小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

人材育成

副導師の基本

『新・人間革命』第25巻 薫風の章 219p~ 

「司会者は、副導師を務めることもあるので、副導師の基本についても話しておきます。導師の声をよく聴いて、その声に合わせていくことです。大人数で勤行をすると、読経も、題目も、だんだんと遅くなりがちです。副導師は、それに引っ張られてしまうのではなく、軽やかなテンポで、みんなをリードしていかなくてはならない。

さらに、読経の発音は、明瞭であることが大事です。そうするには、日々の勤行の際に、息継ぎの場所は適切かなど、よく注意し、完璧な勤行をめざして、努力していくことです。ともかく音吐朗々と、さやかに、力強い勤行を心がけることです」

伸一は、小倉北区の男子部長で歯科医師の福富淳之介に声をかけた。役員として来ている大内掘義人、三賀正夫も呼んだ。

「みんな、歯医者さんらしくなったね。歯科医師が男子部の幹部となり、役員として、陰の力に徹し、黙々と頑張っている。その姿が尊いし、私は嬉しい。それが、創価学会の本当の姿です。社会的に、それなりの地位や立場を得ると、自分が特別に偉いかのように思い、学会員を見下したり、学会活動を軽んじるようになってしまう人もいます。

しかし、医師だから、弁護士だからといって、特別に偉いわけではない。ところが、自分が一番偉いのだと勘違いしてしまい、地道な仏道修行を怠り、信心という一生成仏への直道を、踏み外してしまう。これほど、愚かなことはありません。どうか、皆さんは、社会的な地位や立場に幻惑されるのではなく、どこまでも一途に、真の仏法者として、創価の大道を歩み抜いてください」

福富は、九州歯科大学の3年生の時、人体解剖の実習で見た、苦悶の表情をした遺体をを目にして、なぜ、死相に違いがあるのか、死後の生命はどうなるのかとの疑問が心にのしかかった。そんな時、学会の生命哲理の話を聞き入会した。

大内堀は、生命とは何かと、思索を重ねていた時、車中で知り合った学会んから仏法の話を聞き、自ら求めて入会した。

三賀は、どうしたら「無歯科医村」をなくせるかについて研究した時、先輩の恒光吉彦から学会の話を聞き、制度を変えるだけでは問題は解決しない、医師自身の人間革命が必要だとの話を聞いたが、父の実家が多宗派の寺であり、創価学会への間違った情報を聞かされていた偏見から信じられなかった。

恒光に「何も知らないで批判するというのは、青年として、人間として恥ずべきことではないか」と言われ、学会の実体を確認するために 座談会に参加した。彼は、驚嘆した。"学会は、民衆という社会を支える土台から変革している!しかも、人間の精神という内面からの変革を実際に行っている!"

三賀は、"もっと創価学会のことを知ろう"と、入会したのである。彼らの家族は、皆、創価学会に入会したことに賛同していたわけではなかった。仕送りを打ち切られたり、減額され、アルバイトで働いた。先輩幹部が 池上兄弟の御書を通して激励してくれた。三人の学生部員は、親の反対に屈せず、真剣に信心に励んでいった。

生活が楽ではない、二部学生の先輩も 餃子を持ってきてくれた。地域の婦人部も励ましの言葉をかけてくれた。教学を学ぶなかで、仏法の生命の法理に感嘆した。壮年や婦人の体験を聞き、それらを通して、信心への確信を、より深めていったのである。

同士との友情と連帯の絆、歓喜の実感、教学の深化、体験の共有ーーそこに、信心の成長を促し、人材を育てていく要件がある。

伸一は、三人と懇談した。「大学での研究が、ただ、研究のためだけに終わってしまっては、なんにもならない。また、開業医も、日々、進歩している研究の成果を、どう取り入れていくか、真剣に勉強していく必要がある。最新の研究が医療の現場で、患者さんの役に立っていくことが大切なんです。

歯科医に限らず、医療者にとって大事なことは、患者さんの立場に立って、ものを見ていくことです。私は、名医の第一の条件は、患者さんの気持ちがわかることだと思っています。つまり、同苦の心をもつことです。」伸一の指導は、三人の歯科医師にとって、人生の指針となったのである。


