『新・人間革命』第22巻 波濤の章 216p
「波濤会」の結成大会が行われたのは、1971年(昭和46年)8月10日であった。
「波濤会」の結成は、機関誌である聖教新聞にも報じられ、その知らせは、大きな衝撃をもたらした。船員のメンバーの多くが、自己の使命を自覚し、仕事に誇りをもった。
そして、「波濤会」のメンバーになることを目標に、喜び勇んで信心に励むようになっていった。自分の一念が変わる時、自分のいる世界が変わる。それが仏法の変革の方程式である。
創価大学で開催された、の75年の夏期講習会には、約70人のメンバーが参加し、念願であった、山本会長との記念撮影が行われたのである。伸一は言った。「一人立つのが獅子です。」「諸君も"広布丸"の船長の自覚で、いかなる人生の怒涛も、嵐も堂々と乗り越えていっていただきたい。」
実は、このころ、海運業界にかげりが見え始めていたのだ。1973年に起こった、第一次オイルショックによる世界的な不況のなかで、海上輸送量は減少し、海運業界は深刻な経営不振に陥っていた。賃金の安い外国人を乗組員として雇い入れ、コストを下げるのである。それは、日本人船員の雇用を脅かしていった。
伸一は、そうした海運業界の厳しい状況を知り、心を痛めていた。それだけに、「波濤会」のメンバーには、断固として未来の活路を切り開いていってほしかった。
結成10周年にあたる81年の4月には「波濤会」の家族勤行会が学会本部で行われた。
これは、伸一の提案によって開催されたものであった。「みんなが、そうして頑張れるのも、留守を支える奥さんや家族の陰の力があるからだ。」
夫の働きを支えているのは妻の力である。男性は、妻や家族の応援を当然と思うのではなく、感謝の心を忘れないことだ。
この勤行会で、大きな感動を呼んだのが、「波濤会」第6期生の大崎哲也が行った、難波船の救助活動の体験発表であった。
前年の1980年12月30日、大崎が船長を務める大型鉱石専用船「だんぴあ丸」は、鉄鉱石を満載して、南米チリから日本をめざし、千葉県・野島崎の東南東約1500キロの北太平洋上を航行していた。この辺りは、冬場は大しけが続き、"魔の海域"と言われ、以前から、海難事故が絶えない場所であった。
「だんぴあ丸」はSOSを受信した。救助を求めてきたのは貨物船「尾道丸」で、大シケで船首をへし折られたというのだ。避難場所までは、約30マイル(50キロ)ほど離れていた。救助に向かえば「だんぴあ丸」が、遭難しかねない暴風雨である。
到着予定も2日遅れになっていた。船の遅れは1日につき、約250万円の損害をもたらすといわれていた。しかし、大崎は救助に向かう決断をする。「波濤会」の誇りが、万難を排して救援に向かう、勇断をもたらしたのだ。
大崎は「尾道丸」の船体が水平に保たれていることや、船倉に粉炭を満載していて、浸水には時間がかかると判断。すぐには沈まないことを告げ、乗組員を安心させ、救助は夜明けを待ってからと告げた。
操機長の赤城は「題目をあげましょう」と励ましてくれた。
夜が明けても海は大シケのままであった。「尾道丸」の乗組員の忍耐は限界に達していた。その時、大波が船を襲う状況を見て、「尾道丸」は、焦らず、もう一日待つとの連絡が入る。
大崎は守られたと思った。乗組員が冷静さを取り戻し、待つ気持ちになってくれたのだ。
元日の午前7時半、救助が開始された。途中強いスコールに襲われたが、救助作業にあたった乗組員は団結し、全員無事に救助することに成功した。一人でも犠牲を出していたら、「尾道丸」の船長は"生きてはいられなかった"と打ち明けた。
船長の大崎はじめ、「だんぴあ丸」の乗組員は、民間の海難救助として、初の総理大臣表彰を受けることになる。大崎は、ふさぎこむ船長の北川が気がかりで、励まし続けるうちに仏法対話となり、北川は、この救助の翌年に入会している。
運輸省は、海難事故の技術検討会を設置し、大型船遭難のメカニズムの研究に乗り出し、事故の原因は、波浪による衝撃現象の実態が解明されていないためであると審判が下され、北川には、職務上の過失はなかったことが明らかになったのである。
太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋
