『新・人間革命』第29巻 清新の章 327p~
2月1日、九州研修道場では、伸一が出席して九州記念幹部会が開催されることになっていた。伸一は、大広間の一番後ろまでいくと、窓際に腰を下ろした。伸一は、会場後方にあって、自分の近くに座っている人たちに視線を注いだ。そこに、見覚えのある懐かしい顔があった。宮崎県の藤根ユキである。
藤根は夫を亡くした。伸一が藤根を励ましてから、3年余がたっていた。「毎日、個人指導で予定はぎっしり詰まっています。でも、頼りにされていると思うと、嬉しくって…」藤根は、尋ねた。「山本先生は、ずっと学会の会長でいてくださいますよね」
「いや、私は、会長を辞めようかとも考えている。今や、学会本部には、世界中から大勢の同志が来る。海外の要人との対応も大事になっています。だから、会長は譲って、世界のために働こうと思っているんです」藤根は顔色を変えた。「先生、困ります。本当に困ります」
伸一は、「わかったよ」と微笑を浮かべた。3か月後、この言葉が現実のものになるとは、彼女は想像さえできなかった。
伸一は、成増の抱負を聞きながら思った。“熊本も、また大分も、宗門の問題では本当に苦しめられている地域だ。しかし、それをはね返し、ますます広布の炎を燃え上がらせている。すごいことだ。いつか、必ずその地域を回って、耐え抜きながら信心を貫いてこられた皆さんを心から励まし、賞賛しよう”
幹部会でマイクに向かった伸一は、仏法者の生き方について語っていった。「日蓮大聖人の智慧は平等大慧であり、一切衆生を平等に利益される。その大聖人の御生命である御本尊を信受する仏子たる私どもの人生は、全人類の幸せを願い、行動する日々であらねばならないと思っています。私たちが、日本の広宣流布に、さらには世界広布に走り抜くのもそのためです。
私は人間が好きです。また、いかなる国の人であれ、いかなる民族の人であれ、いかなる境遇の人であれ好きであると言える自分でありたい。そうでなくては日蓮大聖人の教えを弘める、仏の使いとしての使命を果たすことはできないと思うからです。
皆様方も、誰人であろうが、広々とした心で包容し、また、全会員の方々の、信心の面倒をみて差し上げていただきたい。私どもが、平等大慧の仏の智慧を湧現させ、実践していくとこに、世界平和への大道があります。
この二月も、また、この一年も、苦楽をともにしながら、私と一緒に、新しい歴史を刻んでいきましょう!」
「東洋広布の歌」の大合唱となった。東洋広布を担おうと、アジアに雄飛していった人もいたが、大多数の同志の活躍の舞台は、わが町、わが村、わが集落であった。
地を這うようにして、ここを東洋広布の先駆けと模範の天地にしようと、一軒一軒、友の家々を尋ねては、仏法対話を交わし、幸せの案内人となってきた。創価の同志は、地域に根を張りながら、東洋の民の安穏を祈り、世界の平和を祈り、その一念は地球をも包んできたのだ。
「東洋広布の歌」に続いて、インド訪問団の壮途を祝して、インド国家「ジャナ・ガナ・マナ」が合唱団によって披露された。この歌は、詩聖タゴールが作詞・作曲し、イギリスによる植民地支配の闇を破り、独立の新しい朝を迎えた、インドの不屈なる魂の勝利を歌ったものだ。
伸一は言った。「いい歌だね。私たちも、この心意気でいこうよ!何があろうが、勇敢に、堂々と、わが正義の道を、わが信念の道を、魂の自由の道を、人類平和の道を進もうじゃないか!」
伸一は、戸田が逝去直前、病床にあって語った言葉が忘れられなかった。「伸一、世界が相手だ。君の本当の舞台は世界だよ」「生きろ。うんと生きるんだぞ。そして、世界に征くんだ」この遺言を心に刻み、彼は第三代会長として立った。
伸一は、広宣流布への師の一念を生命に刻印する思いで遺影に誓った。“生死を越えて、月氏の果てまで、世界広布の旅路を征きます”
今、その会長就任から20年目となる5月3日が近づきつつあった。恩師が詠んだ、あの月氏の大地にも、多くの若き地涌の菩薩が誕生している。
伸一はインドに思いを馳せた。
<清新の章 終了>