太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋

司会のあり方

『新・人間革命』第25巻 薫風の章 207p~ 

<薫風の章 開始> 

「九州が ありて二章の 船出かな」

77年(昭和52年)5月22日、北九州文化会館の庭で、この句碑の除幕が行われた。「いよいよ九州の時代が来たよ。広宣流布は東京から始まった。そして、関西も立ち上がり、常勝の新風を送り、学会は大きく羽ばたいていった。


今度は、九州の出番だ。九州が立つ時が来たよ。これからは、永遠に『九州ありての学会』『九州ありての広布』でなければならない。"先駆"ということは、最後まで、常に"先駆"であり続けるということです。

初めの勢いだけで、"先駆"であり続けることはできない。持続が大事です。そのためには、緻密な計画性に基づいた地道な努力が必要なんです。したがって、"先駆"とは、"堅実さ"に裏打ちされていなければならないことを知ってください」

福岡県男子部長の安宅清元が、襟を正して語り始めた。「本部幹部会の司会では、ご迷惑をおかけし、大変に申し訳ありませんでした!」安宅は、5月度本部幹部会で、司会を務めた。しかし、声に張りがなく、元気がなかった。

人には、必ず失敗があるものだ。失敗は、恥ではない。そのことで落ち込んでしまい、くよくよして、力を発揮できない弱さこそが恥なのだ。また、同じ失敗を繰り返すことが恥なのだ。失敗があったら、深く反省し、そこから何かを学ぶことだ。その時、失敗は財産に変わるのである。

「今日は、司会について語っておきます。司会者は、会合を行ううえで、極めて重要な役割を担っているんです。司会者は、"自分が、この会合の一切の責任をもつのだ""自分の一声で、会場の空気を一変させ、求道と歓喜の、仏法の会座へと転ずるのだ"という決意がなくてはならない。」

伸一にとって忘れ得ぬ司会となったのが、1955年3月11日、北海道・小樽市公会堂で行われた『小樽問答』であった。戸田城聖は、今回の法論は、司会者のいかんが、勝敗を大きく左右すると考え、伸一を司会者に指名したのだ。

伸一は、司会者あいさつで、開口一番、学会の主張を要約し、大確信をもってぶつけたのだ。その烈々たる獅子吼のごとき気迫に押され、身延側は静まり返った。

戸田城聖が出席した最後の大行事となった1958年3月16日の広宣流布記念の式典で、司会を務めたのも伸一であった。

「まず、司会者にとって、最も重要なのは、声の響きです。さわやかで、力強く、満々たる生命力に満ちあふれていなければならない。その声で、時には、軽やかに、時には厳粛に、皆の心をリードしていくんです。

さらに、言葉は明瞭で大きく、誰もが、よく聞き取れなければならない。また、顔色にも注意が必要です。疲れ切ったような、青白い顔ではいけません。したがって、司会と言う大任を受けたならば、前夜は、よく睡眠を取り、当日は、しっかり唱題し、ちゃんと食事をして臨むことです。そして、司会席に着いたならば、姿勢にも気を配らなければならない。背筋はきちんと伸ばすんです」

「また、司会をする際に大事なのは、"間合い"です。間髪を容れずに言葉を発しなければならない場合もあれば、一呼吸置くことが大事な場合もある。『暑い方は、上着をお取りください』と言っておいて、みんなが背広を脱いでいる途中で、次の登壇者を紹介したらざわざわしたなかで、次の人の話が始まることになる」

伸一は、さらに、司会者に求められる要件について語っていった。「臨機応変な対応力をつけることも、司会者にとっては、極めて大事です。長時間たって、皆、腰が痛そうな時には、軽い体操をしてもらった方が、いい場合もあります。

セミナーのように、多くの友人が集って行われる催しであれば、参加した方々の緊張を解きほぐし、ゆったりとした気持ちで話が聴けるような、話し方や気配りが大切になろう。司会者は、『隨縁真如の智』を最大限に発揮していかなければならない。それには、"自分が司会を担当する会合は、必ず大成功させてみせる"という、強い決意のこもった唱題が不可欠なんです。

司会者は、副導師を務めることもあるので、導師の声をよく聴いて、その声に合わせていくことです。大人数で勤行をすると、読経も、題目も、だんだんと遅くなりがちです。副導師は、それに引っ張られてしまうのではなく、軽やかなテンポで、みんなをリードしていかなくてはならない。さらに、読経の発音は、明瞭であることが大事です。そうするには、日々の勤行の際に、息継ぎの場所は適切かなど、よく注意し、完璧な勤行をめざして、努力していくことです。

青年たちは、伸一の指導に、目の覚める思いがした。自分たちが、司会の重要性を深く理解していなかったことに気づき、恥じ入りながら、伸一の話に耳を傾けていた。

太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋

新しい東北を創る

『新・人間革命』第25巻 福光の章 7p~ 

< 福光の章 開始 >

春を告げよう!
新生の春を告げよう!
・・・

君よ!
「悲哀」を「勇気」に変えるのだ。
「宿命」を「使命」に転ずるのだ。
・・・
「みちのく」に春を告げる
新生の太陽となって踊り出るのだ!