「波濤会」の結成大会が行われたのは、1971年(昭和46年)8月10日であった。
「波濤会」の結成は、機関誌である聖教新聞にも報じられ、その知らせは、大きな衝撃をもたらした。船員のメンバーの多くが、自己の使命を自覚し、仕事に誇りをもった。
そして、「波濤会」のメンバーになることを目標に、喜び勇んで信心に励むようになっていった。自分の一念が変わる時、自分のいる世界が変わる。それが仏法の変革の方程式である。
創価大学で開催された、の75年の夏期講習会には、約70人のメンバーが参加し、念願であった、山本会長との記念撮影が行われたのである。伸一は言った。「一人立つのが獅子です。」「諸君も"広布丸"の船長の自覚で、いかなる人生の怒涛も、嵐も堂々と乗り越えていっていただきたい。」
実は、このころ、海運業界にかげりが見え始めていたのだ。1973年に起こった、第一次オイルショックによる世界的な不況のなかで、海上輸送量は減少し、海運業界は深刻な経営不振に陥っていた。賃金の安い外国人を乗組員として雇い入れ、コストを下げるのである。それは、日本人船員の雇用を脅かしていった。
伸一は、そうした海運業界の厳しい状況を知り、心を痛めていた。それだけに、「波濤会」のメンバーには、断固として未来の活路を切り開いていってほしかった。
結成10周年にあたる81年の4月には「波濤会」の家族勤行会が学会本部で行われた。
これは、伸一の提案によって開催されたものであった。「みんなが、そうして頑張れるのも、留守を支える奥さんや家族の陰の力があるからだ。」
夫の働きを支えているのは妻の力である。男性は、妻や家族の応援を当然と思うのではなく、感謝の心を忘れないことだ。
この勤行会で、大きな感動を呼んだのが、「波濤会」第6期生の大崎哲也が行った、難波船の救助活動の体験発表であった。
前年の1980年12月30日、大崎が船長を務める大型鉱石専用船「だんぴあ丸」は、鉄鉱石を満載して、南米チリから日本をめざし、千葉県・野島崎の東南東約1500キロの北太平洋上を航行していた。この辺りは、冬場は大しけが続き、"魔の海域"と言われ、以前から、海難事故が絶えない場所であった。
「だんぴあ丸」はSOSを受信した。救助を求めてきたのは貨物船「尾道丸」で、大シケで船首をへし折られたというのだ。避難場所までは、約30マイル(50キロ)ほど離れていた。救助に向かえば「だんぴあ丸」が、遭難しかねない暴風雨である。
到着予定も2日遅れになっていた。船の遅れは1日につき、約250万円の損害をもたらすといわれていた。しかし、大崎は救助に向かう決断をする。「波濤会」の誇りが、万難を排して救援に向かう、勇断をもたらしたのだ。
大崎は「尾道丸」の船体が水平に保たれていることや、船倉に粉炭を満載していて、浸水には時間がかかると判断。すぐには沈まないことを告げ、乗組員を安心させ、救助は夜明けを待ってからと告げた。
操機長の赤城は「題目をあげましょう」と励ましてくれた。
夜が明けても海は大シケのままであった。「尾道丸」の乗組員の忍耐は限界に達していた。その時、大波が船を襲う状況を見て、「尾道丸」は、焦らず、もう一日待つとの連絡が入る。
大崎は守られたと思った。乗組員が冷静さを取り戻し、待つ気持ちになってくれたのだ。
元日の午前7時半、救助が開始された。途中強いスコールに襲われたが、救助作業にあたった乗組員は団結し、全員無事に救助することに成功した。一人でも犠牲を出していたら、「尾道丸」の船長は"生きてはいられなかった"と打ち明けた。
船長の大崎はじめ、「だんぴあ丸」の乗組員は、民間の海難救助として、初の総理大臣表彰を受けることになる。大崎は、ふさぎこむ船長の北川が気がかりで、励まし続けるうちに仏法対話となり、北川は、この救助の翌年に入会している。
運輸省は、海難事故の技術検討会を設置し、大型船遭難のメカニズムの研究に乗り出し、事故の原因は、波浪による衝撃現象の実態が解明されていないためであると審判が下され、北川には、職務上の過失はなかったことが明らかになったのである。
太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