小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

組織とリーダー

水沢文化会館記念自由勤行会

『新・人間革命』第29巻 清新の章 242p~

「幹部は、組織を自分のものであるかのように考え、会員の方々を部下のように思っては絶対にならないという
ことです。“学会員は御本仏からお預かりした仏子である”と決めて仕えていこう、尽くしていこうとの思いで接することです。

いよいよ、『地方の時代』に入り、草創期から地域の中心となって頑張り、地域の事情や人間関係に精通した幹部の存在が、ますます大事になってきます。しかし、心しなければならないのは、長い間、地域のリーダーを務めていると、気づかぬうちに、そこの“主”のようになってしまうことです。

自分中心から広宣流布中心へと、常に自らを戒め、狭い境涯の殻を破っていくんです。そして、新たにリーダーとなった人たちは、地域に根差した草創からの諸先輩の意見によく耳を傾け、力を借りていくんです。土着の力と、新しい力が結合していくことによって、岩手は大発展します」

岩手にも、宗門による迫害の吹雪が荒れ狂い、同志たちは歯を食いしばりながら、苦渋と忍耐の日々を過ごしてきた。二戸では息子が他の方面で宗門の寺の住職をしている壮年幹部が、同志を欺き、水面下で学会批判を重ね、純粋な学会員をたぶらかして、檀徒になるように促してきたのだ。赴任してきた住職は、この男と共謀し、学会員への陰湿な攻撃を繰り返した。

安房由光らは、日々、悔し涙をのみながら攻防戦を続けた。片時でも気を抜けば、大切な会員が魔の軍勢の餌食となった。安房の販売店の配達員からも、宗門の圧力に屈して、学会を去る人が出始めた。彼は、“負けるものか!”と、自分を奮い立たせた。

代表幹部会は、ほのぼのとした雰囲気に包まれるなか、伸一の指導となった。「人間を強くするのは人間の激励であり、触発です。励ましがあってこそ、勇気をもてる。ゆえに組織が必要なんです。

広宣流布の前進を阻む壁が、どんなに厚かろうとも、異体同心の団結をもって、堅実な信行学の実践を積み重ね、粘り強い前進をお願いしたい。たとえ、一歩でも半歩でもよい。執念をもって、前へ、前へ、前へと進んでいってこそ、道を開くことができる。

広布の道こそ、宿命転換の道です。幸福と勝利の大道です。“何があっても、負けない、挫けない、あきらめない”と心に決めて、題目第一で、私と共に進みましょう!」

自由勤行会の打ち合わせに入った。「ほぼ、同時刻に大挙して会員の皆さんが訪れた場合、どうすればスムーズに会場の出入りができるかがポイントです。特に混乱するのが玄関だ。また、履物の間違いがないように対策を考えよう。学会の会館に喜んでやって来て、自分の靴を間違えて履かれていかれたりしたら、歓喜も一瞬にして冷めてしまいます。

会館の建物の中に入りきれない方々の待機場所をどうするかです。あと、近隣はもとより駅にもしかるべき幹部があいさつに行きなさい。普段の何倍もの乗降客になるので、切符だって足りなくなってしまうかもしれないからね」伸一は、矢継ぎ早に指示していった。

水沢文化会館の開館を記念する自由勤行会は、結局、夕方までに数回にわたって開催された。そして、伸一は、そのつど、さまざまな角度から、信心の在り方について訴えていった。皆の幸せを願う伸一の必死の呼びかけに、岩手の同志の生命は燃え上がった。

11日、12日と、2日間にわたった行事には、久慈、宮古、釜石、大船渡、陸前高田など三陸からも、多数の同志が参加した。釜石から駆けつけた26歳の男子部元藤祐司がいた。会社の経営状況は思わしくなく、肉体労働で腰も痛めていた。未来に希望を見いだせず、暗澹としていた。しかし、勤行会に参加し、自身の使命に目覚めた。

元藤は、釜石の、そして、三陸の広宣流布を心に描いた。ひたすら三陸の広宣流布に走ってきた。「“地域の柱“に」との伸一の言葉が耳から離れなかった。

2011年3月11日、あの東日本大震災が起こった。三陸は大地震、大津波に襲われた。元藤の住む釜石でも、多くの地域が街ごと流された。マンションの4階まで津波にのまれた。この苦難の大波に、彼は身悶えしながらも挑み続けた。信心ある限り、光はある。


