」
とあり、遠因は「満州における正当なる我が条約上の権益に対する支那官民の
頻々たる侵害に存して居ります」と記されている。

こうした報道に接していれば、人びとが中国人に敵意をいだき、関東軍の侵攻は
正当なものであると思うのも無理からぬ話であった。

史実は、関東軍が周到な計画に基づいて満鉄を爆破し、それを中国軍の仕業だと
偽った陰謀だったのである。

軍部による報道管制が行われていたとはいえ、当時のマスコミの多くは、
進んで軍部に協力し、軍国美談をつくりあげ、戦争を礼賛していたのである。

マスコミが国家権力と連携し、真実を覆い隠してしまうならば、民衆はどうなるか。
ゆえに、言論人の責任は実に重いのである。


盧溝橋事件を発端に 日中全面戦争に突入していく日本。
政府は、国民精神総動員実施要綱を決定。

以後、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」が叫ばれ、
神社への参拝、教育勅語の奉読、戦没者慰霊祭、出征兵士の歓送などが強制されていった。

このさなか、創価教育学会の発会式が行わる。

教育改革をめざしてスタートした創価教育学会が、すべての根底をなす
宗教改革に、いよいよ本格的に取り組むことを意味していた。

宗教弾圧の嵐が吹き荒れる中、前途に、いかなる試練をも覚悟の上で、
牧口常三郎と戸田城聖は 立ち上がったのである。

暗黒の時代は、風雲急を告げていた。国家総動員法の公布、
大政翼賛会の成立など、一国を挙げての戦時体制は刻々と強化されていった。

 
牧口は、戦争遂行のための精神的支柱である国家神道の誤りを、
敢然と正そうとしていた。

当然、牧口には尾行がつき、会合にも特高警察の目が光り、
講演の中止を命じられることもあった。

しかし、彼は恐れなかった。暗黒の時代に「平和の光」を送るために、
その根本の思想、宗教の改革を叫び続けた。

それによって、1943年(昭和18年)7月6日、牧口も戸田城聖も、不敬罪、
並びに治安維持法違反の容疑で、逮捕されたのだ。

取り調べでも一歩も引かず、人間のための宗教を語った牧口は、
翌年、11月18日、栄養失調と老衰のため、獄死したのである。

牧口は、人間を蹂躙する時代の激流の中で、人間の尊厳の旗を守り抜き、
生涯の幕を閉じたのだ。



太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

治安維持法

『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P296~


20世紀は 「戦争」と「革命」にあけくれ、どの国も
「民族」や「国民」のためと言いながら、結局は、
権力が人間を利用し、手段としてきた。


1903年(明治36年)創価教育学会会長牧口常三郎は、
『人生地理学』において、社会と社会、国家と国家の生存競争に触れている。


牧口は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」「人道的競争」の
4つをあげて、人類史が「人道的競争」に向かうことを待望していた。
日露戦争が勃発する前年のことである。驚くべき、先見といってよい。


しかし、その後の世界は「軍事的競争」に狂奔し、戦争を繰り返してきた。

戦前の日本を軍国主義一色に塗り固め、戦争へと暴走させる大きな要因となったのが、
思想統制の問題といえよう。
なかでも、その代表的な例が、治安維持法の成立である。


第一次世界大戦後、戦争景気により、資本家を潤した一方、物価高騰により、
民衆の生活は 逼迫し、さまざまな大衆による、運動が広がる。
いわゆる「大正デモクラシー」だ。


内閣は 普通選挙法により政治的自由を拡大する果実を取り入れる一方で、
自由を踏みじる 思想統制に乗り出し、1925年(大正14年)治安維持法を可決した。


多くの国民は、早い時期に、治安維持法の 危険な本質を見極めることができなかった。
この悪法は、改正が行われ、自由と人権の根幹を食い破っていく。


権力が暴走し、猛威を振るう時には、必ず思想や信教への介入が始まる。
ゆえに、思想・信教の自由を守る戦いを忘れれば、時代は暗黒の闇の中に
引きずり込まれることを知らねばならない。

これこそ、時代の法則であり、歴史の証明である。


 

太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋
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新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


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