『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 183p~
四国長の久米川誠太郎は胸を痛めた。“先生が会長を辞められてから、皆の心には、空虚感のようなものが広がり、歓喜も次第に薄れてきているように感じる。今こそ、弟子が立ち上がるべき時であることは、よくわかる。しかし、そのための契機となる起爆剤が必要なのだ”
「先生の行動が制約されているのなら、私たちの方から、お伺いしよう!」1月13日の午後1時、大型客船「さんふらわあ7」号は、香川県の高松港から海に船出した。
四国の同志がタラップを下りてくると、出迎えた神奈川の同志の大拍手に包まれた。伸一は、下船してきた壮年たちを笑顔で包み込み、肩を抱き、握手を交わし、励ましの言葉をかけていった。この伸一の歓迎風景も、「聖教新聞」に報じられることはなかった。新聞では、彼の姿はカットされ、拍手する腕から先だけが写っているに過ぎなかった。
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
話題が1957年8月の、伸一の荒川指導に及ぶと、彼は言った。「私は、あの闘争で、草創の同志と共に、あえて困難な課題に挑戦し、“勝利王・荒川”の歴史を創りました。この戦いによって、皆が、“広宣流布の苦難の峰を乗り越えてこそ、大勝利の歓喜と感動が生まれ、崩れざる幸福境涯を築くことができる”との大確信を、深く生命に刻みました。あれから20余年がたつ、今度は、皆さんがその伝統のうえに、さらに新しい勝利の歴史を創り、後輩たちに伝えていってください。
広宣流布の勝利の伝統というのは、同じことを繰り返しているだけでは、守ることも、創ることもできません。時代も、社会も、大きく変わっていくからです。常に創意工夫を重ね、新しい挑戦を続け、勝ち抜いていってこそ、それが伝統になるんです。つまり、伝えるべきは“戦う心”です」
“戦う心”という精神の遺産は、話だけで受け継がれていくものではない。共に活動に励む実践のなかで生まれる魂の共通と触発によって、先輩から後輩へ、人から人へと、伝わり流れていくのである。
「今こそ、荒川の一人ひとりが、山本伸一となって敢闘してほしい。一つの区に、未来へと続く『不敗』『常勝』の伝統ができれば、学会は永遠に栄えます。皆が、そこを模範として学んでいくからです。荒川には、その大使命があることを忘れないでください。
先日、足立の婦人から手紙をもらったんだよ。あれが、みんなの思いなんだろな。“・・・でも、負けません。今こそ、学会の、先生の正義を叫び抜いていきます”この闘魂が『不屈の王者・足立』の心意気なんです。
第三回鼓笛隊総会の最終公演が、荒川区民会館で華やかに行われた。第二部「希望の行進」では、交響詩「民衆」となった。詩「民衆」は、1971年(昭和46年)9月、女子部幹部会を祝して、伸一が贈った詩である。
伸一は、女子部員には、虚栄に生きるのではなく、“民衆の子”であることを誇りとして、民衆の大地に根を張り、民衆と共に、民衆のために生き抜いてほしかった。そこにこそ現実があり、そこで築いた幸せこそが、幸福の実像であるからだ。
伸一は、交響詩を聴きながら、学会が担っている使命の意味を、深く噛み締めていた。“あらゆる権力の軛から、そして、宿命の鉄鎖から民衆を解放するーーそれが創価学会の使命だ!それがわれらの人間主義だ!私は戦う!民衆のため、広布のために。そして何があっても民衆を守り抜き、民衆の時代を開いてみせる!”