太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋
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清新の出発

『新・人間革命』第29巻 清新の章 235p~
< 清新の章 開始 >

1979年(昭和54年)元日付の「聖教新聞」に、「希望の暁鐘」と題する一文を寄稿した。この79年は、いよいよ「7つの鐘」の総仕上げの年となる。学会は、1930年の創立を起点に、7年ごとに前身の節を刻んできた。以来49年、目標としてきた第7の鐘が鳴り終わり、さらに新しい出発を期す時が来たのだ。

伸一は、その清新の出発にあたり、強情なる信心の力によって、無限の「希望」と「歓喜」とを胸中にみなぎらせ、不撓不屈の大前進を開始するように呼びかけたのである。そして、「7つの鐘」の終了の本年を、再び広宣流布への偉大なる起点にしたいとし、力を込めて訴えた。

「私どもには信心がある。信心とは勇気であります。幾多の大偉業も、すべて、この勇気という一点から実現したことを決して忘れてはならない。勇気のなかに真実の信仰があり、無限の希望と成長があり、時代の変革と新世紀への前進があるのであります」

勇気は、人間を人間たらしめる力である。勇気なくしては、正義も、勝利もない。この年も、伸一の執筆活動はとどまることを知らなかった。

1月9日、伸一の姿は、厳冬の東北・宮城県仙台市の東北平和会館にあった。体調は決して良好とはいえなかった。しかし、最も寒い季節に行かなければ寒冷の地で暮らす人びとの苦労も、気持ちもわからない。また、宗門の問題で辛い思いをしてきたひとたちと、より早く会って、励まさなければならないと、彼は思っていた。

宮城県に「町村地域指導長」制の設置が決定をみた。これは、地域こそが広宣流布の本舞台であるとの認識に立ち、各町村の特色に合わせて、広布の運動を展開していくための態勢である。

伸一は、『大白蓮華』2月号に「『地方の時代』と広宣流布」と題する巻頭言を書いた。そのなかで、それぞれの地方にも特色があり、東北には東北の特色があることを述べた。そして、法を弘めるうえでは、各地域の生活様式や文化的伝統をふまえて、押しつけではなく、生命を内より薫発していくことが
肝要であると強調した。

さらに、「『地方の時代』といっても、結局は、その地域を支えゆく一人ひとりの人間である」として、皆が主体性と愛着と誇りをもち、郷土の繁栄のために、着実な努力を重ねていくことの大切さを訴えた。「町村地域指導長」制は、これらをふまえて、それぞれの地域の広宣流布を推進する布陣であった。

1月11日、山本伸一は、岩手県の水沢の地を踏んだ。「岩手は、ますます強くなってほしい。断じて勝ってほしい。そのために何が大切か。まず、“自分たちは一生懸命やってきたんだから、これ以上は無理だろう。もう、できないだろう”という、あきらめの心を打ち破っていくことです。いかに困難であるかということばかりに目がゆき、現状に甘んじて良しとしてしまう。それは、戦わずして心の魔に敗れてしまっていることになる。

背伸びをする必要はありません。焦る必要もありません。しかし、必ず、このように広宣流布の道を切り開いていくという未来図を描き、目標を決めて、成就していくんです。時代は変わります。いや、変えることができるんです。

最初にお題目を唱えられたのは、日蓮大聖人ただお一人だったではありませんか。そこから一切が広がっていった。“岩手を必ず広宣流布の模範の県にしよう。断じて勝とう”と心を決めるんです。そして、祈るんです。必死に祈るんです。知恵を湧現しながら、果敢に行動するんです。動いた分だけ、友情も、同志の連帯も、広宣流布も広がっていきます。そこに勝利がある。


心を定め、祈って、動くーーそれを粘り強く、歓喜をもって実践する。単純なことのようだが、これが、活動にあっても、人生にあっても、勝利への不変の方程式なんです」


「岩手での活動の大変さは、よくわかります。県の面積としては日本一広い。交通の便もいいとはいえない。冬は長く寒い。旧習も深い。だから、その岩手が変われば、日本が変わる。“大変”ななかで、“大変革”の波を起こすのが、私たちの広宣流布の戦いです。

今日は、岩手の大飛躍のために、ともすれば幹部が陥りがちな問題について、あえて厳しく語っておきます」



太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋
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力走の一年