2月1日、九州研修道場では、伸一が出席して九州記念幹部会が開催されることになっていた。伸一は、大広間の一番後ろまでいくと、窓際に腰を下ろした。伸一は、会場後方にあって、自分の近くに座っている人たちに視線を注いだ。そこに、見覚えのある懐かしい顔があった。宮崎県の藤根ユキである。
藤根は夫を亡くした。伸一が藤根を励ましてから、3年余がたっていた。「毎日、個人指導で予定はぎっしり詰まっています。でも、頼りにされていると思うと、嬉しくって…」藤根は、尋ねた。「山本先生は、ずっと学会の会長でいてくださいますよね」
「いや、私は、会長を辞めようかとも考えている。今や、学会本部には、世界中から大勢の同志が来る。海外の要人との対応も大事になっています。だから、会長は譲って、世界のために働こうと思っているんです」藤根は顔色を変えた。「先生、困ります。本当に困ります」
伸一は、「わかったよ」と微笑を浮かべた。3か月後、この言葉が現実のものになるとは、彼女は想像さえできなかった。
伸一は、成増の抱負を聞きながら思った。“熊本も、また大分も、宗門の問題では本当に苦しめられている地域だ。しかし、それをはね返し、ますます広布の炎を燃え上がらせている。すごいことだ。いつか、必ずその地域を回って、耐え抜きながら信心を貫いてこられた皆さんを心から励まし、賞賛しよう”
幹部会でマイクに向かった伸一は、仏法者の生き方について語っていった。「日蓮大聖人の智慧は平等大慧であり、一切衆生を平等に利益される。その大聖人の御生命である御本尊を信受する仏子たる私どもの人生は、全人類の幸せを願い、行動する日々であらねばならないと思っています。私たちが、日本の広宣流布に、さらには世界広布に走り抜くのもそのためです。
私は人間が好きです。また、いかなる国の人であれ、いかなる民族の人であれ、いかなる境遇の人であれ好きであると言える自分でありたい。そうでなくては日蓮大聖人の教えを弘める、仏の使いとしての使命を果たすことはできないと思うからです。
皆様方も、誰人であろうが、広々とした心で包容し、また、全会員の方々の、信心の面倒をみて差し上げていただきたい。私どもが、平等大慧の仏の智慧を湧現させ、実践していくとこに、世界平和への大道があります。
この二月も、また、この一年も、苦楽をともにしながら、私と一緒に、新しい歴史を刻んでいきましょう!」
「東洋広布の歌」の大合唱となった。東洋広布を担おうと、アジアに雄飛していった人もいたが、大多数の同志の活躍の舞台は、わが町、わが村、わが集落であった。
地を這うようにして、ここを東洋広布の先駆けと模範の天地にしようと、一軒一軒、友の家々を尋ねては、仏法対話を交わし、幸せの案内人となってきた。創価の同志は、地域に根を張りながら、東洋の民の安穏を祈り、世界の平和を祈り、その一念は地球をも包んできたのだ。
「東洋広布の歌」に続いて、インド訪問団の壮途を祝して、インド国家「ジャナ・ガナ・マナ」が合唱団によって披露された。この歌は、詩聖タゴールが作詞・作曲し、イギリスによる植民地支配の闇を破り、独立の新しい朝を迎えた、インドの不屈なる魂の勝利を歌ったものだ。
伸一は言った。「いい歌だね。私たちも、この心意気でいこうよ!何があろうが、勇敢に、堂々と、わが正義の道を、わが信念の道を、魂の自由の道を、人類平和の道を進もうじゃないか!」
伸一は、戸田が逝去直前、病床にあって語った言葉が忘れられなかった。「伸一、世界が相手だ。君の本当の舞台は世界だよ」「生きろ。うんと生きるんだぞ。そして、世界に征くんだ」この遺言を心に刻み、彼は第三代会長として立った。
伸一は、広宣流布への師の一念を生命に刻印する思いで遺影に誓った。“生死を越えて、月氏の果てまで、世界広布の旅路を征きます”
今、その会長就任から20年目となる5月3日が近づきつつあった。恩師が詠んだ、あの月氏の大地にも、多くの若き地涌の菩薩が誕生している。
伸一はインドに思いを馳せた。
<清新の章 終了>
太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