1977年(昭和52年)3月11日、山本伸一は、福島県に向かった。前年、日本は、冷夏や台風の影響で、米が戦後5番目の不作となっていた。多くの農家が辛酸をなめたのである。

さらに、12月から2月にかけて、日本は強い寒波に襲われた。寒波の影響は、農作物にも被害をもたらし、一時期、価格が急上昇した。東北は、この寒波でも、大きな影響を受けたのである。

福島県の榛葉則男と東北長の利根角治に視線を注ぎながら、気迫のこもった声で語りかけた。「来ましたよ!新しい福島を、東北を創ろう!今日からは、新章節への出発だよ」

伸一は、榛葉に広宣流布建設の本当の力とは何かを、語っておこうと思った。「新しい福島をつくるためには、根本は全同志の一念の転換であり、生命の革新だ。わが郷土を愛し、広宣流布に生き抜こうという、本物の闘士をつくっていくことだよ」

「広宣流布は、永遠の闘争だ。日蓮大聖人は『然どもいまだこりず候』と獅子吼され、迫害に次ぐ迫害をものともせずに、折伏の戦いを続けられた。これこそが、大聖人の御心であり、学会精神だ。

過去の歴史が、いかにすばらしくとも、皆が、草創期の闘士を失い、実践がなくなれば、やがて、広宣流布の衰退が始まってしまう。そうなれば、個人の宿命転換もできなければ、立正安国の実現もない。いよいよこれからだよ。

『命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也』というのが、大聖人の御指導ではないですか。誉れある創価の師弟であるならば、命の燃え尽きる瞬間まで、戦って、戦って、戦い抜くんです。

戦い続ける人が幸福なんです。その人が人生の勝利者です。したがって、今回は、草創期を切り開いてくださった指導部の方々との、新出発の意義もとどめておきたいんです」

伸一の話は「世代論」になっていった。「組織もできあがってから、幹部になってきた世代だけに、本当の苦労をしていない。そのためか、広宣流布の開拓力に欠けているという弱点がある。本当の折伏精神が身についていないというのが、私の実感でもある。だから、運営能力には長けていても、大闘争となると、生命が一歩引いてしまい、すぐに、腰が砕けてしまいがちだ。

苦戦のなかで勝利をもぎ取ってくるには、捨て身になって戦う、必死の覚悟がなくてはならない。広宣流布とは、未踏の原野の開墾作業だ。苦労して苦労し抜くんだ。

折伏や個人指導をはじめ、一つ一つの課題に、全力で真っ先に取り組み、自ら勝利の結果を示していくんだ。一人ひとりの同志に、誠実に、真剣に、体当たりでぶつかっていくんだ。それが師子王の生き方だよ」

自身の生命を磨き、鍛えるのは、広宣流布への「真剣な献身」である。伸一は、その精神を、若き県長に注ぎ込みたかったのだ。

どのようなことを心がけて、青年の育成に当られたのかとの質問に、「常に自分の方から青年たちに声をかけ、率直に対話して、励ましてきた。胸襟を開いて飛び込んでいくんです。『よく来たね。ご苦労様!大変だっただろう。頑張ったね』と包み込むように、力の限り励ましていくんです。『励ます』ということは、『讃える』ということでもあるんです」

「私は、青年を包容しながら、大きな責任を託した。そして、失敗した時には、最後は、全部、私が責任を取った。大切なのは、その度量だよ」

「学会の後継者として、青年時代に必ず身につけてほしいのは折伏力だ。創価学会は、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を実現するために出現した折伏の団体だもの。その後継者である青年たち阿、弘教の大闘志に育たなければ、学会の未来は開けないからね」