『新・人間革命』第29巻 力走の章 221p~

伸一は、任用試験の会場を提供してくれた、保育園の園長である高原嘉美の自宅も訪問した。高原は、結婚後、貧乏と家庭不和に悩みながら幼子を育て、半身不随の舅の面倒をみた。身も心も、へとへとに疲れ果て、なんの希望も感じられなかった。その時、実家の母の勧めで入会した。

義父母からは叱れ、近所からは、嘲笑され、村八分にもあった。しかし、学会の先輩が足繁く訪ねてきては、確信をもって指導してくれた。高原は、信心で、逆境を一つ一つ乗り越えていった。そのたびに確信が増した。

ある時、持っていた土地が高く売れた。それを資金にして、保育園をつくろうと思った。地域の人たちの要請であった。高原は、喜びを噛み締めながら語った。「先生!入会前には、思ってもいなかった幸せな境涯になれました」

伸一は、最前線組織のリーダーと会えることが、何よりも嬉しかった。彼は、渾身の力を込めて訴えていった。「悔いなき人生のため、悔いなき信心を」「信心即生活である。現実の社会で勝利していくために、揺るぎない生活の確立を」

そして、万感の思いを込めて呼びかけた。「皆さんが、敢然と創価の旗を掲げて勇み立ってくださるならば、地域広布の勝利は間違いありません。どうか皆さんは、『私の姿、生き方を見てください。ここに仏法の力の証明があります』と、胸を張れる一人ひとりであってください。わが兄弟、姉妹として、私に代わって地域広布の指揮を頼みます」“広布のいごっそう”“創価のはちきん”に大勝利あれ!と念じての指導であった。

夜には、第一回「高知県男子部幹部総会」に喜び勇んで臨んだ。彼は“学会の後継者として、崇高な信念の人たれ!”との願いを託し、語った。「長い広布旅の人生には、一家の問題、職場の問題、自身の性格の問題等、多くの悩みと直面するでしょう。私たちもそうでした。しかし、肝に銘じてもらいたいことは、ともかく御本尊から離れないこと、創価学会の組織から離れないことです。

しがみつくようにしてついてくる。どんなに苦しくても、いやであってもついてくるーーその人が最後の勝利者になります。

また、一人ひとりが、なんらかのかたちで社会に貢献してほしい。何かでトップになっていただきたい。それが、未来の広宣流布を決する力となっていきます。ともあれ、諸君は、既に創価学会という世界で青春を生きてきた。

自分の信念、信条として、その人生を選んだのだから、“誰がなんと言おうと、この仏法を一生涯貫き通して死んでいく、もしも、皆が倒れても、その屍を乗り越えて、広布の峰を登攀してみせる”という、決意で進んでいただきたい」黒潮躍る高知の男子部に、伸一は、広布の精神のバトンを託したのである。

四国研修道場で、20人ほどの青年たちと記念のカメラに収まった。1969年の10月四国幹部会で合唱を披露した、「香川少年少女合唱団」のメンバーである。“10年後”ーーこの言葉が皆の目標となった。それから10年目に入った今、メンバーは、互いに連絡を取り合って、喜び勇んで駆けつけてきたのだ。

徳島県の幹部総会のあいさつで伸一は、御請訓を拝して指導した。「生涯を信心に生き抜こうと心を定める“覚悟”こそが、一切の勝利の原動力であることを知っていただきたい」

四国から帰った翌14日からも、彼のスケジュールはびっしりと詰まっていた。片時の休みもなかった。“今、戦わずして、いつ戦うのだ!時は今だ!この一瞬こそが、黄金の時だ!”こう自分に言い聞かせての敢闘であった。

そして、12月26日には、関東指導に出発したのだ。彼は、大晦日まで、全力で行動を続けた。嵐吹き荒れる激動の一年であった。創価の松明を掲げ、守り抜いた力走の一年であった。新しき歴史を築いた建設の一年であった。

この一年間で訪問したのは、北は北海道から、南は九州まで10方面、一道二府25県となり、海外では第四次訪中も果たした。会談した主な識者や指導者は、国内外で20数人を数えた。また、作詞した各部や各地の学会歌は、実に30曲ほどになっていた。