伸一は、あいさつの要請を受けていた。「今日の総会のテーマに掲げたように、まさしく『2001年 大いなる希望の行進』の開幕でした」鼓笛隊総会は、歴史の大きな節目となった1979年の有終の美を飾り、21世紀への新しい出発を告げるファンファーレとなったのである。
創価学会創立50周年を迎える1980年が明けた。元日付の「聖教新聞」3面には、山本伸一の近影と、新春を祝賀して彼が詠んだ2種の和歌が掲載された。それを目にした多くの学会員から、伸一のもとへ、また、学会本部や聖教新聞社へ、喜びの便りが寄せられたのである。
新しき10年の開幕となるこの年、世界は激動していた。世界の行く手は極めて不透明であり、不安の雲が垂れ込めるなかでの新年の出発であった。
1月14日の正午前、山本伸一は、妻の峯子と共に、横浜にある神奈川文化会館の一室から海を見ていた。この日、四国の同志約800人が客船を借り切り、丸一日がかりで、伸一を訪ねて神奈川文化会館へやってきたのだ。
広宣流布の勝利の伝統というのは、同じことを繰り返しているだけでは、守ることも、創ることもできません。時代も、社会も、大きく変わっていくからです。常に創意工夫を重ね、新しい挑戦を続け、勝ち抜いていってこそ、それが伝統になるんです。つまり、伝えるべきは“戦う心”です」
“戦う心”という精神の遺産は、話だけで受け継がれていくものではない。共に活動に励む実践のなかで生まれる魂の共通と触発によって、先輩から後輩へ、人から人へと、伝わり流れていくのである。
「今こそ、荒川の一人ひとりが、山本伸一となって敢闘してほしい。一つの区に、未来へと続く『不敗』『常勝』の伝統ができれば、学会は永遠に栄えます。皆が、そこを模範として学んでいくからです。荒川には、その大使命があることを忘れないでください。
先日、足立の婦人から手紙をもらったんだよ。あれが、みんなの思いなんだろな。“・・・でも、負けません。今こそ、学会の、先生の正義を叫び抜いていきます”この闘魂が『不屈の王者・足立』の心意気なんです。
第三回鼓笛隊総会の最終公演が、荒川区民会館で華やかに行われた。第二部「希望の行進」では、交響詩「民衆」となった。詩「民衆」は、1971年(昭和46年)9月、女子部幹部会を祝して、伸一が贈った詩である。
伸一は、女子部員には、虚栄に生きるのではなく、“民衆の子”であることを誇りとして、民衆の大地に根を張り、民衆と共に、民衆のために生き抜いてほしかった。そこにこそ現実があり、そこで築いた幸せこそが、幸福の実像であるからだ。
伸一は、交響詩を聴きながら、学会が担っている使命の意味を、深く噛み締めていた。“あらゆる権力の軛から、そして、宿命の鉄鎖から民衆を解放するーーそれが創価学会の使命だ!それがわれらの人間主義だ!私は戦う!民衆のため、広布のために。そして何があっても民衆を守り抜き、民衆の時代を開いてみせる!”
伸一は、あいさつの要請を受けていた。「今日の総会のテーマに掲げたように、まさしく『2001年 大いなる希望の行進』の開幕でした」鼓笛隊総会は、歴史の大きな節目となった1979年の有終の美を飾り、21世紀への新しい出発を告げるファンファーレとなったのである。
創価学会創立50周年を迎える1980年が明けた。元日付の「聖教新聞」3面には、山本伸一の近影と、新春を祝賀して彼が詠んだ2種の和歌が掲載された。それを目にした多くの学会員から、伸一のもとへ、また、学会本部や聖教新聞社へ、喜びの便りが寄せられたのである。
新しき10年の開幕となるこの年、世界は激動していた。世界の行く手は極めて不透明であり、不安の雲が垂れ込めるなかでの新年の出発であった。
1月14日の正午前、山本伸一は、妻の峯子と共に、横浜にある神奈川文化会館の一室から海を見ていた。この日、四国の同志約800人が客船を借り切り、丸一日がかりで、伸一を訪ねて神奈川文化会館へやってきたのだ。
四国長の久米川誠太郎は胸を痛めた。“先生が会長を辞められてから、皆の心には、空虚感のようなものが広がり、歓喜も次第に薄れてきているように感じる。今こそ、弟子が立ち上がるべき時であることは、よくわかる。しかし、そのための契機となる起爆剤が必要なのだ”
「先生の行動が制約されているのなら、私たちの方から、お伺いしよう!」1月13日の午後1時、大型客船「さんふらわあ7」号は、香川県の高松港から海に船出した。
四国の同志がタラップを下りてくると、出迎えた神奈川の同志の大拍手に包まれた。伸一は、下船してきた壮年たちを笑顔で包み込み、肩を抱き、握手を交わし、励ましの言葉をかけていった。この伸一の歓迎風景も、「聖教新聞」に報じられることはなかった。新聞では、彼の姿はカットされ、拍手する腕から先だけが写っているに過ぎなかった。