「先輩は、『なぜ、折伏をするのか』を、いろいろな角度から、納得のいくように話してあげてほしい」「弘教に限らず、あらゆる活動を進めるうえで大事なのは、"なんのためか"を明らかにし、確認し合っていくことです。それによって皆が、軌道を外れることなく前進することができるし、力を発揮することができる」


蘇生の光を送る地域の灯台たれ

『新・人間革命』第24巻 灯台の章  369p 

「日蓮大聖人の仏法は、下種仏法であります。今だ仏法の真実の教えを聞いたことがない末法の衆生に
南無妙法蓮華経という成仏得道の種子を下ろし、一生成仏せしめ、人びとを救済していくことができる
大法です。したがって、その仏法を保ち、広宣流布の使命に生きる私どもの振る舞いは、一切が下種へとつながっていかねばならない。

つまり、日々の学会活動はもとより、毎日、毎日の生活の姿や行動が、すべて妙法の種子を植えていく
大切な作業であるということを、自覚していただきたい。ゆえに、信心していない人に対しても、
また現在は、信心に反対であるという人に対しても、幸せを願い、大きな、広い心で笑顔で包み込むように接して、友好に努めていくことが大事です。それが、仏縁を結び、広げていくことになるからです」

伸一は、訴えた。「今後、社会の関心は、農村地域に集まっていかざるを得ない。
したがって、現代における農村の模範となるような、盤石な家庭を築き上げることが
できれば、そのご一家は、地域社会を照らす確固たる灯台となります。

そして、そのご一家との交流を通して、妙法の種をは下ろされ、広宣流布の堅固な礎が築かれていきます。ゆえに、私は、農村部の皆さんには、『地域の灯台たれ』『学会の灯台たれ』と申し上げておきたい。

また、農村には、地域のさまざまな伝統行事や風習もあるでしょう。私たちの信心の根本は、どこまでも御本尊です。それ意義の事柄については、随方昆尼の原理に則り、社会を最大限に大切にして、
知恵を働かせて、地域に友好と信頼を広げていってください。

私どもは、決して、偏狭な生き方であってはならない。信仰の原点を踏まえたうえで、
寛大な振る舞いで、どうか魅力にあふれる農村のリーダーに成長していってください。」

世間を離れて仏法はない。日蓮大聖人は、「まことの・みちは世間の事法にて候」と仰せである。
仏法は、地域、社会での、自身の振る舞いのなかにある。自分が今いる、その場所こそが、
仏道修行の場であり、広宣流布の場所なのだ。

「日蓮大聖人の仏法は、『直達正観』、すなわち『直ちに正観に達する』といって、即身成仏の教えです。極端な話になるかもしれませんが、テレビに譬えて言うならば、日蓮大聖人は、テレビ自体を
残されたことになる。それが御本尊に当ります。もったいない譬えですが、私どもが御本尊を保った
ということは、既に完成した立派なテレビを手に入れたことになります。
部品を組み立てたりしなくとも、理論はわからなくとも、すぐに見ることができる。

しかし、テレビを見るためには、スイッチを入れ、チャンネルを合わせなければならない。それが、
御本尊への信心であり、仏道修行です。具体的な実践で言えば、唱題と折伏です。それによって、
即座に、希望の画像を楽しむことができる。これが、『直達正観』の原理です」

悲しみにも、苦しみにも、喜びにも、常に題目とともに!常に折伏とともに!その実践ある限り、
道は必ず開かれる。強盛なる信心を奮い起こして題目を唱え抜くこと自体が「直達正観」なのである。

「たとえ、一時的に行き詰まっても、『妙とは蘇生の義なり』で、そこからまた、題目によって
新たな生命力、新たな福運の泉を湧現していくことができる。いな、その挑戦の繰り返しが
人生であることを忘れずに、明るく、さっそうと前進していってください」

1995年(平成7年)11月、団地を、心と心が通い合う、理想の人間共同体とするための具体的な実践を、10項目の指針にまとめ、団地部のメンバーに贈った。この指針は、地域の繁栄と幸福を目指す
団地部の友の、大切な規範となっていった。

あきらめと無気力の闇に包まれた時代の閉塞を破るのは、人間の英知と信念の光彩だ。一人ひとりが、
あの地、この地で、蘇生の光を送る灯台となって、社会の航路を照らし出すのだ。そこに、
創価学会の使命がある。