激戦、激闘を重ねた、必死の舵取りの一年が終わろうとしていた。彼の胸中には、微塵の後悔もなかった。ただただ獅子の闘魂が、熱く熱くほとばしっていた。

<力走の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋
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使命の力走

『新・人間革命』第29巻 力走の章 204p~

土佐清水市の中心部から20数キロ離れた集落で、最初に入会した芝山太三郎である。その集落は、タヌキやウサギが生息する、山間にあった。“妻が元気になるなら”と信心を始めた。そして学会の指導通りに弘教に歩いた。

半年後、妻が健康を回復した。“この御本尊はすごい!どんな願いも、必ず叶えてくれる!”その確信が、ますます弘教の闘志を燃え上がらせていった。広宣流布の原動力とは、御本尊への絶対の確信であり、功徳から発する歓喜である。

芝山は、この日、地域広布の伸展を伸一に報告しようと、妻と息子の三人で、勇んで研修道場に駆けつけてきたのである。「先生。わが集落は、もう一歩です。入会20年、半分ほどの人たちが学会員となりました。なんとしても広宣流布します!それまでは、わしゃ、死ねんと思いよります」

「ありがとう」伸一は、この男性のもとに歩み寄り、抱きかかえるようにして、手を握り締めた。「口先で広宣流布を語ることはたやすい。大切なのは、実際に何をしてきたかです。日々、心を砕いて、身近な人びとに仏法を教え伝えていくーーその地道な実践のなかに、世界広布もあるんです。

私は、健気な庶民の王者であるあなたを、見守り続けていきます。毎日、題目を送ります。どうかあなたは、私に代わって、地域の同志を、集落のすべての人びとを守ってください。よろしくお願いします」

「目標を決めて、信心に励むことが大切なんです。自分の住んでいる集落でも、自治会の範囲でも、向こう三軒両隣でもよい。あるいは、親戚、一門でもいいでしょう。そこを必ず広宣流布しようと決めて、年ごとに、具体的な前進の目標を立てて挑戦していくことです。目標がなければ、どうしても惰性化していってしまいがちです」

伸一の激励は、高知研修道場を出発する間際まで続いた。彼は、それから足摺岬へ向かった。そこでレストランや土産物店などを営む何人かの学会員を、励ましたかったのである。伸一は、「私たちは、御本尊を通し、いつも心はつながることができます。皆さんの健康と、ご活躍を祈っています」と言って、皆に別れを告げた。

一行は万次郎像の前まで行き、語らいが始まった。中浜万次郎は、漁を手伝って、暴風雨に遭い、4人の仲間と共に漂流したのである。アメリカの捕鯨船に救出された彼らは、ハワイのオアフ島に送り届けられる。日本は鎖国しており、日本に送ることはできなかったのである。

万次郎は、捕鯨船に残り、航海を続けることを希望した。彼はよく働き、船長は向学心旺盛で聡明な彼を、アメリカで教育を受けさせたいと考える。万次郎は船長と共にアメリカ本土へ渡り、学校に入る。成績は優秀であった。卒業後は捕鯨船で働き、航海士となるが、やがて帰国を決意する。

万次郎は、帰国資金をつくるため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへと向かう。資金を得た彼は、ハワイへ渡り、仲間と再会し、日本へ戻る計画を練った。いまだ鎖国は続いている。死罪も覚悟
しなくてはならない。彼は、琉球をめざすことにした。

彼が、琉球、鹿児島、長崎、土佐で取り調べを受け、故郷に帰ったのは、25歳のことであった。万次郎は、常に希望を捨てなかった。次代の激流は、万次郎を歴史の表舞台に押し上げていった。そんな万次郎に、嫉妬する者も後を絶たなかった。武士ではない、半農半漁の貧しい家の子が重用されていったことへの、感情的な反発があったのであろう。

国に限らず、いかなる組織、団体にあっても、前進、発展を阻むものは、人間の心に巣くう、この嫉妬の心である。伸一は、万次郎の生涯に思いを馳せながら、同行の幹部に語った。

「信心の世界にあっても同様だよ。魔は、広宣流布を阻むために、外からだけでなく、学会の中でも、互いの嫉妬心を駆り立て、団結させまいとする。大事なことは、その心を超克する、人間革命の戦いだ」