<灯台の章 終了>
<新・人間革命 第24巻 終了>

生命の大変革 三変土田

『新・人間革命』第24巻 灯台の章  347p 

山本伸一は、団地という集合住宅に住む人たちの心がよくわかった。彼も、団地ではなかったが、青年時代にアパートで暮らした経験があるからだ。

東京都・大田区大森にある「青葉荘」というアパートに移り住んだのは、1949年(昭和24年)5月であった。勤行している時、隣室の人から、小さな声でしてくれと、注意を受けたこともあった。集合住宅では、ことのほか、周囲への配慮が必要なことを学んだ。

伸一が、青年として心掛けていたのは、明るく、さわやかなあいさつであった。同じアパートに住んだのは、決して偶然ではない。深い縁があってのことだ。だから、近隣の人びとを大切にし、友好を結ぼうと思った。

伸一は、自分の部屋で座談会も開いた。何人かのアパートの住人や近隣の人たちにも声をかけ、座談会に誘った。そのなかからも、信心をする人が出ている。周囲の人々の幸せを願っての友好の広がりは、おのずから、広宣流布のひろがりとなっていくのである。

1952年5月に峯子と結婚する。8月には、大田区山王のアパート「秀山荘」に移った。伸一は、すぐに名刺を持って、近所にあいさつに回った。正弘が成長し、走り回るようになると、妻の峯子は、隣室や上の部屋に気を使い、なるべく早く寝かしつけるようにした。

いずこの地であれ、誠実さをもって、気遣いと対話を積み重ねていくなかで、友好の花は咲き、信頼の果実は実るのだ。

山本伸一は、団地は、社会の一つの縮図であると考えていた。日本の社会は、やがて、先例のない高齢化の時代を迎えることが指摘され始めていた。古い団地は、たいていエレベーターもなく、また、高齢者や障がい者のためのスロープなども設けられていなかった。

伸一が、何よりも痛感していたのは、人と人との絆を固くし、強い共同体意識を育まねばならぬということであった。将来、高齢者の独り暮らしなどが増えていけば、隣近所の声かけや励まし、助け合いなどが、ますます必要不可欠なものとなるからだ。

災害への対策や防犯などに置いても、行政の支援だけでなく、住民相互の協力や結束こそ、地域を支える大きな力となる。そのために必要なことは、同じ地域、同じ団地のなかにあって、互いに人びとのために尽そうとする、心のネットワークづくりである。人間の心が通い合う新しいコミュニティーの建設である。

"分断された人間関係の果てにあるのは、孤独の暗夜だ。それを転ずるのが団地部だ"
1977年2月17日、山本伸一を迎えて、第一回「農村・団地部勤行集会」が開催された。伸一は、懇談的に話をすすめた。

「大聖人は、『心の一方より国土世間も出来する事なり』と仰せだからです。国土の違いも、わが一念から起こり、わが一念に国土も収まります。心の力は偉大です。何があっても負けない、強い、強い信心の一念があれば、一切の環境を変えていくことができる。それが『三変土田』の法理です」

「三変土田」とは、法華経見宝塔品第十一で説かれた、娑婆世界等を仏国土へと変えていく変革の法理である。「三変」とは、三度にわたって変えたことであり、「土田」とは、土地、場所を意味している。

天台大師は、国土の浄化は、一念の変革によることを表している、さらに、釈尊が、三度にわたって娑婆世界等を変革したことを、人間の迷いである、見思惑、塵沙惑、無明惑の「三惑」に対応させている。

「三変土田」とは、生命の大変革のドラマであり、自身の境涯革命なのだ。自分の一念の転換が、国土の宿命を転換していくーーこの大確信を胸に、戸田城聖は、敗戦の焦土に、ただ一人立ち、広宣流布の大闘争を転換していったのである。

広宣流布に邁進するわれらの生命は、釈尊すなわち仏であり、地涌の菩薩そのものとなるのである。ゆえに、娑婆世界を現実に「三変土田」させ得る力を有しているのだ。

「この私たちが、"断じて、国土の宿命を転換するのだ!"と、決然と立ち上がり、地涌の菩薩の底力を発揮していくならば、三世十方の仏菩薩にも勝る力が湧現します。しかも、その地域に、地涌の同志が陸続と誕生し、生命の宝塔が林立していくならば、国土が変わらぬわけがありません。ゆえに、なすべきは広宣流布です。」

「どうか農村部、団地部の皆さんは、地域広布の先駆けとなっていただきたい。」


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