車が土佐清水市の中心街に入ると、道路わきに3人、5人と立って、路上を行く車を見ている人たちがいた。「私たちを、見送ろうとしてくれている学会員だね」伸一は、そうした同志と出会うたびに、車を止めてもらい、窓を開けて声をかけた。

一度の激励が、人生の転機となることもある。一回の出会いを生涯の思い出として、広宣流布に生き抜く人もいるーーそう考えると、励まさずにはいられなかったのである。彼は、自らを鼓舞し、使命の力走をつづけた。


太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋
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広布第二章の幹部の在り方

『新・人間革命』第29巻 力走の章 130p~

山本伸一は、21世紀のために、仏法の法理を社会へ、世界へと開き、人類の新たな活路を開かなければならないと、固く、強く、決意していた。

彼は、「恵まれない、最も光の当たらない人びとのなかに、率先して入り、対話していく」ことこそ、一個の人間を大切にする具体的実践であり、それが「即『地方の時代』の先駆け」となると訴えた。そして、その言の通りに、彼も行動を開始したのだ。

22日、群馬県では代表幹部会が行われ、伸一が作詞した県歌「広布の鐘」が発表されたのである。この群馬の歌「広布の鐘」をもって、伸一は、関東のすべての県に、歌を作詞し、贈ったことになる。

23日には、第一回となる関東支部長会が晴れやかに行われた。伸一は、支部長・婦人部長が多くの仏子を預かる支部の中心者として広宣流布の重責を担い、日々、奮闘してくれていることに心から感謝し、その功労を讃えた。

「学会草創期の支部長・婦人部長の功績は実に大きく、その実践は、今もって多くの同志の語りぐさとなっている。皆さんは、広布第二章の初代の支部長・婦人部長です。どうか皆さんもまた、『あそこまで皆のために真心を尽くすのか!』『あれほど情熱をもって行動し抜くのか!』『あの人から本当の信心を学んだ!』と、後々までも語り継がれる、見事な自身の歴史を築いていただきたい」

「広宣流布のために、自分の限界に挑み、殻を破っていくなかで、境涯は大きく開かれていきます。それが、広布の新しき拡大になります。自らの限界を破ってこそ成長があり、力は増すんです。反対に、大きな力を秘めていても、それを使い切っていかなければ力は退化していきます」

さらに伸一は、活動を推進していくうえでの幹部の在り方、注意すべき事柄について、具体的に話を進めた。「支部にあって、日々の活動のなかで、御書を拝していく伝統を築いていっていただきたい。たとえ、一行でも、二行でもよい。皆で御書を拝読し合っていくことが大事です。

次に、壮年の幹部は、婦人部のご家庭に最大の配慮と思いやりをもって接していただきたい。そして、支部の運営は、あくまでも協議会を中心に行っていただきたい。支部も、地区も、常に協議を最重要視し、どこまでも民主的に、皆が納得して信心に励めるようにしていくことが、活動を推進していくうえでの眼目です。

また、幹部は会員の皆さんに負担をかけたりすることがないよう、よく注意を払っていただきたい。人間として自分自身を厳しく律していくなかに仏道修行があり、人間革命があることを知ってください」

物事は、小事が大事である。大事故の多くは、一つ一つの細かい事柄への注意を怠ったことに起因している。小さな配慮を欠いたことから、皆の信頼を失い、それが組織の停滞を招いた事例も少なくない。

幹部には、守秘義務がある。それを、順守していくのは当然です。『わざわいは口より出でて身をやぶる』との御請訓もある。幹部の皆さんは、軽はずみな発言などで、支部員を苦しめることがないように、聡明な対応をお願いしたい。

また、大勢のなかには、、信心利用、組織利用の人もいるかもしれない。会員を守るために、それを鋭く見破り、よく注意していくようにお願いしたい。真の学会員としての道を歩まず、広宣流布のための仏子の集いである学会の組織を攪乱し、社会に迷惑をかけるような人を、看過してはなりません」

何事も、油断し、基本がおろそかになった時に事故が生じる。広宣流布は魔との攻防戦であり、気のゆるみがあれば、そこに魔が付け入ってくる。したがって伸一は、支部長・婦人部長に、油断を拝して、原理原則に徹することを、強く訴えたのである。

彼は、これまでに会えなかった人と会おうと、懸命に時間をつくり、行動していった。そのなかで学会の作詞も続け、静岡県の同志に、「静岡健児の歌」を贈った。


太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋
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